★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

永久にあげましょう

2018-08-31 22:12:40 | 文学


「いや、これは、やっぱり、みよ(母の名)にあげよう。永久に、あげましょう。孫たちを、よろしくたのみますよ。」と言った。
 子供たちは、何だか感動した。実に立派な勲章のように思われた。

――太宰治「ろまん灯籠」

「あな恐ろし」の恐怖

2018-08-30 23:25:34 | 文学


「金峰山薄打の事」というのは、おそろしい話である。吉野の金峰山に薄打職人(金属加工業者)がお参りに行ったところ、金が露出しているところを見つけてつい一部を持って帰ってしまった。ここの金をくすねると、地震雷大雨がくると言われているのに全然大丈夫であった。喜んだ彼はつい大量に金箔にしてしまうのであった。

ここまで読んできて、もう怪しい雰囲気がすごい。だいたい、金峰山の金をとったぐらいで天変地異が起こるはずがない。阪神淡路大震災とオウム事件が村山内閣のせいでないのと同じである。

で、検非違使に「こんなに金箔がありますよ」と報告してしまう。すると、彼の持っていたすべての金箔には「金の御岳金御岳」と書かれているのであった。むろん、男にそんな文字を書いた覚えはない。なんじゃこりゃあ、というわけで、彼は刑場で拷問される。

検非違使ども河原に行いて寄柱掘り立てて身を働かさぬやうにはりつけて七十度の栲問をへければ背中は紅の練単衣を水に濡して著せたるやうにみさみさとなりてありけるを重ねて獄に入りたりければ僅に十日ばかりありて死にけり

金は元に戻しました。で、「それよりして人怖ぢていよいよ件の金取らんと思ふ人なし、あな恐ろし」というのが結論ですが、いったいなにが恐ろしいのでしょう。どうみても、上の拷問のシーンが一番すごいではありませんか。藏王権現の祟りはおそろしや、というのが素直な人民の解釈でしょうが、どうみてもそんな権現など空想な訳でございまして、この権現をつかって金の私的所有を暴力機関が独占しようとしているとしか思えません。「金の御岳」を書いたのは誰だろう?誰か人間が書いたに決まってるでしょうが。たぶん、この薄打職人ははじめから誰かにつけられていたのではないだろうか。

たとえば、場へ引かれて行く、歩みの遅々として進まない牛を見た時、或は多年酷使に堪え、もはや老齢役に立たなくなった、脾骨の見えるような馬をするために、連れて行くのを往来などで遊んでいて見た時、飼主の無情より捨てられて、宿無しとなった毛の汚れた犬が、犬殺しに捕えられた時、子供等が、これ等の冷血漢に注ぐ憎悪の瞳と、憤激の罵声こそ、人間の閃きでなくてなんであろう。
 これらの憫むべき動物が、曾ていかなる場合にせよ、飼主を裏切ったことがあったであろうか。そして、彼等より正直で、忠実なものが、他にあったであろうか。その感情に表裏がなく、一たび恩を感ずれば、到底人間の及ばぬ忍耐と忠実とを示して来たのであります。そこには、ただ本能としてのみ看過されないものがある。これに比して人間は、ただ利害によって彼等を裏切ることをなんとも思っていない。それは、自己防衛する術を知らぬ、動物の報復について考えを要せぬからであります。それ故に、僅かに、神の与えた聡明と歯牙に頼るより他は、何等の武器をも有しない、すべての動物に対して、人間の横暴は極るのであります。
 斯の如きことを恥じざるに至らしめた、利益を中心とする文化から解放させなければならぬ。昔の人間は、常に天を怖れたものだ。万物の生命を愛してこそ、はじめて人間は偉大たるのであります。この意味に於て、動物文学は、美と平和を愛する詩人によって、また真理に謙遜なる科学者によって、永遠無言の謎を解き、その光輝を発し、人類をして、反省せしむるに足るのであります。


――小川未明「天を怖れよ」(昭15)


