★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

無気力文化と秘密

2013-11-30 16:57:32 | 思想


ひさしぶりに読み直してみたが、この本に書かれていることを本当だとすると……。日本は、日清日露で一等国になったとかいう偽のプライドだけふくれあがってるところに、帝国主義の作法に基づき戦争を続けなければならないことになったが、たいした大義も考えつかんので、太平洋憲章などをコピペしたような文章で急場をしのいだ。が、幼年学校みたいなサティアンで育った人たちが仕切る海軍と陸軍みたいな巨大やくざ組織みたいなもののセクト抗争と、官僚と庶民の無気力と密かなサボタージュで、誰も戦争で勝つ気になってない「秘密」を完全に隠蔽したまま、案の定、大負けした……ということになる。そうであろう。今もそっくりだからな。面倒な人間を組織から追い出し、空疎なスローガンで人を脅しつけているうちに、部下の誰も一生懸命仕事をしなくなっている訳で、なんとか尻を叩かなければ人はうごかじ、という危機感にあおられた「本質的やる気を失っている中間管理職」が、金で人を釣ったり、特攻などという手っ取り早い業績作りを考えたりする。――そんな状態が永野氏が考えた日本を敗戦に導いた「文化」である。氏は、戦争体制で階級問題がある程度是正され、軍事力を動かす政治家という文化醸成のための能力を欠いた日本人がそれを免除されて、(つまりそんな高度なことを考えなくてもなんとかなる)経済活動で繁栄する道まで完全に見えており、だからこそ、戦後も怪しく活動し続けることが出来たのだ。ただ、この著作で、ヒトラーやスターリンやなにやらの「大物」に対して維新の志士を大物として持ち上げてみたりするところは、いまの小物政治家と選ぶところはない。まともな「文化」が必要だと言いながら、それを具体的に考える困難ではなく、人間の大きさみたいなところに関心が行ってしまうところが、偽のプライドの肥大と関係があることは言うまでもないように思われる……。大物は大志を抱く的な妄想は実は奴隷の心構えとして必要なので、永野氏のこの著作を従業員にくばった会社まであったそうである。

問題は、セクト抗争を助長させるところの、人々の「秘密」好きな心性がいかに形作られるか、である。戦前では、特高が「非国民」といえばその人が「非国民」になるという風に――何かを考えてもその評価が他人の手にゆだねられていた。考えることを秘密にする癖がつくわけだ。他人を信用できないんだから。どうみてもいま話題の「秘密保護なんとか」は、公共のために何を秘密にするのかは大物の俺が決めるぜ、という一部の頑張り屋が人民を信用せずに作ったものであろうが、やつらは自分の能力に自信を持ちすぎである。世の中、持ちつ持たれつで出来ているのである。(最近の、学校を成績でランク付けしようという企みもあまりに勉強できない人間を馬鹿にしすぎではなかろうか。これは蛇足)しかも、この持ちつ持たれつは、「俺が決めるぜ」という意志が末端の特高の「俺がもっと決めるぜ」という形に変形してあらわれてしまうように、結局は最初の人の「俺が決めるぜ」が貫徹されることにならないという性格を持つ。そんな感じでむちゃくちゃな感じになってしまうのがファシズムであろう。

授業と秘密

2013-11-28 22:37:16 | 文学


今年の共通科目(日本近代文学おける〈動物文学〉)は受講生も少なくやや難しめのことをやっても大丈夫な雰囲気なので、……という訳でもないが、今日は社会有機体論とかドゥルーズの逃走線とか「にげちゃだめだ」発言とか「デンドロカカリヤ」とかについてしゃべったあと、三島由紀夫と東大全共闘の対決について、映画の一場面を取り出して考えた(私が)。次回は、「気のいい火山弾」大批判をやるつもり。

