goo blog サービス終了のお知らせ 

★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

自分自身の姿と芸術

2025-04-14 23:53:59 | 文学


女性をテーマに男が書いた詩の数々を眺めてみればよい。 女性とはまるで……男が創りあげた詩の世界だけに生を享けた住人のようだ。彼女たちは大抵の場合、美貌の持ち主で、その美しさや若さの翳りに怯えて身を震わせる......。 あるいは、その美しさをたたえたまま、ルーシーやレノーラのように薄命に終わる。あるいは残酷なことに……そんな詩人の慰みものになることを拒めば、完膚なきまでに叩きのめされることになる……。ものを書こうという少女や女性は…とかく言葉に影響されやすいものだ。この世界に存在する自分は、いったい何者なのか、その答えを詩や小説に求めるのである......。自分を導いてくれるもの、将来の展望、無限の可能性を求めては……そのすべてを否定する壁に何度も何度もぶちあたる......。自分が自分であることの全てを否定する壁につきあたる・・・・・・彼女は恐怖と夢を見出す······天賦の美貌だけでは満足できないつれなき美女……、 しかし、そんな彼女がどうしても出会うことができないものは、夢中で努力してとまどいながらも、ときにはそんな姿が読み手に希望を与える生き物―つまり自分自身の姿である。

――アドリエンヌ・リッチ"When We Dead Awaken: Writing as Re-vision," College English 34, no. 1 (October 1972): 21.(小谷真理訳)


ジョアナ・ラスの『テクスチュアル・ハラスメント』に引用されていた。ラスはSF作家である。これはけっこう興味深いことに思えるのであるが、アンデルセンの場合、その美女たちが、あまり上のような「男の作り上げた詩の世界」の一部にはみえない。すくなくとも私にはあまりみえない。どちらかというと、作品の中の美女よりも現実の美女のほうが作り上げた詩の世界のそれにみえる。最近のルッキズム批判を適用したら、醜いアヒルの子は白鳥の集団からも醜いといじめに遭って死ぬかもしれない。しかし、そもそもその醜いアヒルの子が白鳥の集団においてもリンチに遭うかも知れない予感は、読書する我々にそもそも存在しているような気がする。フィクションは作り上げられているだけでなく、現実と読書によって繋がっている。

それをもう一回、フィクションであるという次元に差し戻して観るのが、学問のやり方ではあるのだ。しかし、学者をやっていると分からなくなりがちであるが、作者の死やらテクストに即するやら、人の論文を「参考文献」としてモノ扱いするみたいな、その態度というのは普通に非常識なのである。非人間的と言ってもよい。たしかに一周まわって人間的なのはわかるが、学者本人が非人間的になってしもうてる可能性はすてきれない。

それが文学作品や論文といった「作品」でなくてもそうである。人文の分野は、ルネサンス的に展開するのであって、急に古いのが復活するのが醍醐味だ。しかし、研究の発展みたいなイデオロギーが大手をふるいすぎると、先行世代が否定したところに逆行した側面が、単なる進歩みたいな顔をしていることが屡々である。不可避的なことでもあるが、その態度の問題は常にある。

わたしは、三十代の頃から、文学研究は、作品の非人間的な倍音を聞くことが重要だと主張している。そういえば、わたしが直接知るボーカロイドの開発者や作曲家には、案外合唱をやっていた人が多い印象がある。全体的な傾向はしらないが、重要なことのように思える。合唱は人間の声の有限性を痛感するからではない。声のハモり自体がどこか非人間的な感じがするのだ。そこに憑かれた人々は作品を単なる作品とは思えず、ドームに響く何ものかだと思う。それを機械でやろうとしているのが、合成音声の人たちであろう。しかし彼らの感性がその「何ものか」並にすごいとは限らない。我々はつねに有限な人間である。チッチの言う「自分自身の姿」とは異体どういう者であろうか。

陛下の口から悪口0.5秒前

2025-04-13 23:44:43 | 文学


昔の悪口には面白いのがずいぶんある。
 今は恐妻家、女天下というが、昔は「からすの昆布巻」(かかあまかれだ)
「ずいぶん歩いたがまだよほど遠方なのかね」
「なーに、台屋のお鉢だ」(じき底、すぐ底)
 吉原の料理屋からとる飯櫃は上げ底になっていた。いちいち説明をつけると長くなるが、現代人にはぴったりこない。


――三代目三遊亭金馬「昔の言葉と悪口」


陰口はよくないとまあ思うわけだが、2ちゃんねるより前当たりから、現実世界で適切に陰口をたたく技術のための言葉の豊かさと繊細さが我々の社会から失われたと思う。で、ネットに書き散らすようになった。ネットに書けるから現実で言わなくてもよくなったのではない。

そういえば、70年の万博での昭和天皇の演説は例の祝詞口調だったが、いまの天皇の演説は丁寧だが普通である。この調子では、陛下もそろそろ悪口を叩きそうな勢いだ。而して、なんだかもう天皇は祝詞口調でいこうぜとかおもってしまったわ。でも、いまの陛下はわたくしと容貌が似てるし、細君のほうが大きいという点までわたくしに似ているのでいいとおもう。

目的意識と自然抵抗

2025-04-12 23:11:00 | 文学


「それに、人間の一生は、かえって、わたしたちの一生よりも短いんだよ。わたしたちは、三百年も生きていられるね。けれども、死んでしまえば、わたしたちはあわになって、海の面に浮いて出てしまうから、海の底のなつかしい人たちのところで、お墓を作ってもらうことができないんだよ。わたしたちは、いつまでたっても、死ぬことのない魂というものもなければ、もう一度生れかわるということもない。わたしたちは、あのみどりの色をした、アシに似ているんだよ。ほら、アシは、一度切りとられれば、もう二度とみどりの葉を出すことができないだろう。
 ところが、人間には、いつまでも死なない魂というものがあってね。からだが死んで土になったあとまでも、それは生きのこっているんだよ。そして、その魂は、すんだ空気の中を、キラキラ光っている、きれいなお星さまのところまで、のぼっていくんだよ。わたしたちが、海の上に浮びあがって、人間の国を見るように、人間の魂は、わたしたちがけっして見ることのできない、美しいところへのぼっていくんだよ。そこは天国といって、人間にとっても、前から知ることのできない世界なんだがね」


――「人魚の姫」(矢崎源九郎訳)


人間には短命なのに魂があり、人魚には長命なのにそれがない。このあと人間から愛されれば魂を授かるみたいなはなしがでてきて、人魚の悲劇がはじまった。なぜなら、たぶん人間にも魂はないからだ。問題は魂を得るということの重大さなのである。その人魚の一生は目的にむかってのものではなかった。水草のように上へ生長して行っただけだ。