怖れる対象を間違うと、小川未明のように、戦争協力などしてしまうことになるのであった。たぶん大事なのは、恐れではなく認識であろう。

さけたる中より

2018-08-29 23:41:52 | 文学


漱石の「第一夜」は、「百年待っていて下さい」と死んだ女の化身だかなんだかの百合の花がするすると延びてきたので「百年はもうきていたんだな。」と男が思ってしまう顛末を描いていて、その怪しい美しさにいつも高校生たちは陶然となる。彼女は元々瓜実顔で、その百合の花の瓣の中に瓜の字が隠れていたりするのであるから、結構不気味な話なのであるが、漱石は星の欠片などのイメージをまき散らして読者をマッサージしているところがさすがである、というか実に狡賢い。

対して、「尼、地蔵を見奉ること」(『宇治拾遺物語』)は、瓣の中から瓜どころではなく、遊びから帰ってきた童子の額から、地蔵菩薩の顔が出てくるのだ。

その楚して、手すさびのやうに、額をかけば、額より顔の上まで裂けぬ。さけたる中より、えもいはずめでたき地蔵の御顏見え給ふ。


はじめてこの話を読んだときの心臓の鼓動をわたくしは今も覚えているような、気がする……。尼は、地蔵菩薩が暁に歩き回っていると聞いたので、是非お会いしたいと思って歩いていた。地蔵菩薩は、道ばたにいつもいるから、それが夜明け近くに歩いていると思ってしまう気持ちは分かる。今でも、田舎の農村なんかでは、しばしば地蔵があぜ道を歩いている。――読者は、尼は菩薩に案外簡単に会えるとも感じるのかもしれない。

夕焼けにひきつけられる文学者が、近代に多かったのは、もう研究でだいぶ明らかになっているが――、私は、暁もなかなかのもんだと思うのである。だいたい、学者達は徹夜明けの暁をいつも脳裏に焼き付けているし、麻雀帰りの皆さんも……というわけで、尼は博打打ちに会ってしまう。まさか、こいつが地蔵菩薩か、と一瞬われわれは思うわけであるが、それは当たらずと雖も遠からず、であった。

彼の子どもがそうだったのである。博打打ちの家に招かれた尼には、帰宅した子どもの額が割れて菩薩が顔を出すのがはっきり見えた。尼はうれしさのあまり、その場で極楽に行ってしまった。

まったく、親が昼夜逆転している輩であるから、子どもも既に昼夜逆転しているのであろう。その子どもを見て、暁に歩きまわって帰ってきた地蔵菩薩を幻視してしまうとは、この尼の信仰のものすごさが知られるということで、

されば心にだにも深く念じつれば、仏も見え給ふなりけると信ずべし。


と語り手は訓示を垂れている。

お地蔵さんをみると、我々は誰かの顔を見つける。しかし、これは信仰ではない。盆踊りで、自分の息子になくなった旦那の顔を見出すのも同じようなものだ。信仰とは違う。問題は、生身の人間の顔の内側に仏の顔を見出すことであった。竹の中からお姫様はでてくるかもしれないが――しかし、仏は滅多に子どもには埋まっていそうにもない。

だが、もしかしたら、戦国時代の殺しあいとか、現代のいじめの中にも、そんな内側への欲望を見出すことも或いは可能かもしれない。私小説なんかも案外、額からぱっくり仏がでてくることを期待しているのかもしれないのだ。

私と仏、字も似てる。

うたてしやな

2018-08-28 23:13:28 | 文学


最近まで、タマラ・ド・レンピッカの絵を、アメリカのどこぞのデザイナーが描いたものだと思い込んでいたわたくしであった。文学における匿名性とか無名性の議論は大変やかましいものであったが、考えてみると、我々は作者のことに興味がなけりゃだいたい匿名でも無名でもなんでも同じことだ。この程度のことに最近気づいたのであるから情けない。2(5)ちゃんねるの世界には我々は耐えられない。匿名でも自分にとっては自分は匿名ではないからだ。始まったものは止められない。考えてみると、表現することというのは思いの外おそろしいことなのである。

