★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

作品としての天皇家

2020-09-29 19:34:37 | 文学


次に弟、將に舞わんとする時に詠爲て曰く、
  物部の 我が夫子が 取り佩ける 大刀の手上に 丹畫き著け 其の緒は 赤幡を載せ 赤幡を立てて見れば 五十隱る 山の三尾の 竹を訶岐苅り
  末押し縻ぶる魚簀 八絃の琴を調ぶる如く 天の下 治し賜える 伊邪本和氣 天皇の 御子市邊の 押齒王の 奴末
爾くして即ち小楯の連、聞き驚きて、床より墮ち轉びて、其の室の人等を追い出し、其の二柱の王子を左右の膝の上に坐せ泣き悲しびて、人民を集えて假宮を作り、其の假宮に坐せ置きて、驛使貢上りき。ここに其の姨、飯豊の王、聞き歡びて、宮に上らしめき。


履中天皇の皇子は、雄略天皇に殺された。その皇子の遺児である兄弟が地方で発見される話。いつの間にか、親と兄弟の殺し合いのアンソロジーと化している古事記である。だいたい赤の他人というものに対する愛憎はたかが知れているのであるが、家族のなかはそうはいかない。近代になっても、あいかわらず親族殺人で溢れかえっている我が国である。

たぶん、仏教か何かが知らんが何かが媒質となって、日本の各々の神話を統一的に絶対矛盾的に結びつけた古事記は、すべてを曼荼羅のように描こうとしているのかも知れないが、個人と個人の関係は、神話のように並べてくっつけましたみたいな風に行かないところがある。千手観音の手はたくさんあるが、我々にはそんなにないし、あれば手同士が喧嘩をしてしまう。

うちの実家のお墓は、先祖が八沢川だか木曾川だかから引っ張り上げてきたもので、墓石屋がつくったキャラメルみたいな形の中で、燦然と「ばかうけ」のような形で佇立している。墓というのは、魂入れという儀式によって墓になるのだが、墓はもともと記憶がある如くそこにある。なぜかというと、われわれより長く生きているからいろいろなものを見てきているからである。我が家も、祖父が養子だからどこから来たのか分からん人間であるけれども、石がなにやら知っている気がするという訳でそこにある。古墳やなにやらも、遠い祖先が労働にかり出され、公共事業だかの名目でヒドイ労働を押しつけられていたのだろうが、――おれがあれをつくった、という自慢話をかかる奴隷がすることはあるのであって、つまりつくることを意味として媒介にしたモニュメントはそれなりの意味をもって時間を超越するものである。

しかしながら、個人は――作品やモニュメントとは違う。古事記で描かれた一族達の殺し合いは、モニュメントだが、彼ら自体は人殺しや切られた肉片だ。しかし、古事記がそうであるように、我々はそれをモニュメントや歌でしかその悲惨さと悲しみを記すことができない。上の孤児達は、いずれも天皇になって中心に復帰してしまう。その中心とは曼荼羅の中心のようなモノだ。

思うに、天皇は近代に巻き込まれてしまったから、三島由紀夫の言うような、色好みの天皇はもとより、兄弟殺しの天皇までも、復活することはないだろうが――最近、古事記以前に帰ろうとするその萌芽はある。

中曽根康弘などの墓に大金をかける話が持ち上がっているのだが、これなんか、本当は公共事業でやればよいのだ。さすれば、それをぶちこわす勢力、自慢する勢力と、入り乱れて――我が国は古代に逆戻りだ。

「このたびは、御苦労さまでした。どうかカンベンして下さい」
 と口々にあやまった。リンゴ園でそれを見た中平はいそいで家の中へ逃げこんで、壁の二連発銃をはずし、それを膝にのせてガタガタふるえて坐っていた。
 久作はわが家へつくとノコギリを持って外へでた。人々は呆気にとられて見送った。彼はまっすぐリンゴ園へ登った。そして夕方までリンゴ園のリンゴの木を一本のこらず伐り倒したのである。中平は鉄砲を持って縁側まで歩いてはまた戻ってきてガタガタ坐っていたが、どうすることもできなかった。
 その翌日から久作はミササギで仕事にかかったが、十日あまりで石を全部谷へ投げこみ、地ならしして、ミササギが畑になっていたのである。そこへ彼はカブをまいた。しかし、カブをまき終った晩、鎌で腹をさいて死んだのである。山へ戻ってからその日まで誰とも一言も話をしなかった。


――坂口安吾「保久呂天皇」


あくまで個人に憑かれていた坂口安吾は、天皇をこういう感じで描いた。この男は洞窟で天皇になったのだ。現実の天皇は洞窟にはおらず、古事記の中にいる。坂口のえがくものは、遙か未来か、遙か過去にしか存在していないに違いない。

一言

2020-09-28 23:30:45 | 文学


また一時、天皇、葛城の山に登り幸しし時に、百官の人等、悉く紅き紐を著けたる青摺の衣を給いて服たり。彼の時に、其の向える山の尾より山の上に登る人有り。既に天皇の鹵簿に等しく、また其の裝束の状、及び人衆、相似て傾かず。 爾くして天皇、望みて問わしめて曰く、「茲の倭の國に吾を除きて王無きに、今、誰人ぞ如此て行く」。即ち答えて曰う状また天皇の命の如し。ここに天皇、大きに忿りて矢刺し、百官人等悉く矢刺しき。爾くして其の人等もまた皆矢刺しき。故、天皇また問いて曰く、「然らば其の名を告れ。爾くして各名を告りて矢を彈たん」。ここに答えて曰く「吾先に問われつ。故に、吾、先ず名告爲さん。吾は惡事と雖ども一言、善事と雖ども一言、言離つ神、葛城の一言主の大神ぞ」。天皇ここに惶れ畏みて白さく、「恐し、我が大神。宇都志意美に有れば覺らず」と白して、大御刀及び弓矢を始めて百官の人等の服せる衣服を脱がしめて以ちて拜み獻りき。爾くして其の一言主の大神、手を打ちて其の捧物を受けき。故、天皇の還り幸す時に、其の大神、山末に滿ちて長谷の山口に送り奉りき。故、是の一言主の大神は彼の時に顯れたるぞ。