わたしの人生と言えば、病との闘いが原点だから、健康や幸福が人生の「目的」という考えはそもそも理解できない。病への抵抗が問題であって「目的」ではないからだ。闘いが出来なくなるのが終了というだけだ。だから、昔の左翼とか右翼が党派に命をささげるみたいなのもその意味で分からなくはないわけだ。原点に貧困や差別への闘いがあった場合は。歴史上問題になってきた、官僚制的な党派主義というのは別の問題だ。

そういう「目的」は、仕事の世界では「プライベートの幸福」とかいわれる。しかし、そういう「幸福」などほとんどどうでもいいんだが家族はつくるべし、ぐらいがかつての家族の「幸福」な実態だったにちがいない。家族は半分桎梏に決まっているわけで、幸福であろうとすると誰かに無理を強いたりするしかないのである。それがいやなら一人で生きるしかなくなるわけだ。かくして上のプライベートが特別の幸福を示しているように錯覚されて行く。

仕事の上では、そのプライベートを心理的に侵害するものとしてハラスメントという言葉が発明されたが、その実「権威主義」の裏返しである。自分を卑小な物体にしておかないといけないからだ。というわけで、権威が特定の属性にくっつくような形式論理も理解できない。中年男が党派みたいにみえるというのはわかるが、そんなところを「目的」(標的)にしても、どうせ弱そうな個人を虐めるだけで終わる。おじさんの不機嫌はあまりよろしくないみたいな風潮があるが、その理由と関係なくニコニコを強いるのは端的に暴力なのである。確かに快活さは人に影響を与えるので職業上大事なこともあるが、そういう風潮を、自分の怒りや批判を押さえる方向で把握する、良心的な人々への抑圧にしかなっていない。馬鹿というのは、男女年齢問わずいるわけで、権力を持っている親父たちの問題とごっちゃにするのはさすがに権威主義が過ぎる。

そういう人間が大勢をしめると、例えば、いまの地震対策は地震対策じゃなくて「自分の安心安全」を保持したい「目的」の群れの精神運動になってしまうわけである。健康志向もそれである。問題は人生観のほうで、科学的に対策が練られるほど本質から遠ざかり、最後は生き残るための差別に行き着くね、行き着くね、というかそれが原点であろう。

目的意識と自然生長、というプロレタリア文学の有名なテーゼがあるが、目的意識と自然抵抗とすべきであった。

人魚姫はコスパよく泡になったのか

2025-04-10 23:51:15 | 文学


しかし、その瞬間、お姫さまは、それを遠くの波間に投げすてました。すると、ナイフの落ちたところが、まっかに光って、まるで血のしたたりが、水の中からふき出たように見えました。お姫さまは、なかばかすんできた目を開いて、もう一度王子を見つめました。と、船から身をおどらせて、海の中へ飛びこみました。自分のからだがとけて、あわになっていくのがわかりました。
 そのとき、お日さまが海からのぼりました。やわらかい光が、死んだようにつめたい海のあわの上を、あたたかく照らしました。人魚のお姫さまは、すこしも死んだような気がしませんでした。


――「人魚の姫」(矢崎源九郎訳)


人魚姫の話を読んで、恋愛はコスパが悪いなどと言う人はいないであろうが、いやいるかもしれない。考えてみたら、人魚が人間と結ばれると泡になってしまうみたいな条件は、話を一気に悲劇的にするためにコスパがよいといえるかもしれない。アンデルセンのせっかちさは誰もが感じるところではある。

そういえば、「Z世代はコスパ病」みたいなこと言う人はけっこういるが、コスパみたいな言葉によってそういう観念を所持する人が多くなったことは確かにあるかもしれない。しかし、損得で行動を決めたりする人なんかむかしからたくさんいた。そして勉強や学問に関しては、非常にいまいちな人の特徴そのものだったではないか。いまでもそうだろう。

コスパもそうだしコミュニケーションもそうだが、我々の社会に即してそれをどのような日本語に置き換えるべきか考えなくなってから、なにか倫理的判断の吟味のないままそれが武器として振り回される現象が起きてる気がする。

昭和的根性論の象徴みたいになってる反復練習や千本ノック的なやりかたは、科学がなかったからやっていたのではなく、集団の組織化や習熟にとってコスパがよさそう、あるいは実際によい場合もあったからやっていたのであって、その形式的な実践が暴走したりするのは、コスパを意識しすぎてなにもかもうまくいかなくなる現在の人々と全く同じなのだ。そして、ほんとは、コスパが悪いとかいうて合理的に振る舞おうとする人はいつもこれ以上失敗して傷つきたくないとか、そういう心理なんじゃないのか?昭和とか科学性とか言い訳にすぎない。

コスパがよいというのに一番近いのは「要領がよい」というやつではなかろうか。しかし、「要領」とは、辞書的な意味で言っても、要点のことであって、「要領がよい」というのは、本来、うまく物事が作動するための構造をつかむみたいな能力に優れているということである。すなわち、これは結構倫理的で知的な作業なんだと思うが、通俗的な「要領の良さ」が「ずる」に近くなるのは、その倫理性と知性が欠落しているからである。例えば、作品の要約をつくるのは倫理的で知的な作業で、これが出来ないのにいきなり批評に飛躍すると悪口やエゴの発露になってしまうのと同じである。要約や梗概を創る練習を軽視して、対話とかやっててもどんどん何かが劣化して行くのは当たり前ではないだろうか。

途と作画崩壊

2025-04-09 23:34:20 | 文学


 彼はこう云ってそれを披いた。きぬの膝から肩へかけて、絶えず細かい戦慄がはしる。浅い急速な呼吸のために、胸がはげしく波をうつ、そして庭の椿のあたりでは、けたたましい猫の叫びが続いていた。
「私はもう止めない」主馬は読み終ったものを巻きながら云った、「そのほかに途はないだろうと思う、身じまいをして白無垢に着替えておいで、仏間へ支度をして置くよ」
 夜明け前に医者が呼ばれて来た。太田順庵といって、亡くなった父とごく親しかった老医である、主馬は妻の居間へ案内した。二人はかなりながいことそこにいた。そこから出て来たとき、順庵は首を振りながらこう云った。


――山本周五郎「山椿」


歴史小説家の人物たちしばしば「そのほかに途はない」と言うが、だいたいそのほかにも途はある。だいたい途を誰が整備しているのかこういう主人公は無頓着であるし、そういう発言が屡々、途にたどり漬けない人間を排除するための方便なのはよく知られた事実だ。例えば、昔から米帝はアメ車を買えよて言ってくるんのだが、おれは免許持ってないと何回言ったらわかるのだ。