「田舎の児、桜の散るを見て泣く事」(『宇治拾遺物語』)は、高校生すら習うことのある話だが、解釈が難しいことでも知られているようだ。高野山にきた稚児が、強風で桜の散るのをみてさめざめと泣くので、坊主が、

などかうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを惜しう覚えさせ給ふか。桜ははかなきものにて、かく程なくうつろひ候ふなり。されどもさのみぞ候ふ

と言った。だいたい、桜をみていきなり泣き出すのが妙である。焦った僧が「桜ははかなきものにて、かく程なくうつろひ候ふなり。」と一般論を言ったところで、こういうことを表現した多くの天才的表現にくらべて、あんまり優れた表現とは言えず、そもそも逆に泣く根拠を説明した感じになったので、――僧もあわてて「されどもさのみぞ候ふ」などと決めぜりふを言ってしまったのであろう。

わたくしも、自分を間接的に責めているような女子が目の前で泣くのにたいして、「よくわからんが、この世はそんなもん」とか言うて、墓穴を掘ったことがあるが、――、誰かも言ってたように、高野山に来た稚児は、僧に囲われていた男色のための稚児である可能性があり――、そうだとしたら、僧としては、泣かれたことそのものにかなり重い意味があったとしか思えない。

桜の散らんはあながちにいかがせん、苦しからず。我が父の作りたる麦の花散りて実の入らざらん思ふがわびしき


近代文学の徒としては、麦をつくる農民に寄り添いたいところであり、麦の花の方が美しいのだといきり立つ必要も出てくるのかもしれないが、語り手は結局、

さくりあげて、よよと泣きければ、うたてしやな。


こう話を終わらしているだけであった。で、この「うたてしなや」の解釈がやっかいなのだ。

とにかくどうしたらいいかわからんので、僧は困ってしまったにちがない。なにしろ、桜より麦の花だよ、ていうか実がならないよ父ちゃんは生活に困るよ、と「違うし」とは言えないことを言われたあげく、しゃくり上げて泣かれたのだから、困ってしまう。さめざめどころではなくなってしまったのである。実際は、僧がうまいものでも食べさせて黙らせたとみた。しかし、そう書くわけにはイカンだろう。困った語り手は、もっともらしく「うたてしなや」と言ったに違いない。

こういうやり方をあまりわたくしは逃げだとは思わない。本当のことをかこうとすることの恐ろしさを、昔の人は知っていたのかもしれない、とも思った。

人相

2018-08-27 23:38:02 | 漫画など


さくらももこ氏が亡くなったそうであるが、「ちびまる子ちゃん」はアニメーションで何回か見たことがある。以前、ちびまる子ちゃんの実写版ドラマをやってて、家族で見てたところ、わたくしを含めた子どもが面白そうにしていたところ、母が「あまり面白くない」と言ったのが印象に残っている。わたくしは、「そういえば、本当にこれを自分は面白いと思ったのだろうか」と、そのとき思った。確かに、ちびまる子ちゃんの世界よりはわたしは「面白くない世界」にすんでいた気がする。どうも、生活世界にメディアが入り込んでいる度合いが、ちびまる子の世界の方が進んでいて、まる子やその姉は、マンガやアイドルの世界で遊んでいた。

さくらももこの世代は、わたくしより少し上だが、――わたくしの生活実感は、「サザエさん」の方に近い。と、思ってもみたが、そうでもない。むしろ「サザエさん」は非常に都会の世界でおしゃれな人間関係を形作っていて、これとも違うようだ。しかし、かといって、「アパッチ野球軍」とかの世界とも違うし、「おしん」とも違った(一部はちょっと似てた)し、無論、「はやり唄」とか「田舎教師」の世界とも違う。

