★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

知止而後有定

2023-06-29 23:45:56 | 思想


知止而後有定,定而後能靜,靜而後能安,安而後能慮,慮而後能得。

ネットスラング?で、「とりあえずオチツケ」みたいなものがあったと思うが、「大学」でもとりあえず止まれ(オチツケ)と言っている。これを目標を定めるとか、沈思黙考するとか、いろいろイメージはあると思うが、これは経験的な教えである。高校の頃、坊主にしていたわたくしは、たしか理科の先生にアルファ波がでるでないみたいな実験台になったことがあった気がする。

坊主頭も、なにか「止まる」感じがする。髪の毛が動きすぎるのだ。

最近、あちこちの大学で「だめライフ愛好会」というものが流行っている。むろん、ものぐさ太郎のマネなのである。のちのち働くためにいまは「止まる」ことを自らに要求するのである。わたくしはこういう、大学での「だめライフ」的なもの――「駄目らいふ」や「ダメらいふ」を選ばなかったのがよい――はなんか好きで、やはり大学生のだらしない生活が好きでそもそも大学生が好きなんだなと思う一方、私自身は演習と研究会と楽団を忙しく行き来する活動的な学生だったしいまでも駄目な学生は留年さs

木村鷹太郎とかみんな馬鹿にするけど、なんかすげえじゃないか、すげえよなんか。しかし木村は、邪馬台国エジプト説とか、日本を移動さしたことが惜しい。むしろ、日本でつくったピラミッドをエジプトまで移動さすべきであった。こういうタイプは論争家が多く「キムタカ」と呼ばれて恐れられたわけだが、壮大なボケをかましているのだから、どことなく人恋しさのあまり自分に「止まる」ことが出来なかった人とみた。

そういえば谷川雁は、九州の炭鉱での活動後に長野県の黒姫にいって語学会社やったり、ニコルを呼んだりしているわけだが、確かに知識人が長野県にはなんか来る。――まあ宗教なんかも来るが。昨年、市民講座で近代の超克についての話を「夜明け前」と木曽の話からはじめたわたくしの脳裏には、藤村や西田や廣松の文体の晦渋さを浮かんでいた。谷川雁をはじめとした田舎の活動家には、山林に迷う晦渋な地帯に、世の中が見えていた。「近代の超克」論の人々は、まだ頭が「世界史」みたいなかんじだったので、それが見えなかった。近代でも足「止め」を食わされた西田幾多郎とか、田舎者で時間が「止ま」っていた時期を持つ廣松や谷川にようやく田舎の姿が見え始めた。独歩がどうだったのかわからない。よく言われるように、移動することによって風景が見えはじめたような気がする。しかしそれは「世界史」への移動でもあった。

保田與重郞の小林秀雄「本居宣長」への感想文はいつも論理と証拠に脅しつけられている日本人民に勇気を与える。「わが私」とか「どきどきすることだ」とか、「宝ものが無数」とか、そんなかんじの言い回しがたくさん出てくるからだ。保田は、戦前からまったく移動しないひとであった。「止ま」ってばかりいることの効能を信じていたのであろう。

漫画家の島本和彦氏が言ってたが、幼稚園から漫画描くような早熟さ故、逆にニューウェーブにのれなかった、と。こういうことは研究者にもあり、大学から文学始めたような遅すぎる奴らが流行にも乗れる。この場合、「止ま」ってたやつがどちらだったのかは、分からない。いつ「大学」の言う、心静かな時間がやってくるのかは、時代にも因る。

大学之道とネット空間

2023-06-26 23:12:01 | 思想


大學之道、在明明徳、在新民、在止於至善。

「大学」の冒頭である。大学で学ぶべきことは、ぼやっと煤けている我々のなかから徳を輝かせ、民衆を新たに輝いた状態に戻す、――つまり究極の善に留まらせること。それは結局政治学であり、温故知新的、保守的である。日本では、ここに煤にも魂ありみたいな肯定思想が入り込み、煤を含めたものを多様性と称して一宇の元に保守するみたいなかんじになりがちだ。だから、それへの反抗も、もっとひどい煤である、みたいな子供じみたものになる。そして天の徳を示す者は、ものすごく現実から浮き上がった感じになってしまう。