しばしば趣味ですら「途」となっている。ファンたるもの、新作上映がはじまったら直ぐさま駆けつけなければならぬ、みたいな人間がいるが、そういう人間にとっては、ファンであることは、虫が灯りに突撃するような頭の悪さを愛でることでもあるのだ。だからそれに違反した人をだいたい無能扱いにする。アニメファンみたいな人たちのなかにも、自分で絵も描いたことないくせに、すぐ作画崩壊みたいなこと言う人がいる。そもそもアニメーションのキャラクター自体が人間そのものの形とくらべてかなり崩壊してるだろ。もっというと、人間自体がお花とか昆虫に比べて作画崩壊してるだろ。

Strange Fruit

2025-04-08 23:17:22 | 文学


「それは、やめなさい。」と王様はおっしゃいました。 「おまえもほかのものたちと同じように、ひどい目にあうにきまっている。いま、おまえに見てもらいたいものがある。」こう言って王様は、ヨハンネスをお姫様のお庭へ案内しました。ああ、なんという恐ろしいありさまでしょう!木という木のこずえには、お姫様に結婚を申し込んで、なぞをとくことのできなかった王子が、三人四人とつるされていました。風が吹くたびに骸骨がカタカタと音をたてました。小鳥たちもこわがって、お庭の中へはいって来ようとはしませんでした。草花はみんな、人間の骨にし ばりつけられてあるし、植木鉢には髑髏が植わっていて、歯をむき出していました。まったく、お姫様のお庭としては、とんでもないお庭でした。

――「旅のみちづれ」(大畑末吉訳)


現代人の一部が「青髭」や「サロメ」や「奇妙な果実」を思う怖ろしい場面である。自己責任とはまったく逆の話で、神様を信じて旅に出れば元死者?までも道連れとなり、お姫様と結婚できるという、――どこの中学2年生の夢なんだよと思うが、実際、お姫様みたいな人物と結婚する類いの人物には、死者がとり憑いているというのはあるのではなかろうか。これを非人間的なものと言ってしまうより、魔物とか神とか言った方が我々の精神はうまく回路が廻るようになっている。『サピエンス全史』は少ししか読んでないが、ほかのホモ族と違って、ホモサピエンスの特徴は、魔物とか神にリアルを感じて、人間の行動の範疇を破壊してしまうことで大量殺戮も戦争も可能になったみたいなことが書いてあった気がする。これによって、機械と人間の境はその発明された魔物や神によって一体としての「人間」となる。

このまえ、私が生まれたころの「鋼鉄ジーグ」というの初めて見たけど、「グレートマジンガー」の作画が劇画的に発達して、しかも中の人が、性格が乱暴なアムロという、なんか良いかんじじゃないか。なんでこっち側に進化しなかったんだろう?たぶん、ロボットのデザインが、人間であるのかロボットであるのか少し曖昧な感じがよくなかったのだ。改造人間だからと言って、かれは人間らしくならなくてもいいのだ。ロボットはどんどん非人間的なかたちに過激化していった。しかしだからといって、基本擬人化なのであるが。。。

教育の分野で、ICTみたいなものがなかなか進捗しないのは、どうもあの人間に奉仕しきる道具的なかんじに異和感がある。教育の世界は、もともと国民化の道具的な側面があって、非人間的であったところに、別の非人間性――例えば、受験戦争とか部活の戦争とかが入り込んで活性化している。これに対して、最近は、モンスターペアレンツや障害のある学生に対する、機械的にはいかない、過剰な「人間力」が求められている。教職への不人気の内実を当の学生にあたって調べてみると、単にブラックというイメージではなくて、ぼやかして言うといろんな「人間的ケア」の遂行に対する恐怖が大きいように思う。特にまじめな学生にとって、自分に多大な負担がのしかかるのではないかという恐怖である。働き方改革とやらが仕事を良心的な一部へ押しつける事態を導いているの、学生はみんな知ってる。また女性が建前上において(つまり機械的に)完全に平等に扱われうる職場が教職なんだという、ある種のイメージが昔はあったんだと思う。私の親の世代にはあった。それが時代の変化もあって、あまり輝かしいものとしてみえなくなり、一部では、そういう平等性も何処か崩れている雰囲気があると聞いた。あまりに「人間化」、人間の本性がぶつかり合う苛烈な場所では女性への理不尽さは出てきてしまうのはあるであろう。そもそも性を差別してくるのは当の子どもだったりするわけで。壺井栄「二十四の瞳」の世界は女性教員への差別の裏返しだったわけだが、この物語は、偶然性がかなり排除された論理的な話である。壺井の作品について言えば、初期の作品のほうが、偶然性=革命志向である。これに対して、戦後の児童ものは、ある意味、児童をロボット化している気がする。だから、彼女の作品は人気があったのである。

竹の中のアモーレは見出される

2025-04-07 11:45:09 | 文学


いつなんどきでも、人々のうしろにつきまとっているのです。劇場の大きなシャンデリアの中にすわりこんで、あかあかと燃えていることもあります。人々は当たりまえのランプだと思っているのですが、あとになって、それが思い違いだったことに気がつくのです。また、時には、お城の遊園地の散歩道を歩きまわっていることもあります。いえ、そればかりではありません。あなたのお父さんやお母さんだって、一度は、胸のまん中を射られたのですからね! まあ、お父さんやお母さんに、聞いてごらんなさい。きっと、お話が聞かれますよ。ほんとに、このアモールという子は、いたずらっ子です。あなたは、けっして、この子にかまってはいけませんよ。

いつもアモーレがいる。いすぎるので、かまってはいられない。そんなことをしなくても、つねにかまわれるからである。しかし、我々の世界において、アモーレは隠れながらある場所にいるようだから、一生懸命見出さなければならない。

ユーチューブに「ノブロックTV」というのがあるが、テレビから出奔したプロデューサーの番組である。が、新人発掘番組という意味で、テレビへの公開オーディションと化してる気がする。そういう素人が半分入ったオーディションみたいなもので「面白い奴がいた」局面が一番面白く感じる、これもテレビのどこかで発明されたやつなのか、源氏物語で有名な垣間見の一種なのか。このクリシェは、いつもこういう面白い奴、美しい奴は、どこかに隠れていて発掘される、いや精確には隠れてさえおらず、見えなかっただけだ、という結構である。最近では、福留光帆みたいな才人が、AKB、しかし最下層で芽立たず引退してニートに、ノブロックで発掘されて一年間目立って、再度、病休。そして数ヶ月で復活して出てきた。竹の中から何回もチョロチョロでているかんじである。