私たちは、自分の生活の原風景など、実際は殆ど記憶していない。「サザエさん」とか「ちびまる子ちゃん」が必要なのは、そのせいである。実際は異なっているのであるが、記憶を少し思い出すための媒体なのである。同世代の西原理恵子のマンガは、これらに比べると、ほんとうのことをデフォルメしてしまっているので、我々は作品世界に縛られてしまい、自分の記憶など思い出さない。

「宇治拾遺物語」の「伴大納言の話」(第四話)は、応天門事件で流罪にあった伴大納言の若いときの話である。西寺と東寺を股にかけて仁王立ちする夢を見た彼が妻にそれを言うと、「あなたの股が裂かれるのね」と言われたのでびっくりしたが、出勤してみると、上司の郡司がいつもと違って彼を歓待してくれて、

なんぢ、やむごとなき高相の夢見てけり。それに、よしなき人に語りてけり。かならず大位には至るとも、こと出で来て、罪をかぶらんぞ

と言うのであった。で、本当にそうなってしまったよ、と語り手は話を終えている。今も昔も、人相でなにかを判断したがる人は多いし、わたくしも屡々やっているかもしれない。案外、「あの顔はあかん」とか言い合うことで社会が成り立っている面は看過しがたい。しかし、本人にとっての自分の顔というのはよく分からないので、――「その夢はいいね」と言われたことの効果の方が大きい。最後は罪人になろうとも、あまり気にはならないのではあるまいか。

確か、酒井浩介氏の以前の論文で、小林秀雄的批評の起源としての座談会についての論文があった。座談会がトラブル処理の権力闘争のドラマみたいなものになっているという論旨だったと思う。こういう説話でも、様々な声の権力闘争によってなり立っているところはあり、「伴大納言の話」の場合、伴氏は結局人相が悪かったんじゃねえか、という判断をしている話者が勝っている気がするわけである。『日本三代実録』でもなにやら容姿について批判されている彼のことであって、まったくかわいそうなことである。

ちびまる子ちゃんはその点、人相が良い……のだろう……

性格の悲喜劇?

2018-08-26 23:34:54 | 文学


太宰の「御伽草子」の「瘤取り」という話は、昔は何が面白いのかよくわからず、防空壕のなかで子供用の絵本を片手に語り手が語り出すところから、「鬼畜米英批判」みたいな話であろうと思っていたが、最近は、最後にある「性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。」とかいうせりふがなんとなくリアリティがあるように思われてきた。

陽気な阿波踊りには拍手喝采したくせに、通盛を唸ったじいさんには冷たかった鬼さん達は、いまのパーティ大好きのある種の人々と大きな違いはないひとたちであった。酷いのは、「こぶをとってくれよ」と追いすがる爺さんに「なんだ、さうか、あれは、こなひだの爺さんからあづかつてゐる大事の品だが、しかし、お前さんがそんなに欲しいならやつてもいい。」と、聞き取り能力の低さをいかんなく発揮してしまったことであった。しかしまあ、身に覚えのないことではない。いやな相手の言うことをわれわれはほとんど聞けていない。

世の論争などをみても、そういうことを感じる。

とはいえ、これは本当に「性格の悲喜劇」なのであろうか。わたくしは違うと思うのである。太宰は、なんで屡々こういう結末をつけてしまうのであろう。まったくいい性格をしているという他はない。瘤付きの比喩なんかを重ねるから……。

これに比べて「宇治拾遺物語」の

「ものうらやみは、すさまじき事なりとか」

というのは、汎用性があってよさそうだ。かかる教訓を一生かかって回避しているような人間が増えて来ている気がするが、そんなのはむかしから多かったのであろう。ただ、気の利いた子供なら、

「おれに瘤はねえよ」

と言って終わりである。そりゃお前にはねえだろう。

法師、転生

2018-08-25 18:51:52 | 文学


「不浄の身で説法する法師、平茸に生れ変はるといふ事のあるものを」と仲胤僧都は言った。ある村で平茸が異常発生して、それを喜んで食っていたのだが、ある夜、村人が集団で同じ夢を見た。この時のコメントがそれであった。