神は生きていた。一つの権力が自らをみつめているとそこに異物が見えてくる。つねに、我々の自我には他のモノがみえてくる。ここでの天皇も、自らとそっくりな集団に山で出会う。こちらが弓を構えるとあちらも構える。闇を覗いていると、闇もこちらを覗いている。こういうときには、言葉で問うのだ。いまも自意識だけをみていると、自分の姿しか見えないので、みな言葉で決着をつける。「おまえはだれだ?」と言ってみる。

そうすると、自分ではなかった。一言主の神であった。まさに言葉の神であった。あまりに哲学的によくある感じでびっくりしてしまう。

天皇は、神に贈り物をして宮中に帰る。皇居のある泊瀬山まで送ってくれた。

山とは、闇の鏡のようなものである。そこでは自分が違う姿であらわれる。このときの雄略天皇は賢明だったので、かれらを貶めたりしなかった。贈り物を贈って尊敬した。だから鏡はそのまま尊敬し返してきたのであった。彼は自己のアイデンティティを保つ。

幕末の志士は佳し。爾来ニキビ面の低脳児、袖をまくりて天下国家を論ずるの風、一時、奇観を呈せり。釈迦、基督はよし、ダントン、レエニンは佳し。今日、猫も杓子も、社会、人類を憂へて、騒然、喧然。
 東洋人、由来、悲憤慷慨の気に富む。
 ――俺は、どうしてかう意気地がないのか。
 ――きやつは、実に怪しからん。
 ――貴様は何といふ恥知らずだ。
 佳し、佳し。
 希くは、「死すとも」それ以上を言ふ勿れ。


――岸田國士「一言二言三言」


言葉はしかし、それ自体でバブルを起こしてしまうのだ。岸田さんなんて、黙れみたいな態度がとっても饒舌である。しかしあいかわらずこれは鏡であった。どんどん大きくいびつな獣となって我々を破滅させる。

雄略天皇も木に登る

2020-09-27 23:48:04 | 文学
又、一時、天皇、葛城の山の上に登り幸でましき。爾に、大猪出でけり。即ち天皇、鳴鏑以て其の猪を射たまへる時に、其の猪怒りて、宇多岐依り来。故、天皇、其の宇多岐を畏みて、榛の上に登り坐まして、歌曰みしたまひけらく、
 やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の 病み猪の うたき畏み 我が逃げ登りし ありをの 榛の木の枝


この歌を文字通り解せば、自分で自分を歌ってしまったことになるが、それはそれで面白いのではないかと思うのだ。

わたくしもそこそこ育ちがよいのでわかるのであるが、――苦難に陥った時になんだか自分を眺めている自分が発生し、却って笑えてくることがある。いや、考えてみると、育ちは別に関係ないようだ。報道でも、よく犯人が案外なめた態度をとっているのを「ヒドイ」とかなんとか言っているけれども、人間の感情というものをいい加減認識した方がよいのである。



我が家の庭は、酷暑から開放され、気がついたら沼ガエルの天国になっている。まだわたくしは見ていないが、細君によるとキノコまで生えていたそうである。天皇も猪に追われて木の上に逃げる。キノコも生える。カエルも私の足から逃げる。

 京内が里の茶店でお菓子を買つて貰つて、佐次兵衛に伴れられて山小屋へ帰つて来たのは、其の翌日でありました。
「さ、もう駄々をこねるんぢやアないよ、お前のお蔭で昨日今日は二人とも遊んで了つた。」と云ひながら、佐次兵衛は京内をつれて谷川へ水を汲みに行つて見ると、これはまあ何といふ事です。大きな猪と大きな熊が、二疋共引掻かれて、噛切られて、大怪我をして死んで居るぢやありませんか。しかも二疋とも大きな石を腹の下に抑へて、頭を並べて死んで居るのです。能く能く見ると、石の下から小い黒い獣の足が二寸ばかり外へ出てゐました。
 佐次兵衛が猪と熊とを引除けて石を引起した時、京内は可愛い可愛い熊の子が、赤い舌を出して死んでゐるのを見まして、ポロポロ涙を流しました。
「なア、畜生でも……これは屹度この小い熊の子の為に親同志が喧嘩をして死んだのだらう……」と云つてゐる時、藪の蔭からコソコソと小い猪の子が出て来て、直ぐ逃げてしまひました。
 佐次兵衛は、此の三疋の獣の為めに叮嚀にお葬式をしてやりました。
 それから京内は大変孝行な子供になつて、一生懸命にお父さんと一緒に働いて名高い炭焼になりました。今に木炭は紀州の名高い産物の一つであります。


――沖野岩三郎「熊と猪」


我々は動物たちをついこういう修羅場におきかえて見がちであるが、古事記にはもっとふつうに「逃げる」我々が描かれている。そうではなく、沖野のような話では、名を上げたり出世したりする結末が待っている。

最近は、こういう修羅場的なものに疲れたのか、物事との弱い繋がりをもってヨシとする人々が多く出てきた。血なまぐさい愛よりも、アイドルを「推す」行為の方を普遍的とみたりするわけである。それは結構であるが、わたしはそういう人間がどのようなことを実際やっているかだけに注目している。

