前記事「東京新繁盛記はまだ続く」のような考えは、時々起こるのだが、とはいえそこまで事態は複雑ではないのではないのではないかと思ってしまうのは、わたくしが根本的に洋学派のせいであろうか。
服部誠一の世界は、ほとんどネットの掲示板じみているが、漱石の「ケーベル先生」とかを読むと、所謂国学洋学漢学の三派鼎立など完全にどうでもよいという気分になる。だいたい、チャイコフスキーやルービンシュタインに習って音楽院を卒業するなどという幸運な天才でありながら、演奏会が嫌いなので音楽家は諦め、ショーペンハウアーで学位を取ったような、そして、ハルトマンの気まぐれ?で日本に送り込まれたような人物が、よくも日本の文化的貧困に我慢できたものである。漱石のエッセイでは、ケーベルは静かな哲学者じみているし、自分の学生たちだけには「さようなら」を言いたかったというような「いい人」であるようだ。が、「ケーベル先生随筆集」を読むと、日本の大学が、昔から「空虚なる、醜悪なる、死ぬばかり退屈なる儀礼」、「大宴会や教授会」に明け暮れており、その教授陣が道徳や倫理を説くに至っては全く以てお笑いぐさである……といった事情が、完全に怒り狂った態で記述されている。しかもケーベルは自分の学生も例に漏れぬと言っているのであり、彼が門下の日本の秀才たちをどう思っていたか、想像がつくというものである。
……とはいえ、ケーベルはケーベルなりに、ありえないものを西洋化以前の日本に見出しているようで、確かに、ドビュッシーと同時代人だったのであろう、か。
服部誠一の『東京新繁盛記』を斜め読みしていると、日本での「議論」が結構ある種弁証法的でありながら、議論の消失という形をとっておわる印象を受ける。――明治初期からこんな調子なのである。それにしても、漢学の衰退は痛い。初編学校で、言い合いをする国学生、洋学生、漢学生のうち、勉強会するわと帰って行ったのは漢学生だけで、あとは門限だとか当直だとか、言っている。既に国学生と洋学生が制度の中で勉強しているに過ぎない事態を思わせる。といっても、事態はそれほど単純ではなかろうが……。現在の道徳論議をみていると、政府の一部が、西洋世界に於けるキリスト教が持っていると決めつけている強力な道徳律にかわるものを日本で編み出そうとして、失敗しているのがわかる。日本か西洋かという二者択一の意識から出てきた神道なんて、お伽噺じみていてそんな強力になりませんよ。で、バンザイーとかキヲツケーとかマワレミギーで縛ることになる。とすると、やっぱりわれわれを密かに倫理上縛ってきたものは漢学であり儒教ですよ、という感じがしてくる。(このときの「われわれ」は多分限定的ななにものかであろうが)日本は中国の一部なのか、ということになるだろうが、その側面は否定しきれるものではない。そこら辺の複雑さを無視すると、日本には倫理がないように見えるから、「やっぱり日本人は」という感じで自分以外の日本人を否定することになるが、このおおざっぱさは洋学生にありがちであり、現在もやたら外国に行って開放感に浸っている人々にも散見される。それは、「日本をとりもどす」とか言ってしまっている人々と、倫理観の滅茶苦茶さや、日本に対する研究心のなさにおいて大差ない。周りを見渡してみればよい。人にひどいことして平気なのは、外国かぶれとナショナリストではないか。しかし、日本にだって、それ以外の人々がまだたくさん居るはずである。
「ジャパニーズオンリー」問題から愚か者を批判することは簡単だが、研究しなければいけないことはたくさんあるようだ。
「ジャパニーズオンリー」問題から愚か者を批判することは簡単だが、研究しなければいけないことはたくさんあるようだ。
リプ子ちゃんすってんころりんを観るために、女子フィギアの世界選手権を見ていて気がついた……。
以前浅田真央選手を松田聖子並みのアイドルだというふうに論じていた人がいたが、私は違うと思っていたのだ。松田聖子が地獄の裏から天国に達するような、庶民の往生の仕方を体現しているような感じがするのに対し、浅田選手は、なんというか、つい手を合わせたくなるというかそういう感じがしていたのである。
……よくみたら、すばらしい福耳ではないか。ありがたや。
しかも、その平面を透して見んとする意志もまたそれみずから変容している。壁が衝立、障壁と転化し、それに平面図を投げつけることにより、さらにその絵そのものを独立させ、特殊の画布として独立させる過程は西欧においても宗教画的壁画より画布が漸次独立しきたる過程として観察される。
――中井正一「壁」
そして、類ひ稀なるモロコシ酒の利き目は、盞を傾ければ忽ち羽化登仙、二盞を呑み尽せば王侯貴族の宮殿に主となつて、錦の寝椅子に恍惚としてゐるものを、あの声を耳にするがいなや、真さかさまに元の馬小屋に戻つてしまふと、憤つて、やがてはわたしの帰来と知つても故意に扉を開けようともしなかつた。
“And travellers, now within that valley
Through the red―litten windows see
Vast forms, that move fantastically――
わたしは、いつまでも、ものゝ怪の、カケスのやうに鳴きつゞけてゐた。
