★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

帰ってきたトランプ大統領らしいので御飯を炊いた

2024-11-06 23:12:39 | 文学


「実はだな、かけたいのはグランビル大統領の生命保険なんだ」
「確かに、変わってますね」
「いやいや、モレンス所長。英国では国家元首にしばしば保険を掛ける。戴冠六十周年式典の例だよ。目下の大計画で大統領に万一のことがあれば、私は破産する。もしこの件が駄目なら、英国で保険を掛ける」
「もちろん引き受けますよ。だって正当な取引ですから。同類の保険料は六パーセントです。で、保険金額は」
「三百万フランだ」
「男爵、ご冗談でしょう」


――フレッド・M・ホワイト「悪の帝王」奥増夫訳


おれが、不正投票以前に、人間が不正なんだよ、とか言い始めたらみんな武器を取ってくれ(恋唄)

吉本隆明が「恋唄」を歌っても、なかなか武器を取る奴はいなかった――いや、いたわ。結構たくさん。

ハリスに限らず、日本の民主共産どこでもそうだとおもうが、その平等的なものを発散するキャラクターが、まがりなりにもボスを選ぶ民主主義と相反してきている、スターリン万歳とかいいはじめたらおれを何かではたいてくれ。

今回負けてしまったハリス氏はバイデンの後ろでニコニコしてたときの方がなぜかボス感があった、――とかいうとジェンダー構成的に問題あるんだろうが、かくいうわたくしも副委員長みたいなときがいちばん生気があるのだ。たぶん、副委員長というのは、雑用を飲み込むように処理するのに長けているタイプである。委員長は、飲み込むのではなく、啜って食べる。

俺以外の日本人のうどんや蕎麦の食い方を見ていると、やつらは旨いだしがあれば、なんでも啜り飲み込む蛇みたいな奴らであると思わざるを得ない。トランプが大統領になりそうなので、御飯を炊いた。

極私的近代の超克論

2024-11-05 03:29:39 | 文学


モナ・リザの唇もしづかなる暗黒にあらむか戦はきびしくなりて

斎藤茂吉は論争の中ではかなり口が悪いひとで、思うに、彼の実相観入は、対象と一如となってしまうところがあるわけであるから、例えば、プロレタリア文学時代に批判を受けた五島茂になんかにはある意味シンクロしすぎて、その反発から「模倣餓鬼」と口走っていたのではあるまいか。短歌史を講じてみて感じるのは、やはり小説や詩に比べてそこに「批評」を導入するのが難しいというかんじであるが、――しかしこれこそ我々が自力で批評していない証拠なのではないか。実相観入なんて半分、自力ではない典型例である。

だいたい結婚すると、細がテレビ観ながらお菓子を食べているという電波を受信する生物に変態するものであるが、実際は、実相に嵌入されているのは我々の方である。

こういう自明の理が分からない文明は、インターネットを用いてもともと実相観入している世の中を線で繋いで見せたりするもんだからおかしくなるのである。ブリコラージュがあり合わせのものでつくってしまうことであるなら、いまや密室に閉じ込めて電波を遮断でもせんとそれができきないという転倒した状況だ。

映画「猿の惑星」シリーズも好きなので昔から見ているけど、猿がなかなか音楽とか文学をやり始めねえんでこの西洋猿=体育会系=理系映画の野郎め、とにらんでいる。新しい「猿の惑星 キングダム」もみたけど、あいかわらず、テクノロジーと革命(暴力)のことしか、猿も人間も考えていない。鷹をてなづけるまえに恋の歌を唸るだろう普通。

そういえば、「猿の惑星」においては、食糧の問題がちょっと曖昧になっているように思う。その猿のモデルと云われている日本人が、炭水化物に炭水化物を重ねて食事しがち(ラーメンライスとか)なのは実に異様というのは、前から聞くけど、正直、わたくしたくさんのお米と漬け物だけみたいなときが一番体調はいい気がするのだ。人生的にどうだかはしらんが。。。たとえば、仏蘭西料理のコースなんかでも、パンがうますぎてたくさん食べてしまい、その後で出てくるメインディッシュとかスイーツは意識なくしながら必死に食べるみたいなことになっている。自分的には、パンの後に納豆と御飯を出して欲しい。ちなみにわたくしはお好み焼きとお寿司があまり好きではない。嫌いではないんだが。二十歳までにあまり食べていないので、食べ物として体が認識していないのではなかろうか。

水木しげるの漫画は、コマのあいだに独特な走馬燈みたいな間があって動きがないようで動いているようなかんじが、アニメーションになると動いているだけになっている。我々の生は、このように、和歌の如く――、かくかく動いているのを、なめらかに動かされている。

ドベゴンズドジャースベイスターズ勝ちにけり世はいつも花盛り

たしか明治末期の、尾上柴舟の「短歌滅亡私論」に、もはや「なり」とか「なりけり」で考えないんだよおれらは、みたいなところあったとおもうけど、じっさいのところどうなんだろうな、「なり」とか「なりけり」で考える人はいたような気がするのであるが。いまも使えばそう考える人が出てくる。

