チボー家の人々と架空対話を行う田舎少女のお話。この後が問題なのだ…。本を読んだ後が…。という読後感も含めてたぶんリアリティに徹している。
「ダークナイト・ライジング」をようやく観たが、いろいろ詰め込んでこんがらがった感じの映画だった。元になっている「二都物語」には作品そのもので完結した意図が、「バットマン」にはそれそのものの意図があるはずである。前作「ダークナイト」は、アメリカ人のこの100年の苦労(暴力と正義と人倫との組み合わせのそれ)がにじみ出た物語でよかったが、その苦労は、貴族の苦悩や革命後の苦悩を描くものとは質が異なっているのではないか。そりゃ匿名大衆の暴力の問題が存在することは現代人なら誰でも知ってるだろうけれども、それが革命になるかウォール街の騒動で終わるのかでは、天と地の差がある。その問題と関わりなく敵を倒すことに邁進するバットマンやキャットウーマンはちゃんと最後肉体的にも思想的にも死ぬべきであった。が、死なない――主人公はバットマンとしてもお金持ちとしてもその「仮面」を捨てどこかで幸福に暮らしているらしいのだ。しかも
アン・ハサウェイキャットウーマンと異種交配している可能性が高い。それこそ「ミンナガバットマンニナレル」という話ではなく、「ミンナガバットマンヲユメミナガラナニモシナイトクメイノタイシューデース。バットマンデサエソウナリマシタデース。」という話になっているではないか。好意的に見て、主人公は思想的に行き詰まったのでプライベートに逃げました、という感じか…。映画の「Xファイル」の最後に、捜査官の男女が疲れてどこかでバカンスしているのは、まあ許せる。10年エイリアンと戦ってオツカレという感じだからだ。しかし、バットマンは、八年間も引退して豪邸に引きこもってたはずだろう。にしては全然勉強してないじゃないかっ!
たぶん昔の彼女の思い出に浸りながらアイドルグループ関係でネットサーフィンでもしてたな。まあ、そういう我々の生態――整合性抜きの情報の連鎖で日々が過ぎてゆく――を示すがごとき整合性のない行き詰まった心理的展開をしている作品の仕上がりなので、最後まで飽きさせない。そういう意味で、実は、思想が疎外されている我々の心理に対してのみ癒やしの映画であるという感じであるなあ。従って、許せないのは、相変わらずの点であった。……核爆発は宇宙とかでさせなきゃだめだよ、アメリカ人。沖で爆発させちゃあ、だめだよ。そこんとこだけは、はやく夢から覚めていただかないと困る。映画のなかで、ゴッサムシティを乗っ取った軍団は民衆に政治を取り戻すとか何とか言いながら何の理念もなかった…というより愛と私怨しかなかった。すなわち左翼のエゴに対しては過剰に目が覚めてるくせに、なぜキノコ雲に対しては…