★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

今年読んだ本ベスト10……2019

2019-12-31 18:44:30 | 文学


今年はいろいろあってあまり読めなかったな……と思いつつあげてみることにしよう

1、源氏物語……紫の上が夢に出た。ぶつぶつなんか言ってた……

2、南総里見八犬伝……どうも、あまり作風にのれなかったな。わたくしにとってどうしても、儒教的な側面がひっかかるのだ。

3、千坂恭二『思想としてのファシズム』……一部で千坂氏は再評価が進んでいるのであるが、わたくしにとっては切れ味がよすぎるところがあるのだった。

4、エンレンスト・ユンガー『労働者』……ユンガーもまた、一部で再評価が進んだので、わたくしも再読してみたわけだが、――わたくしは昔『大理石の断崖の上で』の冒頭を読んだときなんだかいらいらしたことを思い出した。幸福な時代を思い出すときに我々は「むしゃくしゃした憂鬱の念」に捕らわれるというのだ。確かにそれはそうなんだろうと思いながら、ちょっと落ち着けと言いたい気がした。この『労働者』もなんだか、一歩だけ進めばいいところをジャンプしているようなところがあるような気がするのであった。

5、東浩紀『ゆるく考える』……東氏にとっても激動の一年であったが、この投げやりな「ゆるい」気分は、同い年の者としてよく分かる気がする。とはいえ、氏の場合は、結構はじめからそういう気分の人ではあったと思う。末尾に置かれた、「ゲンロンと祖父」――(みんながわりと褒める)も気分としてはよく分かるのだ。我々の世代にとって大きいのは、団塊世代の両親とともに、戦中派の祖父祖母の影響なのである。NHKでやっている「ファミリーヒストリー」というのも、我々のアイデンティティが、親というよりも、それ以前との関係の問題であることを直観している気がするのである。良くも悪くも、「永遠の0」の作者もそれを分かっている訳だ。

6、最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』……授業であつかったのでね……

7、安里健『詩的唯物論神髄』……楽しかった

8、都築響一『夜露死苦現代詩』……楽しかった2

9、デリダ『条件なき大学』……これ、なんとなく「コンディションなき大学」と言った方がいいような気がするのであるが、それはどうでもいいとして、デリダは「権力なしに」「防御なしに」という意を仄めかしたいんだと言う。デリダは大学は負けたらいいと思っているのである。確かに無条件降伏こそ必要なのだ。

10、細谷松太『ものがたり労働運動史』……細谷氏は民別などの結成に重要な役割を果たしたひとで、晩年は「労働運動史家」であった。それにしてもやっぱり鈴木文治というのはいろいろ言われている。ここでは「横へいな、官僚的な人間にしか見えなかった」と記されている。鎌倉から二等車で通い、つねに自動車を呼ばせるさま、――こんなことも書かれている。いまでもそういうことで恨みを買っている運動族は多いのであった。

南方的聖女の敗北

2019-12-30 19:35:49 | 文学


三浦常夫の「聖女」は、敬虔なカトリック信者である妹の彌榮子に、兄貴(僕)が、「いたづら天使」が地球の回転速度を百倍にしたら、とか言っても緘黙されたので、「人間なんか、消し飛んでしまふよ!」と言ってみたがやっぱり緘黙で返されたので焦る話である。結局、この妹は日本にキリスト教を広めるべく祈る聖女であるよというのが結末なのだが、そこにいたるまでのプロセスがひでえ。

お前こそ神様の恩寵を受け、キリストの花嫁となるべく生まれてきた女なのだ。僕は何か涙あふれて来た、落ちこぼれる涙をこらへて僕は、にんまり笑って見せるのである。


泣くな、そしておまへのその笑顔は不気味なんだよ、お前が消し飛べ

で、「二」の冒頭がすごい。(だいたい、この程度の話を二部形式にするなよな……)

「幽霊にも階級性があるのだ、進歩的幽霊と反動的幽霊と、たとへば……」


ここで、現代の思想を一生懸命勉強した若者なら、マルクスとデリダなんかを持ち出し、よけい妹に「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました」(太宰治)みたいな言葉を言わせてしまうところであるが、三浦(日高根太郎)はさすがコギトグループを支える頭脳でもあって、普通に「蔦紅葉宇都谷峠」を出してくるところがいいと思わざるべからず。所謂「文彌殺し」である。「僕」は、それを武士階級に対する町人の反抗精神が幽霊の形をとって封建イデオロギーに反抗しているのだ、みたいな説を喋って落ち込む。結局、信仰が美しくあついのはマルクスの信徒じゃなく彌榮子の方だということで、