その分際より仕過ごす物

2024-11-04 19:28:55 | 文学


惣別、傾城買、その分際より仕過ごす物なり。有銀五百貫目より上のふりまはしの人、太夫にもあふべし。二百貫目までの人、天職くるしからず。 五十貫目までの人、十五に出合ひてよし。それも、その銀はたらかずして居喰ひの人は思ひもよらぬ事、近年の世上を見るに、半年つづかざる人無分別にさわぎ出し、二割三割の利銀に出しあげ、主人・親類の難儀となしぬ。かやうになるを覚えての慰み、何かおもしろかるべし。

トノサマバッタともなると殿様であるから、「その分際より仕過ご」すこと気にせずともよいのであろうか。そんなことはなく、そもそも人間の認識にその「分際」があるはずもない。しかし、その分際を仕事に関係づけられてしまう人間――たとえば教師なんかはつい殿様じみてくるものである。

小学校の先生に限らず、先生たちは、教室の中のボス猿たるために相手の戦力を瞬時に見極める力に長けたヤンキーみたいな能力がひつようなところがあり、これはむろん相手の能力を伸ばすとか正確な把握を行うこととは全く別なのだが、それがだんだんと本人のなかでは同一視されてくる。これが危険である。人が予測を超えた成長をしたときにそれをなかなか認めたがらない葛藤を抱えている傾向がある。小中の先生にかなり広範にみられる現象のような気がする。高校だと、大学入試の結果にただ喜ぶようなロボットが生産されて、そもそも生徒への観察力を去勢され、上のような葛藤すら存在しないような人間が時々現れている。そして頼みは自分の学歴とかになっている醜悪さである。

だいたい、先生とか親なんてのは、子供の能力を正確には評価出来ず、未来を信じるみたいな態度を見せながらだいたい適当な判断を下している。さぼっているわけではない、赤の他人というのは、本人と同様、その程度なのである。しかしそれが子供の未来を勝手に決めるとなったら話は別で、子供は彼らをはやめに精神的に見捨てておく必要がある。必要があったら縁を切る必要だってあるのはそのためだ。だいたい、ひとは自分と同じ職業に向いているか否かでしか評価を下せない。学校の先生も例外ではない。小中接続とか、中高接続とかもっともらしいまぬけな試みがあるが、――根本的には、小学校の先生によって優等生と見做された人間が中学生ではそうではない、といった事情があるからだ。大学に入りたての大学生をみて、高校の優等生は高校の先生に幾らか似ているとおもったことは一度ではない。

わたくしは、小学校の先生と大学の先生とウマがあったが、中高と思春期だったから、だけではないと思う。たぶん、小学校の先生となぜうまがあったのかといえば、彼が作家だったからに過ぎない。だから、一見、わたくしが小学校の先生に向いているはずであるという認識が周囲に生じていたのは無理もないが、小学校は楽しかったと同時に地獄的で二度と戻りたくない。かように、わたくしにかぎらず、教員を目指す学生の中には、自分を評価しなかった校種へのうらみがある学生もいて、中学校の小学校化、小学校の中学校化、などなどを思い描いている者も実際にいる。いろいろ思惑はあるわな、と思わざるを得ない。

世にこの道の勤め程ほどかなしきはなし

2024-11-03 17:13:24 | 文学


 身にそなはりし徳もなくて、貴人もなるまじき事を思へば、天もいつぞはとがめ給はん。しかも又、すかぬ男には身を売りながら身をまかせず、つらくあたり、むごくおもはせ勤めけるうちに、いつとなく人我を見はなし、明暮隙になりて、おのづから太夫職おとりて、すぎにし事どもゆかし。
 男嫌ひをするは、人もてはやしてはやる時こそ。淋しくなりては、人手代・鉦たたき・短足にかぎらず、あふをうれしく、おもへば世にこの道の勤め程ほどかなしきはなし。


西鶴とかでも、「世に*程***ものはなし」、みたいな言い方が出てくるんだが、学校教育で言うところの中心文的なものではないし、主題ですらない。こういうのはおもったより近代でも実際あるんだろうと思う。真面目なふりの仮面、ふざけたフリの仮面、そして素顔はある程度空想である。近世も近代も文学がメディア化してるために起こる困難はかわらない。

そういえば、ベートーベンの時代は敵はナポレオンの敵や共和制の敵であった。しかし、敵が敵対する人間や怪物ではなく、メディアや批評になってからはおなじエロイカ的なものも拗くれてしまった。「英雄の業績」というセクションを持つR・シュトラウスの「英雄の生涯」、まだ作曲者が34だかだというので、自分のことを曲にしたのではない、という説があるが、いまでも「英雄の業績」とか30代で自分を褒めている奴はうちの庭の蛙よりも多く存在している。もはや、ここまでくると、敵が批評家やメディアですらない。

愛国者は好色一代女2を欲する

2024-11-01 23:08:38 | 文学


これをおもふに、東そだちのすゑずゑの女は、あまねくふつつかに足ひらたく、くびすぢかならずふとく、肌かたく、心に如在もなくて情にうとく、欲をしらず物に恐れず、心底まことはありながら、かつて色道の慰みにはなりがたし。女は都にまして何国を沙汰すべし。ひとつは物腰程可愛らしきはなし。これわざとならず、王城に伝へていひならへり。 そのためしは、八雲立つ国中の男女、言葉のあやぎれせぬ事のみ多し。これよりはなれ島の隠岐の国の人は、その貌はひなびたれども、物いひ都の人にかはる事なし。やさしくも女の琴碁香歌の道にも心ざしのありしは、むかしこの島に二の宮親王流されましまし、よろづその時の風儀今に残れり。


