ひさしぶりに読み直してみたが、この本に書かれていることを本当だとすると……。日本は、日清日露で一等国になったとかいう偽のプライドだけふくれあがってるところに、帝国主義の作法に基づき戦争を続けなければならないことになったが、たいした大義も考えつかんので、太平洋憲章などをコピペしたような文章で急場をしのいだ。が、幼年学校みたいなサティアンで育った人たちが仕切る海軍と陸軍みたいな巨大やくざ組織みたいなもののセクト抗争と、官僚と庶民の無気力と密かなサボタージュで、誰も戦争で勝つ気になってない「秘密」を完全に隠蔽したまま、案の定、大負けした……ということになる。そうであろう。今もそっくりだからな。面倒な人間を組織から追い出し、空疎なスローガンで人を脅しつけているうちに、部下の誰も一生懸命仕事をしなくなっている訳で、なんとか尻を叩かなければ人はうごかじ、という危機感にあおられた「本質的やる気を失っている中間管理職」が、金で人を釣ったり、特攻などという手っ取り早い業績作りを考えたりする。――そんな状態が永野氏が考えた日本を敗戦に導いた「文化」である。氏は、戦争体制で階級問題がある程度是正され、軍事力を動かす政治家という文化醸成のための能力を欠いた日本人がそれを免除されて、(つまりそんな高度なことを考えなくてもなんとかなる)経済活動で繁栄する道まで完全に見えており、だからこそ、戦後も怪しく活動し続けることが出来たのだ。ただ、この著作で、ヒトラーやスターリンやなにやらの「大物」に対して維新の志士を大物として持ち上げてみたりするところは、いまの小物政治家と選ぶところはない。まともな「文化」が必要だと言いながら、それを具体的に考える困難ではなく、人間の大きさみたいなところに関心が行ってしまうところが、偽のプライドの肥大と関係があることは言うまでもないように思われる……。大物は大志を抱く的な妄想は実は奴隷の心構えとして必要なので、永野氏のこの著作を従業員にくばった会社まであったそうである。
問題は、セクト抗争を助長させるところの、人々の「秘密」好きな心性がいかに形作られるか、である。戦前では、特高が「非国民」といえばその人が「非国民」になるという風に――何かを考えてもその評価が他人の手にゆだねられていた。考えることを秘密にする癖がつくわけだ。他人を信用できないんだから。どうみてもいま話題の「秘密保護なんとか」は、公共のために何を秘密にするのかは大物の俺が決めるぜ、という一部の頑張り屋が人民を信用せずに作ったものであろうが、やつらは自分の能力に自信を持ちすぎである。世の中、持ちつ持たれつで出来ているのである。(最近の、学校を成績でランク付けしようという企みもあまりに勉強できない人間を馬鹿にしすぎではなかろうか。これは蛇足)しかも、この持ちつ持たれつは、「俺が決めるぜ」という意志が末端の特高の「俺がもっと決めるぜ」という形に変形してあらわれてしまうように、結局は最初の人の「俺が決めるぜ」が貫徹されることにならないという性格を持つ。そんな感じでむちゃくちゃな感じになってしまうのがファシズムであろう。