至聖なる耶蘇の聖心、願はくは、我日本の主の御国の格らん事を。
聖マリアの汚れなき聖心、願はくは、我日本に、御子耶蘇の御国の格らん事を。


という彼女の願いを掲げて終わっている。

結局、「僕」の頭の中には、そのイデオロギーの紋切り型と信仰の美しさ・強さみたいな観念があるだけなので、――そこにいろいろなものを代入できるんじゃねえかという意味で、非常に危険だと言わざるを得ないが、例えば、彌榮子の信仰を、「金剛不壊」とかなんとか言ったり、ちゃんと「キタる」に「格」なんて漢字をあてたりするところがちょっとしたもんである。三浦はこんな小説で、転向左翼と時局にアイロニーを飛ばしてはいても、やはり根本的には古風な「文士」である。富岡鉄斎の研究をやれるわけだ。

ゲーテやシュトルムの翻訳で知られる馬場久治なんかは、昭和10年代の『コギト』に「ニイチェと音楽」なんかを書いていて、ワグナーを批判しカルメンに傾倒したニーチェを褒めているのだが、――北方的な西洋文化に対するビゼーの音楽には、アラビヤやアジア的なものさえあると書いて嬉しそうである。ワグナー=ナチスに傾くドイツと同盟を組みながら、南方に対する何かを合理化しようとするあれがすごい。そういえば、「抜刀隊」の歌は、カルメンの影響があるそうな……

モスラ~ヤっ モスラー
ドゥンガン カサクヤン インドゥム~


十字架と関係があるモスラは、もしかしたら彌榮子みたいな人が呼んだのかもしれない。この前にみた『ゴジラキングオブモンスター』は、ゴジラやモスラの音楽にあった「金剛不壊」なものをワグナー的な混沌に変形してしまっていた。南方の北方的解消である。いや、敗北である。

だいたい、複雑なものに、明瞭なものが勝てると思っている時点で、思考が小学生だと思う。

あてなるものと藤の花

2019-12-29 19:16:23 | 文学


あてなるもの 薄色に白襲の汗衫。かりのこ。削り氷にあまづら入れて、新しき鋺に入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。いみじう美しき児の、いちごなど食ひたる。


日本古典文学全集の頭注には、「いみじう美しき~」が難解だと確か書いてあったが、薄色に白襲の汗衫の子どもは透き通った推奨や氷や雪のようなもので、それがイチゴを食しているというので、十分連想としてはいいんじゃないかなと思う。そもそも清少納言は人間を物体に近づけているところがあるしね……。雁の子が食事している姿にもイチゴを食す子どもは接近しているであろう。

むしろ、藤の花の方にわたくしは違和感がある。確かに白と紫の組み合わせで、薄色に白襲の汗衫にも似ているのであろうが、それよりも何か藤の花だけ美的なオーラが違っているような気がするんだが――わたくしだけであろう。

 運動場の白い砂の上では四十人あまりの男女が体操をしてゐた。藤棚の下で見てゐると微風が睡気を運んで来るので、体操の時間は停まったままでちっとも動かない。機械体操から墜ちて手首を挫いた豊が、ネルの着物の上に袴を穿いて、手を綳帯で首から吊ってゐた。そのすぐ側には女の子が二人、やはり体操を休んでゐた。一人の女の子は髪が日向の枯草のやうに乾いてゐて、顔が年寄のやうに落着いてゐた。もう一人の女の子は何となく朝顔の芽に似た顔をしてゐた。豊の頭の上には藤の花が垂れ下ってゐる。その藤の花を裂いて蜜を舐めることを、豊は佐藤から教はってゐた。佐藤は熊の子のやうな恰好で今も体操の列にゐた。(さやえんどう、さくらんぼう、どうしてこのごろは、うっとりとろりのしたきりすずめ)豊はちいちく、ちいちく啼く雀の声を眼をひらいたまま、夢のやうに聴いてゐた。すると、なにがどうかなしいのかわからないが、とにかくかなしい。
 …………はっと思ふと、すべてが彼の趾の裏から墜落して行くのであった。女の子の一人は縦縞のじみな着物を着て、鼻に小皺を寄せたまま、もう一人の女の子は赤い襷を掛けて、煤けた腕を露出したまま、熊の子のやうに佐藤はもぢゃもぢゃに頬鬚を伸し、歯をタバコの脂だらけにして、その他四十人あまりの顔がみんなそれぞれ変ってゐるのに気も着かず、まだ体操を続けてゐた。そして、どしどし運動場は墜落して行く。豊は耐りかねて、負傷してゐないほうの手で、藤の花にぶらさがった。


――原民喜「藤の花」


わたくしの頭にはこれがあったのだ。

フジコ・ヘミング初体験

2019-12-28 22:47:49 | 音楽


細君と一緒に、いそいそとフジコ・ヘミングのコンサートに行ってきた。今回は、NHK交響楽団メンバーの室内楽団と一緒の演奏会である。

テレビで何回か演奏を聴いていたが、実演を聴くのは初めてである。覚悟はしていたが、指揮者に抱えられてピアノにたどり着いたフジコヘミングをみて心配になったことは確かである。しかし、モーツアルトの21番の演奏が始まって、NHK交響楽団の渋めの音響の中に、ものすごく派手なパンチの音色が飛び込んできて観客は目を覚ました。やはり人気が出てるだけのことはある。非常に独特な演奏なのであるが、面白い音色のバランスとリズムでぐいぐい音楽をひっぱる。ピアノが鍵盤楽器とはいえ、本質的には琴に近い楽器であることを思い出させるようであった。