好色一代女の有名な田舎女への悪口である。

横道誠氏の「みんな水の中」にはあまり地方性みたいなものを感じなかった。ゴジラもなんか水の中から来たから地方性を感じない。彼らは移動する人種である。

今日のスポーツ紙は大谷世界一一色であったが、アメリカ世界一をワールドシリーズと抜かす帝国主義下の日本ならではある。とはいっても、世界の田舎もん、日本で「ゴジラ」の愛称の人よりもでかい大谷に酔うのはしかたがないが、「東京」はそのなかでは案外田舎性を発揮してくれることもあり、大スポ(大阪スポーツ=)だけが、つまり「東スポ」だけが、「クラゲUFO発見」とかが一面であった。クラゲUFOは、ロシアでも中東でも見出されているそうである。野球よりもよほどグローカルだ。

ゴジラがグローバル化してしまった以上、残るは源氏物語か好色一代女が日本のアイデンティティを支えるべきだ。アイデンティティは作者を日本人としていじくり回せることと関係がある。三島由紀夫や安部公房があれこれといじれるキャラクターになっているのとおなじことだ。最近、源氏物語の作者が道長と密通してそれをやっている。ゴジラの原作者が吉田茂と密通してもいいはずだが、なんかそれがやりにくいのは、ゴジラがグローバル化した証拠であるかもしれない。

ゴジラ続編決定らしいが、――わたくしは、つまり、ゴジラ続編いらねえから愛国者として好色一代女2とかが見たいのである。

秋の太陽

2024-10-31 08:17:21 | 文学


「だが私は、あなたにお別れするのが悲しくてなりません。」と、草はいいました。
「そんなに悲しまなくてもいい。俺は南に帰るときに、もう一度おまえを見るだろう。」と、太陽は答えました。
 その後、草ははたして、りっぱな花を咲きました。脊も、もっと高くのびて、青木よりも高くなりました。そして、葉もたくさんにしげりました。草は、内心大いに安堵していたのであります。もう、このくらい大きくなれば、太陽にすがらなくともいい、青木が冬の間我慢をしていたように、私も我慢のできないことはないと思いました。


――小川未明「小さな草と太陽」


現在の宇宙を舞台にしたSFは、マーラーよりもホルストのおかげが大きいと思うが、つまりゲーテ的誇大妄想よりも、占星術がSF的だったということになり、――いまだに宇宙は星占い的な存在であることは確かである。「世界」ではないのだ。というわけかわからないが、いまだにマーラーの音楽をもちいたSFは見る気がしない。

自公過半数割れでも批評家を評価する

2024-10-29 23:38:28 | 文学


 そこで、コンマやピリオドの切り方などを研究すると、早速目に着いたのは、句を重ねて同じことを云うことである。一例を挙ぐれば、マコーレーの文章などによくある in spite of の如きはそれだ。意味から云えば、二つとか、三つとか、もしくば四つとかで充分であるものを、音調の関係からもう一つ云い添えるということがある。併し意味は既に云い尽してあるし、もとより意味の違ったことを書く訳には行かぬから仕方なしに重複した余計のことを云う。

――二葉亭四迷「余が飜訳の標準」


今回の選挙で、自公が過半数を割り込み、すっかり野党の何処が裏切るのかみたいな雰囲気になっている。公明が国民民主よりも当選しなかったのが時代の流れを感じたが、――聖教新聞も赤旗も、ちなみに産経新聞もある学生には存在すら知られていなかったりするのであってみれば、そりゃよのなか大変である。選挙に行くとか行かんとか以前にわれわれはおそろしい空洞を抱えているのだ。

もはや生者には期待出来ない。そもそも生者だけで選挙やってるから埒がアカンのだ。高峰秀子様を総理にせよ。

あまりに秀子様だと気が強すぎるのではないかとおもった方には、もはや例のイクイナ様ではどうであろう。統一教界の問題であれになったイクイナ氏であるが、普通にイクイナ=1917年ロシア革命なので、まさに存在自体が現在の革命的状況を予感させていた。歴史ってすごいね。

それにしても、今回の自民党の退潮にはいかなる原因があるのであろうか。もともとそれほど支持者がマジョリティではないのは20年前から言われているから、それはそうかもしれないが、今回は「裏金+非公認の人に小遣い」の件で、少なくない自民党支持者が愛想を尽かしたのではないかという見方もある。そうかもしれない。日本人にはもはや、「死ぬまで憑いていきます」という根性がないのだ。ちなみに、リベラルが信用されないのもそのせいなのであるが。