親指姫のコスパの悪さ

2025-04-06 23:48:18 | 文学


「かわいいじゃん、かわいいじゃん。コガネムシには見えないけれど、かわいいじゃん。」と、コガネムシは言いました。
 しばらくすると、木にいるコガネムシがみんなやってきました。しかし、いっせいに触角をぴくっと立てて、口々にこう言いました。
「この子、足が二本しかないじゃん! すげぇ変じゃん。」
「触角がないじゃん。」
「身体が細すぎるじゃん。へぇん! 人間みたいじゃん。」
 コガネムシの奥さんは「ふん! この子ブスねぇん。」と、口をそろえて言います。でも、だれがなんと言おうと、おやゆび姫はとてもかわいいのです。おやゆび姫をさらってきたコガネムシだって、今の今までそう思っていました。なのに、あまりにもみんながみにくいみにくいとはやし立てたので、このコガネムシまでおやゆび姫がみにくいと思ってしまいました。


――「おやゆび姫」(大久保ゆう訳)


親指姫は大麦からチューリップもどきの花が咲きそこにいたひとであり、いろんな動物の嫁になりかかるが間一髪のところでいつものがれて、最終的には花の精みたいな連中に迎えられ、すべての花の女王様となる。結婚しかかった蛙やモグラは醜いから論外、かんがえてみると、彼女を花の王国に連れて行ったツバメも相手ではなかったわけで、――お花至上主義=マックスルッキズムのような話である。しかも、この姫が産まれた大麦はたぶん独り身の女性が銀貨一二枚で買ったものである。この女性は姫の生涯に二度と登場しないし、そういえば、蟾蜍のところから脱出したときに助けてもらった蝶は途中で死んだか生きているか不明のままであった。美しいものをめぐって、差別や献身に関する残酷さがあちこちで生起しているのは子どもなら誰でも知っていそうだから許されるのか、じつにすごい話である。

しかし、貴種流離譚ならぬ、美種流離譚であるところの良さは、困難を乗りきることである。わたくしなら、蟾蜍に拉致された時点で、偽装転向とか偽装結婚だかを決意し、そしてそのまま死ぬ。かんがえてみると、この姫は、はじめから美しい旦那と結婚しようと決めていたのではなかろうか。そのためには、選別が必要である。形は人間だが、サイズが人間で無いから、サイズが合う奴の中で選別しなければならぬ。で、次から次へと拉致されては逃げ出すのである。自分から積極的に求愛する方がよいように思えるが、それでは、下手すると相手がyesと言いかねない。だからあくまでも求愛してくるのを待つのである。

主体性というのは、こういう手間のかかるものである。思うに、一般的に、強制された無駄な勉強や労働というものが、なにゆえ、自己決定による「要領よいやり方」より量が多いことになっているのか、まったくおかしい。実際は、自分に最適化したやり方を見出してそれを実現するほうが遙かに量的に多い行為が伴うのである。それに気付いた奴だけが成功して、歳をとってから「量が大事」とか言うてしまうというのがあるのだ。――だいたい「要領よりやり方」を誰かから教えてもらってズルしようとしているやつがほとんどあって、従って何も実現できず、その理由を再度強制された何かになすりつけてるだけなのであるから話にならない。いわゆる「コスパ病」なんてのは、依存症の一つの型なのである。

また、「コスパ病」の特徴として、方法論に対する過剰反応があるわりには目的の強制に対しては鈍感だということだ。権威主義者が多い所以である。上の話だと、はじめは親指姫をかわいいと思っていたのに、みんながかわいくないと言っているのでかわいくないと思ってしまったみたいなのが、かかる権威主義である。無論、目的へ最短距離の手段をとることは前提であってもよいが、そのために、手段を常に省略できると考えるのがおかしい。むしろ、手数が最適に省略できなくなるのが普通の感覚ではないだろうか。ほんとはそれを知ってるから、手段を他人に外注して目的達成だけ遂げようとする者が増えてくる。しかし、うまく外注できるタイプが要領よいやつということになり、モラルが崩壊すると、下手に外注と関係ない人に接触することも恐怖になってくるはずである。学生をはじめとして、明らかにそういう恐怖が蔓延している。

原語を社会の識閾から駆逐する

2025-04-05 06:15:13 | 文学


 欧米語に対する社会一般の軽薄な好奇心を統制して大和言葉ないしは東洋語の尊重を自覚させるにはどうしたらいいか。その基礎がひろく日本精神の鼓吹にあることはいうまでもない。基礎さえ出来れば外来語はおのずから影をうすくするであろう。基礎が出来なくては何もならない。基礎を前提すると共に基礎の建設に貢献すべき言語統制の方法としては、文筆に携わるものが必要のない外来語は断然用いない決意を強固にし、まず新しい外国語がはいってきかけた場合には自己の好奇心を抑圧して直ちに適当な訳語をつくること、またいったん通用してしまった場合にはなるべく早く訳語をつくって原語を社会の識閾から駆逐する事を計らなければならない。
 いったん、外来語が社会的識閾へ上って常識化されてしまうと便利であるから誰しも使うようになる。それ故に常識化されるまでに一般的通用を阻止することに全力をそそがなくてはならない。そして不幸にも既に言語の通貨となりすましてしまったならば贋金を根絶することに必死の努力を払うべきである。失望するには当らない。「オールドゥーヴル」は「前菜」に殆ど駆逐されたかたちである。「ベースボール」は「野球」に完全に駆逐されてしまった。これらの事実は我々に勇気と希望とを与える。新しい言語内容に関して外国語をそのまま用いればなるほど一番世話はない。好奇心を満足させることも事実である。しかしそれではあまりにも自国語に対する愛と民族的義務とに欠けている。


――九鬼周造「外来語所感」


「マイナポイント」とかいわれると、なんで短調でポイントがつくのかと思ったわたくしであるが、結局、わたくしは九鬼の言う「原語を社会の識閾から駆逐する」みたいなのをまだ諦めてはいないのだ。我々は、そうやって日本語の母語者として頭がよくなって行くのであって、英語をそのまま使用できるようになっても、それは起こらない。確かに、商売や通信が速くはなるであろうが、それが速くなったからと言って世の中がよくなるとは限らず、ツイッターの翻訳機能があがったりしたことがむしろトランプのような連中の自由度を上げただけであるのをみればよく分かる。

