日本人の外国文学を味はふ、その味はひ方が、これまで、あまり独り合点ではなかつたか。日本人の解り方で、あまり満足し過ぎてはゐなかつたか。つまり、どこかでも言つたが饅頭の皮ばかり食つて、これが饅頭か、なかなか美味いとか、どうも甘くないとか、そんな勝手なことを云つてゐたのではないか。
文学と、話の筋とを混合してゐる批評の多いことなど、やはり、そんなところから来てはゐないか。
これで、現代の日本文学が、もつと外国文学の影響を脱してをり、尠くとも、日本在来の文学的伝統の中に育つて来たものでゝもあれば、「外国文学は外国人と同じやうに得られなくてもいゝ」などゝ平気で云つてをられようが、実際は外国文学の模倣から出発してゐるところが多い。
――岸田國士「横槍一本」
岸田はそういうが、どうしても模倣でない何かを目指したり、急に「超克」とか「統一」をしたりしようとすると、どうしようもないというのは、大概のひとは20ぐらいまでに気付く。――はずである。しかし、実際はこの問題をめぐって右往左往するのが日本のインテリの通常運転である。ときどき、源氏のように「大和魂」の存在をくちばしってみても、実際はほとんど漢学の学習だったのだ。
毎年思うんだが、坂口安吾の小説に対するレポートは、他の作品とはよいものを書く学生の層が違う。明治の作品と昭和の作品での違いも何となくあるが、坂口安吾の違い方はなんか別種のものである。思うに、やはり安吾はほんとうに落ちこぼれたことがあり、その気質は、後に東洋大学で猛勉強しても変わらなかった。彼は右往左往しないのである。そして、インテリは自分ができもしないくせに、安吾的なものに憧れる、さもなくば、馬鹿にしてなかったことにしょうとする。むかし、ある英文学者が、ほんと坂口安吾は論理に整合性がなくて勉強が出来ない感じがする、と言い放ったのをいま思いだした。太宰に対してはそういう非難は聞いたことない。太宰は右往左往の人だ。
日本の文化の美質は、ビートルズを、カブトムシズみたいにイメーじして、そこに非人間的な輝きをみてしまうような、二項対立の自己生産にあり、ほんとの対立には弱い。ビートルズはどちらかというとニュアンスとしては、ゴキブリズらしいんだが、そう認識されているんだったらむしろゴキブリ野郎みたいな擬人化は我々自身にそれが迫ってくるようで気持ちが悪い。寄り添われるといやなのに、外敵に脅かされるのがいやなのだ。
教育の世界でも、より添いと外的なものへ恐怖の関係をうまく構築出来ない状態が続いている。最近は、寄り添えばなんとかなる勢力が弱者のルサンチマンを携えて台頭中である。小中、中高、高大接続とやたら接続したい考え方があるが、断絶があるからやり直しや成長があるんで、ほんとそこにある平準化思想が気持ち悪い。小学校の優等生が中学で挫折し中学校の優等生が挫折し、そんなかんじで彼らはものを考えるようになるんじゃねえかな。それを回避したら、小学生みたいな大学生がまた増えてしまうであろう。
国語の教科書ひとつとってみても、小学校と中学校、高校と大学それぞれの方向性で書かれていて、整合性が一見ないようにみえるが、その整合性のなさを乗り越えるのが成長というやつで、積み木を積むようには出来ていない。教師も前の校種での内容を相対的に無視することが重要だ。わたしだったら、なんというか小学校の頃に内面化させた吉野源三郎的というか、岩河三郎の合唱的ななにかを、中学での志賀直哉やトーマス・マンとかの読書でたたきつぶしたことが重要で、そのまま小学校九年生みたいな成長をしててもしょうがなかった。でも、小学校での経験はちゃんと基盤か否定的媒介になっているはずだからなくちゃならんと思う。しかし続けてちゃだめだな。
ちなみに、教育の世界は、小学校、中学校、高校、大学とそれぞれの先生たちが世間が思うより反発し合っている状況が昔からあって、それが何らかの障碍になっていることはありうるのだが、別に仲良くすることがよいとも限らない。小学校で中学的な考え方はやはり危険な部分もあるし、中学で小学校のやり方をやってもうまくいかない。無理に統一的な体制で一致団結しようとすると、かならず何か出世欲があってリーダーになりたい欲のある人物が台頭して大勢が我慢させられる集団になる。目的を相対的に失うことで集団として形成し直そうとする力学が働くからだと思う。そういう欲深馬鹿は確かに馬鹿なんだが、混ぜた方にも責任がある。もうはっきりしているように、少なくとも主観的にはそう思われるんだが、軒並み集団のトップがこの人だけはまずいんじゃないかみたいな人に入れ替わったのは、いわゆる「協働」みたいなことをやったからだ。そうなるに決まっているとおもうぜ。協働やら協同なんて、戦時下にインテリを動員していじめるための言葉だからな、もともと動員して馬鹿の元で働かせて溜飲下げたい奴らがいたんだよ。それが戦争の状況を利用した。戦争を煽った奴らがもっとも目的を戦争に置いてなかった。しかし、馬鹿馬鹿しいが、こういうのは社会の通常モードだと考えておいた方がよく、全体を急に改造しようとすりゃ別の馬鹿の台頭を許す。