単純なようだが、今の若いもんは、感想はひとそれぞれみたいな主張にもならないうんこじみた主張をすり込まれすぎている。これでは話し合いや政治どころじゃない。意見や感想そのものを生成させる気がないのだ。感想や意見は長い時間をかけて矛盾をはらんだ練り上げられ方をしなければ意見とか感想とはいえない。坂口安吾は、無責任にも「感想家よ出でよ」みたいな批判を平野謙みたいな教条主義者に対してして、そぼくな読者がいいみたいなことを言っていたが、教条こそが意見や感想をいずれ生み出すことを軽視している。授業だって、まずは紋切り型の教条からはじまるのである。

そういう思考の生産性の問題と、つねに混同されるのが、そのひとの結果として現れている教師の頭の良さの問題である。学校の先生が頭悪くなるとなにがだめかって、バカが移るのではなく、頭の悪い奴にこそ服従しとかないといかんという兇悪な習慣がついてしまうことによるのである。親の場合も一緒である。――のみならず、頭の悪い奴に服従しとかねばという意識は、大概自分の方が頭がよいという対をもってあらわれてしまうところが益々まずい。「人間失格」の対義語探しみたいなことが始まるのである。そうすると、頭の悪い教条を主義者は、頭のよい自由な俺様によって駆逐されねばならぬみたいな戦いばかりがなされるようになる。結句、頭が悪いだけの自由な頭脳に、不自由な頭の悪い俺様が説教してまわるみたいなディストピアの到来である。

而して、私は、批評家たちの紋切り型=啓蒙的な言説にはいまだに意味があると思っている。教師たちが自由な頭の悪さを装備してしまった以上、もはや彼らに頼るしかない。例えば、浅田彰はアルチュセール研究とジョン・ケージの「小鳥たちのために」を紹介してくれたので許せるといへよう。

落窪選挙

2024-10-27 22:35:34 | 文学


さすがに、おとどの思す心あるべしと、つつみたまひて、「落窪の君と言へ」と宣へば、人々も、さ言ふ。おとども、ちごよりらうたくや思しつかずなりにけむ、まして北の方の御ままにて、はかなきこと多かりけり。はかばかしき人もなく、乳母もなかりけり。ただ、親のおはしける時より使ひつけたる童のされたる女ぞ、後見とつけて使ひたまひける。あはれに思ひかはして、片時離れず。さるは、この君のかたちは、かくかしづきたまふ御むすめなどにも劣るまじけれど、出で交らふことなくて、あるものとも知る人なし。やうやう物思ひ知るままに、世の中あはれに心憂きことをのみ思されければ、かくのぞみうち嘆く。
  日にそへて憂さのみまさる世の中に心づくしの身をいかにせむ
と言ひて、いたう物思ひ知りたるさまにて


あはれお前はさっさと落選せよとは言いがたいので、落窪物語でもよむべし。継子いじめに怒り心頭、それが権力に対するなにかになるかもしれない。

わたくしぐらいになると、「今日投票行った?」と家のメダカからも言われる。勝手な想像だが、やはり家族を抱えていると投票ぐらいいかねばと思う人は多いんじゃねえかなと思う。わたしも家族がいなかったらメダカも喋るきがせんし。

それはともかく、むかし爆笑問題が「暴走族をおならプープー族と言うべき」と言ってたけど、闇バイトも、なにか別の言い方をかんがえるべし。しかしやってることがかわいげも何もないからひどいネーミングしか思いつかない。自民党でも民主党でも何でもいいが、空気を読むことで疲弊して必死に仕事をやれなくなると、人間かわいげがなくなるという事態だ。暴走族はただ走るのが好きだった面がかわいげをかもしだしていたのである。

かわいげがなくなると、人間エンターテインメントに走る。劇場型選挙とはそういうものである。

思うに、我々がかくもかわいげをなくしたのには、近代文学にあったようなヒステリックな叙情に対する評価をあやまってきたというのがあるとおもう。例えば、伊藤左千夫みたいなものの評価に失敗しているところがあると思うのである。短歌に対する評価はいろんな理由でどこかヒステリックになりがちなんだが、それも原因のひとつだろう。短歌だってほんとは被り芸みたいなところがある。これを「叫び」とか言っているうちになにか自らの感情を見失った。

例えば、英霊というものは何か被りたがるものであってその代表的なあれがゴジラである。最近はかぶることもやめてただの絵になった。ほんとの「英霊」があるかのような馬鹿馬鹿しい評論が増えているが、「叫び」の存在論化みたいなことが起こっているのであろう。たぶん、根岸短歌会が子規亡き後どことなく厳格なボスの不在に悩んでいたことと関係がある気がする。

例えば、組織のなかの手続きを厳格にしただけで、その組織はかなりまともになる。意見徴収の場が知らないうちに合意形成のエビデンスに使われるみたいなことを許していると、FDなんかも合意形成の場になってしまうのである。そんな緩さが許されている場合には、合意形成は、何か英霊や叫びに左右されるわけであるから、――同時に、空気読まずに意見を言うたった、あるいは放言したおれがエライみたいな人の存在をそのご本人を筆頭に過剰に評価してしまうことになりかねない。