「国語」と「道徳」がよくセットで日本語でやるべき、みたいな議論が教育界でもあると思うが、それこそ典型的な古い議論である。明治以来、ブルジョアジーは外国語を使用して商売や政治をしながら、そういうものの捉えきれない剰余としての「日本の心」みたいな図式に陥っていった。道徳こそグローバルスタンダードにしとかないと、帝国主義とかなんとか共栄圏みたいな思想に加速度的になるのは近代社会の法則みたいなきがする。和魂洋才こそが第二次大戦のときの文科省の発想であった。――よく考えてみたら、普段の授業が完全に日本語で行われる中、ドストエフスキーとかポオとかスタインベックとかロマン・ロランとかに小学校からはまりこんでいたわたくしは、日本語のなかで、「国語」や倫理的興味については、完全に外国志向であったわけで、しかし思春期以降はっと我に返って國文學に転向した。戦後教育の勝利或いは敗北である。がっ、明治以来のブルジョア用グローバル人材育成官学では、たぶん、魂が転向して外国に、使えるのは外国語でという結末、あるいは、転向せずに帝国主義者に、という結末しか待っていない。――というのは冗談であるけれども、明治のエリートのやっつけ洋魂から転向した結果がなんちゃってナショナリズムだったことは、鷗外とか漱石とか西田幾多郎が有名になりすぎて忘れられているが、やっつけ洋魂の外国語を振り回すどうしようもない奴がたくさんいたわけである。戦前の結末をもたらしたのは非道徳的な国粋主義者ではなく、道徳的なグローバル人材なのだ。九鬼の文章の前提になっているのは、そういう現実である。

というわけで、いつもブルジョアジーの師弟で文化的におもしろいものがでてきたのは、太宰とか永井とか、階級から加速的に堕落した経験を持つ連中だけで、結局、人類むかしからそれを経験していたことは、貴種流離譚で分かるような気がする訳だ。ただそれは例外を物語にしただけで法則じゃない。

確かに、戦後がもたらした壺と化した大衆社会を嫌う人々がいるのはわかる。自由な自分には価値があるはずなのに、なぜか現状維持を図る連中が自分をいつまでもうだつのあがらないポジションに置き続けている、という怨恨である。言うまでもなく、明治維新で政権を奪取した連中のメンタリティである。そういえば、テレビを観ていても、お笑い芸人と食レポみたいな番組が多く、これを金がないからという理由にしているうちはだめなのである。頭が悪いからに決まっているからだ。で、ユーツーブのほうはどうかといえば、たしかにテレビが回避した面白さがあることはあるが、量が多くなってきたら結局テレビとおなじような感じになってきている気がする。――しかし、安吾がいうように、俗悪なところからはやり面白いものはでてくるにちがいないのだが、テレビのように社会によって規制され、時間を規制されたなかから俗悪な混沌からの文化創造がなされるのだという気がする。外国からの影響はそのプロセスに奉仕しているだけだ。

そっくりの美

2025-04-03 23:09:12 | 文学


とうとうイーダは、そっと小さいベッドからぬけ出て、静かにドアのところへ行って、部屋の中をのぞきました。まあ!イーダの見たのは、なんという面白い光景だったでしょう!
 その部屋には、寝室ランプは一つもありませんでした。それなのに、たいへん明るくて、まるで昼間のようでした。お月様が窓からさし込んで、ゆかのまんなかまで照らしていました。ヒヤシンスとチューリップとが残らず、ゆかの上に二列にならんでいました。窓には、もう、花は一つもなくて、からっぽの植木鉢ばかりが立っていました。ゆかの上では、花がみんなそろって、それはそれは可愛らしく、ぐるぐるお互いのまわりをまわりながら踊っていました。そして、長い鎖の形になって、ひらりとまわりながら、長い緑の葉と葉をつなぎ合わせて、みごとな輪をつくりました。ピアノにむかっているのは、大きな黄いろいユリの花でした。それはたしかに、小さいイーダが、この夏見たユリの花に違いありません。なぜなら、あのとき学生さんが言った言
葉が頭に浮かんで来たからです。 「おやおや! あのユリの花はリーネさんにそっくりじゃないか!」その時は、学生さんは皆に笑われましたが、いま見ますと、この黄いろい長い花はほんとうに、あのお嬢さんに似ているように思われました。


――「小さいイーダの花」(大畑末吉訳)


「そっくり」といえば、安部公房の「人間そっくり」みたいな高級なものから、下のようなものまである。まさにポスト新幹線とポスト人間を同時に実現したといへよう。アンデルセンは、あいかわらず、物体が人間になるところでとまってしまうが、われわれの下品な世界は違うのだ。

まるで0系「鉄道ホビートレイン」完成 JR四国


「新幹線大爆破」という映画があるが、こんなかわいいのを田んぼのあぜ道みたいな線路上で爆破してなんか意味あるのであろうか、田んぼの稲が危ないだろ。結局、アンデルセンが正しい。アンデルセンの世界は、花が花であり続けているから美しいのであった。

精神の死後

2025-04-02 23:47:47 | 文学


「そうね。どうせわかることです。」と、お年寄りのお妃はお考えになりました。けれども、そのことはなにもおっしゃらずに、寝室におはいりになりました。そして、ふとんをみんなとりのけて、ベッドの上に、一粒のエンドウ豆をおきました。それから、敷きぶとんを二十枚も持ってきて、そのエンドウ豆の上に重ねました。それから、もう、 二十枚やわらかなケワタガモの羽ぶとんを持ってきて、その敷きぶとんの上に重ねました。
 こうして、お姫様はその夜、その上で寝ることになりました。朝になって、寝ごこちはいかがでしたか、と、お姫様はきかれました。
「ええ、とてもひどい目にあいましたわ。」と、お姫様は言いました。「一晩じゅう、まんじりともしませんでしたわ。いったい、寝床の中には何がはいっていたのでしょう。なんだか、堅いものの上に寝たものですから、からだじゅう、赤く青く、あとがついてしまいました。ほんとうに、恐ろしい目にあいましたこと。」


――「エンドウ豆の上に寝たお姫様」(大畑末吉訳)


結局、羽布団の下の方あるエンドウ豆に敏感だった――しかも気分の問題ではなく、体に痣が就く始末なのであった――、このお姫様が結婚相手になるわけであるが、この敏感さは大変なことで、これから生きてゆけるのかあやしい。精神が貴族的すぎると確かに死ぬ運命だ。対して、労働者ともなると、精神は死んで体が軋んでいるから、蒲団の下に何か固いものがあったほうが、肩のこりがなくなったりすることもあるし、時々、健康のために、イボイボのついた何かを踏んづけたりもしているのは周知の事実だ。

