★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

四月馬鹿だけでなく、一年中馬鹿が侵攻しつつあり

2013-10-31 23:02:48 | 文学


 四月一日の朝刊を見ると、「武田麟太郎氏急逝す」という記事が出ていた。
 私はどきんとした。狐につままれた気持だった。真っ暗になった気持の中で、たった一筋、
「あッ、凄いデマを飛ばしたな」
 という想いが私を救った。
「――今日は四月馬鹿(エープリルフール)じゃないか」
 そうだ、四月馬鹿だ、こりゃ武田さんの一生一代の大デマだと呟きながら、私はポタポタと涙を流した。
 そして、あんなにデマを飛ばしていたこの人は寂しい人だったんだ、寂しがり屋だったんだと、ポソポソ不景気な声で呟いていた。
 新聞に出ている武田さんの写真は、しかしきっとして天の一角を睨んでいた。

――織田作之助「四月馬鹿」

馬地獄

2013-10-29 01:44:56 | 文学


 近くに倉庫の多いせいか、実によく荷馬車が通る。たいていは馬の肢が折れるかと思うくらい、重い荷を積んでいるのだが、傾斜があるゆえ、馬にはこの橋が鬼門なのだ。鞭でたたかれながら弾をつけて渡り切ろうとしても、中程に来ると、轍が空まわりする。馬はずるずる後退しそうになる。石畳の上に爪立てた蹄のうらがきらりと光って、口の泡が白い。痩せた肩に湯気が立つ。ピシ、ピシと敲かれ、悲鳴をあげ、空を噛ながら、やっと渡ることができる。それまでの苦労は実に大変だ。彼は見ていて胸が痛む。轍の音がしばらく耳を離なれないのだ。

ーー織田作之助「馬地獄」

客間とお勝手のあいだを走り狂い

2013-10-27 22:28:01 | 文学


 奥さまは、もとからお客に何かと世話を焼き、ごちそうするのが好きなほうでしたが、いいえ、でも、奥さまの場合、お客をすきというよりは、お客におびえている、とでも言いたいくらいで、玄関のベルが鳴り、まず私が取次ぎに出まして、それからお客のお名前を告げに奥さまのお部屋へまいりますと、奥さまはもう既に、鷲わしの羽音を聞いて飛び立つ一瞬前の小鳥のような感じの異様に緊張の顔つきをしていらして、おくれ毛を掻かき上げ襟えりもとを直し腰を浮かせて私の話を半分も聞かぬうちに立って廊下に出て小走りに走って、玄関に行き、たちまち、泣くような笑うような笛の音に似た不思議な声を挙げてお客を迎え、それからはもう錯乱したひとみたいに眼つきをかえて、客間とお勝手のあいだを走り狂い、お鍋なべをひっくりかえしたりお皿をわったり、すみませんねえ、すみませんねえ、と女中の私におわびを言い、そうしてお客のお帰りになった後は、呆然ぼうぜんとして客間にひとりでぐったり横坐りに坐ったまま、後片づけも何もなさらず、たまには、涙ぐんでいる事さえありました。

~太宰治「饗応夫人」

10です

2013-10-27 04:41:45 | 日記



主人公は能年玲奈演じる秋ではなく小泉今日子演じる春子である。たぶん、脚本を書いたクドカンが小泉今日子が活躍したような80年代の亡霊に決着をつけようとしているからである。

わたくしは、「あまちゃん」を現実的に理解しようとするときに、「リトル・ヴォイス」に描かれているような現実を傍らに置いておく必要があると思っている。「リトル・ヴォイス」における、ジャズシャンソンにおいて成熟する娘と、流行のロックロールに夢中ながさつな母親といった現実のことである。春子と夏の関係は、こんな現実の楽しいパロディという意味で、もうかなり現実ではない、と私は思うが、現実的である側面もある。

若き春子は「海死ねウニ死ね」とか書いていた割には、いわゆる「田舎のがさつな非文化的な同調圧力」に反発していたのではない。むしろ、母親の「来る物は拒まず去る者はおわず」といった独立主義に対して反発していたとみるべきである。大江の「セブンティーン」にでてくる、アメリカナイズされた父親ににて、子供はむしろ干渉を望んでいるわけだ。まさに、あまちゃん世代たる所以である。春子の東京行きは、アイドルになりたいとかいう理由とともにそんな思春期的な動機を持っていたわけであって、こりゃきわめて少し前の現実的な風景である。

しかも、春子はアイドルになりたかったのであって、プロの歌手になりたかったのではない。コンテスト荒らしの春子がチャレンジした東京での「君でもスターだよ」コンテストは、「君は別にスターではないが、スターだよ」という意味であり、それがアイドル歌手なのである。しかし、独立主義者でありプロ主義者である母親は、こういうコンテスト自体を「くだらない」といい、「0か10か」と決断を迫る。こういわれたら、春子は「10です」というしかない。それはアイドルというプロになることを意味する。まあこの時期のアイドルは単体の偶像「聖子ちゃん」等であったから、いまの多数決で決まるような群としてのアイドルとは違っていた事情もあろうね…