ほしや男、をとこほしゃ

2024-10-26 18:54:07 | 文学


さる山伏を頼みて、てうぶくすれども、その甲斐なく、我と身を燃やせしが、なほこの事つのりて、歯黒付けたる口に、から竹のやうじ遣ひて祈れども、さらにしるしもなかりき。かへつて、その身に当り、いつとなく口ばしりて、そもそもよりの偽り残らず恥をふるひて申せば、亭主浮名たちて、年月のいたづら一度にあらはれける。人たる人嗜むべきはこれぞかし。
 それより狂ひ出て、けふは五条の橋におもてをさらし、きのふは紫野に身をやつし、夢のごとくうかれて、「ほしや男、をとこほしゃ」と、小町のむかしを今にうたひける。一ふしにも、れんぼより外はなく、「情しりの腰元が、なれの果て」と、舞扇の風しんしんと、杉村のこなたは、稲荷の鳥居のほとりにて、裸身を覚えて、まことなる心ざしに替り、悪心さつて、「さてもさても我あさましく、人をのろひしむくい、立ち所をさらず」 と、 さんげして帰りぬ。 女程はかなきものはなし。これおそろしの世や。


歓喜天を訪ねる旅がしたいものだ。色道は実際に道であって、上の西鶴なんかでも、俄然もりあがるのは、「ほしや男」といいながら小町踊りをやりながら女が移動してゆく場面からであって、閨の場面ではない。

ゴジラも台風も移動する物体であるが、やはり日本に上陸するまでが盛りあがっており、日本に上陸したとたん、その移動のドラマがなくなり、ただの桎梏と化す。好色女や男が閨房から外へ繰り出してゆくのに対して、ゴジラや台風は日本にぶつかって砕け散るためにやってくる。じつに竜頭蛇尾がひどい。我々が外に出たがらないのも、海の壁の存在もあるが、動きを止めるものばっかり目撃しているせいもあるのではなかろうか。動きが鈍いのは、イメージとしての大和撫子もそうである。特撮だと、モスラがそれにあたっており、日本のモスラはじつにかわいくふくよかである。特にすこしむかしのモスラ映画では、ほそい小美人とか満島ひかるとかがモスラと対照的にでてくるのだが、これは錯覚を利用して、女性性とモスラをダブらせるためであろう。

で、――故に、この前、ゴジラとキングコングが、別の蜥蜴と猿と戦う映画をみたが、とりあえず、モスラが実にかわいくない。たんにリアルな怖ろしい顔つきの蛾ではないか。こんな怖ろしい女房の言うことを聞いているとは、アメリカの男性は実にルサンチマンの塊と化しているのであろう。そういえば「羊たちの沈黙」でも蛾は嫌われていた。我が国なら普通にモスラに似た蛾をクラリスが飼っている設定にするはずだ。そういえば「ナウシカ」がそれであるな。。。

そのくせ、日本では、実際の女性には眉毛以外に蛾を求めないのが奇妙である。

そういえば、面接試験とかで採用されている、愛嬌があるみたいな基準て、まあルッキズムといえばそうなのである。

愛嬌と言えば、「朝ドラ」の主人公なんかであろうが、なぜか食べ物に関係ある役柄が多い。もっとも、あれを見るのが食前か食後かによって印象がかなり変わるにちがいない。ケーキ職人のやつは食後のデザートでよかったかもしれないが、カップラーメンとかおにぎりはどうなんだろうな。――それはともかく、どうもモスラを食べるところまで行かないから、半端にルッキズムと食欲が結びついてしまうみたいなことが起きるのではなかろうか。

日本で何かを仕組む人というのは、どこかしら、人相が欲望と切り離された顔をしている。安倍とか石破とは逆に岸田元首相なんかがそうであろう。彼はおそらく、安倍も石破もつぶすつもりでいろいろ計画してたに違いない。いっそのこと、義経もつぶして木曽義仲の天下にしていただきたい。

欠如と進化

2024-10-26 00:59:49 | 文学


男  話がそこまで来たなら、僕も云つてしまひませう。僕は、今迄、恋愛の過程でしかないやうな、さういふ友達づきあひほど、異性間の間柄を月並にするものはないと思つてゐました。それで、どうかして、自分も男であることを忘れ、対手も女であることを忘れて、しかも、お互に、異性からでなければ受けられないやうな……親しみ、と云つては悪いかな、まあ、一種の親しみですね、さういふものを感じ合ひ、それによつて、お互の生活を新鮮にして行きたいと思つてゐたのです。
女  あたしは、異性の友達といふものに、それほど期待をかけてはゐないの。生活を新鮮にするのは、新しい恋愛だと思つてゐるんですからね。しかし、恋愛のできない男――かりにさういふ男があるとすれば――そして、さういふ男性を友達にしてゐるとすれば、それはそれでまた面白いと云ふ程度なの。しかし、あたしは、あなたを恋愛のできない男の一人だとは思つてゐませんわ。


――岸田國士「恋愛恐怖病」


恋愛したくねえ若者が多いという都市傳説があるが、本当だとしたらまあ損だという感じがしないではない。なぜなら、「恋する乙女」とか「恋する青年」はそれだけでいいことしているみたいに見てくれる人はいるからだ。近代の「恋愛幻想」がほんとに事切れる前に褒められておかんと本格的に「恋愛→心中」みたいな時代が来るとコマるのではないだろうか。

