颱風きました
皆さんコンニチワ。黒い猫です。
背中を出してみた
浮上してみた
吾輩は上昇志向の男である。
ポーの「黒猫」を昨日読んでみたが、吾輩のことではない。吾輩は下のような変な声を出したりしないのである。
But may God shield and deliver me from the fangs of the Arch-Fiend! No sooner had the reverberation of my blows sunk into silence, than I was answered by a voice from within the tomb! — by a cry, at first muffled and broken, like the sobbing of a child, and then quickly swelling into one long, loud, and continuous scream, utterly anomalous and inhuman — a howl — a wailing shriek, half of horror and half of triumph, such as might have arisen only out of hell, conjointly from the throats of the dammed in their agony and of the demons that exult in the damnation.
昔「玄鶴山房」論を書いた時に、秘かに思い浮かべていたのは A Rose for Emily との対照性だった。いつか問題に出来るときがきたら書いてみよう……
『特攻体験と戦後』という題名であるが、戦後についての記述は少ない。わたしにとっては、その戦後の話題の話題の代わりに、この対談の最後のあたりで、唐突に二人がキリスト教(カトリック)信者であることが話題になっていることが面白かった。これは、二人が希望したというより、対談の間に立っている「聞き手」の意向であったろうが、二人とも話したがっていない様子だ。
どうも、観念的には「死と生」といった哲学的な〈意味〉の問題として特攻体験を処理しようとしながら、二人にとってそれはある種の信仰の問題に感じられているのではなかろうか。しかし、思うに、特攻体験の持ったそれ自体の〈意味〉などあるはずがないし、信仰によって何らかの意味が出てくるとも思えない。たぶん、彼らが体験を「具体的」に分析出来ない理由は、私小説を書くことが、それが親戚や家族に迷惑をかけるが故に決死の覚悟が必要なのと同じである。宗教は、そんな抑圧の存在を抑圧してしまうのである。
火野葦平や斎藤茂吉が戦時下の馬に思い入れを持っていたことは、彼らの作品から想像がつくが、どこかしらメタフォリカルにかんじる。それよりは、山本嘉次郎監督の「馬」(昭16)の方が私は好きです。東条英機の言葉が冒頭に掲げられた戦争の影著しい映画である……高峰秀子演じるいねは、育てた馬を買い戻すために、紡績工場にはたらきに出たりして一生懸命。借金を返すために馬を売らなくてはならなくなったが、馬市でもなかなか借金を返すほどの値が付かない。最後に彼女の家の希望を叶えたのは軍であった。馬は高額で軍馬として買われていって、彼女の家の家計を助けたわけだし、いね自身も国に奉仕したことになるのであろう。が、最後に軍馬として列をなして歩いてゆく馬を必要以上に執拗に撮影し、お金が入って喜ぶ家族を「うるさい」と叱責しながら、遠ざかる馬の足音に耳をすますいねの泣き顔で終わるこの映画は。果たして国策映画なのか。(一説によると、高峰秀子が手をかざしてよく聴こうとしている耳は、幼い頃病気で聞こえなくなった方の耳だったそうである。)彼女は、もう国から馬を取り返す訳にはいかない。自分たちの生活と引き替えに馬を売り渡したに過ぎない。これは馬だけの問題ではない、馬の代わりに人間だって売られていた時代である。……ということは、国策映画ではなくても、国民感情を逆撫でしない程度には、ナショナリスティックな映画であった可能性はある。辛うじて、それを乗り越えてしまうのが、主演者のパセティックな感情表現である。「二十四の瞳」の場合もそうであった。
耐えてばかりいる庶民を描いても、それが怒りには変わらないところがミソなのである。高峰秀子の著作を読むと、彼女はいつもプンスカ怒っているような感じであるが……。
「リリィ、ハチミツ色の秘密」を観ました。
わたくしにとってミツバチといってすぐ浮かんでくるのが、幼児の頃繰り返し聴いた、芥川也寸志のミュージカル「みつばちマーヤ」である。それは「東京子どもクラブ」という通販の学習教材で、幼稚園の頃から一ヶ月に一度レコードと絵本が送られてきて、小学校低学年には交響曲などを聴けるようになるというプログラムである。芥川のそれはその一枚であった。
この教育課程は、わたくしのような既に家に引きこもりがちの幼児の場合非常にうまくいきすぎて、──小学校に入ったころ送られてくる、芥川也寸志指揮、東京シティフィルの様々な演奏について、「あれ?これはシカゴ交響楽団よりなんか演奏がまずくないか?」と感じた。──そんな世の中を舐めきった感性を育てるのに役立ったのである。
それはともかく、「みつばちマーヤ」は、いま考えてみると、プロコフィエフの「ピーターと狼」のソビエトナショナリズムがままごとに見えるほどである。マーヤは人口が増えすぎたミツバチ王国を救うために花園をみつけた、ところが、大きな「悪い」熊ん蜂がマーヤを拉致する。なぜか熊ん蜂軍はみつばち国を攻める計画をしていたのだ。が、脱走したマーヤに密告され、みつばちの城を攻めた熊ん蜂軍は、5倍の数を誇るみつばち軍に待ち伏せされて一気に蹴散される。大勝利!ということで、新たな花園に向かって、みつばち王国は進軍する……