兄妹心中

2020-09-26 23:36:51 | 文学


隠り処の 泊瀬の河の
上つ瀬に 斎杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち
斎杙には 鏡を懸け 真杙には 真玉を懸け
真玉なす 吾が思う妹 鏡なす 吾が思う妻
有りと 言はばこそよ 家にも行かめ 國をも偲はめ

かく歌いて即ち共に自ら死にき。


木梨軽皇子、軽大娘皇女の兄妹心中のお話が、允恭天皇の崩御のあとに語られている。軽皇子は皇太子であって、次の天皇の予定であったのかもしれない。妹と通じたために弟の穴穂御子(安康天皇)にその地位を奪われて、追いつめられて心中してしまった。

いま、四国中央市にある東宮山古墳が皇子の墓とも言われている。ここの案内板だと、心中で死んだのではなく、追放されてここで死んだことになっていた。そういえば、「伊予の兄妹心中」http://gumi.a.la9.jp/wtr/wtr013.htm という歌がある。小松左京の「悪霊」に、この二つを結びつけた考えが書かれていた気がするが、忘れてしまった。おなじことに想到していた人もいた。http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/x2.htm

そもそも、古事記の最初の方の神さんたちなんか、ほとんど近親相姦みたいな雰囲気であって、われわれが自分たちの起源にそういうなにものかを想定してしまうことそのものを考えるべきであろう。タブーが存在していたかどうかもあやしい事態は脇に置いて、我々は、自分のなかに他人を見ると同時に自分をみている訳である。自分が自分であるためには、そもそも自分のようなものがその前に存在していなければならないが、そうすると、他なる二が一になったというより、そもそもその二は一に近いのではないかと、我々の自己同一性が告げている。

妄想であるが、わたくしは、そう思うのである。我々の同一性にとって、親というのは根本的に近親相姦的に眺められるものだ。

姉が何か言うことは有りませんかッてお父さんに言いましたら、俺は呆れて物が言えない、人間だと思えばこそ話しもするがそんな禽獣には何も言うことは無い、彼等は禽獣に等しいものだ、蠅なんて奴は高貴な人の前でも戯れるようなものだ、そんなものと真人間と一緒にされて堪るものかなんて、それからも随分激しい調子でいろいろ仰ったんですよ。姉が、そんなに御自分のことばかり仰っても、節ちゃんの方のことも聞いてやらなくちゃ、私が聞いてもその通りには話せませんから節ちゃんに書いて貰うことにしましょう、それを私がお父さんに読んであげましょうッて言いましたのよ。お父さんはそれを聞きましてね、鸚鵡や鸚哥なんて奴はよくしゃべるから、迷い言の百万遍くりかえしても俺の耳には入らないが、禽獣のしゃべるのを一つ聞いてやろう、人間の顔をした禽獣のことだから何か物も書くだろう、一つ禽獣の書いたものを見てやろうと仰るんですよ。

――島崎藤村「新生」


藤村は希代の女たらしで、偽善者だとかさんざん同業者からも誹られているのだが、――考えてみたら、かれほど自分のことについて考えた人もいないのではないかと思うのだ。彼は「風景」のなかにも自分を見出し、女性の中にも自分を見出していた。

膚の熅

2020-09-25 18:05:39 | 文学


其の将軍山部大楯連、其の女鳥王の御手に所纒玉釼を取りて己妻に与へつ。此の時之後、豊楽を為さむとせし時、氏々之女等皆朝参。爾大楯連之妻、其の王之玉釼を以ちて己手に纒ひて参赴けり。於是大后石日売命自ら大御酒柏を取りたまひて、諸氏々之女等に賜りき。ここに大后、其の玉釼を見知りたまへりて御酒柏を不賜りて乃引き退きたまひて、その夫大楯連を召し出でて、以ちて詔、
「其の王等、无礼に因りて退け賜りき。是者異なる事無き耳。夫、之の奴乎、己君之御手に所纒玉釼を、膚の熅に剥ぎて持ち来たりて、即己妻に与へき。」とのたまひて、乃死刑を給りき。


大楯将軍は女鳥王の玉釼(玉の腕輪)を剥ぎ取って妻にあげた。それを宴会につけていった妻を、皇后のイワノヒメがみて、大激怒。恐いのは、このせりふ――「あの二人は不敬によって死を賜った。それは当然です、しかし、おまへは君が腕に巻いておられた玉釼を、膚にまだ温もりがあるうちに取ってきて、おのれの妻に与えたのだ」である。「古事記伝」には、「己君」の『己』は軽く添えたもので「自分の」ではないとあるらしい(古典全集注)。大楯将軍が、殺された二人の部下であってもなくても、天皇家の死んだばかりの人間から戦利品を奪うとは何事かという感じの理屈なのであろう。 皇后の嫉妬の恐ろしさを示すエピソードなのであろうが、――天皇一族の肉体の問題が出ているようで面白いことだ。肌が温かいうちに剥ぎ取ったのがいけないという、腕輪が肉体の温かさを伴っているところが生々しい。三種の神器なども、案外天皇が触ったから神聖化されているかもしれないのだ。触って、その物体も幾らか変形する。

いまでも、触った者に対して我々は何らかの感情をもつ。別にウイルスが見える訳ではない。物体が、物体の姿をしていながら触られた映像としてあるからだ。

若い頃は分からなかったが、腕輪というのは、案外それ自体なまめかしい。そこに腕が入っていた姿が想起され、膚に触ったような感触が我々に残るからである。

三十。女には、二十九までは乙女の匂いが残っている。しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いが無い、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、やりきれない淋しさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。あの小説を読んだ時には、そりゃそうだろうと軽く肯定して澄ましていた。三十歳までで、女の生活は、おしまいになると平気でそう思っていたあの頃がなつかしい。腕輪、頸飾り、ドレス、帯、ひとつひとつ私のからだの周囲から消えて無くなって行くに従って、私のからだの乙女の匂いも次第に淡くうすれて行ったのでしょう。

