★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

文芸の社会的距離

2021-06-30 23:03:20 | 文学


何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知り顔にやは言ふ。片田舎よりさし出でたる人こそ、万の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世にははづかしきかたもあれど、自らもいみじと思へる気色、かたくななり。よくわきまへたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそいみじけれ。

そうするとみんな黙らなくてはならなくなるのだが――、しかるに、兼好法師の思うほど人々は思いあがっておらず、結構上のような理由で賢くも黙っていると思うのだ。しかしそうなってくると、現実におこるのは、知っていることすらも減ってゆき、実際のところ、知ったかぶりではなくほんとうに知らないから喋ることが不可能になるのであった。我が国では、ほんとうはこっちの方が問題なのである。知ったかぶりの人間をそのまま放置しているコミュニケーション空間の方に責任がある。知ったかぶりにもいろいろあり、大概いやがられるのは、知ったかぶりの側面じゃなくてもともとの性格の方である。そしてかかる際に「人それぞれ」などと個をモノのように突然あつかいはじめるのがいけない。ほんとうはそれは個じゃなく我々に共通する劣等性の現れかも知れないのである。文芸は、そういう共通性をドラマのなかで暴いている。そこには社会的距離などは存在していない。

歳をとってくると、優秀な文学者達が、孤独なすずめに心打たれたり、小さい子達の親切に感動したりするようになったりするのだが、これはやはり老いなのである。自分が他の人間達と大して違わないことが分からず、ただ自分がモノと感じられているからであろう。コロナ禍で案外、年を重ねた人々が、路上で騒ぐ若者にやたら感心したりすることはありうることだ。昔の自分を想起するかも知れないが、そうではなく、あれは現在の自分の姿に過ぎないのである。

わたくしは、若者と老人がお互いに自分を投影しなくなったときが本格的に社会の融解であると思う。高齢化社会でもともとその気はあったわけであるが、コロナでそれこそ世代間の社会的距離が広まった。

さっき『パンデミック日記』(新潮社)という本を眺めていたのであるが、それは、文学者や文化人達のリレー日記である。しかし、これは実際リレーされたわけではなく、ただ編集されただけである。筒井康隆ではじまり蓮實重彦でおわるその日記は、巧妙に、衝突しない個をうまく離して配置してある。後半の、柄谷行人→宇佐見りん→平野啓一郎→坂本龍一のながれなんか、なんとなく編集者の優しい遊びが、みえるだけに、毒にも薬にもならないのだ。せめて、編集者は千葉雅也→柄谷行人→蓮實重彦のような組み合わせを仕掛けなければならないのではないかっ。そういうものこそ、社会的距離が消失する文壇というやつではないだろうか。

文人達は、コロナ禍であいかわらず孤独に仕事をしていた。それゆえか、そこにはほとんど生活の匂いというものがない。

はたして、日記というものは、そういうものでよいのであろうか。

目見合はせ今昔

2021-06-28 23:42:37 | 文学


今様の事どものめづらしきを、言ひひろめ、もてなすこそ、又うけられぬ。世にことふりたるまで知らぬ人は、心にくし。いまさらの人などのある時、ここもとに言ひつけたることぐさ、ものの名など、心得たるどち、片端言ひかはし、目見合はせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世なれず、よからぬ人の、必ずある事なり。

「今様の事どものめづらしきを、言ひひろめ、もてなす」連中がダメなのは当たり前のことである。「うけられぬ」などと問題を主観化している兼好法師は生ぬるいと思う。簡単に馬鹿とか頭がおかしいといえばいい話である。そして、「世にことふりたるまで知らぬ人は、心にくし」という感想がなぜ一方で生まれるのか、であるが、つまり――そのあとの記述から判断するに、兼好法師は、事態の部分だけで盛り上がれる馬鹿を馬鹿にしているのだと思われる。つまり、騒ぎが収まってから気付く人や、「片端」だけでない全体を把握することこそが「世なれ」ることではなかろうか、というわけである。