しかし、彼女は鈴鹿ひろ美の影武者という「歌専用のプロ」として偶然デビューしてしまった。ある意味で、春子は論理必然的な結末を迎えているのだが、本当にデビューしているわけではないから自分を半端者としか感じられない。アイドルをアイドルとしかみておらず、たぶん若い頃から、価値の複合物である商品としてのアイドル個人の自己同一性を認めていないプロデューサー太巻は、春子と対立してはいない。売るプロに徹することでアイドルの自律を認めないだけのことである。太巻きと春子は裏腹である。女優に特化した鈴鹿ひろ美も同じである。太巻はさすが時代を読み、かつ影武者事件の後悔からか、やや整合性を図ってアマチュアリズムを大切にすることで歌が下手でもよいというアイドル路線に転向しているのだが、これも夏譲りのプロ主義の春子にはますます認められない。ところが、春子の娘の秋が、半端者であるがゆえにか、アイドルとして曲がりなりにも成功してしまう。娘の秋は、一緒にやっている仲間と楽しさを、アイドルの価値自体よりも優先しているような人間である。パートナーのユイが春子が目指したようにプロを志向して派手に挫折している(春子と似て「グレている」)のとは対照的である。(秋は、ユイに「アイドルがダサイことはわかってる。楽しさのためにダサイぐらい我慢しろ」と説教している)現在成功するのは、アキのような共同体主義の人間であり、春子は、独立主義の夏とそういう共同体主義の秋に挟まれて彷徨しているのである。たぶん春は思春期の春でもあろうし、彼女の名前にだけ「子」が付いているのも意図的だろうね…。思春期は、理想の自己と現実の自己の分裂があり、春子の理想の自己の亡霊はいまだにさまよっている。人生を全うできなかった地震津波の死者とおなじように。

結局、春子は、半端者の秋がみんなを喜ばすのを目撃する。秋は海女としてもアイドルとしても半端であるのだが、どちらも人間的な愛嬌で両立させてしまうことで、みんなを喜ばす。彼女の、「人と楽しければどっちも」主義は、海女とアイドルだけではなく、同時に岩手の東京の価値位階をも無化してしまうのだが、まあこれは、震災の効果でもあると云うべきであろう(現実はむしろ東京と東北の差別化が進んだのが震災後の状況であるが…)。秋は震災がなければ東京で芸能人として自律したかもしれないからだ。とまれ、春子はこれをみて二者択一の東京主義プロ主義に縛られていた自己を揚棄させたのであろう。また、一方、春子にとって影である自分に対する生身であった鈴鹿ひろ美が、プロの歌い手として自立することで、影である部分を消失し、秋の母親・支援者として自己同一性を獲得する。鈴鹿ひろ美もプロとしてブラウン管を通じてではなく直接聴衆の喝采を浴びて満足満足。はい、よかったね…。

しかし、はい、現実はこうはいかない。なぜなら、現実にはドラマにはない「政治」があるから。「政治」は放射能や悪人や学問や受験勉強の様にこのドラマの外部にある。共同主義者・秋がいろいろあってヘイトスピーチに参加したり、ユイの父親が安部首相のような人物でそのおかげで彼女がデビューしたり、震災であっさり夏が死んだり、といった平行宇宙が我々の現実である。夏・春子・秋という豊かな季節を体現する登場人物に対して、出てこなかった冬はおそらく現実のことであり、脚本家が如上の結構に意図的であったことが明らかであると思う。

つまりこのドラマは夢なんだが、夢には悪夢というものもあって、恐ろしいのは、種馬、いや間違えた種市先輩と秋の子どもが、「冬男」と名付けられ、東北出身の将校となり、ファシズムを…。その意味でも「あまちゃん2」はあり得ない。


お前は既に旨かった……

2013-10-26 16:16:04 | 文学


学生から推薦された本で、ライトノベルじゃないものがあったので読んでみた→「おまえうまそうだな」

……夜空が宮澤賢治みたいだな。きれいな絵だね。(棒読み)

……というか、いちいち「おまえうまそうだな」とかしゃべりながら食べるか、恐竜が。いいかげん、赤ん坊とか純朴なやつに人生学ぶのやめろよ……読者たちよ、あなた方はそんなに心が腐ってるのですか?ああそうですか。

