それが如何に新しく見えようとも僕らはそこに分離派―機能主義―バウハウスの思想につながるものしか発見し得ないのである。
もはや、数学者は、パスカル的瞑想によって数学しないだろう。それは純粋思考の中から数学の射程をみつけだす先験的自我ではなく、歴史の中で問題をみつけだしながら己の射程を開発してゆく歴史的主体である。もし僕の内部で詩と数学が剣士のようにすれちがう一瞬があるとすれば、この歴史的主体としての自覚を抜きにしては考えられないであろう。詩人と数学者が歴史を収斂させ、現在を盗む強盗となるのは、正にこの一瞬なのである。
――高内壮介『暴力のロゴス』
北野武の『首』の感想を大学でも家庭でも言えないので、庭のカエルに言った。
ネットでは、ノーベル賞に勝手に落選し続けているとみられる――都市傳説の村上春樹がミソジニーだ何だと話題になっていた。そりゃまあミソジニーといえばそうなのであろうが、作品と成立事情をふまえればもっと壮大な村上春樹の悪魔のような姿が浮かび上がるであろう。
とはいえ、わたくし、村上春樹をあまり読む方ではない。しかしあれだ、「ノルウェイの森」なんか、周到に近代文学化された源氏物語といったとこじゃないかなと思う。何十年も読んでないからあれであるが。文体からも言えることだけど、――あのネットリした否定的文体は、とにかく先行する文学やものごとや自意識を全部否定してゆく姿勢で「普通」の人が物語を紡ぐとどうなるかというゲームをやってるような印象を持つ。
彼は基本的には学生運動の作家なのだ。野心的でプロレタリアート的で革命的で平凡で、を全部やってるんじゃないだろうか。暴力的なセクトの心情をマスクをひっぺがえすようにヒックりかえしているから、当時の運動族にはたまらなくいやだったはずだが、村上春樹の誤算はあまりに有名になりすぎて、特定のセクトに喧嘩を売る類いの文学がポピュラーになってしまった結果、どこに拳をふりあげていいのかわからなくなっているという事態だ。セクトのひとに良くありがちなことだが、自分の憎むセクトの相手の性質が、セクト以外の人間にも大きく当てはまるかも知れないということをつい忘れてしまうのである。
で、たぶんいつからか、村上は大江健三郎的な死者に導かれて的テーマをもっとそれらしくやることにしたのである。
みんな言ってることだろうが、――日本近代文学の語り手の潜在的な幽霊性みたいなものがあって、村上春樹はそれをほんとにそれらしい死者が語る日常、みたいな情感を語り手に乗せたと思うのである。このような解離感は、しかし学生運動崩れだけの問題ではなかった。
しかしまあ、大江が政治=性のことを語るのに地上に降りてきてしまったのに対し、村上春樹は死者の側から語ることに拘った。なにしろ語り手の「僕」が死者のくせに恋人と同衾出来るのだ。光源氏を夜這いが得意な死霊にする感じである。「ノルウェイの森」でやはたら同衾して死ぬ、代わりにやってきた人と同衾、みたいなのが続くのはそのせいだ。オウム事件の被害者の家族へのインタビュー集があったけど、あれ、村上春樹は被害者=死者の側から見ている。でもそれは連合赤軍の死者とちがって普通の人だから特別に何かを主張することはないんだが。
それはともかく、定期的に村上春樹の『ノルウェイの森』、いや『羊をめぐる冒険』が書庫のどこかに紛れる。
「どうだ森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃ、なんとすればよいんだ」
三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で迷羊、迷羊と繰り返した。
漱石と同様、読者をストレイ・シープにするのが村上春樹である。