テレビでは、彼女の苦労続きの人生が強調されていたので、音楽が内面的に視聴者に伝わったのかもしれないが、実際演奏会で聴いてみると、非常に派手な音色を持つきらびやか演奏をするひとである。単純に、音がかなり大きめであるし、音一つ一つをはっきり聴かせる。なんというか、クレンペラーをおしゃれにブルースのようにしたような音楽なのである。

プログラムでは、モーツアルトに続いて、予定されていなかった「別れの曲」を演奏した後、「ラカンパネラ」を弾いた。かわいらしく手を振りながら、若者に掴まりながらステージを去った。

わたくしは何故か、田村俊子の「女作者」の最後のところ、

自分の好きな女優が舞台の上で大根の膾をこしらえていた。あの手が冷たそうに赤くなっていた。あの手を握りしめて唇のあたたかみで暖めてやりたい。――


こんな文章を思い出した。

Oiseaux exotiques

2019-12-27 17:55:31 | 文学
King Gnu - Prayer X


ちょっとプロコフィエフみたいな曲である。

鳥は、異所のものなれど、鸚鵡、いとあはれなり。人の言ふらむことをまねぶらむよ。郭公。水鶏。しぎ。都鳥。ひは。ひたき。
山鳥、友を恋ひて、鏡を見すれば慰むらむ、心若う、いとあはれなり。谷隔てたるほどなど、心苦し。鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴く声の雲居まで聞ゆる、いとめでたし。頭赤き雀。斑鳩の雄鳥。巧鳥。
鷺は、いと見目も見苦し。眼居なども、うたて萬になつかしからねど、ゆるぎの森にひとりは寝じとあらそふらむ、をかし。水鳥、鴛鴦いとあはれなり。かたみに居かはりて、羽の上の霜払ふらむほどなど。千鳥、いとをかし。


清少納言は別に一人で日記を書いているわけではない。ゼミで喋っているようなものだと思うのである。

昨日、同僚と話していて気づいたのである、2000年代以降の大学教員としてのわたくしは、 いかに学生に研究活動をして貰うかに腐心してきた節があって、――それはバカみたいなグループワークを避けながらレポートやレジメの作成に集中させるやり方をとってきたのであるが、確かに、自己慰撫的な協働をさせない点は成功だったとはいえ、優秀でない学生が自己反省のループに捕らわれることも多く、必要なのは、活動ではなく、その前に認識を伝えることであると言わざるをえない。わたくしも知らず知らずのうちに学問ではなく労働をさせていたのかもしれなかった。あいかわらず、「上からの講義」を神経症的に避けたい御仁たちの気持ちを考えると不憫だが、我々は、おしゃべりをさせる前に、レポートを書かす前に、こちらの認識を語らなければならないのである。思想の押しつけになるとかいう人はさっさと教育現場から去るべし。問題は教師と学生の双方向性でも力関係のバランスでもなく、正しさの感染、つまり弁証法である。

清少納言はやはり啓蒙的な人だと思う。彼女の「をかし」や「あはれ」は、塾講師が「ここ入試で出ますよ」と言っているのと同じではなかろうか。当たり前であるが、「をかし」の認識などというものはなく、「をかし」な認識があるだけなのである。上の文章から「あはれ」や「あはれ」を抜いて読むべきだ。すると、鳥類図鑑みたいなものが浮かんでくる。

鶯は、詩などにもめでたきものに作り、声よりはじめて、様かたちも、さばかり貴に美しきほどよりは、九重の内に鳴かぬぞ、いとわろき。人の「さなむある」と言ひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかり侍ひて聞きしに、まことに更に音せざりき。さるは、竹近き紅梅も、いとよく通ひぬべきたよりなりかし。まかでて聞けば、あやしき家の見所もなき梅の木などには、かしかましきまでぞ鳴く。

もう少しで、清少納言は野鳥の会に入ってメモを取り始めそうである。独歩の「武蔵野」は案外風景ではなく文学作品の羅列で彩られているが、その果てに人間のうごきが風景の中に見出されてくる。このプロセスは、いまも有効である。我々はいまだに、文学作品から風景に迫ることができる。風景は現実ではない?確かにそうである。文学作品を読むことは偏見への道ではなく、虚構――あり得る現実の中でしか現実は風景として姿を現さないという自明の理への道である。

「をかし」の帰趨

2019-12-25 22:02:35 | 文学


土ありく童などの、ほどほどにつけては、いみじきわざしたりと思ひて、常に袂まぼり、人のにくらべなど、えも言はずと思ひたるなどを、そばへたる小舎人童などに引きはられて泣くも、をかし。