確かに、言葉にしてもニュースにしても、一部の認識であるので、全体性からむしろ離れることである。そしてそれが新規性と錯覚され、それがコミュニケーションのきっかけとなり仲間内を形成する。アカデミズムでさえ、というより新規性にこだわるその業界だからこそ、そうなることはよく知られていよう。

やがて、主人のあひるさんが立ち上つて言ひました。「皆さん、どうも今夜はわざわざおいで下さつてありがたう存じました。ところが、さつきから見てゐますと、お猫さんとお黒さんは少しもおごち走をめし上がりません。さあ、どうぞ御遠慮なく。」と申しました。すると、他のお客様までが一緒になつて、
「さあ、どうぞ、どうぞ。」と言つて、おごち走を二匹の前へ集めました。
 二匹は顔を見合はせて泣き出しさうにしました。しかし仕方がありません。真赤な顔をして泥だらけの手を出して、おごち走を頂きました、一人のこらずのお客様が見てゐるなかで。
 すると一人のお客様が言ひました。
「まあ、お二人のお手のきれいなこと!!」


――村山壽子「お猫さん」


同じ見合わせでもこちらはよろしいのではないだろうか。最近は、見合わせといったことでも我々は動物的に、ロボット的になっている。

つれづれ開放

2021-06-25 23:45:02 | 文学


つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。世にしたがへば、心、外の塵にうばはれてまどひやすく、人にまじはれば、言葉よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。人に戯れ、ものにあらそひ、一度はうらみ、一度はよろこぶ。その事定まれる事なし。分別みだりにおこりて、得失やむ時なし。惑ひの上に酔へり。酔の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくのごとし。いまだ誠の道を知らずとも、縁をはなれて身を閑にし、ことにあづからずして心を安くせんこそ、暫く楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁をやめよ」とこそ、摩訶止観にも侍れ。

最後に「学問等の諸縁」までも捨てることが推奨されている。こういう激しい拒絶の精神こそが、「つれづれ」の精神なのである。気持ちは分かるけど、もっといい加減な人にも「つれづれ」を開放して欲しいものだ。



変化の理

2021-06-24 23:13:31 | 文学


蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ南北に走る。高きあり賤しきあり。老いたるあり若きあり。行く所あり帰る家あり。夕に寝ねて朝に起く。営む所何事ぞや。生を貪り、利を求めてやむ時なし。身を養ひて何事をか待つ。期する所、ただ老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間にとどまらず、是を待つ間、何の楽しびかあらん。まどへる者はこれを恐れず。名利におぼれて先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、またこれを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。


この「変化の理」には範囲が設定されていて、我々が根こそぎ亡くなってしまう殲滅戦とか異民族による虐殺みたいなものはないことになっている。万物は流転する、しかし、そこらの川のように、時々暴れるがだいたいおさまるし、川自体がなくなったりはしない。こういう「無常観」は、世の中の変転に合わせよという所謂「改革ヲタク」の存在を許容してしまうものだ。こういう輩の中には、かなり許しがたくセンスがおかしくなっている連中がいる。

「あれは外国から這入る印刷物を検閲して、活版に使う墨で塗り消すことさ。黒くするからカウィアにするというのだろう。ところが今年は剪刀で切ったり、没収したりし出した。カウィアは片側で済むが、切り抜かれちゃ両面無くなる。没収せられればまるで無くなる。」
 山田は無邪気に笑った。
 暫く一同黙って弁当を食っていたが、山田は何か気に掛かるという様子で、また言い出した。
「あんな連中がこれから殖えるだろうか。」
「殖えられて溜まるものか」と、犬塚は叱るように云って、特別に厚く切ってあるらしい沢庵を、白い、鋭い前歯で咬み切った。


――森鷗外「食堂」


犬によって犬のように死ぬとは誰も思ってはいないのだが、主観的には誰にでも想像できるようになっている。

虚言と実存

2021-06-23 22:02:40 | 文学


とにもかくにも、虚言多き世なり。たゞ、常にある、珍らしからぬ事のまゝに心得たらん、万違ふべからず。下ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。