わたしは当時邦訳「物質的並びに精神的宇宙に関する論文」の苦業を――苦業、何といふ長い間の苦業であつたことよ、悲風惨雨とは正しくわたしのこれに適当な言葉と云はずには居られない――幾星霜の苦業を終へて、一切の苦業裡に於ける生命――「一切の生命裡に於ける生命、生命、生命」をもつて「宇宙の通観」の途上に、稍々機嫌麗はしく、オルゴールのゼンマイを巻いてゐると附記して置かう。
――牧野信一「幽霊の出る宮殿」
すっかり日本の国技ではなく、モンゴルの国技と化した大相撲である。負傷してもサッカーできる世界最強ドルジ氏、史上最強白鵬氏、カープファンハルマ氏、「向こうで大学の先生といっても、給料はよくない。」(←こっちもだよ~)と力説のカクリュウ氏を見たかんじであるが、とにかくいい体をしている。
遠藤とかいう、その名前は本当に相撲取りかいな、といういまいち弱い新人で盛り上がっているようではあかんが……、とにかく日本人力士の体格は、江戸時代の絵に出てくるそのまんまで、神様でなくてもついほほえんでしまうかんじなのである。体格だけみれば、ハワイの巨大な力士たちは日本人に太り方が似ていた気がする。(個人の印象です)
まあ、ロシア人だった大鵬にきゃあきゃあ言っていたあたりから、観客の目も神様からアイドルの裸を見る感じになってしまったかもしれず、そういえば、それ以前でも、芥川龍之介が、女は合法的に男性の半裸を見られるからいいじゃないかとか書いていた気がする。こういうわたくしでも、荒勢のファンだった時代が一番まともで、その後は、輪島とか隆の里とか千代の富士とかの方が、北の湖より好きだった気がするから大概である。まったく相撲を見なくなってから30年ぐらいたつので、まるっきりの独断であるが、今までの最強横綱は北の湖だと思う。おなかに力士を載っけて土俵際まで走ってたもん……が、このまえ、白鵬の相撲をニュースでみたんだが、たぶんこの人が史上最強の横綱であろう、と思った。(個人の変節です)
……というわけで、相撲はどうでもいいとして、わたくしが日本で流行らなくて残念と思っているのが、「ストロンゲストマンコンテスト」というやつである。ヨーロッパでは何日も中継する人気スポーツである。といっても、バスを綱で引っ張ったり、ひたすら巨大な玉を持ち上げたりするだけの、力持ち大会です。
http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/training/zakkityou/07strongest.htm
あっちの人たちは、これにローマの闘牛場的な何かとか、ヘラクレスとかを重ねてみるかも知れないから、相撲が神事なのとあまり変わらないのかも知れない。とにかく、肉体を肉体と感じることが日本では難しいことが、文学を閲してみても思うことであり、なおかつ、私の頭の中では、野口英世のお母さんとか、新田次郎の「強力伝」に出てくる歩荷の人を想起してしまうせいなのか、相撲などにも、なにか悲しさみたいなものを感じる今日頃である。
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卒業おめで象
今週のニュースから……
一、「「ふざけるな」「×」…大阪市長選、無効票続々」(http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20140324-567-OYT1T00084.html?fr=rk)
→そりゃそうなんだけどさ、橋下氏に選挙をやられた時点で、ある程度、橋下氏にしてやられてんのを有権者は自覚すべきだと思うぞ……
二、「浦和、J初無観客試合は異様な雰囲気…犬散歩の老夫婦にも声をかける徹底振り」(http://news.goo.ne.jp/article/dailysports/sports/20140324014.html?fr=rk)
→ジャパニーズオンリーのつもりが、センシュオンリーになってんじゃねえか。ジャパニーズオンリーで盛り上がりたければサッカー観戦なんかやめて、さっさと源氏物語なんかを読めばいいのに。もっと陰湿ないじめの方法が書かれていて参考になるからよ。
三、「安倍首相出演の「いいとも!」、瞬間最高19・2%」(http://news.goo.ne.jp/article/sanspo/entertainment/ssp20140324527.html)
→内田樹とか上野千鶴子の講演会が、「意見が偏る」とかいって断られたりもめたりしてんのに、しんちゃんの出演は偏っていないのですか。ああ、そうですか。
四、「STAP細胞、米教授強気の理由 発想に自負、異端視も」(http://www.asahi.com/articles/ASG3P1S83G3PUHBI001.html?iref=comtop_list_sci_n01)
