
女性をテーマに男が書いた詩の数々を眺めてみればよい。 女性とはまるで……男が創りあげた詩の世界だけに生を享けた住人のようだ。彼女たちは大抵の場合、美貌の持ち主で、その美しさや若さの翳りに怯えて身を震わせる......。 あるいは、その美しさをたたえたまま、ルーシーやレノーラのように薄命に終わる。あるいは残酷なことに……そんな詩人の慰みものになることを拒めば、完膚なきまでに叩きのめされることになる……。ものを書こうという少女や女性は…とかく言葉に影響されやすいものだ。この世界に存在する自分は、いったい何者なのか、その答えを詩や小説に求めるのである......。自分を導いてくれるもの、将来の展望、無限の可能性を求めては……そのすべてを否定する壁に何度も何度もぶちあたる......。自分が自分であることの全てを否定する壁につきあたる・・・・・・彼女は恐怖と夢を見出す······天賦の美貌だけでは満足できないつれなき美女……、 しかし、そんな彼女がどうしても出会うことができないものは、夢中で努力してとまどいながらも、ときにはそんな姿が読み手に希望を与える生き物―つまり自分自身の姿である。
――アドリエンヌ・リッチ"When We Dead Awaken: Writing as Re-vision," College English 34, no. 1 (October 1972): 21.(小谷真理訳)
ジョアナ・ラスの『テクスチュアル・ハラスメント』に引用されていた。ラスはSF作家である。これはけっこう興味深いことに思えるのであるが、アンデルセンの場合、その美女たちが、あまり上のような「男の作り上げた詩の世界」の一部にはみえない。すくなくとも私にはあまりみえない。どちらかというと、作品の中の美女よりも現実の美女のほうが作り上げた詩の世界のそれにみえる。最近のルッキズム批判を適用したら、醜いアヒルの子は白鳥の集団からも醜いといじめに遭って死ぬかもしれない。しかし、そもそもその醜いアヒルの子が白鳥の集団においてもリンチに遭うかも知れない予感は、読書する我々にそもそも存在しているような気がする。フィクションは作り上げられているだけでなく、現実と読書によって繋がっている。
それをもう一回、フィクションであるという次元に差し戻して観るのが、学問のやり方ではあるのだ。しかし、学者をやっていると分からなくなりがちであるが、作者の死やらテクストに即するやら、人の論文を「参考文献」としてモノ扱いするみたいな、その態度というのは普通に非常識なのである。非人間的と言ってもよい。たしかに一周まわって人間的なのはわかるが、学者本人が非人間的になってしもうてる可能性はすてきれない。
それが文学作品や論文といった「作品」でなくてもそうである。人文の分野は、ルネサンス的に展開するのであって、急に古いのが復活するのが醍醐味だ。しかし、研究の発展みたいなイデオロギーが大手をふるいすぎると、先行世代が否定したところに逆行した側面が、単なる進歩みたいな顔をしていることが屡々である。不可避的なことでもあるが、その態度の問題は常にある。
わたしは、三十代の頃から、文学研究は、作品の非人間的な倍音を聞くことが重要だと主張している。そういえば、わたしが直接知るボーカロイドの開発者や作曲家には、案外合唱をやっていた人が多い印象がある。全体的な傾向はしらないが、重要なことのように思える。合唱は人間の声の有限性を痛感するからではない。声のハモり自体がどこか非人間的な感じがするのだ。そこに憑かれた人々は作品を単なる作品とは思えず、ドームに響く何ものかだと思う。それを機械でやろうとしているのが、合成音声の人たちであろう。しかし彼らの感性がその「何ものか」並にすごいとは限らない。我々はつねに有限な人間である。チッチの言う「自分自身の姿」とは異体どういう者であろうか。