仏神の不思議な話や高僧の伝記などについては、世俗の虚言と同じように扱ってはならないのであって、信じ込むのは無論おかしいしだからといって「そんなはずない」と切り捨てるのもよくない。信に偏せず、かつ疑い嘲るべきものでもない、というわけであろうか。しかし、このような一般論は一概に真とは言い切れない。我々が宗教的なものに信を感じるときには、何か、ショスタコービチの交響曲にユダヤメロディが引用されていたときのような状況があるのであり、兼好法師は、そういうことがあるかもしれないという予感を感じているだけなのではないだろうか。

我々は宗教教育を禁じられ信に偏しない代わりに、疑い嘲るべきものでもないといいながらどうしていいのかわからない兼好法師のような状態に置かれやすいというのはあるとおもう。エッセイ文化が持続するには条件が必要なのである。

ここに自ら真実を悟るに師を要すると同時に、その真実を更に他に回施するに、それぞれ自己に固有の真実を自覚する主体(すなわちいわゆる実存)が、個別的にしてしかも普遍的なる真実に対応してモナドロジー的に実存協同を形造るべきゆえんがある。自己は死んでも、互に愛によって結ばれた実存は、他において回施のためにはたらくそのはたらきにより、自己の生死を超ゆる実存協同において復活し、永遠に参ずることが、外ならぬその回施を受けた実存によって信証せられるのである。死復活というのは死者その人に直接起る客観的事件ではなく、愛に依って結ばれその死者によってはたらかれることを、自己において信証するところの生者に対して、間接的に自覚せられる交互媒介事態たるのである。しかもその媒介を通じて先人の遺した真実を学び、それに感謝してその真実を普遍即個別なるものとして後進に回施するのが、すなわち実存協同に外ならない。この協同において個々の実存は死にながら復活して、永遠の絶対無即愛に摂取せられると同時に、その媒介となって自らそれに参加協同する。

――田邊元「メメント・モリ」


しかし、死者にも自由がある。生者が死者に愛を感じているからといって、死んだ方がそうとは限らないのである。だからその「実存協同」とかいうのは甘いのと言うのだ。これは、死んだ弟が兄貴を勝手に霊として助けに来てしまったりする「タッチ」と同様の発想で、死者の実存、――いや単に気持ちを大胆に無視することによってなりたっている。

ショスタコービッチは、死んだユダヤ人たちと「実存協同」して交響曲第九番を書いたのではない。

嘘と放心

2021-06-22 23:13:02 | 文学


かつ顕るるをも顧みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて浮きたることと聞こゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく、ところどころうちおぼめき、よく知らぬ由して、さりながら、つまづま、合はせて語る虚言は、恐ろしきことなり。わがため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり「さもなかりしものを。」と言はんも詮なくて、聞きゐたるほどに、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。

日本における「嘘」がどのようなもんであるのか、小学校以来誰もが考えた問題であるにも関わらず、私の勉強不足なのか、眼の覚める認識というものがいまだないような気がする。今日は、授業で、坂口安吾の「堕落」と道徳の関係について考えたが、安吾の気合いにも関わらず、上の嘘の問題のような単純なものに対しても我々はまだ格闘していない状態なのではないか。虚実皮膜の問題が云々されながら、我々の文化の中心に位置しているにも関わらずとても扱いにくい。

もしかしたら、京都学派の問題なんかもこういうところにあるのかもしれない。

多少のアブセンス・オブ・マインドというのは、誰にもあることである。あるのが普通といってよかろう。しかし私は可なり念入のアブセンス・オブ・マインドをやったことがある。今に思出しても、自分で可笑しくなるのである。

――西田幾多郎「アブセンス・オブ・マインド」


放心状態は確かに放心であり、おかしいものかもしれないが、放心は何か受け身の行為だけとは限らない。放心はほんとうに放心と言えるのか。行為の原因をはじめるやいなや、我々はそこに放心以外のものを見出すしかない。しかもそれは虚偽であり、我々は更なる放心状態のなかで嘘をつく。