何が「をかし」だよ、と思わないではない。あまり「をかし」ばかり言っていると、物事に批評的になれていないときでも「をかし」く言わなくては収まりがつかなくなってしまう精神状態となる。わたくしも気をつけなくてはらないが、例えば、松本人志の芸などそういうものかもしれない。わたくしは、北野武と違って、松本が映画に進出しても「大日本人」みたいなお笑いを貫いたところに注目したが、これは危険なことだったかもしれない。チャップリンもお笑いなのだが、ちょっといい子ぶっているような側面が頑固に貼り付いていて、それで逆に彼自身を適度に貶めていた。松本の場合、大日本人で自らをルサンチマンに近い「自虐」の位置まで持っていき、それを日米問題にまで被せてしまう(「大日本人」というコンセプトはそのスプリングボードである)。自虐の笑いの攻撃性が、反転して他を責める攻撃性となる可能性をそこであからさまにつくっている。映画ではウルトラマンのパロディで済んでいたから曖昧にされていたが、あれは当時のネット=サブカル界の一部の精神構造そのものだったような気がする。本質的に「構造的」なものは非常に陳腐に反復されてしまうのであった。

それにしても、子どもを描き出したとたん、意味がしばしば不明確になるのがいやである。わたくしは芥川龍之介の「侏儒の言葉」だって、その侏儒という設定によって、なにか半端になっている気がしてならないのである。

紫の紙に樗の花、青き紙に菖蒲の葉、細く巻きて結ひ、また、白き紙を根にしてひき結ひたるも、をかし。いと長き根を文の中に入れなどしたるを見るここちども、いと艶なり。返事書かむと言ひ合はせ、かたらふどちは、見せかはしなどするも、いとをかし。人の女、やむごとなき所々に、御文など聞え給ふ人も、今日は心異にぞなまめかしき。夕暮のほどに、郭公の名のりしてわたるも、すべていみじき。

最後の「すべていみじき」というのが、あまりに弛緩しているのではあるまいか。端午の節句がそんなによいのか。そんなはずはないよね、本当は……。

「或は小舎人の起原は、もと家屋の精霊として考へられてゐたのだ。」と折口信夫が「日本文学の発生」で言っているが、まだそういう空想の方がわたくしは好きである。

「せめて見れば」以降の梨の花

2019-12-24 23:21:44 | 文学


梨の花、世にすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文付けなどだにせず。愛敬おくれたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あいなく見ゆるを、唐土には限りなき物にて、文にも作る、なほさりとも、やうあらむと、せめて見れば、花びらの端に、をかしきにほひこそ、心もとなうつきためれ。

梨の花綺麗だと思うんだけどなあ……。わたしの感覚だと、葉の色からはじめて釣り合いが悪いなどと、――これはなんとなく言いがかりに見えるのである。とはいっても、清少納言、中国では評価高いらしいので、とくる。で、よく見てみると、花びらの端にじれったい程少し艶があるそうだ。――よく分からんが、花びらの端に艶ややさがある花はたくさんある気がするんだがな、雑草の葉っぱにだってけっこうつややかさはあるし……。わたくしには、清少納言の言い様は、褒めていても言いがかりみたいにみえるのであった。

――まあそれはともかく、清少納言は長恨歌を思い出したようだ。

楊貴妃の、帝の御使に会ひて泣きける顔に似せて、「梨花一枝、春、雨を帯びたり。」など言ひたるは、おぼろけならじと思ふに、なほいみじうめでたきことは、たぐひあらじとおぼえたり。

別にここまで無理して「たぐひあらじ」とか思わないでもよかろうに……。

有名な「木の花は」の段であるが、本当に清少納言は木の花に興味があるのかわたくしは疑問を持つ。彼女の文章は、お題に無理矢理網羅的に答えようとしているところがあり、結局は、漢詩・和歌の教養を復習するためのものにみえます。

わたくしは昔、復活祭のころ、イタリア、パドワの古い宿舎にとまって、ステンドグラスの窓をあけたら、梨の花が夜目にもほの白かったことを思い出す。「町ふるきパドワに入れば梨の花」。わたくしは卓上の鈴をならして数杯のうまいキャンチをたのしみ味わった。この山の中にもいつかは、あの古都に感じるような文化のなつかしさが生れるだろうか。この山はまず何をおいても二十世紀後半の文化中核をつかもうとすることから始まるだろう。その上でこの山はこの山なりの文化がゆっくり育つだろう。

――高村光太郎「山の春」


考えてみると、清少納言は無理矢理何かを見出そうと、梨の花に顔をくっつけていたに違いないが――、高村光太郎は「あ白いね」で終わりである。清少納言の方が本当は芸術家と言えるのではなかろうか。