――太宰治「斜陽」


最後の文がさすがに鋭い。これは文字通り解される必要がある。

ハヤブサ今昔物語

2020-09-24 18:30:20 | 文学


故、天皇、其の情を知りて、宮に還り入りき。此の時に、其の夫速総別王の到来れる時に、其の妻、女鳥王の歌ひて曰く、
  雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね
天皇、此の歌を聞きて、即ち軍を興し、殺さむと欲す。爾くして、速総別王・女鳥王、共に逃げ退きて、倉椅山に騰りき。是に、速総別王の歌ひて曰く、
  梯立の 倉椅山を 嶮しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも
又、歌ひて曰く、
  梯立の 倉椅山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず
故、其地より逃げ亡せて、宇陀の蘇邇に到りし時に、御軍、追ひ到りて殺しき。


安彦良和が描くように、イズモ王国とヤマト(邪馬台)国は奈良で統一王朝をつくるに至ったのであろうか。それは分からないが、それが男女の結婚というかたちで成し遂げられたという物語は、感覚的に面白いと思う。古事記はあまりにも男女の諍いが政治的なのである。そりゃまあ、こういうことはよくある話といえばそれまでなんだが、我々は、古代人が現代人にくらべて素朴であると考えるべきではない。よくよく考えた末の表現であると考えるべきである。いまと同じく、複雑な人間関係と政治的状況を古代人も生きていたに相違ない。魔除けや呪文がある世界でも、いまと同じである。いまだって我々は、言語をほぼ呪文としてしか使っていないではないか?コミュニケーション能力とか言っているひとは特にそうである。コミュニケーションというのは呪文の効果である。

鳥のように可愛らしい妻が、ハヤブサ(夫)よ、天高く飛ぶ雲雀よりあなたは高くいけるでしょう。はやく雀(仁徳)なんかヤリなさい、と言うのだ。もうどうせやられるんだから飛ぶしかない。――いまはこんなしゃれた煽りができなくなっただけのことである。

ところが、コミュニケーションの誤配(東浩紀)か何か知らないが、この歌は仁徳にも届くのだ。仁徳は二人を追いつめて殺してしまう。倉椅山を逃げながら二人の鳥は「険しくない」と歌いながら惨殺される。

けれども、私は、死ななかった。私は神のよほどの寵児にちがいない。望んだ死は与えられず、そのかわり現世の厳粛な苦しみを与えられた。私は、めきめき太った。愛嬌もそっけもない、ただずんぐり大きい醜貌の三十男にすぎなくなった。この男を神は、世の嘲笑と指弾と軽蔑と警戒と非難と蹂躙と黙殺の炎の中に投げ込んだ。男はその炎の中で、しばらくもそもそしていた。苦痛の叫びは、いよいよ世の嘲笑の声を大にするだけであろうから、男は、あらゆる表情と言葉を殺して、そうして、ただ、いも虫のように、もそもそしていた。おそろしいことには、男は、いよいよ丈夫になり、みじんも愛くるしさがなくなった。
 まじめ。へんに、まじめになってしまった。そうして、ふたたび出発点に立った。この選手には、見込みがある。競争は、マラソンである。百米、二百米の短距離レエスでは、もう、この選手、全然見込みがない。足が重すぎる。見よ、かの鈍重、牛の如き風貌を。
 変れば変るものである。五十米レエスならば、まず今世紀、かれの記録を破るものはあるまい、とファン囁き、選手自身もひそかにそれを許していた、かの俊敏はやぶさの如き太宰治とやらいう若い作家の、これが再生の姿であろうか。頭はわるし、文章は下手、学問は無し、すべてに無器用、熊の手さながら、おまけに醜貌、たった一つの取り柄は、からだの丈夫なところだけであった。
 案外、長生きするのではないか。


――太宰治「答案落第」


自分を「俊敏なはやぶさ」だったといってしまうこの作家もまた、長生きはしなかった。女と一緒に死んだ。

鳥と恋

2020-09-23 23:57:01 | 文学


また天皇、その弟速總別の王を媒として、庶妹女鳥の王を乞ひたまひき。ここに女鳥の王、速總別の王に語りて曰はく「大后の強きに因りて、八田の若郎女を治めたまはず。かれ仕へまつらじと思ふ。吾は汝が命の妻にならむ」といひて、すなはち婚ひましつ。ここを以ちて速總別の王復奏まをさざりき。


仁徳天皇は、あるとき人々の住んでるところを眺めたらまったく煙が出ていないので、「課税・課役をすべて免除するぞ」と英断を下し、自分の家がかしいでも3年我慢した。すると、人々の家から煙が出始めて国が復活した。かくして、仁徳天皇の時代を聖帝の御代というのであった。

というわけで、仁徳天皇陵をはやく調査せよ。いったい誰の墓なんだよ、あれは……。べつにいいではないか、聖帝の墓がでっかくなくても。シランやつの墓でもいいじゃないか。歴史を書き直せばいいじゃないか。

――という真面目な批判をものともせず、仁徳天皇は浮気がひどい天皇として有名であって、もはや墓以前に色好み的にもうどうでもいいじゃないかという感じがする。上の場面では、妻の妹のメトリのミコを所望したら弟に取られたのである。メトリさんは「皇后の嫉妬がすごくて恐すぎます。むしろあなたと結婚したいです」と皇后の嫉妬を方便に弟に猛アタック。どうなるかわかるんじゃないかと思うけれども……。姉の悲しみに相当頭にきていたので闘いを挑んだとも見られる訳であるが、それで命を賭けるというのもすごいので、やはり惚れていたのではないかと思うのだ。