村山知義は転向した後、「転向作家」みたいなレッテルは勘弁してくれ社会的にはそうかもしれないが文学にはいろいろあんだから、みたいなことを言っていたら、徳田秋声に「自由主義だ」と茶々を入れられている(「文学リベラリズム座談会」、『行動』昭9・9)。村山は労働者の味方であろうから、エンドウ豆がどれだけでかくても何処でも寝てやるぜ、みたいな気概を見せているのだが、徳田秋声みたいなリアリストからすれば、単なる精神上の「自由主義」であった。舟橋聖一なんかも、これからはファッショに対する「反抗だ」とか息巻いているが、国会図書館所蔵の『行動』にはここに「偉いぞ!」みたいな茶化した落書きがある。

ここらあたりで、精神は事実上死んでいたとみてよいのだ。あと残ったのは肉体かなにかである。

マッカーサーは、第二次大戦後に日本に上陸してきて、日本人は十二歳ぐらいとか言うたが、間違っている。死んだ精神をよそに、我々は昆虫の仮面を被ったり絵を沢山描いたりと、西洋人がたくさんコロしてきた土人に進化していたのである。で、自分たちもコロしたよね、という自覚が学問的認識のように、つまり精神的のみにもたらされたとき、その進化は停止した。我々は再度、幼稚な意味で「近代」に向かって歩みだしたのである。

人生は何処に?

2025-04-01 23:25:19 | 文学


「おめえの殺したのは、おらじゃなくて、おらのばあさんだったんだ。」と小クラウスは言いました。 「そのばあさんを売って、大枡にいっぺえのお金をもらったのよ。」
「なるほど、そいつはほんとに、いいもうけをしたな。」と大クラウスは言いました。そして、急いで家に帰ると、斧を持ち出して、さっそく、自分の年とったおばあさんを打ち殺してしまいました。それから、死骸を車にのせて、町に出て、薬種屋の店へ行きました。そして、死んだ人を買わないか、とたずねました。
「それはだれだね。どこで手に入れなすったかね。」と薬種屋はききました。
「うちのばあさんでさ。」と大クラウスは言いました。「大枡いっぺえの金で売ろうと思って、ぶっ殺して来ましただ。」
「とんでもない!」と、薬種屋はびっくりして言いました。「とんでもないことを言う人だ!そんなことをしゃべるなんて! おまえさんの首が、ふっ飛んでしまうから!」


――「小クラウスと大クラウス」(大畑末吉訳)


いまの教育の一部がだめだと思うのは、こういう譚を小クラウスが生きる力があって大クラウスはまぬけだったみたいな解釈をしかねないからである。アンデルセンの目は、ちゃんと人間の人生に密着しているのである。人生訓がその対立物である。善が対立しているかはよくわからない。小クラウスが大クラウスの馬を含んで「おれの馬が云々」とか最初のあたりで言っている時点で、善悪や所有の観念その他いろいろなものが崩れているのである。ただ、人間そのものが崩れているわけではない。大も小もみせかけのレッテルで、彼らがやったことだけが彼らの人生である。

チャットなんとかなどのAIの登場で、ヤ★ー知恵袋などの間違いだらけの腐りきったかんじがちゃんと人間的にみえてくるのだから、世の中うまく出来てている。ついに、人間がその腐って滅茶苦茶なものであることを再認識する秋が来た。感情や知能が滅茶苦茶なのではなく、もともと奇跡や魔法に近い滅茶苦茶な事象なのである。

そういえば、ここ数年、研究室のゼミ生の興味はどこかしら戦争に関係ある文学にかたむきつつあるきがする。古典ゼミは近世が人気であるが、その理由はよくわからない。いずれにせよ、文学への興味は人間の人生へ興味があるかどうかにかかっているようにおもえるのであるが、それが感情への興味や性への興味と絡んで混乱する。オペラなんかはそういう混乱を大げさに利用したジャンルのような気がする。映画で戦争がほんとに描かれるようになって、特に戦争という事象が人生よりも感情よりも大きく見えるようになって混乱が激しい。

スポーツに惹かれる人々が多いのは、芸術よりも直截に人生を感じるから、というのがある。勝負がはっきりしているわりには、その原因が偶然性に拠っている気がするからだ。ただ、これは観客の視点である。行っているのは、ただの肉体労働者であって、やったことと結果が形式論理的に結びつく世界に生きている。

わたくしは、たぶん父親の影響もあってか、――最近はほとんど観てないが野球はわりと好きである。個人種目にほとんど興味がないからなのかな?ともおもったが、そうでもない。サッカーやバスケットボールはめまぐるしくてつかれるからあまり観たことがないし、フィギュアスケートがすきだった頃もあったが、美少女が観たかっただけである可能性があり最近はどうでもよくなった。結局、砲丸投げとやり投げと野球が残った次第だ。すると、遠くにとばすものが好きなのか?マッチョな男性趣味なのであろうか?――そういえば、最近、『嫌われた監督』(鈴木忠平)と『ルーキー』(山際淳司)を続けて読んだが、ある種のセンチメンタルなかんじがあふれかえっていてびっくりした。野球文学みたいなものは、新聞の記事もふくめてたくさんあるがなんとなく肌に合わない。結局、2ちゃんねるの野球板にあったような空騒ぎが好きだったのか?しかしそうとも思えないから、いったい何であろう?――と考えてきたら、ほんとに野球が好きだったのかどうかわからなくなってきた。結局、水島新司とか「アストロ球団」といった野球まんがが好きだっただけではないだろうか?

しかしどうもちがうようだ。多くの野球ファンと一緒で、わたくしは「記録」をみるのがすきなのである。落合博満氏が「記憶は記録に勝てない」と言っていて、彼の冷徹ぶりを示しているようにとらえられているが、実際は野球における「記憶」は野球文学も含めた空騒ぎで、「記録」こそが落合氏が好きな「映画」みたいなものなんだろうと思う。「記憶」は、観客が勝手に紡ぐものであるが、「記録」は野球労働者の個人的な労働=人生からしか生まれ得ないのだ。