「ぼくらは強いみつばち──敵を蹴散らし──、花園を荒らすにくい奴、なんとかなんとか、──輝く太陽を背にうけて、おーおーおー、ぼくら正義のみつばち、いざつきすすめ、おーおーおー、空の果てまでつきすすめ、いざすすめ!」
たしか、こんな歌詞だったが、この行進曲を今もわたくしは口ずさむことが出来る。幼児への洗脳怖いわ、このみつばち連中、新たな花園獲得のためには、勝手に敵を作って進撃する──完全に帝国主義やないけ。大臣などの大人は、熊ん蜂が強いことを知っているから新たな領土獲得を尻込みしていた訳だが、脳みそがまさに蜜蜂並みの若手が強引に引っ越しと熊ん蜂打倒を主張したのであった。若手頭わるっ。ガキ向けミュージカルとはいえこの程度の話でお茶を濁しているから、いざというときに我々はガキ的になろうとしてしまうのである。……もう30年以上前の記憶だからわからんが、もしかしたら階級闘争的なニュアンスでも少し入っていたのかもしれん──が、幼児のわたくしの思いは、大きな悪い人には小さな人の正義が勝つ、つまり自分は正しいという、そんな感じであったろう……
なんという動物文学の作家だったか、ナチスの党大会を見物して、蜜蜂の社会みたいだ!すごい集団だ!と褒めてんのかけなしてんのか分からんコメントを戦時中していたが……、もうそんなメタファーごっこで安穏としておれる時代は永久に過ぎ去った。
「リリィ、ハチミツ色の秘密」は、親の夫婦喧嘩をみてしまった娘・リリィが誤って母親を撃ち殺してしまうところから始まる話である。そこに公民権運動下の黒人差別を絡めた話。
今年のセントラルリーグは、中日ドラゴンズ黄金時代終了のお知らせを受けて、読売が優勝してた。
勝 負 引
1位 巨人 81 38 14
2位 中日 70 49 15
3位 ヤクルト 60 59 11
4位 広島 55 66 12
5位 阪神 50 69 14
6位 DeNA 41 77 11
中日は貯金が21もあるけど、不安定な試合をするチームになったし、監督が気が強い割には強がらないもんだから、途中から終戦モードだったような気がする……
……というか、3位以下は……もしもーし生きてるんですか。ヤクルトは巨人の強いときにはなぜかこんな感じになるとして(単なる印象だが)、広島と阪神はどうしたんだろう……。広島はなぜいつも途中から息切れするの?阪神はスットコドッコイ状態の方がある意味盛り上がっているようだからまあいいか……。横浜……、イイカゲンニシロ(昨年はありがとう)。
梅崎春生の「地図」を読み直したら、安岡章太郎のある小説と混同していたことが判明した。なんか中上健次のある小説とか三田誠広の処女作を合わせたような感じだと思った。梅崎春生は「地図」を書いた時、まだ大学に入ったばかりだったはずだ。そのあと数年の間に梅崎は急に成熟しているように思えるが、三田もそして中上もかなり違った意味ではあるが、そういう成熟は遂げなかったようだ。
「地図」は、強姦事件とその被害者の弟である小学生の自殺をあつかった小説だが、主人公の想念の中に「最も美しい行為で死にたい」というコンセプトがでてくる。もしかしたら、梅崎春生はもうすでに戦争のことを考えていたのかもしれぬ。まあ文学史的に見ようとするなら、例の派閥とかの影響になるのかもしれんが……
↑
お祭りで金魚を大量に貰ったけど、当然飼えないので、プールに放して一緒に泳いだという中学生のニュースがでていたが……、みんなと泳ぐわたくし。
「地図」は、強姦事件とその被害者の弟である小学生の自殺をあつかった小説だが、主人公の想念の中に「最も美しい行為で死にたい」というコンセプトがでてくる。もしかしたら、梅崎春生はもうすでに戦争のことを考えていたのかもしれぬ。まあ文学史的に見ようとするなら、例の派閥とかの影響になるのかもしれんが……
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お祭りで金魚を大量に貰ったけど、当然飼えないので、プールに放して一緒に泳いだという中学生のニュースがでていたが……、みんなと泳ぐわたくし。
京大の先生が、所謂「ABC予想」を証明したと話題である。(
わたくしも高校までは「自分は結構理系」(実際、理系教科の方が点数は高かった)と思っていたところ、ある日突然分からなくなったクチであるが(たぶん、そんなことはなく、どこかで勉強をさぼったのである)、やっぱりインテリ面したいなら、高校の最後までは数学をやるべきだと思うのである。分からなくてもいいのだ。自分がどれだけ論理的じゃないか自覚してやり終えることが重要である。だいたい、国語だって、わたしのみたところ、高校生の9割方おちこぼれている訳だから、同じ様なもんだ。減点方式をやめてミロよ、ほとんどの奴が0点に近くなるはずである。教員にその勇気と能力がないからそれが出来ないだけだ。そしてそんな教員に育てられた国語の教員はといえば、実際のところ7割方が「国語の苦手な国語教員」なのである。教育を語る連中は、そういう現実をちゃんと分かっているであろうか。わたくしのみたところ、文章を読む時にがさつなやつがいじめ対策なんか出来るのかよ、という感じである。この世界の読解は文章の読解と似ている。鈍すぎて当然気づくべきものも気づかないんじゃないか。「他人に思いやりをもつべし」と思っていてもそんなもんまったく関係がない。思いやる能力はほとんど文学的能力に等しい。その能力の欠如はもうすでに他人に対するいじめである。したがっていじめは我々のコミュニケーションそのものであり(笑)あとは社会通念の問題であろー。
という具合で、またつい妄想に浸ってしまった訳だが……。わたしは妄想は許せるが観念論は許せない。ちゃんとした妄想は論理的であろうが、観念論は言葉の遊びだからである。どうも、観念論ときちんとした理屈の区別が付かないタイプがインテリの中にも大勢いるようである。一見、科学的である外構をもっていて(自分でも科学的だと思っていて)もちゃんとした理屈で考えられない人も同類である。やっぱ数学やんなきゃだめだあ……(←といっても、数学挫折した奴の空想だけどもね……)