……授業を終えると、受講生の一人が三島由紀夫についての感想とか、村上春樹と萌えキャラの関係、安部公房の「密会」が如何にすばらしいかなどを語りに来てくれた。

やはり、こちらが〈学生の利益に向けた〉授業を構成し嘘が混じった社交辞令的な授業をやってると、こういう学生はやってこない。悲しいことに、このような学生が生じる確率は同調圧力によって非常に減少しており、高等学校までの教育現場に彼らの居場所はなくなっていると言ってよいのではなかろうか。どうもそんな妄想をかき立てるほどの雰囲気を感じる。こうした事態への責任はいずれ歴史によって審判が下るであろうが……いつまでたっても黙示録に書かれたことが起きないところをみると、希望はとりあえずなし。

世の中は「秘密保持なんとか」とかで騒然としているが、こういう法律ができるということは日本の軍国主義化というよりは、日本の社会がいよいよ市民の均質化によるセクト(言うまでもなく政治団体のことじゃない。もちろん「げのっせんしゃふと」のことでもなし)による利益分捕り合戦の様相を呈してきたことのあらわれであると思う。というか、日本の戦時下では、総力戦だ一億火の玉だどころの話ではなく、お互いに暴力を使わなければならないほど、セクトによる生き残り作戦がひどかったわけで、一番悪質なのは、「秘密」裏に行われるセクトによる自由な個人の抹殺なのである。市民社会こそがファシズムを生むという所以は、特高警察のようなものが国家の暴力としてというより市民中間層の暴力として現れたからであろうが、それは自分の都合の悪いところを「秘密保持」して他人のそれは暴きたがるという、ある種の「自由」な気分の発散として行われるのである。象牙の塔にいても分かるくらいであるが、もう現に日本はそうなっている。藤村が「破戒」で秘密を守って自由に生きるより告白して自由に生きようという道を選んだ人物を描いたのは、そんな社会のことを考えていたからじゃないかとも思うのであるが……だからこそそれが被差別問題として語るべきことだったのかが問われる必要があるのである。小説の最後に、丑松は「移動」する。既に様々な人たちが言っているように、それが何の解決にもなりそうもなかったのは言うまでもなし。

ふきとばせ、シャボン玉

2013-11-27 22:47:47 | 文学


つまらないわね、そんなこと。ふきとばせ、シャボン玉。きのうは、お寺さんと買い物にまいりました。お寺さんの買ったものは、白い便箋と、口紅と、(口紅は、お寺さんに、とてもよく合う色でした。)それから、時計の皮でした。あたしは、お金入れと、(とてもとても気に入ったお金いれよ。焦茶と赤の貝の模様です。だめかしら。あたし、趣味が低いのね。でも、口金の所と貝の口の所が、金色で細くいろどられて、捨てたものでもないの。あたしこれを買う時に、お金入れを顔に近づけてみましたの。そしたら、口金にあたしの顔が小さく丸く映っていて、なかなか可愛く見えました。ですから、これからあたしは、このお金いれを開ける時には、他の人がお金入れを開ける時とは、ちがった心構えをしなければならなくなりました。開ける時には、必ずちらと映してみようと思っています。)それから口紅も買ったんだけれど、こんな話、やっぱり、つまらない? どうしたのでしょうね。おじさんにも、わるいところがあるのよ。あたし、ときどき、そう思って淋しくなります。お酒は、しかたが無いけれども、煙草は、もすこしつつしんで下さい。ふつうじゃ無いわ。デカダンめ。

――太宰治「俗天使」

着せ替えと水鉄砲

2013-11-26 20:07:24 | 文学


京マチ子の着せ替え映画。…という事態はどうでもいいとして、京マチ子が鳥飼警部と群衆で会う場面で、ショスタコーヴィチの第二交響曲風の音楽が流れていた。さすが芥川。に加えて、石原慎太郎が「小説飽きちゃったんで歌手やってます」といいながら寝ぼけたジャズ歌ってるのがおもしろかった。映画の最初の方で、水鉄砲しゅしゅっとやりながら「銃ってのはちょっとした実存的な重量感があるな」とのたまうくさい演技も「寄らば切るぞの勢いで中国にはなんちゃら」とかいうへたれ国会演説よりよほど優れている。