「いかなる人ぞ」と問ふに、「この法師ばらは、長い年月宮仕ひよくして候ひつるが、この里に縁尽きて今はよそへまかり候ひなんずる事の、かつは名残惜しくも候ふ。また事の仔細を申さではと思ひて、この由を申すなり」と

こう言って、僧達は消えてしまった。事の仔細を結局ちゃんと言ってねえじゃねえか、と思うが、その僧都たちもよく分かっていなかったのではなかろうか。世の摂理は測りがたし。仲胤僧都も確かにそうだと言っておらん。

確かに、平茸の群生している様は、なにか人間の姿を彷彿とさせる。だから平茸を人間と転生したものと考える発想が特別珍しいと思えないのである。最後に、仲胤僧都の「されば、もともと平茸などは食はざらんに、事欠くまじきものとぞ。」との言は、毒茸と区別がつかないから気をつけろという忠告とも解されようが――、そもそも平茸が元人間であったとしたら、地獄の鬼の役割を食べる人間がすることになり、なんとなく自分が怖いということになるであろう。仲胤僧都も一回はなにかよからぬ事をしているに違いないから、「平茸になった時に食われるのやだなあ」と思ったのかもしれない。

何かへんなキノコを食べて集団的な妄想に駆られたという解釈もあり得るであろう。八十年代のアニメなら確実にそうなる。

しかし、わたくしは、この大衆時代に鑑み、こう解したい。

法師達は平茸なんかではなく、本当にこの村で集団合宿でもやっていたに違いない。だから「よそへまかり候ひなんずる事」と言っているのである。村人が村祭で酔っ払って寝ているところに、彼らが「どうもお世話になりました」と挨拶に来たのだ。彼らが同じような夢を見たのはそういうことである。平茸が多く生えたのは、数年そういう気候だったに過ぎない。相談に乗った仲胤僧都は、農民達の愚昧ぶりにあきれたが、彼らを馬鹿扱いにしてはあとが怖いので、適当な理屈をでっち上げたのである。で、自分で言ってて不安になったので、「平茸はあんまり食べない方が……」とお茶を濁してしまったのであった。仲胤僧都、さすが言っていることが絶妙に意味不明だ、ということで、宇治拾遺の作者もほくそ笑みながら第二話に収録……

世々生々忘れがたく候ふ

2018-08-24 23:57:23 | 文学


わたくしが好きな「宇治拾遺物語」の話と言えば、「道命阿闍梨、和泉式部の許にて読経し、五条の道祖神聴聞する事」である。

道命阿闍梨さんは和泉式部とよい仲であった。この方は、『蜻蛉日記』の作者の孫であった。お経が得意で、そのダンディなお声で和泉式部を引っかけたに違いない。しかし、よりによって和泉式部が相手とは、変態的である。

「下もゆる雪まの草のめづらしくわが思ふ人にあひみてしがな」

「庭のまま ゆるゆる生ふる 夏草を 分けてばかりに 来む人もがな」


まったく男をなんだと思っているのでしょうか。草か猪扱いです。

で、その道命であるが、和泉式部とイ㋳らしいことをしたあと、夜中に目覚めていきなりお経を読み出す。よく分かりませんが、三木清が昔、すっきりしてから論文を書くみたいな、――似たようなことを人に語っていたと読んだことがあります。全く、女をなんだと思っているのでしょうか。しかし、この美声に聞き惚れていたのは、隣で寝ている和泉式部ではなく、部屋の外ににいつの間にか来ている汚い爺。焦った阿闍梨――。