わたくしは、やはりここで女鳥というものに注目すべきである気がする。鳥はいくら美しくても逃げてしまうのだ。

英語に鶏から出た詞が多い。例せば雄鶏が勝気充溢して闘いに掛かるごとく、十分に確信するをコック・シュア、妻に口入れされて閉口するを、雌鶏に制せらるる雄鶏に比べてヘンペックト。それからコケットリー、これは昔は男女ともに言ったが、今は専ら女のめかし歩くを指し、もと雄鶏が雌鶏にほれられたさに威張って闊歩するに基づく。コケットといえば以前は女たらしの男をも呼んだが今は専ら男たらしの女を指す。それからコックス・コーム(鶏冠)はきざにしゃれる奴の蔑称で雄鶏が冠を聳てて威張り歩くに象ったものだ。また力み返って歩むを指す動詞にも雄鶏の名そのままコックというのがある。

――南方熊楠「十二支考 鶏に関する伝説」


現実にも起こるが、――浮気ばかりしている男の影響は、妻に移る場合もあれば、妻の妹に移る場合もあり、鳥をみているうちに浮気をしてしまうこともあるのだ。恋に比べて、鳥たちはあまりに美しく、その影響力の方が大きいと言わざるを得ない。

魔法と呪

2020-09-22 21:30:42 | 文学


ここにその弟、兄の言ひしが如く、具にその母に白せば、すなはちその母、ふぢ葛を取りて、一宿の間に、衣・褌また襪・沓を織り縫ひ、また弓矢を作りて、その衣・褌等を服せ、その弓矢を取らしめて、その嬢子の家に遣はせば、その衣服また弓矢悉に藤の花になりぬ。ここにその春山之霞壮夫、その弓矢を嬢子の厠に繋けき。ここに伊豆志袁登売その花を異しと思ひて、将ち来る時に、その嬢子の後に立ちてその屋に入る即ち婚ひしつ。かれ、一の子を生みき。


藤の花をまじまじと見たことはなかったが、近くの神社が藤の花で有名なのでみに行ったところ、――確かに、藤の花というのは妙な気分を誘うところがある。視覚的に麻薬的なかんじというか……。ヤンキーが紫の特攻服をきて歩きまわっているのも、藤の木が歩いているとみればよろしい。

春山の霞壯夫は、兄とともにイズシオトメに惚れておった。兄が弟に「お前は彼女と結婚出来るのか。結婚出来たら贈り物をやろう」とけしかけた。弟は、なんと母親に頼むのである。卑怯者である。しかし、この母親が掛けた魔法がすごくて、藤の蔓を服に縫い込むと、服が藤の花になった。それを着た霞くんは藤の花に変身して、それをうけ取ったイズシオトメと彼はすぐ結ばれてしまったのである。子どももすぐに生まれた。

ただの不法侵入者による犯罪である。

しかもこのあと、憎んだ兄が賭物を贈らなかったので、――また母親が呪いの物体をつくって兄を病気にしてしまうのだ。ヤマトタケルも母親ではなく叔母に頼ったし、応神天皇の母はおそろしい侵略者だし、古事記の語り手はなにか母親に恨みでもあるようである。

近代社会になって、なにか科学の力で怨みというものまで規模が小さくなったような気が、我々はしているのだが、そんなことはなく、――人の予想を超えて怨みを懐く人々は多い。源氏物語にでてくる源氏の恋人を呪い殺す女性とかを、坊主達が退散させようとするが、かんがえてみると、カウンセラーが心理的に人々を慰めているのと、怨霊を退散させようと坊主が祈祷するのと、心理的ケアを行っているという意味でまったくレベルは同じである。心理に対しては異なる経験の要素を結合させて心理的経験を変形するほかはない。そして、それはまったくうまくいくとは限らない不安定な処方である。

とりあえず、怨みの存在を忘れないことが現代人にとっては大事である。パワハラなんかの大半は、星一徹みたいなあからさまな暴力をとっていない。表面上は善良で公平なむしろグローバルな正義を体現しているような人間が、嫌った相手に対して呪い殺す勢いでのぞんでいることが原因である。パワハラにみえないから、訴えることすらできない。

天つ祝詞は、大体に短くて、諺に近いものである。即、神の云うた事のえつせんすのやうなものである。が私は、天つ祝詞が、祝詞の初めだとは思はない。ずつと昔からの、祝詞の諸部分が脱落して、一番大事なものだけが、唱へられてゐたのが、天つ祝詞であるとおもふ。一寸考へると、単純から複雑に進むのが、当然の様に思はれるが、複雑なものを単純化するのが、我々の努力であつた。それで、極めて端的な命令の、或は呪ひの言葉が、天つ祝詞であつたが、其が段々、世の中に行はれて来ると、諺になる。故に私は、此と諺との起原は、同一なものだと考へてゐる。だから諺は、命令的である。元はその句は、二句位であつて、三句に成ると、諺では無く、歌になつた。古事記・日本紀などを見ても、諺は、二句を本体としてゐる。それで、今の諺の発達の途には、天つ祝詞があるわけである。