→金が絡んでいる研究は、発表するか死か、みたいな競争があるからな。あと、できるかも、ということを示したのは大きいんだわ。科学はその可能性に向かって突撃するからね……。謝罪会見開いてたら、その間に誰かが成功するかもしれんからな(それはないか)。まあ、明らかなズルよりも、独創性がたいしたことないのにそれっぽい論文を量産する技術とか、流行にのってなんぼとか、理解されてなんぼとか、平気で口にする倫理の方が全体的に問題である。もともと学問は、1000の過ちの中に何か発見があれば良いといった確率で動いている、社会と同じく「泥沼」である。しかるに、1000の過ちではなく1000の成果を出せと言われたら、どうなるか……。すなわち、これも、予算をちらつかせて大学院や研究機関を脅した、上のヤクザまがいが悪い。研究の世界に限らず、犯罪よりも犯罪的なことが看過されている場合、よりわかりやすいミスをあげつらうリンチが蔓延するのは、戦時中を見ればわかる。偽ベートーベンやおぼちゃんの事件、イノセ知事の問題はそれぞれ異なる問題である。こういう本質も違うし、学校や社会での弱者いじめとは異なるものが、いじめとして現れてしまうことの意味を考察すべきであろう。やっぱり、身近にあるいじめを阻止できないようだと、権力や有名人に対する指弾もいじめとして現れるのではないかとおもう……。われわれはマスコミを嗤うことは出来ない。大学でも、批判が必ずいじめとして現れている。はじめはそうしていない者まで必ずそんな感じになっていってしまうのである。たぶん、個人個人は自己防衛だと思っているのであろう……。
五、「スマホ、夜9時以降は親が保管 愛知・刈谷の全小中学校」(http://www.asahi.com/articles/ASG3K5G16G3KOBJB00J.html?iref=comtop_list_edu_n03)
→親が夜九時に帰ってればいいけどな……世も末だ。親も子どもも、スマホいらんだろ。遊びに使ってるだけじゃねえか。
公園、カフェ、ステエション――それ等はいずれも気の弱い彼等に当惑を与えるばかりだった。殊に肩上げをおろしたばかりの三重子は当惑以上に思ったかも知れない。彼等は無数の人々の視線の彼等の背中に集まるのを感じた。いや、彼等の心臓さえはっきりと人目に映ずるのを感じた。しかしこの標本室へ来れば、剥製の蛇や蜥蝪のほかに誰一人彼等を見るものはない。たまに看守や観覧人に遇っても、じろじろ顔を見られるのはほんの数秒の間だけである。……
――芥川龍之介「早春」
NHKで、「超常現象 科学者たちの挑戦」というのを放送していて、いきなり冒頭から案内人として
わりと好きな映画である。確かに、20年前のスペイン内戦の共和国軍の英雄であったマヌエルが、もうちっと堕落していていたほうが話はわかりやすくなっていたのかもしれない。ファシストを裏切ってマヌエルの母親の遺言通りに彼を助けてしまった神父が、マヌエルと同郷で内戦で父を亡くしていると判明したとたん、マヌエルが、共和国のためなら手段を選ばずという彼の思想と、殺してはなりませんという神父の思想の対立についてのこだわりをあっさりと捨て、おそらく密告の罪を負うであろう神父のために、ファシストが待ち受けている街に乗り込んでしまう……という話だとすれば、そうであろう。すなわち、マヌエルが理念に敗れて堕落しているのが明らかなら、純粋に理念ではないものに彼が投身したのが明確だったはずであるが……。しかし、私は、マヌエルの酒や女におぼれるわけでもない、静かで無為な堕落の方がリアリティがあるようにも思えた。それこそが過去に理念に投身したことのあるものの矜持であり行動しないことによる最悪の罰であり堕落であるからである。それ故、マヌエルを20年間もつけねらっていたファシストの方は女といちゃいちゃしている。まあ、このような図式的対比はリアルではないともいえるかもしれないが、対比を抜いて考えればリアルである気がした。日曜日に鼠を殺した猫は月曜日には殺される、という劇詩の一節からとられた題名らしいけど、共和国軍側に立ってみても味わい深く、ファシスト側に立ってみてもなんとなく残酷になれる気がするところが、なんとも苦々しい。とにかく、人殺しをすると、あとで納得する理屈を発明するのに大変ですよ……
http://cyberjapandata.gsi.go.jp/3d/index.html
ああー小学校6年のときに、すでに木曽郡の部分だけわしゃ粘土で結構がんばってつくったのに……やっぱこういうのパソコンでちゃちゃっと出来るようになったか。
ああー小学校6年のときに、すでに木曽郡の部分だけわしゃ粘土で結構がんばってつくったのに……やっぱこういうのパソコンでちゃちゃっと出来るようになったか。
電信柱が寒い風にあたってピーピーと泣いておりました。
黒い雲が来て、
「何を泣いているのだえ」
「寒いからさ。お前のような雲が来るから寒いのだ。こちらへ来ないでくれ」
「おれが悪いのじゃない。風がわるいのだ。おれは風につれられて来るのだから」
「おれは黒いものが大嫌いだ。この間も鴉がとまって、アホーアホーとおれを笑った」
「それじゃこれはどうだ」
と言ううちに白い雪をチラチラと降らしました。
電柱はだまってしまいました。
――夢野久作「電信柱と黒雲」
塔は時計から上に猶七十尺も高く聳えて居る。夜などに此の塔を見ると、大きな化物の立った様に見え、爾して其の時計が丁度「一つ目」の様に輝いて居る。昼見ても随分物凄い有様だ。而し此の塔が幽霊塔と名の有るのは外部の物凄い為で無くて、内部に様々の幽霊が出ると言い伝えられて居る為で有る。
――黒岩涙香「幽霊塔」