「法華経を読みたてまつることは常のことなり。などこよひしもいはるるぞ」といひければ、

だから、そういうことを読者は気にしてるんじゃないの。裸の和泉式部の隣でいつもお経しとるかときいとんの!爺は、

「清くて読みまゐらせ給ふ時は、梵天・帝釈をはじめたてまつりて、聴聞せさせ給へば、翁などは、近づきまゐりて承るにおよび候はず。こよひは御行水も候はで読みたてまつらせ給へば、梵天・帝釈の御聴聞候はぬひまにて、翁まゐりよりて、承りてさぶらひぬることの忘れがたく候ふなり」とのたまひけり。

やはり、欲情にまみれた体でお経を読んだのがまずかったみたいです。梵天・帝釈はしっかりしているので、和泉式部といいことしたあとの涅槃的なお経なんか聴いていられないのです。言い忘れましたが、この爺、「五条西洞院」の辺りの「道祖神」であった。怪しい。おそらく、ロケットみたいな形をしたあの方の可能性がある。

されば、はかなくさは読みたてまつるとも、清くて読みたてまつるべきことなり。「念仏・読経、四威儀をやぶることなかれ」と恵心の御坊もいましめ給ふにこそ。

やはりこう言うしかないのである。ベッドでお経するとロケットから感謝されるなど、教訓にも何もならない。しかし、梵天・帝釈もあれである。絶対、隠れて聴いているとみた。「今夜はやはり色っぽい音ですな、なはは」とか言いながら。

GO TO HELL


心とき者とドンファン

2018-08-23 23:52:24 | 文学


平中は都で有名なプレイボーイであった。それがある女に惚れたのだが、その女が『竹取物語』の宇宙人の更に上を行く男を回避する天才であった。やけになった平中は、「あの女の㋒ンチをみれば百年の恋も吹っ飛ぶに違いない」とか考えて、ついにその女の便器を奪う。

昔は、おまるでよかったな。今だったら、大変ですよ。かなり広範囲を工事しなければならない。

平中、心とき者にて、これを心得るやう、尿とて入れたる物は、丁子を煮てその汁を入れたるなりけり。今ひとつの物は、ところ・合わせ薫物をあまづらにひぢくりて、大きなる筆柄に入れて、それより出ださせたるなりけり。

まさに、頭の回転がよい人というのは、ウ★コが美しい便器に入っており、しかも惚れた女のものとなると、すぐこのぐらいのことは了解してしまうものなのである。今昔物語集の書き手は本当に賢い。心とき者というのが、案外自分がモテると勘違いしている人も多いということを知っていたのであった。しかも優しい。彼はこの㋒ンチ事件以来、ますます焦がれ続けて徐々に死んでいくのである。スカトロ好きでなくとも、真の恋を知る者、この顛末が真実だと分かる。

それにしても、これを基にした芥川龍之介の「好色」という作品は好きになれない。芥川はときどきイランことを書くのであるが、「わたしの Don Juan の似顔である。」とか書くから、話がややこしく曖昧になってしまうのである。で、このドンファンがドンファンらしくあるために、㋒ンチと対面したときなんか、

「この中に侍従の糞がある。同時におれの命もある。……」
 平中は其処に佇んだ儘、ぢつと美しい筐を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いてゐる。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。と思ふと遣戸や障子も、だんだん霧のやうに消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさへ平中には判然しない。唯彼の眼の前には、時鳥を描いた筐が一つ、はつきり空中に浮き出してゐる。……


㋒ンチでありながらおれの命である物体とは果たしていかなるものであろうか。㋒ンチ以外の何者でもあるまい。

平中は殆気違ひのやうに、とうとう筐の蓋を取つた。筐には薄い香色の水が、たつぷり半分程はひつた中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふと夢のやうに、丁子の匂が鼻を打つた。これが侍従の糞であらうか? いや、吉祥天女にしてもこんな糞はする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いてゐた、二寸程の物をつまみ上げた。さうして髭にも触れる位、何度も匂を嗅ぎ直して見た。匂は確かに紛れもない、飛び切りの沈の匂である。
「これはどうだ! この水もやはり匂ふやうだが、――」
 平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水も丁子を煮返した、上澄みの汁に相違ない。
「するとこいつも香木かな?」
 平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも透る位、苦味の交つた甘さがある。その上彼の口の中には、急ち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになつた。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくつたのである。