とはいえ、人間は「結婚しないマイノリティ」に向かって進化しているのかもしれない。大学を含めた学校が困惑しているのは、毎年新手の問題児?がでてくるからで、――どうみてもこれは本人の意思を越えた種の生き残り戦略か進化としか思えない。マジョリティの対策を遁れ我々は問題児へと進化しているわけだ。

学者の世界もマイノリティに向かって進化する。例えば、和辻哲郎とくるとすぐナショナリズムが~、という反応を起こす人はマジョリティだったのかも知れないが、いまは激しく馬鹿にされている(私だけかも知れないが。。)。思うに、そのマジョリティとやらは、一種の欠如を埋めようとした過剰反応によってでてきた(これも進化なのかも知れない)からである。

ヒュウマニズムの流行もパーマネント・ウェーヴの流行と同じ性質のものだぐらゐの常識を備へてゐないと、現代に処する事は難かしいのである。


小林秀雄は、「鏡花の死其他」でこのように言っている。小林自身は、花田★輝みたいに、隙間産業に注目して自らの死後、次世代のヒーローになる戦略をとらず、いまのマジョリティはマジョリティじゃないんだと言い張ることにしたのだ。これは、ある種の現実否認である。どこかで小林はなにかの法則のようなものに押されながら世の中に押し出されてしまった自覚があった。確か呂政慧氏の研究で言われていたのだが、――近代においては複雑な合唱曲よりも単旋律の曲の方が国を超える可能性があるように思えるが、逆で、合唱曲を作れない国では歌詞の翻案のニーズの方が大きく作用してしまうことがありうるそうだ。一歩先に音楽の近代を一部成し遂げた日本の合唱曲が音楽的に複雑であったにもかかわらず、歌詞を翻案することによってその作曲能力を持たなかった時代の中国に越境してしまった、というような研究であった。思うに、日本におけるクラシック音楽もその作成能力のない日本に越境するさいに、――小林秀雄とか吉田秀和とかが、音楽を凌駕したその翻訳のニーズの権化みたいに出てきたかも知れないのだ。

しかし、我々の社会は、欠如を欠如としておもわず、おなじ平面に「合格」させるみたいな平等戦略をとるようになった。本来的にロストしているものなどない、というわけだ。そういえば、ずっと議員をやっているような人に対する落選運動を嫌う人(――かなりの受験エリートであった)にむかし聞いたことあるんだが、受験に失敗しろみたいにきこえていやだから、逆に応援してしまうと。政権交代のために、受験生を全員落とせば良いのではないだろうか。

数化

2024-10-24 23:55:22 | 文学


とにかく、あめりかの空気は明るい魔術だ。一種の同化力をもっている。子供にすぐ反応する。行って一月も経たない子供が、喧嘩する時にもう日本人のように手を挙げずに、すぐ拳闘の構えで向って来る。それはいいが、一ばん始末のわるいのが、ちょいと形だけアメリカ化しかかった欧州移民の若い連中だ。きざな服装にてにをはを忘れた英語を操って得とくとしている。あるとき僕が、日本人のH君と公園のベンチに腰をかけて、何か日本語で話し込んでいたら、こんなのが十四、五人集って来て、
「おい、支那人、アメリカにいる間は英語で話せよ。」
 ここにおいてかM大学弁論科首席のH君、歯切れのいい英語で一場の訓戒を試みて、やつらをあっと言わしたのだが、そのときは僕も愉快だった。この民族的な痛快感というものは一種壮烈な気分である。が、それはそうと、外来移民の子弟と黒人とユダヤ人の問題をどう処置するか――これが今後のアメリカにおける見物だ。


――谷讓次「字で書いた漫画」


『課長島耕作』が差別的策動をしたとかで騒ぎになっている。

わたくしは、子供の頃高校までほぼ漫画を読んでいないせいか、漫画に対する記憶力が悪い。子供の頃読んだ文章はわりと覚えているのに。『課長島耕作』もどこかで読んだはずだと思っていたが、実際はサラリー万金太郎だった。――というか、彼の妻の柴門ふみの方がはるかに優秀なのではないか。読んだことないけど。とにかく、有名人の夫婦でよくみてみたら、妻の方がはるかに優秀だったみたいなことが多すぎる。

多すぎる。これが問題だ。幇間が改革者の顔をしているのは例外ではなく、極めてよくあることであるが、そういう常識を忘れさせるのは数字である。空気ではない。たいがい、見える化は見えない化に過ぎなかった。

きのう、希望的観測として、批評家というのは教育者にかなり近い、と授業中言ったが、そういう意識を持った批評家はかなりまた別者である。見えないものを見るのが言語だ。言語が新たな感覚器官だからであるが、我々は、その多さ――数化に錯乱する。その錯乱をしらないものが批評家の場合、結局は数しか見えなくなってゆくのであった。

上の「字で書いた漫画」というのは、すごく危機的な意識をあらわしたものである。字は漫画になるのか?まだ、なっているうちはいいのだが、谷の言う『処置』はすぐカウントされ始める。