チャットなんとかで頭使わないようになると、グーグル検索の時もそうだったように、更に頭使う次の段階に進めなくて結局大学の後半の授業にはそもそもついていけんようになるのではないだろうか。。。レポートだけで評価するんじゃねえからな。発表とか試験とかがあるし、普通に何モノかが露呈するであろう。つまり、これからの我々の戦いは煤からダイヤモンドをつくるみたいな詐欺との戦いである。そのためにはより天の徳が何であるかをそれへ至るプロセスを含めて我々が認識しておく必要がある。

明徳を目指す――世直しを志向する人は、言い間違い、聞き間違えをはやめに修正していく必要がある。相手の間違いを修正するにはそのぐらいの覚悟は必要である。しかし大概はまったく逆で、大きな転向はするが、細かい修正は意地でも認めない傾向がある。これを続けていると、学校で教師の非常に小さいミスをあげつらって動物園のようになってしまうのと似たような事が起こる。何しろ煤けた状態を巻き込もうとする勢力にとって、本質は煤にしかないからだ。

おっさんたちのネットでの放言はどこかしらネット時代以前の感覚を引き摺っていて、梃子でも動かない煤けた現実にコップの水をなげる感覚なのかもしれない。そこで現れる戦いも、煤けた現実とは違った戦いの世界にすぎなかった。だから、明徳を示す「大学」的な空間にも思われたのである。一方、現実の良識が失われて逃げるようにネットに参入した明徳志向の人たちと違って、ネットが社会インフラである人たちにとって、無責任な放言は浸透力があるリアルなデマと同等である。やるんだったらそういうデマは一人一殺的な攻撃をしてつぶさないと煤けた現実を保てない。かくして、煤けた状態がネット空間では常態となる。

声色と存在

2023-06-25 23:54:16 | 文学


「花はさかりまでという、知っているだろう」
「…………」
「美しいものは、美しいさかりを過ぎると忘れられてしまう、人間いつまで若くていられるものじゃない、おまえだってもう十八だろう、ふじむら小町などと云われるのも、もう半年か一年のことだ、惜しまれるうちに身の始末をするのが本当じゃあないか」
「それはわかってますけれど」
 お民は客の盃に酌をしながら、ふと考えるような眼つきになった。
「身の始末をするにしたって、ゆきさきのことを考えますからね」


――山本周五郎「初蕾」


こういう場面ですら、下手な声色を使ってはいけないことは確かだ。山本周五郎なんかはさすがに言葉の裏の匂いを感じながら読まないと、――読めたものではないのだ。

ここ何十年かの、詩や小説の「気持ちが表れるように」音読させるやり方は常軌を逸している。しかもこれは授業の最初じゃなくて、まとめだったりするわけで。よく言われる「お気持ち主義」みたいなものはこういう授業で訓練されている。それによって、近代の作品にあった「内面」が破壊され、声色で
かっこつけたような「気持ち」がメディアをはじめ「公的」世界で繁茂するようになった。

まだ漢文の素読や和歌の暗記のほうがましだったと思うのは、それに込められた気持ちとやらは考えずに受け取っているからで、対するお気持ち音読は、単に音読する奴の気分を乗せているだけの、作品への虐待である。主人公の気持ちが分かる場合に、そのせりふをマネして堂々と声に出せる人間は人間としておかしい。そんな「優等生」がマイノリティ研究やら、一人も取りこぼさないとか言うても信用されない。こういう人は多くはないかもしれないが、そういうタイプの一人の分かりやすい欺瞞はインパクトが大きい。残念ながらそういうものであろう。

