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読んだ。
改革屋や世直し屋が広い意味で殺人に走るのは、単なる論理的な必然であって、それが分からないのなら、教員や政治家をやってはならないと私は思う。我々はいつもその危険性と隣り合わせであるが、ずるがしこい連中は、最近の難局を「肝心な時に手を抜く」ことで切り抜けようとしている。確かに、それは危険性から撤退するという一つの手であるのだが、そんな時に誰かが処理しなければならないことに黙って堪えている人が必ずおり、彼らの犠牲が必要だと「手を抜く」人びとが考えている節がある。自分が危険性から撤退するために、よけいな事柄を遠ざけるため、同僚に対する細かいいじめには手を抜かないところからそれが推測される――こんな風景はよくは見えないから大変である。ポケモンやある種の管理職の苦労は見えるようになったかも知れないが……。
今回の殺人事件からは、「子どもや障害者に寄り添いましょう」とか「人間の瞳の輝きを忘れずに」、「希望がー」、「絆が~」といった明晰なセリフによる洗脳(忘我か?)で、現実の修羅場を乗り切ろうという教育業界(もはや日本中がそんな雰囲気であるが……)が、差別主義者への橋頭堡には全くならず、むしろ、ファシストを生み出す温床となっていることを思わせる。教育業界に於けるコミュ力(笑)信仰はもはや知的なものに対する暴力と化しているが、この場合のコミュ力というのは、上のような文句を平気で人前で口に出来る能力のことなので、知的な会話は寧ろ排除されるべきだからである。今回の容疑者もコミュニケーションがとれない人間を選んで殺している(曰く「意思の疎通ができない人たちをナイフで刺したことは間違いない」)。うちの学部なんかでも、初対面の相手に平気で明るく挨拶が出来る信じがたい不気味な人間が増殖中である。容疑者を知る近所の人間が「明るい子だった」「挨拶が出来る子だった」と言っていたが、内面とは関係ない明るい挨拶マシーン(を強いられているのを忘れることができること)こそがファシズムなのである。容疑者が参議院議長や首相に訴えた例の手紙の雰囲気は、今の大学には結構ある類のものである。「想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。」……
明らかに、今流行の「お偉方にお墨付きをもらおうとしているヘイトクライム風のあれ」ではないか。
ヘイトクライムと言えば大げさのような気がするが、我々の組織では上昇欲の強いニーチェ的畜群や小役人がそんなことを日常的に行っているから別に珍しいことではない。しかし、アイヒマンのような小役人にばかり注目すべきでないのは、もっと積極的な政治的殺人志向の輩はいくらでもいたし、しかも彼等が「全く狂ってはいな」かったばかりか寧ろ明晰だったからである。彼らは、ただ、科学と文学を重視しない畜群(権威主義者)であっただけのことだ。――すなわち、我々全員にそうなる危険性があるということである。とはいえ、よくも「世界を平和にしましょう。美しい国日本!」とかいうレベルにシンクロできたりするものだ。いや、そういう人間がかなりいるのは教員をやっていて思うことであり、しかも障害者や在日の人びととかコミュ力がない人?(とか人文学者)を「役に立たない」という理由で抹殺すべきといった言説ももはやありふれているわけだから、それらはヤクザな宗教的政治家の存在と同じで自明の前提に過ぎず、――むしろ容疑者の心を奮い立たせたのは、そんなありふれたもの自体にはないのかもしれない。すなわち、そういった容疑者の「心理」は、障害者施設の労働の現実と障害者をめぐる言葉の現場をよくよく調べてみないと本当は推測できないであろう。障害者教育やその周辺に、たとえそれが専門家であっても、かなり暴力的な感性が存在することを私自身知らないわけではないが、よく知らないことは知らないことにすべきである。ファシストを「集団」として「存在」させてはならない。
ということで、今日は、内容学演習で「ポケモン
GO」に対する評論を何点かとりあげて、比較やアナロジーの必然性と危険性を考えた。ちなみに「ポケモンGO」について私は何も知らない。