「見る時」論

2021-06-20 22:56:59 | 文学


世に語り伝ふること、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔たりぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがてまた定まりぬ。道々の物の上手のいみじきことなど、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに神のごとくに言へども、道知れる人はさらに信も起こさず。音に聞くと見る時とは、何ごとも変はるものなり。

それはそうであるが、実際に「見」ることによる勘違いの方も重要である。

今日昼間にテレビをつけた。ヤクルトの選手がホームランを打ったところでした。中日負けました。どうみてもわたくしのせいです。

我々の感じる因果なんて所詮こんなものがほとんどなのだ。しかし、だから面白いとも言えるのである。心の中での因果というものがある。親子関係なんかはほぼこの因果関係を想像することによって成り立っている。子どもがどんな風に育ちあがってしまったとしても、親のせいではないし、教師のせいでもない。一見、因果が見えるように思っても、勘違いで、昨今のいわゆるエビデンスがほぼ嘘であるのと同じである。だからといって、この因果は我々を支えている。そして、支えている以上のことをやろうとするとぎくしゃくするわけである。

子どもが現実で関係させられている因果のなかでは、親とのものはごく僅かである。しかし、とくに生まれたての頃なんか、ほとんど世の中と親の区別はついておらず、親にとってもそうなのであった。たまにそうでもない人間がいて、子どもをほっぽり出したりするので、「三つ子の魂百までも」なんて説教でそういう人を縛ったりするが……。

いずれにせよ、お互いに眼を覚まさせるような出来事はつぎつぎに起こる。このような事態は、おそらく、常識としてあったはずなのだが、最近は、親子がお互いに作用を最大限及ぼそうとし、及ぼしてると思っている。おそらく、家が外側と区別された巨大な子宮状態であるからじゃないだろうか。この形式論理をお互いぶつけ合うような状態は、お互いがオブジェクトの作用体であるような認識を生んで繊細にはなるのだが、主観的にもなる。

このごろ、短歌の上で虚構の問題が大分取り扱はれて來た。文學に虚構といふことは、昔から認められてゐた。日本文學では、それを繪空事・歌虚言などゝ言つて、文學には嘘の伴ふものだといふことを、はつきり知つてゐた。寧、藝術は嘘で成り立つてゐる。其肝腎の部分は嘘だと言つてゐる。だから昔の人は藝術には信頼せず、作家にしても、戲作などゝ自分自身を輕蔑してゐた。今言はれてゐる虚構といふことも、此態度の延長に過ぎない。

――折口信夫「文学に於ける虚構」


確かに、虚構の意識が、戯作者ではなく、芸人に占領されてしまったのはまずかった。

面影問題

2021-06-19 23:59:33 | 文学


名を聞くより、やがて面影は推し量らるる心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、この比の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。また、如何なる折ぞ、ただ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心のうちも、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。

名を聞くとその顔が浮かぶに関わらず実際に会ってみると違ったり、物語の舞台をいまみている風景に当てはめてしまったり、デジャブだなと思ったりする、――そんなことを記しているのであるが、哲学の出発点みたいな話である。兼好法師は「誰もがなるのか」「私だけだろうか」と言っているが、そうは言ってない、最初の話題が結構一番不思議なことである。だいたい、兼好法師は、その「名」を聞いた人に実際にあったことがあったのであろうか。仮に、会ってもいないのに、顔を想起できそうな気がするとしたら結構すごいことである。しかし、我々は案外、そういう前提で生きているのかも知れない。まったく面影を想定しないで人と会うことはありえない。

小林秀雄なんかは、人の面影を自分の面影を前提にして判断しているところがあるのではなかろうか。こういうひとは、判断がはやいかわりに、他人の顔が剰余としてつねに謎のような感じがしてしまう。彼は対象である他人「だけ」が好きであるファン意識を嫌っていたのであろう。

