香川以外への旅行2023~
故郷に住んでいるころは、長野県というのは分け入っても分け入っても黒い山みたいなところ、すなわち自分の住んでるところみたいなところとして象徴されると思っていた。しかし、外に出てからこういう分け入っても系の山里は日本の至る所にあることに気づき、むしろ松本や伊那から見える山脈のパノラマこそが信州の象徴でいいわもう、と想到した。新海誠のアニメーションをみるがよい。彼の描く光の影が織りなす空間の世界が信州の一部で特殊的に観られる、それは特殊という意味では変な風景であった。――というわけで、むしろ普遍性を備えていたのは木曽であると決定されました。
むしろ、意味が分からないのは、次のような実態である。
香川県の家は全国で一番寒い?! 北海道より約7℃も低い居間…健康への影響や寒さを防ぐ対策は
https://news.yahoo.co.jp/articles/42b3897c452e2b9d15ce4ed94ad14a7c715733bd
交通死亡事故の割合がトップクラスだったり、室温が一番低かったり、ゲームが1時間しか出来なかったり、うどんが100円台だったりと、何かが変だな讃岐。。。
変と言えば、学生の書く「人間失格」と「仮面の告白」のレポートの変化をこの10年間みてみると、どうも後者への共感の度合いが前者を逆転したみたいなかんじがあるな。。どちらも似たテーマといえばそうなんだけど、人間への擬態と仮面をかぶっちゃうことの違いや、セクシュアリティのありかたとかが後者の方がわかりやすいのかもしれない。わかりやすいから、容易な批評も出てくるということだ。
寒くて何も思い浮かばない。マイナス10度近辺ではいつものアイロニーが隘路におちいる。……ぐらいしか思いつかない。
しかしこれが四国になれた体と頭のせいだと言い切れるであろうか。ドストエフスキーの世界だって本当に頭の良さと言い切れるであろうか。どこか動かなくなっている思考だからこそああなる可能性だって考えておく必要がある。われわれは寒いからこそ、あるいは暑すぎるからこそ、実存的になったり神について考えたりするという思考の枠組みを疑うべきである。
日本人?が我慢というのはまちがって伝えられてしまった道徳なんじゃないかなとおもう。ほんとは、何かあってもぼーっと真剣に考えることが我慢の原型だったのに、寒さに耐えるみたいな意味になってしまったのではないか。
環境の苛烈さ、貧しさはやはり貧しさを生む可能性がある。コロナ籠りでコミュ力笑がおちてる若者を問題にしているうちに、実際はもっとコミュ力も何もかも落ち込みが加速している爺さんばあさんのことも考えておくべきで、今回の年末年始はけっこう危険なイベントである。
かわいい文化というのも孤独感を深める効果があることを軽視すべきでない。我々人間は別にかわいくはない。よくみれば汚い醜い物体である。これを表現しようと思えば、熱帯の人々がむかしつくったおどろおどろしい人形のほうが正しいのかもしれない。我々のかわいさは欠損からくる心理的混乱かもしれない。
青木淳悟氏の『学校の近くの家』はすごい作品だったが、よくあるアスペルガー的な認識の洪水みたいなものを示すような外部に立って、つまり通俗的客観性みたいなものを破壊しようとしていた。こういうやり方は貧しくて寒くて乱暴な熱量で物事をやっつけることとはだいぶ違うことだ。いまのよのなか、政治家や商人までもがだめな小学校の先生じみている。子供のさまざまな意味での貧しさを、可能性や面白さに換言して熱量に昇華してしまうようなやり方がまずいのであろうと思う。
こないだの關東の大震災のときには、淺草の觀音のお堂の裏のいてふの木は片側半分は火に燒けても、他の半分の枝葉のために火がお堂に燃えうつるのを防ぎました。ひとりいてふに限らず、しひのきやかしのき等、家のまはりや公園の垣根沿ひに植ゑてある木は、平常は木蔭や風よけになるばかりでなく、火事の時には防火樹として非常に役に立ち家も燒かずに濟み、時には人の命すら救はれることがあることも忘れてはなりません。
こんなに樹木でもお互にとつていろいろな役に立つことをお知りになつたら、みなさんも道ばたに遊んでる子供がなみ木の皮を剥いたり、枝を打つたりしてゐるのを見られたらすぐに言ひ聞かせて、とめて下さらなければこまります。それはとりもなほさず樹木を愛し、引いては山をも愛することになつて、國家の安榮をつくることになるからです。
――本田静六「心理と樹木と動物」
奥筋の方から渦巻き流れて来る木曾川の水は青緑の色に光って、乾いたりぬれたりしている無数の白い花崗石の間におどっていた。
――島崎藤村「夜明け前」
……木曾川の水は確かに青緑である。そうでなくなった時は巨大な縞蛇のようである。