雲は天才である

2024-10-17 23:08:48 | 文学


『無論それは僕なんぞに解らないんです。アノ人の言ふ事行る事、皆僕等凡人の意想外ですからネ。然し僕はモウ頭ツから敬服してます。天野君は確かに天才です。豪い人ですよ。今度だつて左樣でせう、自身が遠い處へ行くに旅費だつて要らん筈がないのに、財産一切を賣つて僕の汽車賃にしようと云ふのですもの。これが普通の人間に出來る事ツてすかネ。さう思つたから、僕はモウ此厚意だけで澤山だと思つて辭退しました。それからまた暫らく、別れともない樣な氣がしまして、話してますと、「モウ行け。」と云ふんです。「それでは之でお別れです。」と立ち上りますと、少し待てと云つて、鍋の飯を握つて大きい丸飯を九つ拵へて呉れました。僕は自分でやりますと云つたんですけれど、「そんな事を云ふな、天野朱雲が最後の友情を享けて潔よく行つて呉れ。」と云ひ乍ら、涙を流して僕には背を向けて孜々と握るんです。僕はタマラナク成つて大聲を擧げて泣きました。泣き乍ら手を合せて後姿を拜みましたよ。天野君は確かに豪いです。アノ人の位豪い人は決してありません。……(石本は眼を瞑ぢて涙を流す。自分も熱い涙の溢るるを禁じ得なんだ。女教師の啜り上げるのが聞えた。)

――石川啄木「雲は天才である」


よくきく都市傳説で、東大入ったら天才がいて自信なくしたみたいな話は、高校の進学校で実はもう気付いていたことを誤魔化しているだけであろうし、東大だけでなく津々浦々の大学で起こっていることだ。小学校でも起こっている。そしてそれは相手が天才じゃなく、少しの違いで自分が劣ってるかも知れないと、三年生ぐらいで、つまりかなり後になって気付いたことの言い訳である。天才は自分の視野の外から急襲するものであって、ショックをうけている暇はない。

そもそも自称天才、他称天才が多すぎる。

あと雲は天才です。

――それはともかく、文学界において一番天才が多いのは短歌の世界ではないか。小説史、批評史、詩史、短歌史すべて授業でほんと雑にやってみたが、いちばんやってて面白かったのはいま主題科目でやっている短歌史であることだ。ヒューマンとしてあかん奴らばかりだし、定期的に滅亡論やってるのもいい。

でんでん虫が庭にいた

2024-10-16 23:46:48 | 文学


江戸俗間の古典文學教養にして、その常識に於て市井に流れ、その抒情に於て人心にひびいてゐたのは、古今集に如くものがなかつたのだらう。古今集のほかにあげるべきものが一つある。唐詩選である。

――石川淳「江戸人の發想法について」


石川淳の勉強が圧倒的に欠けている。

三蔵は女怪と結婚すべし

2024-10-14 23:02:53 | 文学


三蔵想ふやう、我今此女怪に接禮もせず、物も喰ず居らば、必定我を害すべし。北上徒弟們未だ消息無ければ、身を遁るべき道なし。我且忍びて渠が機嫌を伺ふべしと、女怪に向ひて、「吾今女菩薩の誠心を感ず。貧僧は素浄の食物を用ふべし」 女怪三藏の詞を聞きて心の中大いに催喜び、一個の砂糖饅頭を把り二個に劈破て三歳に興ふ。三蔵是を把りて喰し、赤一箇の内饅頭を取り女怪に興ふ。女怪笑うて曰く「御弟怎麼ぞ饅頭を割らずして我に興ふるや」三蔵合掌して曰く「我原來桑門の身なり。那ぞ葷を破らんや」


ある女性研究者が「写真に修正いれるとか甘いわ、わしなんか染みを物理的に取ったで」とか言っていたのが印象に残っており、別にそう言われなきゃたいした内容ではないが、金と合理性を得ることはいいこととは限らんと思った。研究者?の言葉はかかる倍音みたいなものをすごく伴うので気を付けよう。思うに、庶民が三蔵に普通に同情するのに対し、かならずいいくらしをしている色気を放つ女怪なんかにわれわれは似ているのである。

現代の女傑と言えば、野村とか落合の嫁さんであろうが、――わたくしは落合のファンだったので、ロッテのユニフォームのひとはみんな落合にみえる現象が私にはあった。世界の大谷のファンがドラゴンズのユニフォームを見ただけで大谷と錯覚してつい応援し、にもかかわらず最下位になったドラゴンズとの差別化をはかり、ドジャースがユニフォームを変えるところまでがわたくしにはみえる。――それはともかく、落合家の様子をテレビとかネットで見ると、あらぶの豪邸みたいで、落合選手が女傑にとらわれた三蔵みたいにみえるから面白い。三蔵も思いきって女怪の誘惑につられて三蔵ならぬ三冠王になれたかもしれない。禁欲ばかりではなく、女傑からのプレッシャーの効果を三蔵みたいなタイプは舐めているのである。

このまえも、細がイスラムとユダヤはお寺の隣に神社みたいにすればいいんじゃないと言ってたが、こういう意見を世の政治家も言われているのかもしれない。男中心の政治じゃパワーバランスか戦争しか思いつかないのではあるまいか。