それだけでも、奴等はすっかりへたばった。

2013-10-25 23:01:49 | 文学


 ところが一つ大いに愉快なことがある。それはさすがはプロレタリアートと農民のソヴェト同盟だ。家賃は借りる人が一ヵ月にとる月給に応じてきめられる。日本人なんぞは、例えば家主の権田の親爺が月十八円ときめてみろ、その家賃は一文だって動かしゃしない。払えないものは借りるナ! それっきりだ。
 ソヴェト同盟では、モスクワ市について云うと九尺四方で四十カペイキ(四十銭に相当する)。それが基準だ。
 一つの室でも、だから住む人間によって値段がちがって来る。月給六十ルーブリ(一ルーブリは一円)とる工場労働者が十ルーブリで借りていた室を、仮りに今度は百五十ルーブリとる労働者がかりることになったとする。室代は月給が九十ルーブリ増した率で何割か増して高く払うというわけなんだ。
 痛快なのは、ソヴェト同盟の生産拡張五ヵ年計画がはじまるまで、狡いことして儲けていた小成金や商人が、三十ルーブリの室なら九十ルーブリという風に、いつもキット三倍の税をかけられていたことだ。家賃が三倍になるばかりじゃない。電燈料もガス代も水道税も三倍だ。それだけでも、奴等はすっかりへたばった。

――宮本百合子「ソヴェト労働者の解放された生活」

同一の色を種々異様に録せる例甚だ多し

2013-10-24 08:23:32 | 文学


 すべて色は温度電力等と違い、数度もて精しく測定し得ず、したがって常人はもとより、学者といえども、見る処甚だ同じからず、予この十二年間、数千の菌類を紀伊で採り、彩画記載せるを閲するに、同一の色を種々異様に録せる例甚だ多し。これ予のみならず、友人グリェルマ・リスター女の『粘菌図譜』、昨年新版を贈り来れるを見るに、Diderma Subdictyospermum の胞嚢は雪白と明記され、D. niveum も、種名通り雪白なるべきに、図版には両ながら淡青に彩しあり。されば古え色を別つ事すこぶる疎略にて、淡き諸色をすべて白色といいし由 L. Geiger,‘Zur Entwicklungsgeschichte der Menschheit,’S. 45-60. 等に論じたり。高山の雪上の物影は、快晴の日紫に見ゆる故、支那で濃紫色を雪青と名づくと説きし人あり(A. Sangin, Nature, Feb. 22, 1906, p. 390)、紫を青と混じての名なり、光線の具合で白が青く見ゆるは、西京辺の白粉多く塗れる女等にしばしば例あり、かかる訳にて、白馬を青馬と呼ぶに至りしなるべし。

――南方熊楠「馬に関する民俗と伝説」

タモリとアンドリーセン

2013-10-23 02:29:06 | 音楽
タモリの「笑っていいとも」が終了するようであるが、この番組が始まった頃、私は中学生だったと思うが、彼の芸――友達の輪とか努力や反省はしないとかいう言動が、保守反動そのものにみえたので、嫌な時代がやって来たなと思っていた。永井豪はPTAにつるし上げられるのに、タモリはつるし上げられない。どうもわたくしの感覚だと、ポストモダンとは浅田とか柄谷のことではなくて、タモリとおニャン子クラブのことである。そして、それは、脱近代ではなくて、反近代である。

ところで、むかし私は吹奏楽部の選曲会議などで、アンドリーセンの「オランダの交響曲」というのを候補に挙げ続けて顰蹙を買っていたのであるが、というのも音源をわたくししかもっていなかったので、それが自慢だったのである。しかし、いまやyoutubeで誰でも聴ける……

https://www.youtube.com/watch?v=vsfl5EjrhlE



2013-10-22 23:40:44 | 文学


「あっ、A氏の顔が!」と私は思わず叫んだ。
「あなたにもそれがお見えになりますか?」
「ええ、確かに見えます。」
 そこの薄明にいつしか慣れてきた私の眼は、その時夫人の顔の上に何ともいえぬ輝かしい色の漂ったのを認めた。
 私は再び私の視線をその絵の上に移しながら、この驚くべき変化、一つの奇蹟について考え出した。それがこのように描きかえられたのでないことはこの夫人を信用すればいい。よしまた描きかえられたのにせよ、それはむしろ私達がいま見ているものの上に、更に線や色彩を加えられたものが数年前に私達が展覧会で見たものであって、それが年月の流れによって変色か何かして、その以前の下絵がおのずから現われてきたものと云わなければならない。そういう例は今までにも少なくはない。例えばチントレットの壁画などがそうであった。

――堀辰雄「窓」

感傷的な調子の尾鰭が、何時の間にか非常に多くなってしまった

2013-10-21 23:24:36 | 文学


けだし中世は、仏教的世界観の支配した時代で、現世は穢土であり、人情のまことは煩悩と見たから、聴衆の方は、子供を蹴とばすといった少々感情を虐げたような、芝居がかりのことをする人間にえらさを感じたし、伝説の方も、そうした感傷的な調子の尾鰭が、何時の間にか非常に多くなってしまった。謡曲などにも随分西行は出てくる。そうした話を拾ってくると、伝説化された西行は判るが、本当の西行の姿は埋れはてるのである。中世の感傷は西行を種にして一つの芝居を作ったのであって、いわば贔屓の引き仆しである。

――風巻敬次郎「中世の文学的伝統」