『日本少年』のは絵に、「梨の花」という題の油絵がはいっていた。色のなかに細いすじのようなものが一ぱいに詰まっている絵、あれは油絵というものだと良平はもう知っていたが、その絵は、梨の木の花が咲いているというだけの絵だったが、見るからに美しかった。絵がうつくしい……「梨の花ア……」と良平はへんに思った。梨の花がこんなに美しいことがあるもんか。梨の木は、おじさんが癖で植えたものが灰小舎の傍にあった。毎年花が咲く。そして食べられぬほどのがじがじ梨が成った。あの梨の花が、美しかったもんか。良平には、梨の花を美しいと思ったことは一ぺんもなかった。一郎でも誰でも、梨の花が美しいなんといったものは一人もなかった。大人にもない。

――中野重治「梨の花」


否定の「ない」が繰り返されて、恰も「梨」という響きに沿うかのように、否定そのもののなかに美が感じられてくる。もっともこういう美は、否定されるべき対象を失うと、無へと転落する。もう一回、清少納言より前、文化のない状態に戻ってしまうのである。

既知との遭遇

2019-12-23 23:46:35 | 文学


人はいでにけるなるべし、薄色の、うらいと濃くて、上は少しかへりたる、ならずは、濃き綾のつややかなるがいと萎えぬを、かしらこめに引着てぞねたる。香染の単衣、もしは、黄生絹の単衣、紅の袴の腰のいと長やかに、衣の下より引かれ着たるも、まだとけながらなめり。そばの方に、髪のうちたたなはりてゆるらかなる程、長さ推しはかられたるに

男が帰っていったあとなのであろう。清少納言が天才だと思うのは、こういう場面を朝の空気を含めて描出できるところで、さすがだ。濃い綾織のつややかなもので糊気が落ちていないのを頭に被って寝ている女。単衣を着ながらまだ締めていない腰紐を長くのばしている――この様子に描かれているのは、その実彼女の肉体であり、続いて髪がうねうねとその紐に重なってゆったりと伸びている。朝は別れの時間だが、それ以上に、けだるい肉体の時間である。

これに間髪入れずに続いているのが他の女と別れてきた男の登場シーンである。

またいづこよりにかあらむ、朝ぼらけにいみじう霧みちたるに、二藍の指貫に、あるかなきかの色したる香染の狩衣、白き生絹に紅のとほすにこそはあらめ、つややかなるが、霧にいたうしめりたるを脱ぎたれて、鬢の少しふくだみたれば、烏帽子の押し入れたる気色も、しどけなく見ゆ。

ここでも一応男の肉体が描かれてはいるのだが、髪の毛がぶくぶくになっているところに烏帽子を押し込んでいる様がしまりなく見えるというのだから、肉体はむしろ抑圧されている。男は、後朝の文をしたためようとぶつぶつ言っている。

この二人はこのあとちょっと会話などをしていたので、男の後朝の和歌は遅れてしまった。

出でぬる人も、いつのほどにかと見えて、萩の露ながらおし折りたるに付けてあれど、えさし出でず。香の紙のいみじうしめたる匂ひ、いとをかし。あまりはしたなきほどになれば、立ち出でて、わが起きつる所もかくやと思ひやらるるも、をかしかりぬべし。

女のもとから帰っていった男からの文も来ていたのだが、寄り道していった男のために、なかなか女のもとに届かない。香りがよい手紙である。男も、自分の女もこんな感じに男と会話している……であろうかと思いやっておかしがっているのであろう――。

だから何なのだと言われればそれまでであるが、通婚の世界は、こういう恋愛未満の接触の中から突然発火するものなのであろう。「源氏物語」の光源氏がすごいのは、とにかく連続発火がすごいということであろう。単にモテているのではない。

清少納言のこの美的構成的な接触のドラマを読んでいると、どうも歌物語というのは、歌に焦点が合っているために心理小説みたいになりすぎているところがあるような気がするのであった。近代文学が和歌の世界と一応別の世界を形成しようとしたのも、和歌の磁力が、我々の生活世界を心理的な世界によってぶっ飛ばしてしまうからなのであろう。いまだってそうである。小野十三郎の和歌論を再読してみることにしよう。

過ぎにし方

2019-12-22 23:23:57 | 文学


過ぎにし方恋しきもの 枯れたる葵。ひひなあそびの調度。二藍、葡萄染めなどのさいでの、おしへされて草子の中などにありける、見つけたる。また、折からあはれなりし人の文、雨など降り、つれづれなる日、探し出でたる。去年の蝙蝠。

単純な事物からドラマに展開するのは、前段と同じである。葡萄染めなどが本のなかからでてくるのは単にそれが過去でないことを示しているわけである。押しつぶされた葡萄染は過去においては、本の間に挟まる程度の物なのに、見つかったときは、過去への扉のようなものに変わっている。そしてそれが本のなかというのも、――まるで本そのものも過去への扉であるかのように思われる。だから、次に人の文が次にでてくるのであろう。「また」なんかが記されているのは、論文やレポートなどだと付け足しみたいな退屈さがあるが、ここのそれはまるで「ああ」とか「さあ」という感じがする。その頃あはれに思った人の文も見つけたの。いまは外は雨が降っていて、わたしはつれづれな日のなかにいる。あ、ついでに去年の夏の扇まででてきました……