――折口信夫「呪詞及び祝詞」


考えてみると、いまの世の中は、前世紀に行われた血みどろの呪いの詞や祝いの言葉が、諺となって、なんの生命も持たなくなった状態といえるのかもしれない。戦後のラディカリズムのなかに、新左翼や右翼の呪詞や共産党社会党の祝詞がかつてあって、それが現在諺みたいになっちゃったとは言える。だから却って、生命のある詞は、トランプや何やらがはくような怨みの言葉になってしまった。それは権力をもつ人々だけの言葉だから、それを言えない人々は、心で呪文を唱える。それが必ず相手に届いて病気を引き起こす。

蟹――応神天皇

2020-09-21 23:24:53 | 文学


この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ いづくに到る 伊知遅島 み島に着き 鳰鳥の 潜き息づき しなだゆふ 佐々那美道を すくすくと 我がいませばや 木幡の道に 逢はしし嬢子 後方は 小楯ろかも 歯並は 椎菱なす 櫟井の 和邇坂の土を 初土は 膚赤らけみ 底土は 丹黒きゆゑ 三つ栗の その中つ土を かぶつく 真火には当てず 眉画き こに画き垂れ 逢はしし美女 かもがと 我が見し子ら かくもがと 我が見し子に うたたけだに 向ひ居るかも い添ひ居るかも


応神天皇はカミではなく、カニであった。

でこぼこみちをずんずんと俺カニ様がおでましになったのさ、すると木幡の道で逢ってしまったよ美少女に。

このあとごちゃごちゃと後ろ姿とか歯並びとか長く弾いた眉墨とか……かいてあるが、よくわからん。たしか、三浦 佑之氏だったように思うが、これは本当にカニのカップルの面白歌謡であるといった説を聞いたことがある。

宴会で歌う歌詞には面白おかしいモノがいまでもあるから、天皇が巡行でナンパして結婚した宴席でもそんな感じだったのかもしれないが……、蟹の恋愛はべつに人間の比べて純粋でないことはないと思うのだ。なにしろ、もしかしたら夫を毒殺したかもしれん母親から生まれた方であるが、お坊ちゃんのせいか、純粋なところがある。まったく、その土地の豪族が娘を差し出して、よくしてもらおうとしているのに、坊っちゃんは唯ひたすら蟹の気分にひたっている。――やっと、天皇に蟹のようなもの、つまり「神様」が再降臨してきたのであった。そういえば、この方は、のちに八幡神ともなって全国に散らばっている。いまだに行幸をしているようなものだ。

たとえば神功皇后や竹内宿禰なぞの時代、犯人を探すにクガタチと称し熱湯に手を入れさせ、犯人なら手が焼けただれる、犯人でなければ手がただれないと称して、これが公式の裁判として行われていたような時代である。
 当時ならば出陣に当ってまず咒文を唱えて神様をよび、事に当って一々咒文を唱え、雲をよび、風を封じ、刀が折れては敵の眼前に於て咒文を唱えて刀をよび、傷をうけては咒文を唱え、傷の手当をするようなことも実際に行われていたかも知れないのだ。
 立川文庫によると、忍術の咒文は「アビラウンケンソワカ」というのであるが、念流虎の巻四十二の咒文もすべて「ソワカ」で終っている。もっとも「アビラウンケンソワカ」という咒文はない。その咒文は主として梵字のようなものと、少数は漢字を当てて書かれており、これにフリガナがついているのである。一見したところダラニ風だが、私にはむろん意味がわからない。
 この秘法は人皇九代開化天皇の時に支那からわが中つ国に伝わり、十五代神功皇后がこの法を用いて戦勝したが、その御子の応神天皇があまりにも秘法のあらたかのため他人に盗用されるのを怖れ、暗記の上で紙をさいて食べてしまった。


――坂口安吾「安吾武者修業 馬庭念流訪問記」


安吾は、面白がって語っているが、――この秘法を食べてしまうところに、なにか儒教と漢字が伝わってきた応神天皇時代の精神が乗り移っているように感じられる。わたしは、蟹が文字を食べている様子を思い浮かべた。

Gott ist tot

2020-09-20 23:30:27 | 文学


庭には擬態するカエルがいてわたくしの前ですましている。こういう気分の中に神がいないと神がいるとは言えない。

爾に其の神、大く忿りて詔りたまひしく、「凡そこの天の下は、汝の知らすべき国に非ず。汝は一道に向ひたまへ。」とのりたまひき。是に建内宿禰大臣白しけらく、「恐し、我が天皇、猶其の大御琴阿蘇婆勢。」とまをしき。爾に稍に其の御琴を取り依せて、那麻那摩邇控き坐しき。故、幾久もあらずて、御琴の音聞えざりき。即ち火を挙げて見れば、既に崩りたまひぬ。

神が大いに怒って仲哀天皇を殺してしまう。最初の方の牧歌的な神々とちがって、やたらに高圧的で残忍である。つまり、これは神ではなく人間である証拠である。どうみても、仲哀天皇は人間に殺されていると考えた方がよい。もうそろそろ実在が確認される最初の天皇とも言われる応神天皇が皇后のお腹にいる。ついに実在する天皇が残忍さの権化としての神様を呼び寄せた。神が、想像や世の中の現象とぴったりと同じ次元に存在していた時代は過ぎ、権力としての観念=神がここで出現する。ヤマトタケルに対する天皇の権力者としての中途半端さが、より強力な観念を要請してしまったのかも知れない。ヤマトタケルは反天皇的な存在として、美的すぎたし、草葉の陰にもいる神として存在感が増しそうだったのである。死んだのは、天皇ではない、本質的にはいままでの神が死んだとすべきではなかろうか。