先の今昔の頭の良い男の了解ぶりに比べて、なんというゆっくりな思考であろう。惚れた女の㋒ンチをみた男が「これが侍従の糞であらうか? いや、吉祥天女にしてもこんな糞はする筈がない。」とか、果たして思うであろうか。もっと直裁に「おっ」とか「うひゃ」とか思うのではなかろうか。

このあと芥川のドンファンは、おまるを取り落として卒倒してしまうのである。

「その半死の瞳の中には、紫摩金の円光にとりまかれた儘、(女+展)然と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮かべながら。……」

妙な漢字使いおって、糞っ、としか言い様のない結末である。しかも、今の岩波全集版などだと、このあとにも一文がある。

「然也けり」と心得る事無くて

2018-08-22 23:47:38 | 文学


彼の家に、男、二三年副て有けるに、「然也けり」と心得る事無くて止にけり。亦、盗しける間も、来り会ふ者共、誰と云ふ事をも努知らで止にけり。其れに、只一度ぞ行会たりける所に、差去て立てる者の、異者共の打畏たりけるを、火の焔影に見ければ、男の色とも無く極く白く厳かりけるが、「頬つき・面様、我が妻に似たるかな」と見けるのみぞ、「然にや有らむ」と思えける。其れも慥に知らねば、不審くて止にけり。

これは、芥川龍之介の「偸盗」に使われた「不被知人女盗人語」(『今昔物語集』29-3)の最後の場面であり、物語を読み進めてきた読者を驚かせる。ここで、男や女の人生が一気に見えるようになるのである。物語は、確かじゃない、そうかもしれない、と言っているにも関わらず。

この場面がなければ、女に性的に調教されて盗賊をやってしまったマッチョな男の話、あるいは、ファム・ファタールの物語ともマゾヒズムの物語ともどうとでも呼べるものなのだが、それを突き放してしまう。

しかし、わたしは、どうもこの話はいい話過ぎるのではないかと思う。

稀見理都氏の『エロ漫画表現史』が有害図書指定を受けたというので問題になっていた。わたくしも瞥見してみたのだが、劣情というより確かに「有害」という範疇を呼び寄せる感じなのだ。有害図書指定した側が愚劣なのはもちろんであるが、問題はその先であろう。七十年代のイケナイ成人漫画の頃から既にそうだったように、エロ漫画というのは、もう魑魅魍魎への変身の世界であって、我々がそれを忌避するのは、単にタブーだからなのではない。わたくしが西洋の文化をあまり舐めない方がよいと思うのは、例えば、イザベル・アジャーニの演技で有名な映画「ポゼッション」で、タコと美女の絡まり合いみたいなものでも何とか「芸術」のテンションのなかにはめ込んでしまう観念的体力がものすごいとおもうからである。


鱗は落ち、農民は敗れる

2018-08-21 23:21:17 | 思想


P・G・プライスはカナダ・メソジスト教会の宣教師であるが、彼の『共産主義と基督教』というのが昭和初期に翻訳されていて、わたくしも持っている。マルクスとキリストが似ているというので、ではパウロに当たるのはレーニンだという観点で書かれた本である。(ちなみに訳者は、同志社で社会福祉論を説いたクリスチャン・竹中勝男である。彼は大学を辞めてからは社会党の議員になった。)

十月革命の時、「兄の附き纏える霊が、レーニンの心魂を摑んでゐた」らしいのである。少年ジャンプかと思うのは、日本の少年達だけで、神の国を実現しようとする人間達にとってはよくある風景に違いないのである。