それにしても、こういう過去の思い出しかたがわたくしにあるであろうか。清少納言は、悪口の連射は時々すごいのに、このような場合、そういうものが混じらないのであろうか。わたくしだったら大いに混じってしまう。

代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩う強い香の中に、残りなく自己を放擲した。彼はこの嗅覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這い纏わっていた。彼はしばらくして、
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。


――「それから」


漱石でなくても、我々の過去は、本の間とか手紙の中にはなく、部屋に漂う薫りの中にある。それは烟のようにある。そこから逃れることはできず、封印されることもない。今だってそれは変わらない。

「心ときめきするもの」の価値

2019-12-21 23:10:47 | 文学


心ときめきするもの 雀の子飼ひ。ちご遊ばする所の前わたる。よき薫き物たきて一人臥したる。唐鏡の少し暗き見たる。よき男の車とどめて案内し、問はせたる。頭洗ひ、化粧じて、かうばしうしみたる衣など着たる。ことに見る人なき所にても、心のうちは、なほいとをかし。待つ人などのある夜、雨の音、風の吹きゆるがすも、ふとおどろかる。

「心ときめきするもの」は好きな箇所である。ときめきは不安の裡にあり。これは一般論じゃなく、「よき薫き物」以下の、男を待つ、あるいは待たないときでもその情況に似たもののあるときのことであり、それを雀の子飼いや子どもの前を通るときの、小さな可愛らしさを傷つけないようにそっと動く感じから連想しているところがすばらしく的確だと思うのである。そのような場合――不安は不安ではなくなり、可愛らしさのシーンを壊すかもしれない要素をすくい取ることに過ぎない。雨や風の音が男との逢瀬に流れてゆく。胸騒ぎである。

今日、学生との忘年会で、学生が「胸熱」「胸熱」と繰り返していたので、それなに?と聞いたところ、「エモい」みたいな、ときた。ちょっと違うような気がするのであるが、いまの学生は育ちがよいのか、ちょっと随想的なところがあって、枕草子的であると思った。

わたくしはその点、彼らに必要なのは「源氏物語」の方であるような気がする。「源氏物語」が見ているのは、「心ときめきする」心理をひっくりかえしてしまうような欲望の世界である。紫式部は実際、武家の時代を予期していたに違いない。欲望を無常観で暴力的に統制するような方向性を予感していたと思うのである。学生たちはいまにそういう欲望に直面することになるであろう。

謙譲を、作家にのみ要求し、作家は大いに恐縮し、卑屈なほどへりくだって、そうして読者は旦那である。作家の私生活、底の底まで剥ごうとする。失敬である。安売りしているのは作品である。作家の人間までを売ってはいない。謙譲は、読者にこそ之を要求したい。
 作家と読者は、もういちど全然あたらしく地割りの協定をやり直す必要がある。
 いちばん高級な読書の仕方は、鴎外でもジッドでも尾崎一雄でも、素直に読んで、そうして分相応にたのしみ、読み終えたら涼しげに古本屋へ持って行き、こんどは涙香の死美人と交換して来て、また、心ときめかせて読みふける。何を読むかは、読者の権利である。義務ではない。それは、自由にやって然るべきである。


――太宰治「一歩前進二歩退却」


太宰は、「心ときめかす」ことの意味をよく分かっていた。近代が猖獗を極めてくると、作品ではなく、作者が問題となり、心ときめくことはなくなる。学生たち、――いや我々が直面しようとしているのは、言説の嵐ではなく、言説の使い手である人間のどうしようもない欲望の姿である。それは、無頼派たちが、人間の概念を晴れやかに解体しようとした戦略を以てしても防ぎようのない実在である。まだ人権とか命という言葉を借りてはいるが、暴力そのものような人間がこれからやってくる。

「ドストエフスはー」をめぐって――枕草子を中心に

2019-12-20 23:54:07 | 文学


にくきもの

なでふことなき人の、笑がちにて、ものいたう言ひたる。


完全に同意である。わたくしも気をつけなくてはならない。

老いばみたる者こそ、火桶の端に足をさへもたげて、もの言ふままにおしすりなどはすらめ。さやうの者は、人のもとに来て、ゐむとする所を、まづ扇してこなたかなたあふぎ散らして塵掃き捨て、ゐも定まらずひろめきて、狩衣の前まき入れてもゐるべし。かかることは、いふかひなき者のきはにやと思へど、少しよろしき者の式部の大夫など言ひしがせしなり。

式部の大夫なんてだいたい大したことないではないか。いまだって、近くはグループリーダーや遠くは政府の顔ぶれを見ろよ。まったくもって「いふかひなき者」ばっかりである。とにかく何かというと規則の恣意的運用ばっかり考えている卑しい馬鹿野郎ばかりである。清少納言もわたくしのように何十年もいらいらして生きてきたらしく、