2013-11-26 13:51:17 | 日記


ょっと借りてみた…というわけにいかぬ。たぶん、この方はいわゆる市民目線の人(笑)だから政治家になりきれていなかったのであろう。もっとうまくやってるやつはいるはずだ。「秘密」になってるだけで。

コミュ力(笑)

2013-11-23 23:50:13 | 大学


・第一の目的でないところで評価されようとがんばる
・聞いてないことまで勝手に答える
・答えられなかったときに「これから勉強しようと思います」といきなり言い訳する(授業とかではなくその他の重大なときね……もう遅いんですけど……)
・黙って助けてくれるのを待つ
・嫌みにマジメに答えることで議論の水準を下げ得しようとする
・やたら(間違った)敬語をつかうが、その実、相手に命令している

こういうのは、コミュ力ではなく卑怯力とでも言うべき。たちが悪いのは、自分の都合の悪いとき、相手とコミュニケーション(笑)をしてなんとか切り抜けようとしたり評価を上げようとがんばる癖である。授業でも言っておいたが、最近、失敗したり怒られそうなときほど威張るよう努力している人間さえいる。(まあ首相のせいかな)一昨年ぐらいから、かような卑怯力が学生その他のなかでおそろしく上がりはじめた。まあ身近な劣悪な大人のまねをしているだけ、というかそういう卑怯力を積極的に「教えている」教員が実際いるからである。個人の責任がなくなる、卑怯者やバカでも威張れる自由がある、にこにこディスカッションばっかりして何になる。今も昔も日本に必要なのは自由主義なのであろうが、自由主義とはその個人がその都度「自由たれ」と自らを「律する」ところが重要なのではなかろうか。どうも宮崎アニメにみたいに空気に漂って飛ぶのが自由だと感じるわれわれはどこか動物的な感じがする。

おのれ画板め、今乃公が貴様の角を、残らず取り払ってやるからにわ、もう明日からわ角なしだ

2013-11-21 20:11:56 | 文学


今日は、共通科目(日本近代文学における〈動物文学〉)のレポート提出日で、みなさまの書いたものを読みました。今回のレポートは巖谷小波「三角と四角」のパロディ創作。今年は受講生が少ないせいか、レポートのレベルが高い。なかには相当楽しく読めるのもある。まあ、やはりもとの「三角と四角」が一番面白い……

上野千鶴子対佐藤友哉対東浩紀対大今良時対北杜夫対為永春水

2013-11-19 23:01:54 | 文学


今日は、評論注釈の演習で、前回に続き上野千鶴子の『おひとりさまの老後』の一部を扱う。授業前に、『おひとりさまの老後』をなるたけ相対化するために、佐藤友哉『世界の終わりの終わり』と東浩紀『一般意志2.0』と大今良時『聲の形1』をひっつかんで教室に向かう。んで、演習者の発表の前に、その三冊を用いて即席で、上野千鶴子がやさしく無視しているものについて論じてみた。……こんなことをやっていると、ますます精神が荒みそうである。演習者の発表の途中で、北杜夫の「少年」も紹介しておいた……。北杜夫は、たしかこの「少年」について「乳臭い作品だ」と言っていたと思うが、ある種、評論というものはもっと乳臭いものであろうと思う。そして論理が論理である限り、「乳臭い論だ」と過去の論理を否定することさえ禁じられているのだから……。最近の一億総評論家時代が成熟を志向しない理由もそんなところにあるのかもしれない。しかしだからといって、小説の方が、「春色梅児誉美」などではまずいとわたくしは思う。佐藤友哉などはいったい自分の小説をどんな風に思っているのであろうか?