パウロの書いたロマ書にルターがつけた文章を読んだ人がメソジスト運動の基になったのは有名な話である。

パウロはキリスト教を迫害していたのであるが、天からキリストの「なんでそんなことするの?」という呼びかけを聞き、しかも目が見えなくなった。アナニアさんという人が祈ってあげると眼から鱗が落ちて回心した。以来、キリスト教弾圧レベルのことをやっているわけでもなく、単に無知だったのに、「先生の話を聞いて眼から鱗です」とか、授業アンケートに極東の学生が書くに至る。

わたくしが権威ではなくとも、鱗は落ちる。

本当は、キリスト教内部でも、神の権威を保つのは容易ではなかった。ルターはパウロのロマ書を引き、プライスはレーニンまで引いてきて暴力的な態度をちらつかせるのである。

それにしても、我が国はこういう抵抗運動の神話的つながりみたいなものがあまりないようだ。われわれは、現在から何かを一からひねりださなければならず、いざとなれば、「この身が砕けようともなんとやら」みたいな感じで自殺行為に走る。英霊もそうだし、農民一揆の犠牲者たちも、なんか記念碑が建ってるだけで、彼らがどう戦ったのかわからなくなっている。キリスト教がそうだったように、教祖が死に弾圧を生き延びたあとの言葉の組織が問題なのであろう。とにかく、我が国では、死者を代弁する輩が揃いも揃ってクズばかりなのである。

甲子園大会をみてると、また「農民が強敵に玉砕かくごで向かっていき美事粉砕された」神話が上演されていた。そこには我々の歴史の長い諦めの時間があるようで悲しくなってくる。決勝戦に勝ち上がった「農業高校」への我々のまなざしにはちょっと根深いものを感じた。

いのりてしこと

2018-08-20 23:56:14 | 文学


最近、若手の論文を読んでいて、なんだか、自分でも面白いと思ってもいないようなことを整然と書く連中が増えてきたと思って、ぷんすかしていたのであるが、よく考えてみたら、こんなのは、わしの世代に見られた一大特徴であることに気がつき、とりあえず、

一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと(啄木)

と思ってしまったわたくしの凶暴性が心配だ。

東京五輪メダル「銀」まだ足りない、小中学校でも回収へhttps://www.nikkei.com/article/DGXMZO34336660Q8A820C1MM0000/

だいたい、銀じゃなくてもいいんだから、木でもアルミでもなんでも良いじゃんか。戦闘機だって木でつくったことあったじゃん……昔。

人みな死ねと いのりてしこと

そういえば、お昼を食べながら「銀魂」という映画を少し見たけど、結構面白そうだったな。先日、ごく一部みた「きみの膵臓を食べたい」とかいうおそろしげな映画よりよほど面白そうだ。原作は知らないが、この映画の心理描写はすべて無駄という感じがしたぞ。うだうだ悩む前に勉強すればよいのである。

人みな死ねと いのりてしこと

結局、こういう心理をいかに抑圧するかみたいなラブコメ映画が多すぎる。

信濃守だった役人が御坂峠で谷に墜ちた。外からやってきた役人のことだ、さぞ恨まれていたのであろう。「人みな死ねと いのりてしこと」と思われていたであろう。しかし、よく知られているように、キノコを収穫して戻ってきた。

其の木に平茸の多く生ひたりつれば、見棄て難くて、先づ手の及びつる限り取りて、旅籠に入れて上げつるなり。未だ殘や有りつらむ。云はむ方無く多かりつる物かな。極じき損を取りつる物かな。極じき損を取りつる心地こそすれ(「信濃守藤原陳忠御坂より落ち入る語」)


結局、心の余裕があるやつだけが、キノコを収穫できるのだ。それを下々の者が、がめついやつだとか、なんだか言って批判する。だいたい、そんなことをぐだぐだ言わずに自分でキノコを採りに行けばよいのである。わたくしが論文を読んでいて、違和感を持つのもこういうことだったのだ。わたくしも気をつけなくてはならない。銀も同じことだ。欲しけりゃじぶんで取りに来い。