漱石の「第一夜」は、「百年待っていて下さい」と死んだ女の化身だかなんだかの百合の花がするすると延びてきたので「百年はもうきていたんだな。」と男が思ってしまう顛末を描いていて、その怪しい美しさにいつも高校生たちは陶然となる。彼女は元々瓜実顔で、その百合の花の瓣の中に瓜の字が隠れていたりするのであるから、結構不気味な話なのであるが、漱石は星の欠片などのイメージをまき散らして読者をマッサージしているところがさすがである、というか実に狡賢い。
対して、「尼、地蔵を見奉ること」(『宇治拾遺物語』)は、瓣の中から瓜どころではなく、遊びから帰ってきた童子の額から、地蔵菩薩の顔が出てくるのだ。
その楚して、手すさびのやうに、額をかけば、額より顔の上まで裂けぬ。さけたる中より、えもいはずめでたき地蔵の御顏見え給ふ。
はじめてこの話を読んだときの心臓の鼓動をわたくしは今も覚えているような、気がする……。尼は、地蔵菩薩が暁に歩き回っていると聞いたので、是非お会いしたいと思って歩いていた。地蔵菩薩は、道ばたにいつもいるから、それが夜明け近くに歩いていると思ってしまう気持ちは分かる。今でも、田舎の農村なんかでは、しばしば地蔵があぜ道を歩いている。――読者は、尼は菩薩に案外簡単に会えるとも感じるのかもしれない。
夕焼けにひきつけられる文学者が、近代に多かったのは、もう研究でだいぶ明らかになっているが――、私は、暁もなかなかのもんだと思うのである。だいたい、学者達は徹夜明けの暁をいつも脳裏に焼き付けているし、麻雀帰りの皆さんも……というわけで、尼は博打打ちに会ってしまう。まさか、こいつが地蔵菩薩か、と一瞬われわれは思うわけであるが、それは当たらずと雖も遠からず、であった。
彼の子どもがそうだったのである。博打打ちの家に招かれた尼には、帰宅した子どもの額が割れて菩薩が顔を出すのがはっきり見えた。尼はうれしさのあまり、その場で極楽に行ってしまった。
まったく、親が昼夜逆転している輩であるから、子どもも既に昼夜逆転しているのであろう。その子どもを見て、暁に歩きまわって帰ってきた地蔵菩薩を幻視してしまうとは、この尼の信仰のものすごさが知られるということで、
されば心にだにも深く念じつれば、仏も見え給ふなりけると信ずべし。
と語り手は訓示を垂れている。
お地蔵さんをみると、我々は誰かの顔を見つける。しかし、これは信仰ではない。盆踊りで、自分の息子になくなった旦那の顔を見出すのも同じようなものだ。信仰とは違う。問題は、生身の人間の顔の内側に仏の顔を見出すことであった。竹の中からお姫様はでてくるかもしれないが――しかし、仏は滅多に子どもには埋まっていそうにもない。
だが、もしかしたら、戦国時代の殺しあいとか、現代のいじめの中にも、そんな内側への欲望を見出すことも或いは可能かもしれない。私小説なんかも案外、額からぱっくり仏がでてくることを期待しているのかもしれないのだ。
私と仏、字も似てる。