思うに、記号的な名前なのに「詩人」としての存在感があり、にもかかわらず青春時代なのか老いているのかわからず、朗読するときに容易にそれに即した「お気持ち声色」が使えないのが最果タヒである。最果タヒ氏の本領はもしかしたら老いてからではないかとおもう。文字と解離しているようでいて、いまですらある存在感が、本当の老いに直面してすごい迫力が出てくると思う。――要するに、問題は、言葉を発する者の存在感と関係ない「お気持ち」はどうでもよいということである。そのことをわかっているから、我々の社会では競って、マイノリティとか精神的問題とか奴隷的労働とか、子どもであるとか親であるとかという「レッテル」を殊更背負って喋る人間がでてくる。「レッテル」は存在の代替物である。

例えば、保護者からの「子どものいない先生は子どもの気持ちが分からない」みたいな誹謗中傷はよくあると聞くが、こういう文字通りにとったばあい馬鹿発言にしかなっていないものには、いちいちダメージを食らわないようにしなきゃいけない。――が、これがダメージになってしまうのは先生の側に、自らの存在照らして「馬鹿な発言ですね」と判断しそれを「言う」権利がなくなっているからである。残業時間を少なくしても無駄である。そういえば、独身時代の頃、「独身教師には、恋愛する高校生の気持ちがわからない」と言っていた校長(いや理事長だっけ?)に出会ったことがある。こういう**な発言は馬鹿にはつきものなので治らない。だから言われた方がちゃんと「馬鹿ですね」と言っても厭がらせを受けない職場が存在していないといけない。しかし、職場環境を整えるみたいな考え方だと、お上や管理者がそれを整えなければいけないみたいな発想になってしまうけれども、馬鹿なやつは管理職にも同僚にも保護者にもいるに常に決まっているのであって、必要なのはやはり常に言論の自由なのである。そしてこの自由こそが、言葉と存在を緊密に結びつけるのだ。そしてその上で、「気持ち分かれよ」みたいなコミュニケーションが不要ではなくむしろ有効な場合が多くなるのである。

他人の気もちがわかるわからんみたいなエスパーみたいな観点が我々を縛っているのが変なのであるが、必要なのは丁寧な観察である。しかし、それにしたって勉強と経験が必要な大変なことだ。とにかくすべて容易ではないのだが、そうならずに、大概は憤懣が容易さを導いてしまう。そしてそれがどことなく嘘くさい「力」を行使することだけが目的の発言となるのは、そもそも憤怒によって精神の自由がなくなっているからだ。

なぜ対話や論争が生じないかといえば、いまだったら、中年より上の世代が、それより上の喧嘩っぱやい批判的知識人たちが現役の時には憤懣に耐えつつ黙っていて、彼らがいなくなったとたんに意見を通し始めたような現象があり、気持ちはわかるけどそれは人によって態度を変えただけではと思われた事に少しは原因がある気がする。これはいまどきの優しいリベラルみたいな人たちにもある現象で、結局意見より「力」を重視しているようにみえる人間が信用されるわけがない。そしてそれが過去に戦えなかった弱さの隠蔽である限り、相手は弱者として彼らを扱うに決まっているのである。――こういうのは、ずっと繰り返されてきた歴史に過ぎないと思うが、軽視してはならないことだと思う。

観察や研究を行っても、どこまでもマトハズレみたいなことはある。これも、何か目的を学問から外してしまったから起こる現象である。学会や何やらに限らず発言者自身のためみたいな質問や発言が多くなっちゃって、問題提起そのものが無視される傾向があるのも当然である。質問も発表も、学問それ自体に即する問題提起である必要があるが、そうでないと、やることが全て書類の傷のなさみたいなのに向かっているあり方に似てきてしまうのだ。ほんとの役人の頭の使い方ですらない、セールストークあるいは学校的反省文的ななにかである。教育現場で、部活はやめたいが、書類をやめることができないのとおなじことが、研究の分野でも起こっている。