要領よく最小限やることをやってコミュニカティブにやりおえることをいいことのように言い、実際そのように動く男集団には、その実女傑的マネージャー的な人がおり仕事を完成させるために微調整に走り回る事が多い。そういう依存体質の男をコミュニケーション能力が高いと判断するやつも同類である。だから面接試験とかでコミュニケーション能力が高いですねみたいなことを判断するのは危険であって、所謂「*だけしてて事務能力がない」みたいな男みたいな人間(女性でも同様)がなぜかますます増える。不思議でも何でもないわけだ。信用すべき人間でないのは、ボスが替わったときに急にだらしなくなったり身内ネタを喋るようになったりする人間で、いざという時にたよりになるやつにもかなりそういう傾向が見られる。

早稲田と慶應の自意識過剰合戦とか、昔から馬鹿だな、なんだかな、とおもってみていたが、あれは田舎の別の丘の上に立ってる男子校ふたつが喧嘩しているようなもんだ。田舎の高校閥の争いの意地の張り合いを想像すれば納得できる。そしてときどき早慶戦みたいに丘の下で不良どもが一戦やらかして人心を鎮めてる。要するに、この二校は本質的に高校であって大学じゃねえのだ。男子だけでやってると、かように、大学というものはありえない。

村上春樹の主人公に限ったことではないが、engagement が責任と結びついた概念であることからの逃避が広くあり、自由が責任に結びつくことを意地でも避ける精神的な技術がこれでもかと発達している。これもマネージャーに依存しながらある種の男が群れたせいであろう。そりゃ責任を誰かに取らせて自由になりたいからである。

STRAY SHEEP の冒険

2024-10-12 19:54:46 | 文学


それが如何に新しく見えようとも僕らはそこに分離派―機能主義―バウハウスの思想につながるものしか発見し得ないのである。
もはや、数学者は、パスカル的瞑想によって数学しないだろう。それは純粋思考の中から数学の射程をみつけだす先験的自我ではなく、歴史の中で問題をみつけだしながら己の射程を開発してゆく歴史的主体である。もし僕の内部で詩と数学が剣士のようにすれちがう一瞬があるとすれば、この歴史的主体としての自覚を抜きにしては考えられないであろう。詩人と数学者が歴史を収斂させ、現在を盗む強盗となるのは、正にこの一瞬なのである。


――高内壮介『暴力のロゴス』


北野武の『首』の感想を大学でも家庭でも言えないので、庭のカエルに言った。

ネットでは、ノーベル賞に勝手に落選し続けているとみられる――都市傳説の村上春樹がミソジニーだ何だと話題になっていた。そりゃまあミソジニーといえばそうなのであろうが、作品と成立事情をふまえればもっと壮大な村上春樹の悪魔のような姿が浮かび上がるであろう。

とはいえ、わたくし、村上春樹をあまり読む方ではない。しかしあれだ、「ノルウェイの森」なんか、周到に近代文学化された源氏物語といったとこじゃないかなと思う。何十年も読んでないからあれであるが。文体からも言えることだけど、――あのネットリした否定的文体は、とにかく先行する文学やものごとや自意識を全部否定してゆく姿勢で「普通」の人が物語を紡ぐとどうなるかというゲームをやってるような印象を持つ。

彼は基本的には学生運動の作家なのだ。野心的でプロレタリアート的で革命的で平凡で、を全部やってるんじゃないだろうか。暴力的なセクトの心情をマスクをひっぺがえすようにヒックりかえしているから、当時の運動族にはたまらなくいやだったはずだが、村上春樹の誤算はあまりに有名になりすぎて、特定のセクトに喧嘩を売る類いの文学がポピュラーになってしまった結果、どこに拳をふりあげていいのかわからなくなっているという事態だ。セクトのひとに良くありがちなことだが、自分の憎むセクトの相手の性質が、セクト以外の人間にも大きく当てはまるかも知れないということをつい忘れてしまうのである。

で、たぶんいつからか、村上は大江健三郎的な死者に導かれて的テーマをもっとそれらしくやることにしたのである。

みんな言ってることだろうが、――日本近代文学の語り手の潜在的な幽霊性みたいなものがあって、村上春樹はそれをほんとにそれらしい死者が語る日常、みたいな情感を語り手に乗せたと思うのである。このような解離感は、しかし学生運動崩れだけの問題ではなかった。

しかしまあ、大江が政治=性のことを語るのに地上に降りてきてしまったのに対し、村上春樹は死者の側から語ることに拘った。なにしろ語り手の「僕」が死者のくせに恋人と同衾出来るのだ。光源氏を夜這いが得意な死霊にする感じである。「ノルウェイの森」でやはたら同衾して死ぬ、代わりにやってきた人と同衾、みたいなのが続くのはそのせいだ。オウム事件の被害者の家族へのインタビュー集があったけど、あれ、村上春樹は被害者=死者の側から見ている。でもそれは連合赤軍の死者とちがって普通の人だから特別に何かを主張することはないんだが。

それはともかく、定期的に村上春樹の『ノルウェイの森』、いや『羊をめぐる冒険』が書庫のどこかに紛れる。

「どうだ森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃ、なんとすればよいんだ」
 三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で迷羊、迷羊と繰り返した。


漱石と同様、読者をストレイ・シープにするのが村上春樹である。