わたくしは選挙は余り票に入りそうのないひとに入れる方針で、徹底して少数者の味方なのである。というわけで、もう選挙権をもろうてかなりの年月がたつのであるが、いままでわたくしの入れた候補が当選したことがなかった。ここまで負け続けると、坂口安吾の所謂「いったい何に勝つつもりなんだ」と言ってもいい気分である。
つまりわたくしの票はいつもある意味死んでいて、外★◎一の所謂選挙殲滅運動に気分的に近かったことになる。実は、★山の主張は選挙にいかない国民がテレビでいつも言っている「選挙をしても余り変わらない」をラディカルに言い換えたものである。
わたくしのやり方は立憲民主党とか自民党に入れている人みたいな、多数派はおれのとこかお前のところかみたいな、多数派のご機嫌を伺う必要がなく、どうみても負けそうな人に入れれば良いのだから簡単である。町議会選挙とか、市議会選挙の場合は、気をつけないと、「おい当選してんじゃねえよ」みたいな人に入れてしまいかねないので、選挙公報などをちゃんと読み、「明らかにやばい」人を選ぶ。すごい人がいますからね、地方の選挙には……。そうするとやっぱりおちている。リベラルが見落としていることの一つに、とんでもない人たちをきちんと自民党支持者を含めた国民が落とし続けているということがある。
だいたい、国政選挙はしっかり勉強すると誰に入れるかかなり迷うことは確かなのだ。よく県知事とか市長が「主権者教育」みたいなことを簡単に言ってくれるが、選挙で人を選ぶというのは実はかなり難しいことなのである。中立を確保しながら主権者教育だ?そんな都合のいいものがあるかっ。現実の党名をだしながらの討論会を学校の中でがんがんやるしかないんだよ。それを抑圧しといて、何を言ってんだよ、という感じである。が、そういう勉強をしたとしても難しいであろう。確かに下手すると、小学生なんか、政治はAIや米国に任せようという決議を学級会で行うかもしれない。
なぜなら、「政治」というものが何なのか我々にはよく分からなくなってしまっているからである。例の吉本の事件も、そこで話されているのは、経済的な関係であって、パワハラだとか言われているものは、経済関係のそれなのである。こういうときには、吉本のかわいそうな芸人も、たぶん普段荒っぽい口調で周囲を圧している社長も、ちゃんとするのかしないのかみたいな話をしているだけで、――そしてそのちゃんとする誠実さをあらわすために泣いてしまったりするわけで、何故に、自分の「意見」を言わないのか理解に苦しむ。その「意見」が出てこない限り、雇用関係の理不尽さは――優しくパワハラか、厳しくパワハラか、しかないのである。「寄り添い」関係はヤクザな資本主義の振りまく暴力を止めることなど出来ない。
わたくしも、たいして違いはないので、一番分かりやすい政治――かわいそうなマイノリティに同情することにしてきたわけである。が、わたくしみたいな人は案外多くて、立憲民主とかれいわ新撰組の主張はかなりそんなかんじである。わたくしは迷った。もはや、マイノリティはマジョリティになりつつあるのであろうか。そんなわけはないのだが、この人たちは案外勝つのではないかと思ったのである。で、視線を彷徨わせていると、N国というものがあり、かなりいかがわしい感じである。普段のわたくしだったら、このN国に入れてしまうところだったのであるが、わたくしの教師としての勘で、この人たちは真のマイノリティにあらず、とひらめき、結局、出来心である政党に入れてしまったのだが、その政党から数人当選してしまったのである。
わたくしの連敗記録もここに終焉を迎えた。わたくしみたいな勝利の味を覚えた国民は危険である。これから、勝ちそうな自民党に入れたりする可能性があるからだ。負けることに堪えることを覚えないと、簡単にポピュリズムには負けてしまう。これは、国民の精神的な位相の問題なのであるが、政治がいつまでも発生しないのはそのせいもあるのであるとわたくしは思う。選挙は民主主義の言い訳みたいなもので、本当に重要なのは、選挙なんかより議員たちをはじめとする日常的な議論である。リーダーを選んでるつもりなら、即刻選挙を中止すべし。
リーダーがわれわれとともに学びあう可能性がほとんど感じられないときが一番危険である。乱世ではトランプや何やらに混じって弁証法への萌芽があるはずだ。