建築の本義は「善美」にあると云ふのは

2023-06-24 23:54:16 | 思想


建築の本義は「善美」にあると云ふのは、我輩の現今の考へである。併し或る人は建築の本義は「安價で丈夫」にあると云ふかも知れぬ、又他の人は建築の本義は「美」であると云ふかも知れぬ。又他の人は建築の本義は「實」であると云ふかも知れぬ。孰れが正で孰れが邪であるかは容易に分らない。人の心理状態は個々に異なる、その心理は境遇に從て移動すべき性質を有て居る。自分の一時の心理を標準とし、之を正しいものと獨斷して、他の一時の心理を否認することは兎角誤妄に陷るの虞れがある。これは大に考慮しなければならぬ事である。


――伊東忠太「建築の本義」

征から逃げて

2023-06-22 23:04:34 | 思想


孟子曰、春秋無義戰、彼善於此、則有之矣、征者上伐下也、敵國不相征也。

「春秋」に正義の戦争はない。あの戦争がこの戦争より比較的マシというのはある。征というのは上が下を伐することだ。敵国同士がお互いに征服し合うことではない。

この点からいえば、現代にも正義の戦争はないことになるだろう。むしろ正義の戦争は、先生が生徒を𠮟るみたいなことにしかない。生徒が先生を尊敬しなくなったことは則ち正義の戦争がますますなくなったことを意味し、お互いは征服しあっているにすぎないということだ。とすると、正義とは、このような状態をやめる唯一の「戦争」の手段である。よく言われることでもあろうが、もはやこれは毛沢東やレーニンにとっての革命戦争と同じだ。もっとも、こういう革命戦争の生成は我々にとって、必然的であって、孟子も自信をもってこれは世の中の必然に過ぎないと言っているのだと思う。

20世紀では、このような上――革命戦争の生成を一旦生活や苦悩の線まで後退してからハンマーの跳ねかえりのように飛び上がることが必要だと感じられていた。しかし、いまは、それ以前に大谷翔平みたいな童顔の超人がヒーローに成り、癒やしと興奮を一度に与えるようなドラッグ的な効果をだしている。

わたしのように20世紀の感性を持ったものはそういかない。例えば、大谷関しても、「大谷翔平という名前がいいよな、これが小溝落凹だとおれが小さいときに自転車でどぶに嵌まったイメージしか思い浮かばない」とか呟く傾向があるし、この前商店街を歩いていたら、「今時の子は大谷みたいなカワイイ顔の子多いよな、育ちがいいよ」とか言うているおじさんたちに会ったので、「戦争責任を忘れたりなんとかするのは人民の常なのであれとしても、わが浅野君の顔を忘れたのか?」と心の中で呟く体たらくである。ネガティブなものに対してもそうであって、例えば、人間嫌いと称している人はたいがいそういうことを人に言うことが好きなんだろうとかすぐ考えてしまう。ほんとに人間嫌いの人がいるのに。

わたくし、小さい頃からいろんなことをやってみたいタチで、いろんなコミュニティに入ってみたんだが、なにゆえ自分の同じ嗜好なのにかくも合わない人が多いのかと思う経験が多く、――まあ許せるかなという業界にたどり着いたつもりがやはりそうでもないということで――いまや細と蛙がともだち、という感じである。

今日は、授業で、河上徹太郎の「近代の超克」関係の文章を解説したが、こういう韜晦に関して興奮するわたくしが注文して、今日届いたもの

 ・林房雄「神武天皇実在論」
 ・ガイヤー「馬鹿について」
 ・「悪魔のいけにえ」(DVD)


もちろん、これが私の趣味というわけではない。こういう生き方に何か問題があるのは明らかであるが、それも、孟子の言う下々の征伐にくだらなく巻き込まれたくないという意思の表れではあるのである。私のように、そのようなある種の忌避感情のまま苦悩している人々はおそろしくたくさんいるはずなのである。それをあまり上の立場からも、戦いの当事者の立場からも馬鹿にして欲しくはない。それなりにこうなる必然性はあったのである。