ある研究が、ファン気質の書くものである場合、のちに案外極端なアンチに転向する場合がある。さっき、柳田謙十郎の『西田哲学と唯物論』を読んでそう思ったのである。戦時中の『実践哲学としての西田哲学』では一生西田に着いていくといっていた彼である。柳田にとって西田とはなんだったのか。彼はファンであるところの意識が、自分自身にほとんど向いていなかったのではないだろうか。好きな人を好きな自分を十分に考えとかないと、好きな人と結婚してDVをふるうみたいなことになりかねない。我が国での転向は非常にこのようなDV的な趣がある。

自分がないと言ってしまえばそれまでなんだが……。

謎と霊

2021-06-18 23:30:48 | 文学


延政門院いときなくおはしましける時、院へ参る人に御言づてとて申させ給ひける御歌、
  ふたつもじ牛の角もじすぐなもじゆがみもじとぞ君はおぼゆる
こひしくおもひまゐらせ給ふとなり。


謎文字の歌で、こひしくお父様を思います、という歌なのである。ふたつもじ(こ)、牛の角もじ(ひ)、すぐなもじ(し)、ゆがみもじ(く)である。

こんな回りくどいことをなぜやるのか、受け取る方がこの謎を解けない頭脳だったらどうするのか、という心配はない。最悪わからなくてもよいのだ。愛情というのはそういうもので、コミュニケーションではない。この回りくどさが、子どもが親への愛情を表現するぎこちなさを示すし、そそもも愛情というやつは現実世界ではなく、フィクションの領域に存在しているわけである。

わたくしは、やはり恋文というものは、必要だと思う。それは愛情の物質化であり、コミュニケーション以前に存在する。――いや、これがないと愛情は存在しない。ビバヒルや金色夜叉をひくまでもなく、ダイヤの輝きがある種の効果を発揮するのはそのためであって、これを全面的に欺瞞的なものとみなすことはできない。

文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。
 アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇の中を跳梁するリル、その雌のリリツ、疫病をふり撒くナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者ラバス等、数知れぬ悪霊共がアッシリヤの空に充ち満ちている。しかし、文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない。


――中島敦「文字禍」


中島敦がこれを書いたとき、確かに、文字がある種ほんとうに「霊」化していたところがあり、これはこれで何か本質的な事態を示しているようにも思われたのだが、――果たして、最近もそんな雰囲気がある。謎が、文章の内容ではなく、文字自体に宿るように思われたときは危険である。

徳の条件

2021-06-17 20:34:49 | 文学


芋が好きな僧都がいた。財産を芋につぎ込んだ。食べた。

この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行きけり。斎・非時も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜も寝ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。

このような人物は大概、人に厭われて何をやっても許されなくなっている。これは、兼好法師の願望ではないだろうか。彼は、ここまで自由になれなかったのである。ここまで突き抜ければ、逆に厭われないのではないか、と空想したのであろう。しかし、そうは現実はいかないのだ。そもそも、この人は坊主だから、スケジュールが働き者とは異なる。働き者が、細かいスケジュールを自由気ままに行ったら、ただじゃすまない。だから、兼好法師は、法師に徳が可能な状況を見なければならなかった。しかしそれは日常に過ぎないのではなかろうか。

人間には智者もあり、愚者もあり、徳者もあり、不徳者もある。しかしいかに大なるとも人間の智は人間の智であり、人間の徳は人間の徳である。三角形の辺はいかに長くとも総べての角の和が二直角に等しというには何の変りもなかろう。ただ翻身一回、此智、此徳を捨てた所に、新な智を得、新な徳を具え、新な生命に入ることができるのである。これが宗教の真髄である。

――西田幾多郎「愚禿親鸞」


西田幾多郎の方がその点、鋭い。徳や智を日常の人間と違う「新生」におけるものとしてみることがなければいけなかった。これは西田の体験から来たものであろうが、人生はそれにしては長く、新生を何度も起こすわけには行かないような気がしたに違いない。