蚤もいとにくし。衣の下に躍りありきて、もたぐるやうにする。犬の、諸声に長々と鳴きあげたる、まがまがしくさへにくし。

ここまでくるとはやく寝た方がいいレベルである。

今日、『レジェンド文豪のありえない話 総勢六十数余名の神をも恐れぬ…ご乱痴気』という本のなかで、「埴谷雄高」が鬼畜扱いされていた。それはいいのだ。しかし、

「埴谷に影響を与えたのは、アナーキズムと共産主義、そしてカント、ドストエフスはーであった」


とあって、にくきものに出会った。

最近、会議の資料や公式なメールも誤植の嵐である。宛名を書かないメールとかもあり、これも実際は恣意的運用の一角をなしている。恣意的なのは、意識ではない、かかる人間そのものなのである。こういう人間の特徴として、必ず現実や実践を唱えている。そういう輩は、理想と実践を対義語だと思っている。こういう意識上の形式性が、行為においては恣意性となって顕れる。現実において執念深くコンプレックスを自らの欲望に沿った形で晴らすのが人生の目的と化している人間は、そういう欲望を規制する「理想」を嫌うからである。もはや、分かりやすく言うと、実践信仰は悪意の塊だと申し上げてよろしい。最近は、そういう人間が「寄り添う」みたいな〈理想〉を掲げて執念深く自分の慰撫に必死である。欲望はつねに他者に向かって放射される、とはよく言ったものだ。わかりにくくなっているが、むかしなら「クズ」で済まされていた。それは他者に欲望を向けるなという禁忌である。たぶんそういう社会では、飲酒やヒロポンとかセックスなどの自律的快楽が一方で推奨されることになるわけである。

ゆるぎ歩きたるも

2019-12-19 23:24:41 | 文学


古き者どもの、さもえ行き離るまじきは、来年の国々、手をおりてうち数へなどして、ゆるぎ歩きたるも、いとをかしうすさまじげなる。


清少納言の底意地の悪さは、「すさまじきもの」の中で、除目に官職を得られなかった人たち、及びその関係者の様子を長々と描写したあげく、最後に、古くから仕えていてボスから離れられない人を上のように言っているところに顕れている。誠にすさまじい。

来年の欠官予定の国を数えたりしたり、――別にいいじゃないか。生きるために必死なんだよ、下僕たちは――。

「ゆるぎありく」は、体を揺すって歩くことであろうが、ここは意気消沈してふらふら歩くという意であるともとれるし、いままでゆさゆさと威張って歩いていた、ともとれる訳であるが、わたくしとしては、どちらでもいいや、という気がする。清少納言としては、プライドのある人たちだからふらふら歩いていても威張っている動作が抜けない様子を「いとおかしうすさまじ」といっているのかもしれない。

我々の身体は、脳の言うことを聞かないことがあり、普段やっていた動作を勝手に行うことがある。普段職場でなんとなく威張っている人は、外に出てもなんとなくそういう動作をしてしまうことがあるように。我々が深刻なのは、殆どの場合それに気づかないことである。

頭を使わず手抜きをしている仕事は、だいたいバレている。体がやや野放図に動いているから他人には分かるのだ。――それ以前に最近の人は妙な強弁が伴うので目をつぶっていても分かるのであるが。

そうなんです。歩く人は歩く人自身、歩くことによって貴重なものをうるのと同時に、歩いていく土地々々の人びとを、横につなげていくことになるのです。そして、そのことが、さらに貴重なことがらだと私は思う。ことにいま、日本がこのように混乱し衰弱しているさなかでは、まず日本人全体が横につながることほど大事なことはないと思います。
 愛国のことを言うことは、言いたい人にまかせておいて、私はただなるべく歩いてみるようにしたいと思っています。


――三好十郎「歩くこと」


わたくし如きが言うのも何であるが、三好の限界はこういうことを言ってしまうことにあると思う。二宮金次郎がなかなかいいと思うのは、本を読みながら自分の体を制御しているから、案外こういう人は、これ以上危険なことはしない気がするからである。誤って崖から落ちるのが関の山だ。

Irritability?

2019-12-18 23:10:39 | 文学


博士のうち続き女児産ませたる。方違へに行きたるに、あるじせぬ所。まいて節分などは、いとすさまじ。 人の国よりおこせたる文の、物なき。京のをもさこそ思ふらめ。されどそれは、ゆかしきことどもをも、書き集め、世にあることなどをも聞けば、いとよし。

「すさまじきもの」には実にいろいろあり、よくわからんが、清少納言が空虚を感じて、しまいにゃ「いらいらした」ものである。犬だって昼吠えたっていいであろうが、確かに犬の鳴き声の空虚さと昼間の充実した感じとは似合わない感じがするし、網代が春まで残っているのは、網代よ一体何をしてんの、という感じで空しい。牛飼いは牛をなくして空虚であり、産室から赤ん坊が去ったら空虚である。火がない火鉢も同様である。しかし、学者の家に女の子ばかり生まれたのがすさまじいとはよく分からん。跡継ぎがいないというのは確かにそうなのであろうが、牛や赤ん坊、網代や犬と一緒というのは変である。要するに、清少納言は、似たものを連想しているうちについ自分のプライドにかかわる話題に踏み込んでしまったのであった。そうなったら、なんだかいろいろといらいらしたものが連想されてくる。空虚ではない、空腹のいらいらに近い。