「右・左・真ん中」と「RRR」

2023-06-21 23:29:43 | 思想


孟子曰、楊子取爲我、拔一毛而利天下、不爲也、墨子兼愛、摩頂放踵、利天下爲之、子莫執中、執中爲近之、執中無權、猶執一也、所惡執一者、爲其賊道也、擧一而廢百也。

孟子は、リゴリズムを嫌っていたのかもしれない。もっとも、ほんとにリゴリスティックに生きている人なんかいないのだから、その言説の悪影響が問題だったのであろう。右・左・真ん中、すべて害を及ぼしかねない。大概、そこは別物で結びつけてはいけないものを結びつけることで快感をおぼえるタイプの知識人は、自分のミスをなんとか挽回するために生きていることすら忘れてしまった成功中毒者である。

本質的にこういうものを避けようとして、我々はもっと強力な力に頼ったりするのだが、考える余裕をもたない忙しさに賭ける手もある。この間、インド映画『RRR』をみたが、じつに痛快なインド独立運動ナショナリズムみたいな映画であって、――しかし、ものすごく主人公たちが忙しいのだ。革命はおそらく、忠臣蔵ではないが、余暇の過ごし方が難しいはずである。主人公たちは、傷の治る時間さえ与えられず、なおったことにして――というか、映画だからフシギにすぐなおる――つぎの戦いに挑む。「走れメロス」も忙しいが、これはまだセリヌンティウスがなんもしないし、すごく何もしない人たちが大量にいる「反革命」小説であるが、「RRR」は、セリヌンティウスがメロス並みに激怒する男であった場合、周りにも同調者がかなりいることになるのであった。

我が国では、もうそういう同調もおこらない。信用されない軽薄なかんじの正義の味方が、法律守れと主張する、こんな人々で溢れかえっており、大概説得を試みても難しい。ナショナリストはまだ説得される可能性があるが、正義の味方は説得されないのだ。この「法律」には結構いろんなものが入る。いや、むしろ好きなものが何でも入ると言ってよい。

文化の価値と世代の価値

2023-06-20 23:37:11 | 文学


文化の価値について云われるとき、外国人は元よりのこと、多く完成されている古典を対象とする習慣も、その理由はうなずけるが私たちには或る物足りなさを感じさせる。云ってみれば、一定の文化水準にある者には、外国人に日本画の美しさがわかるように、日本人にもフィジアスの彫刻の均斉の美はわかるのだと思う。文化の相互的な理解というものは、そのような古典鑑賞にとどまらず、古典に輝いた精神が、今日の文化面でどのように変化し再出現し、或は破壊を通してより新しいものとして創り出されようとしているか。そのために世代の営んでいる偽りない辛苦の混乱をも、やはり懇に評価され、ひろい歴史の前に観察されなければなるまい。我々の世代が、文化を十分に享受しようと欲している熱意と、明日の文化をより豊にしようと希ってつとめている努力とは周密に観察され支持されねばならぬと信じる。

…宮本百合子「世代の価値」

若い頃にものを考えた自負のある人は油断すると、自分の世代を案外輝かしいものとみるものだ。で、自分が孤立していたことすら忘れ、文学や思想が衰退したと歎くようになる。やはり古いところからの視点が重要で、戦中世代、団塊の世代、すべて明治のひとたちからみりゃ新人類のひよっこに過ぎない。そんな風に考えりゃ、明治のむかしから大して我々がかわっていないことは分かるし、現代にだってりっぱにものを考えている人たちがたくさんいるとわかる。

正命

2023-06-19 23:58:03 | 思想


孟子曰、莫非命也、順受其正、是故知命者、不立乎巖牆之下、盡其道而死者、正命也、桎梏死者、非正命也。

天は正しくあるので、我々が無理することはないのであろうか。倒れそうな垣のしたには行く必要はない。しかし、それも天の意志だとは言えないのか。たぶん言えない。我々が親の遺伝子を持っていても、つねに遺伝子から「垣の下に行きなさい」と言われてないのと同じだ。