お静が琴のねは此月此日うき世に人一人生みぬ、春秋十四年雨つゆに打たれて、ねぢけゆく心は巌のやうにかたく、射る矢も此処にたちがたき身の、果は臭骸を野山にさらして、父が末路の哀れやまなぶらん、さらずば悪名を路傍につたへて、腰に鎖のあさましき世や送るらん、さても心の奥にひそまりし優しさは、三更月下の琴声に和して、こぼれ初めぬる涙、露の玉か、玉ならば趙氏が城のいくつにも替へがたし、恋か情か、其人の姿をも知らざりき、わづかに洩れ出る柴がきごしの声に、うれしといふ事も覚えぬ、恥かしさも知りぬ、かねては悪魔と恨らみたる母の懐かしさゝへ身にしみて、金吾は今さら此世のすて難きを知りぬ、月はいよいよ冴ゆる夜の垣の菊の香たもとに満ちて、吹くや夜あらし心の雲を払らへば、又かきたつる琴のねの、あはれ百年の友とや成るらん、百年の悶へをや残すらん、金吾はこれより百花爛熳の世にいでぬ

――樋口一葉「琴の音」


建内宿禰が琴を弾けと言い、しぶしぶ弾いた天皇が死んでしまう。不思議な話だ。すくなくともわたくしは、音楽が神事をこえてワレワレ人間のものだと自覚されていることを物語っているように思われてならなかった。もう神は我々から遠ざかった。神は死んだ。代わりに天皇という王権の誕生が迫っている。

諍神話

2020-09-19 23:39:29 | 文学


その大后息長帯日売命は、当時神を帰せたまひき。故、天皇筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曾國を撃たむとしたまひし時、天皇御琴を控かして、建内宿爾大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。ここに大后神を帰せたまひて、言教へ覚し詔りたまひしく、「西の方に国有り。金銀を本として、目の炎耀く種種の珍しき寶、多にその國にあり。吾今その國を帰せたまはむ。」とのりたまひき。ここに天皇答へて白したまひしく、「高き地に登りて西の方を見れぱ、國土は見えず。ただ大海のみあり。」とのりたまひて、詐をなす神と謂ひて、御琴を押し退けて控きたまはず、黙して坐しき。

ヤマトタケルもそうであったが、神功皇后もちょっとおかしい人であったに違いない。神がかりして新羅を攻めよと言ったのだが、むろん神がかりとは嘘であって、ある種の合理性によってそういう結論を出してしまうおかしい人であったのだ。ヤマトタケルは他人の言っていることがよくつかめない人だし、このひとも合理性だけで人のことを気にしないタイプであろう。なにしろ、ただ新羅を攻めよと言ったのではなく、金銀が目的なのである。確かに、金銀を獲得に行くのは合理的であろう。しかし、そうだからといって、我々はふつう、日銀を襲ったりはしないのだ。

仲哀天皇はわかっていた。皇后がおかしいことを。で、「高いところに登って西を見ると、国土は見えず大海が見えるYO」と言ったのである。ここが仲哀天皇がいまいちなところで、見えるかみえないかは問題じゃない、新羅があることぐらいみんな知ってるでしょう……知らんけど。

で、「偽物の神だ」と決めつけて(本当だからしょうがない)、琴をのけてむっつり黙ってしまった。わたくしも音楽が好きだから、琴を弾く天皇は大好きだ。

最近は、皇后の権力について研究している原武史さんなどがいるが、――古事記はずっと男女の諍いを書き続けている。ちょっと異様な程である。この諍いこそが神なのである。神の諍いではない、諍い自体が神のような認識の茫洋とした広がり……

 インドネジアン族、インドチャイニース族の集合であるところの熊襲が大和朝廷にしばしば叛いたのは新羅が背後から使嗾するのであると観破され、「熊襲をお討ちあそばすより先に新羅を御征伐なさいますように」と神功皇后様が仲哀天皇様に御進言あそばされたのは非常な御見識と申上げなければならない。
 しかるに御不幸にも仲哀天皇様には、熊襲及び土蜘蛛を御征伐中に御崩御あらせられた。
 そこで神功皇后様には御自ら新羅御討伐の壮挙を御決行あそばす御決心をあそばされ、群臣に、
「軍を興し兵を動かすは国の大事にして安危、成敗は繋って焉に在り。今、吾、海を超えて外国を征せんとす。もし事破れて罪爾等に帰せんか、甚だ傷むべし。仍って吾しばらく男装して雄略を起こし、上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助を籍る。事成らば爾等の功なり、事破れば吾の罪なり。」
 と仰せられ、大いに船舶を集め、新羅征伐に御発足あそばされた。


――国枝史郎「日本上古の硬外交」


昭和17年の文章である。戦争責任というのは、こういう書き手にある。今日は、小沢滋の『雲も天皇についてゆく』という昭和28年の本を読んだ。端書きを、当時の東京教育大学の学長、柴沼直が書いている。端書きも本の内容も茫洋としてだらけたものであった。天皇から古事記的神話をとったらなにも残らん。

八尋白智鳥はゆく

2020-09-18 23:57:51 | 文学


ここに八尋白智鳥に化りて、天に翔りて浜に向きて飛び行でましき。ここにその后またその御子等、その小竹の苅杙に足キり破れども、その痛きを忘れて哭きて追ひたまひき。この時歌曰ひたまはく、

浅小篠原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな


八尋白智鳥というのは、人の手を広げたくらいの白い鳥であり、べつに白鳥を思い浮かべる必要はない。ほんとうに天使みたいなものを思い浮かべてもいいと思うのだ。この場面こそはたぶん日本文学の虚の高峰というべき場面であり、冥府巡りのあの蛆沸く死の場面と鋭く対立し、悲惨な大和朝廷成立を力尽くで昇華してしまう。我々は、竹の切り株に足を切られながら、戦場でめちゃくちゃになって想像として飛びたつしかない死者を追いかける。我々の足の痛みは、ヤマトタケルの腫れ上がった足の痛みについに届かない。――個の場面は、罪を浄めるとか、罪悪感をなくすみたいなものではなく、体で死の一部分を体験するという、死を観念ではなくなるべく肉体にとどめるやりかたなのである。肉体は個々の者でありつづけて、何かの一般者とならない。