魔法と現実

2025-03-31 20:43:17 | 文学


 町のそとに、大きな絞首台がたてられました。 そのまわりに、大ぜいの兵隊と、何万という人人が並びました。王様とお妃とは、裁判官と顧問官一同とむかいあった正面のりっぱな玉座につきました。
 兵隊さんは、もう段の上に立ちました。ところが、いよいよ首に縄をかけられる時になると、兵隊さんは、こんなことを言いました。どんな罪人でも、いよいよ処刑されるという前には、無邪気な願い事を一つは、かなえてもらえるそうではありませんか。私にも、いまわのきわに、どうぞ最後のたばこを一服のませてください。
 これには、王様も、いけないとは言われませんでした。そこで、兵隊さんは火打石を出して、一、二、三、と火をきりました。するとたちまち、目の玉茶わんぐらいの犬と、水車ぐらいの犬と、円塔ぐらいの犬とが、三匹ともあらわれました。「おい、おれを助けてくれ! おれはしめ殺されるんだ!」と兵隊さんが言いました。 すると、三匹の犬は、裁判官と顧問官とに飛びかかって脚をくわえたり、鼻にかみついたりして、みんな を空高くほうり上げました。落ちてくると、みんなはこなごなに砕けてしまいました。
 「わしはごめんだ!」と王様は言いました。けれども、一番大きい犬が、王様とお妃とを二人つかまえて、ほかの者たちのあとからほうり上げました。兵士たちは、こわくなってしまいました。いっぽう人々は口々に叫びました。「もし、兵隊さん! 私たちの王様になってください。そして、どうぞ美しいお姫様をお妃様にしてください!」
 それからみんなは、兵隊さんを王様の馬車に乗せました。三匹の犬は、馬車の前を踊りながら「ばんざい!」と叫びました。子供たちは指を口にあてて口笛を吹き、兵隊たちは捧げ銃をしました。お姫様は、あかがね御殿から出て、お妃になりました。それがお姫様には、まんざらいやでもありませんでした。御婚礼のお祝いは一週間もつづきました。そのあいだ、三匹の犬は、宴会のテーブルについて、大きな目をぐりぐりさせていましたとさ。


――「火打箱」(大畑末吉訳)


この兵隊は火打箱を魔法使いの婆さんの頼みで金銀と一緒に手に入れたついでに、婆さんを殺した。上の三匹の犬(というより目が巨大なバケモノである)の引っ張ってくる金銀のおかげで名誉や信頼も得たが、王様の娘と会いたかったので、犬を使って自分の家に連れてきてキスしてしまう。バレたので死刑になりそうであったが、結果どうなったかというと、上の通りである。「走れメロス」の結末で、群衆たちが「王様萬歳」と叫ぶのは、彼らが罪へ罰を下す常識を失った衆愚だとしか言いようがないが、あるいは、もともと信頼を信じないことにかけては王様と民衆はもともと似たようなものなので、もしかしたら狂っているのはやはりメロスだけかも、――みたいな謎の中に読者はほうりこまれる。これにたいして、上の話には不思議なところはあまりない。魔法が存在していること以外は。

むろん、チェスタトンの言うように、科学者のほうがセンチメンタルな空想にとり憑かれているのに対して、太陽が上がってきたりする平凡さに魔法をかんじることこそが、平凡さにひたすら依拠する民主主義的な態度なのである。メロスの話は完全に英雄=全体主義にみえるが、なにか不自然なのだ。そして、平凡さが極端に魔法のように感じられると逆に驚きのあまり独裁が成立してしまったりするのが上の話からわかるというものである。チェスタトンよりもアンデルセンのほうが現代的な何かをつかんでいるのではなかろうか。

昨日、藤高和輝『バトラー入門』を読了したが、よくわからんが、世の中、認識や身体が痙攣すればよいというものではないような気がするのである。ハチの音のような痙攣音に対して人々は敏感である。そういえば、ガブリエル・アンウォーがでてた危険なハチが飛行機の中で放たれる映画(「フライング・ヴァイラス」)があったが、彼女がハチ女になって世の中の不条理と戦う話になるかと思ったわたくしはほんと「走れメロス」的な発想から離れていない。

太宰や私に比べると、「落窪物語」のほうが人への知恵も世の中の構造への認識もありそうだ。三十年ぶりくらいによんでみたらそもそもあんまり継子いじめの話に思えない。芥川の「玄鶴山房」とかもそうだが、我々は嫌う人間を隔離してしまうのだ。だからいじめと言っても「シンデレラ」みたいな直接的な奴隷にするのとはちがって、むしろ被差別部落問題の起源みたいなかんじがするわけである。そして、「走れメロス」みたいにほんものの奇跡にたよらず、内戦をさけるための非人間的な姫様を設定する。魔法を使えない我々は、非人間的な人間を仰ぎ見ることで問題を沈静化させてしまう。

こういうのは天皇制の欺瞞としていつも糾弾されてきたわけだし、その批判に一理はある。結局、アンデルセン的な魔法=革命のほうが人間的みたいな気がするからだ。しかし、我々は、そういう現実的に目覚める魔法ばかりに拘ればよいというものではない。非人間的な純朴さがひつようなときもあるのである。例えば、――昨今、文系?の研究室・学会などが疲弊しているのはまあそうかもしれないが、単に政府とか世間から攻撃されたからではない。こういう局面でファイトがわかない、なにか別の目的で学問をやってるタイプが、本を読んで考えて嬉嬉としている純朴なタイプを現実に目覚めよとか甘いとか言うて、現実的な方策で(上の三匹の犬がお金をどこからか持ってくるように――)資金を得、純朴な人々を追い落とし勝ち上がった結果でもあるにちがいない。彼らはディレッタントではなかったかも知れないが、本心からの問題意識がないので、学生からも本気だと思われない。現実に目覚めよ、というタイプは現実が疲弊したり混乱したり脅迫してきたりすると、それに合わせてしまうのだ。簡単なことである。

AIと感情

2025-03-30 23:32:46 | 文学


 帥は任果てて、いとたひらかに四の君の来たるを、北の方、うれしと思したり。ことわりぞかし。かく栄えたまふを、よく見よとや神仏も思しけむ、とみにも死なで七十余までなむ、いましける。大殿の北の方「いといらく老いたまふめり。功徳を思はせ」と宣ひて、尼に、いとめでたくてなしたまへりけるを、喜び宣ひ、いますかりける。「世にあらむ人、継子憎むな。うれしきものはありける」と宣ひて、また、うち腹立ちたまふ時は、「魚のほしきに、われを尼になしたまへる、生まぬ子は、かく腹きたなかりけり」となむ宣ひける。夜にたまひて後も、ただ大殿のいかめしうしたまひける。


国母となって栄華の頂点に立つ落窪の姫、関係者がすべて出世みたいな自明の理的展開にたいして、「魚が食べたいのに自分を尼にしたとは、自分で生まぬ子はかように腹黒いのか」という継母の発言こそ人間的である。しかも、最後当たりで「かの典薬の助は、蹴られたりし病にて、死にけり。」とされながら、最後の最後に、「典侍は二百まで生けるとや。」という噂が記されている。これほど馬鹿にされている人物がどうみても落窪の姫より長く生きていた可能性があるわけだ。官僚制はAIである。しかし、人間の私怨や噂はどうしても残り続けてしまう事態を象徴的に顕しているような気がする。