むしろ、天の意志というのは、自然に現れる。例えば、仏蘭西料理のコースのときにいつも途中ででてくるパンがうますぎて食い過ぎてしまい、肉とかスイーツの時には意識が朦朧としているんだが、この意識朦朧は私の意志ではない。そしてたぶんおいしいパンをつくりあげてきたのも人類の意志ではない。

百日紅

2023-06-18 23:10:39 | 文学


 ふと百日紅の赤いのが眼について、はつとして気が附く。一緒に歩いて来た筈の友達はずツと後になつてゐる。
 待つてゐる。大きな木の蔭で、
『もう、腹が減つたね、何時だえ。』
『もう一時だ。』
『ぢや腹も減る訳だ。』友は私の傍に来て、『何処か凉しい処はないかな。』
『此町では、とても、さういふ処はありさうもないね。』
 荒川のだといふ……大きな生の好い鮎の塩焼。


――田山録弥「百日紅」

公開講座

2023-06-17 23:13:44 | 文学


香川大学公開講座「戦時下の「近代の超克」論とは何だったか」(渡邊史郎)

6月18日から7月16日、まで毎週日曜日14:00ー16:00 5週連続



心と窓

2023-06-16 23:24:30 | 思想


孟子曰:「盡其心者,知其性也。知其性,則知天矣。存其心,養其性,所以事天也。夭壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」

心を極め尽くす者は人の本性を認識出来るし則ち天を知ることになる。心を維持し、本性を養うということが天に仕えることであるからだ。性善というより、本性は心や世の中を支えるもの天と不即不離であるにきまっているのだが、人間ができることは心を極めるような方向性にすぎない。そのことによって、天・人間の本性のことを知るしかない。

これには、文学研究のテキスト中心主義にも近いようなセンスを感じるし、漱石の「心」なんか、心が世界に直行する窓みたいなところがあるわけである。しかし、心の窓を覗き込むのはそれこそ、天への奉仕を前提とするような態度のことで、実際は、あれこれと視線を彷徨わすことが必要である。結局、孟子はちょっと落ち着いて反省せよみたいな殊勝さを要求している。――例えば、昨日は、戦時下の東条英機の演説などをいろいろ読んだが、こういうのも踏まえとかないと当時の知識人たちの言葉遣いは理解できないのかもと思った。昭和18年の6月15日の東条の演説の記事みて、おれの原稿が全然活かされてねえと西田幾多郎が怒ったという話があるが、東条の演説はちょっと情に訴えるようなかんじでインドのこととか言っているのに、西田の「世界新秩序の原理」はなんか冷めてる感じがする。そらまあほんとに冷めているんだろうけど。。

この時期は大変だな、山本五十六が亡くなって、鍋釜供出が本格的になったり、上野動物園の動物殺したのとか、学徒出陣。。『文学報国』は8月から出発だけど、他は次々に整理されちゃって。こんな場合の「心」は窓である余裕を待たない。漱石が「心」を書いたときだって、様々に動揺する時代だったはずだが、やはり漱石には今こそ窓を作るぞという破れかぶれさがある。

わたくしなんかは馬鹿だから、最近世を賑わしている、★末涼子氏の恋文のニュースをみて、――ヒロ末氏から恋文もらってないので悔しくてヒロ松渉を読んだ。恋文から共同主観性へのみちである。

昨日は、西田を切っ掛けにして、みっちり下村寅太郎の「近代の超克の方向」を授業で追った。このぐらいの長さの文章だと授業に収まる。「勤皇の心」はほんとあれだよ、しめ縄みたいになげえ。このような心の窓の彷徨は窓ではなく、蛇みたいになるだけだというのが、戦後の文学者になんとなく共有されていた危機感であるような気がする。