方違えに行ったのにごちそうがない(いらいら)→地方からよこした手紙に贈り物がついてないぞ(いらいらいら)→ていうか、京都からの手紙の場合もそうなのであろうが、違うね。あちらが知りたい世の中のことが書いてるあるからさ(いらいらいらいら)誰が田舎に贈り物なんかつけるか

人のもとにわざと清げに書きてやりつる文の返事、いまは持て来ぬらむかし、あやしう遅き、と待つほどに、ありつる文、立文をも結びたるをも、いときたなげにとりなし、ふくだめて、上に引きたりつる墨など消へて、「おはしまさざりけり。」もしは、「御物忌みとて取り入れず。」と言ひて持て帰りたる、いとわびしく、すさまじ。

ちょっと落ち着け。

東浩紀氏なら、「それ誤配だから」というであろうが、誤配以前に仕事が出来ない人という者はいるもので、清少納言のまわりにも魯鈍な人々がいたに違いない。確かに清少納言も思い上がっているとは思うが、きちんとした文化というものは几帳面さがないといけないのだ。くだらない側面だが、だれかがそれを担う必要がある。

一体掃除の目的は運動のためか、遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ吾輩の関知するところでないから、知らん顔をしていれば差し支えないようなものの、ここの細君の掃除法のごときに至ってはすこぶる無意義のものと云わざるを得ない。何が無意義であるかと云うと、この細君は単に掃除のために掃除をしているからである。はたきを一通り障子へかけて、箒を一応畳の上へ滑らせる。それで掃除は完成した者と解釈している。掃除の源因及び結果に至っては微塵の責任だに背負っておらん。かるが故に奇麗な所は毎日奇麗だが、ごみのある所、ほこりの積っている所はいつでもごみが溜ってほこりが積っている。告朔の餼羊と云う故事もある事だから、これでもやらんよりはましかも知れない。しかしやっても別段主人のためにはならない。ならないところを毎日毎日御苦労にもやるところが細君のえらいところである。細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくって頑として結びつけられているにもかかわらず、掃除の実に至っては、妻君がいまだ生れざる以前のごとく、はたきと箒が発明せられざる昔のごとく、毫も挙っておらん。思うにこの両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとくその内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。

――「吾輩は猫である」


この猫もよくある考え方をしているが、お前の抜け毛を如何せん。

2019-12-17 23:34:30 | 文学


生ひ先なく、まめやかに、えせざいはひなど見てゐたらむ人は、いぶせく、あなづらはしく思ひやられて、猶、さりぬべからむ人の女などは、さしまじらはせ、世の有様も見せならはさまほしう、内侍のすけなどにて暫時もあらせばや、とこそ覚ゆれ。宮仕へする人をば、あはあはしう、わろきことに言ひ思ひたる男などこそ、いとにくけれ。げに、そも、またさる事ぞかし。かけまくも畏き御前をはじめ奉りて、上達部、殿上人、五位、四位は更にもいはず、見ぬ人は少なくこそあらめ。

結局、世間を知るためには、宮仕えした方がいいという。それは顔を晒すからなのであった。男にとってそれがはたしなく思われようとも。いまでも、世間で生きることとは顔を晒すということである。結局、ネットの世界が世間にならないのは、それがなくても表現が可能だからなのである。内田樹氏は確か顔を新聞などで出したくない時期があったと記憶するが、――結局、結構出すようになった。それは、内田氏がもともとネットでものを自由気ままに書いていた状態から出発したことと関係があったと思う。

一方、文章ではなく、結局お前は顔を出したいだけであろうみたいな、本の著者もかなりいる。完全に上の「世間」に向かっているのである。これは、今のような大衆読者=世界に向かっているのではなく、やはりこれはある部分の「世間」のみに向かっていると見た方がよいと思う。だからなのか、彼らの表情は、明らかにはしたなくなっている。

清少納言が批判する男たちの中には、上のような事情を感知していた者がいたと思う。

わたくしなんかも顔を大勢のなかで晒す職業である。「世間」に堕落しないような顔でい続けることは難しいが、教師とはそういう部分で頑張る必要があると思うのだ。ところで、マドンナのPVをまとめて見てみたのだが、マドンナは「世間」の顔をつくりながら、それ以外の顔をものすごくたくさん表出している。我々は、マドンナの性的表現に幻惑されていたが、結局彼女の場合重要なのは顔なのだと思った。

マドンナは声も姿もマネキンみたいだなと安部公房を読みながら思っていた思春期のわたくしは間違っていた。