あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開けて見たまへば、月をかしきほどに霧りわたれるを眺めて、 簾を短く巻き上げて、 人びとゐたり。簀子に、いと寒げに、身細く萎えばめる童女一人、同じさまなる大人などゐたり。 内なる人一人、柱に少しゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、
おっ
「扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに 匂ひやかなるべし。
顔に注目
添ひ臥したる人は、琴の上に傾きかかりて、「入る日を返す撥こそありけれ、さま異にも思ひ及びたまふ御心かな」
和歌朗詠集とか舞とかよく知ってるんですね
て、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり。
やっぱり容姿に注目
「及ばずとも、これも月に離るるものかは」
琵琶の撥を収める所を隠月というのである。はいはいそうですね(「あさきゆみし」では「理屈ね」という他の女房の返しあり)
など、はかなきことを、うち解けのたまひ交はしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いとあはれになつかしうをかし。
見ないで想像していたよりもとってもかわいい、らしい……
「昔物語などに語り伝へて、 若き女房などの読むをも聞くに、かならずかやうのことを言ひたる、さしもあらざりけむ」と、憎く推し量らるるを、「げに、あはれなるものの隈ありぬべき世なりけり」と、 心移りぬべし。
注釈によると、『宇津保物語』の「俊蔭」巻、『落窪物語』などに落ちぶれた姫が琴を弾く場面があるそうである。そうだったかもしれないが、忘れました。作者も物語の読み過ぎでこういうことを言ってしまうのであるが、物語だけで言えば、辛気くさい薫さんがかわいい子たちをのぞき見しちゃったこれはまさかの展開だっ、というだけである。――そうではないのである。
僕たちが生きている世界の脆さ、僕たちの紙一重向に垣間見えてくる「死」……何気なく生きている瞬間のなかにめり込んでくる深淵……そうした念想の側で僕はまた何気なく別のことを考えていたものだ。お前が生れて以来みた夢を一つ一つ記述したらどういうことになるのだろうか、それはとても白い紙の上にインクで書きとめることは不可能だろう、けれども蒼空の彼方には幻の宝庫があって、そのなかに一切は秘められているのではなかろうかと。
近代の垣間見のなんと恐ろしい事よ。いま薫のようなシチュエーションはよほど勇気のある御仁か世を捨てた人しかあり得ないであろう。女子の部屋というのはそれほど恐ろしいものなのである。あと可能なのは、動物園。
それはともかく、どこかで東浩紀かだれかが言っていたと思うが、家族というのはハラスメントをクリティカルに変換できる機能を持っていると。コミュニケーションはすべてハラスメント的に出来ているから、そうかもしれない。――一方、氏の思想とは関係なく、最近の建築は、すべての部屋の区切りをなくしでっかい農家みたいなものが流行っているようである。思春期の女子なんかこんなのに耐えられるんかなと思うが、いわゆる家族の絆~みたいなものを空間的に考えているのであろう。しかし、これでは一番偉いのが誰かみたいな空間になるに決まっているような気がするのである。源氏物語を読んでいて思うのは、酷い人間関係を辛うじて物語や音楽が彩って救っているという事態である。これがある意味でクリティカルなものである。しかし、これは超博識な紫式部(と誰か?)が作った理想の世界であり、現実はいまの我々の世界のようにゴミクズに決まっている。藤原氏の政権なんて、スーパー盗賊みたいなもんではないか。原民喜のように、彼方を垣間見するのか、そこにある文化的美女を垣間見するのか、本当はあまり変わらないのではなかろうか。
おっ
「扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに 匂ひやかなるべし。
顔に注目
添ひ臥したる人は、琴の上に傾きかかりて、「入る日を返す撥こそありけれ、さま異にも思ひ及びたまふ御心かな」
和歌朗詠集とか舞とかよく知ってるんですね
て、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり。
やっぱり容姿に注目
「及ばずとも、これも月に離るるものかは」
琵琶の撥を収める所を隠月というのである。はいはいそうですね(「あさきゆみし」では「理屈ね」という他の女房の返しあり)
など、はかなきことを、うち解けのたまひ交はしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いとあはれになつかしうをかし。
見ないで想像していたよりもとってもかわいい、らしい……
「昔物語などに語り伝へて、 若き女房などの読むをも聞くに、かならずかやうのことを言ひたる、さしもあらざりけむ」と、憎く推し量らるるを、「げに、あはれなるものの隈ありぬべき世なりけり」と、 心移りぬべし。
注釈によると、『宇津保物語』の「俊蔭」巻、『落窪物語』などに落ちぶれた姫が琴を弾く場面があるそうである。そうだったかもしれないが、忘れました。作者も物語の読み過ぎでこういうことを言ってしまうのであるが、物語だけで言えば、辛気くさい薫さんがかわいい子たちをのぞき見しちゃったこれはまさかの展開だっ、というだけである。――そうではないのである。
僕たちが生きている世界の脆さ、僕たちの紙一重向に垣間見えてくる「死」……何気なく生きている瞬間のなかにめり込んでくる深淵……そうした念想の側で僕はまた何気なく別のことを考えていたものだ。お前が生れて以来みた夢を一つ一つ記述したらどういうことになるのだろうか、それはとても白い紙の上にインクで書きとめることは不可能だろう、けれども蒼空の彼方には幻の宝庫があって、そのなかに一切は秘められているのではなかろうかと。
――原民喜「夢と人生」
近代の垣間見のなんと恐ろしい事よ。いま薫のようなシチュエーションはよほど勇気のある御仁か世を捨てた人しかあり得ないであろう。女子の部屋というのはそれほど恐ろしいものなのである。あと可能なのは、動物園。
それはともかく、どこかで東浩紀かだれかが言っていたと思うが、家族というのはハラスメントをクリティカルに変換できる機能を持っていると。コミュニケーションはすべてハラスメント的に出来ているから、そうかもしれない。――一方、氏の思想とは関係なく、最近の建築は、すべての部屋の区切りをなくしでっかい農家みたいなものが流行っているようである。思春期の女子なんかこんなのに耐えられるんかなと思うが、いわゆる家族の絆~みたいなものを空間的に考えているのであろう。しかし、これでは一番偉いのが誰かみたいな空間になるに決まっているような気がするのである。源氏物語を読んでいて思うのは、酷い人間関係を辛うじて物語や音楽が彩って救っているという事態である。これがある意味でクリティカルなものである。しかし、これは超博識な紫式部(と誰か?)が作った理想の世界であり、現実はいまの我々の世界のようにゴミクズに決まっている。藤原氏の政権なんて、スーパー盗賊みたいなもんではないか。原民喜のように、彼方を垣間見するのか、そこにある文化的美女を垣間見するのか、本当はあまり変わらないのではなかろうか。