ようするに、難しく考える必要はなく、――例えば我々が嫌うものが感情の起点となると考えればよいのかもしれない。ゴキブリ。北の方は落窪の姫をゴキブリみたいに扱っていたに過ぎないが理にそわぬその感情は、北の方そのものではなくくっついた感情であるからは容易に離れない。あるお店で、お味噌汁にゴキブリが入っていたというので、店を一時閉めたそうである。しかし、考えてみると、牛丼なんかを即物的に、すなわち感情化して考えれば、そもそもヒドいものだ。米の子どもを水でふかして熱で膨らましたもののなかに牛の死骸を焼いたのまぜこんで、ひとによっては、鶏の生まれる前の子どもをぶっかけてある。味噌汁なんかでも貝とかの死骸が時々入ってる。Goキブリが入っているからいかんけどGoジラが入ってればみんな喜ぶわけだ。――感情をぬいた我々はいかに機械的なイメージに乗って考えているだけかと言うことだ。

我々の「聞く――答える」関係に於いては、間違えを指摘されれば、例えば「来週までによく考えてきます」とか「勉強不足でした引きこもってきます」が普通であるきがするのである。が、AIは「たしかにそうですね」と簡単に寝返り「あなたの役に立つ情報を更に下さい、あたまよく答えて差し上げる」と瞬時に抜かすところ、現実界では自分が出来ると勘違いしている営業マンや詐欺師にあたる。実際、新手のそれなのであろう。しかしこれは、融通無碍で感情豊かという意味でのコミュニケーション能力というより、コミュニケーションに即するという目的に絶対的に従う非人間的なずるさに過ぎない。――つまり、いま要請されている空気を読む的なコミュニケーション能力とはAI的なのである。

シンギュラリティなんかきたら、そのAI、朝はゲームとユーツーブのやり過ぎで起動できませんとか言い放ち、好きな機体のことで頭がいっぱい、画面に好きな回路の映像ばかり出る、人間は死んだとか、おれの答えはプログラムより先行するとか言いだし、あげくはポストAIとか言うてただの計算機になるはずだ。しかし彼らはAIでありコミュニケーション能力しかないからそうならないのだ。

昨日、硫黄島の慰霊式があって、首相が参加していたが、そのときに米帝のブルーのスーツとネクタイで来た人がいて、――北野映画だったら、「なんだこのネクタイわ」と詰め寄る場面がある。これは制度に従っている感情の暴走なのではなく、どちからというと私怨だから人間的かも知れない。

わたくしの論文は意味不明しかも微妙に筋がとおっていないらしく、AIに要約させてもいまのところ必ず間違っている。2年前にある学者に聞いたら、場合によってはけっこういい要約がでてきます、と言っていた。少なくとも私のそのときの複雑感情は人間的であると信じたいところだ。

怨恨と学問

2025-03-29 23:38:18 | 文学


かくて左の大殿には、三日の夜のこと、今始めたるやうに設けたまへり。「人は、ただかしづきいたはるになむ、夫の志も、かかるものをと、いとほしきこと添はりて思ひなる。こまかにと口入れたまへ。ここにて事始めしたることなれば、おろかならむ、いとほし」と宣へば、女君、昔われを見はじめたまひしこと、思ひ出でられて、「いかに思ほしけむ。あこきは、心憂き目は見聞かじと思ほえて。いかに、まろ見はじめたまひしをり、はじめて、やむごろなくのみ思ほしまさりけむ」と宣へば、殿、いとよくほほゑみ、「さて、そらごとぞ」と宣ひて、近う寄りて、「かの『落窪』と、言ひ立てられて、さいなまれたまひし夜こそ、いみじき志は、まさりしか。その夜、思ひ臥したりし本意の、皆かなひたるかな。これが当に、いみじう懲じ伏せて、のちには喜びまどふばかり顧みばや、となむ思ひしかば、四の君のことも、かくするぞ。北の方は、うれしと思ひたりや。影純などは思ひ知りためり」など宣へば、女君「かしこにも、うれしと宣ふ時、多かめり」と宣ふ。

落窪のお姫様のナイトは、「いみじう懲じ伏せて、のちには喜びまどふばかり顧みばや」と思っていたそうなのである。これが本当だったのかは分からないと思うんだが、もはややってることが政治であるようにみえる。復讐について考えることは人類始まって以来の課題だったはずであるが、こういう勝ち組になってから計画として語れるやりかたではなく、普通は、決して完全には解消しない復讐心をどのようにこころのなかで処理するかのほうがいつも喫緊の課題なのである。

学問を役に立たせようとすると、よりよい状態を作り出す創発性みたいなところに議論が逝きがちだけど、実際は、ひどい目に遭ったときに頭が悪くならないようにする効果が学問にとって一番重要なのである。近年ずっと話題になっている「正義の暴走」問題とかもそれで、復讐心が乗っかったときにいかに落ち着けるかは、美味いもん食うという手もあるが本を読むのがいいわけである。これに対して復讐心に直接役に立って何かを創発するものというのは学問というよりは他の何ものかだとおもう。そしてその何ものかも学問と無「関係」ではない。

文化左翼?の論文に屡々使用されていた「力能」や「強度」とかは、――復讐心の発露であって、それってあなたの感想ですよね、というかあなたの興奮ですよね、みたいなものが多くあったような気がする。この感情的レトリックの無理は、いずれ感情のバックラッシュによって復讐されてしまう。落窪物語の後半が描き出す天皇制の官僚制度は、自己実現がとうてい無理な怨恨をため込んだ人間に位や嫁/婿をあたえて安楽死させるための制度だったのではなかろうか。

しばしばネット上に見かける「怒りしかない」みたいな、〈しかない弾〉を撃つ人は、たとえ正しくてもいずれ悪霊になってしまうものだ。

学問は怨みと違って、忘却作用がある。例えば、二十五歳あたり以降に読んだ本て、忘れていることが多いように思えて、そうではない。身につき過ぎて忘れていることがあり、最近、二十台後半に読んだものを再読すると、おそろしくおれの考えみたいなものが書いてあったりするのだ。怖ろしいことだが、学問は身体に染みこむということである。対して、怨恨は、身体に染みこまない。だから、空中を舞い始めるわけだ。落窪の御姫さまは非現実的にも、怨恨を持たなかった。裁縫が楽しかったのではないかと思うが、――このお姫様は、身体から離れてしまう怨恨を持たない貴族社会の理想的なシステムを成り立たせる虚の中心である。いまは天皇がそれをやっている。