古事記というのはいろいろな話をくっつけたせいもあるんだろうが、伊勢物語の如き、差異と反復みたいなつくりかたとちがって、クライマックスに次ぐクライマックスみたいなかんじで創られている。そのクライマックスは個の証である。個がそのまま世界の全体性を代弁しているようなかんじなのである。かえって、映画の「ヤマトタケル」みたいに一つの山をつくろうとするとつまらなくなるわけだ。

まあ、わたくし、人間の世界がすっかり好きになったと申し上げたではございませんか。おかあさん、お願いです、ほんの一目見ればいいのですから。」
 と、少女はしきりとおかあさんに甘えるように頼んでいました。そのかわいらしい様子を見ていると、おかあさんは、何でもそのいうとおりにしてやらなければならないような気がしてきました。
「ではほんのちょいとですよ、伊香刀美にはないしょでね。」
 とおかあさんはいいながら、戸棚の奥にしまってある箱を出しました。少女は胸をどきつかせながらのぞき込みますと、おかあさんはそっと箱のふたをあけました。中からはぷんといい香りがたって、羽衣はそっくり元のままで、きれいにたたんで入れてありました。
「まあ、そっくりしておりますのね。」
 と少女は目を輝かしながら見ていましたが、
「でも、もしどこかいたんでいやしないかしら。」
 というなり、箱の中の羽衣を手に取りました。そしておかあさんが「おや。」と止めるひまもないうちに、手ばやく羽衣を着ると、そのまますうっと上へ舞い上がりました。
「ああ、あれあれ。」
 と、おかあさんは両手をひろげてつかまえようとしました。その間に少女の姿は、もう高く高く空の上へ上がっていって、やがて見えなくなりました。
 帰って来て伊香刀美はどんなにがっかりしたでしょう。三年前に湖のそばで少女がしたように、足ずりをしてくやしがりましたが、かわいらしい白い鳥の姿は、果てしれない大空のどこかにかくれてしまって、天と地の間には、いくえにもいくえにも、深い霞が立ち込めたまま春の日は暮れていきました。


――楠山正雄「白い鳥」


ここではあちら側の世界が存在している。ヤマトタケルは、別にどこかに行っていない。たぶんほんとの白鳥になって、そこら辺にいる。しかも、白鳥でなくてヤマトタケルである。

列島縦断と死

2020-09-17 18:51:00 | 文学


  愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち來も
とうたひたまひき。此は片歌なり。此の時御病甚急かになりぬ。爾に御歌曰みたまひしく、
  嬢子の 床の邊に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや
と歌ひ竟ふる即ち崩りましき。爾に驛使を貢上りき。


ヤマトタケルの物語は、様々な伝承がくっついているという説があるが、確かにこのあと大和にいる后がたくさん悲しみのために出てきたり、地方で結婚するくだりなど、なんとなく若者的なロマンティックな感じがするから、なにか整合性はついてない感じがする。伊吹山で卒倒して恢復したヤマトタケルが都の方ではなく三重の方にふらついて行ってしまうのかもなんだかよく分からんが……。驛使が帰れるんだから、自分も帰れたのではないか……。

でも、そういうことはまあどうでもいいのだ。ヤマトタケルの物語は日本の統一の物語であり、それが天皇との緊張関係のもとでのなんだか割り切れないものであったことがわかりゃいいという感じだ。

わたしは、森敦みたいに、別に芭蕉の足跡を辿ろうとはいまは思わない。なんだが、予想出来る気がするのである。しかし、ヤマトタケルの行軍は一回歩いてみたいものだと思う。しかし、それはたぶん歩いただけで死の行軍となるはずだ。いまは道路も整備されて車や電車でひとっとびだが、日本列島は、すぐに山と川が立ちはだかる迷路のような国なのだ。わたしは、木曽の生まれでそれは「山の中」だったが、御嶽と木曽山脈に挟まれた木曾川沿いの一本線を基本に考えれば、そんなに複雑じゃない。山の部分をもう魔圏みたいに考えないことにすればよいのである。しかし、名古屋に出て奈良京都にも行ってみて、北アルプスから西の部分は、実に複雑な地形がひろがっていて、どっちがどっちだか分からなくなる、迷宮だと思った。加えて、和歌山三重のあたりがこれまた一度入り込んだらどっちが出口だか分からないのだ。

ヤマトタケルは伊吹山でおかしくなり、足がふくれあがって歩けなくなった。ヤマトタケルは列島を西から東までひとりで行っている。ひとりでいっちゃいないだろうが、――それは山と川と海岸を乗り越えて行く想像を絶する行軍であり、いっそ飛んでいきたいと思うのは当然なのである。

ヤマトタケルは列島を歩きすぎたのだ。――というか、当時の人達がこの列島をひとまとめにしてみてみるということの絶望的な困難をあらわしていると思うのである。戦前の我々は、こういう基本的なことさえわすれ、もっとものすごい中国大陸に乗り出してしまった。我々の空間能力は、日本列島の複雑さによって寸断されかなり未発達なのかもしれないのだ。「三国志」から感じられるのは、この能力の違いである。

すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。


――「心」


漱石の心の世界は、まるで夢のようである。冗談でも本気であっても殉死の心持ちは生じてしまうものだ。理由はわからんがどこからか沸いて出てくる。しかし確かにこれは経験されたものである。