相撲にはほとんど興味がないわたくしで、いま知っている力士と言えば、御嶽海、白鵬、琴ゆうき(漢字が思い出せない)、えーと、もう誰も出てきません…
あっ、琴奨菊っていましたね…
北の湖と輪島、台頭する千代の富士の時代は、ほとんどの幕内力士を暗記していた私ですが、いまはこのていたらくです。
プロ野球も、中日ドラゴンズが元の弱小ドベゴンズになってから全く興味を失ってしまい、知っている名前といえば、ダルビッシュ、まーくん、えーと松坂(引退したか、さすがに)
えっ、松坂って中日に入ったんだ!がんばれ松坂。私は、松坂の活躍を自信を持って、いや確信を…
あっ、だれだっけ、あの背の高い童顔の……。太田?いや違った、狼?いや違うな、小谷、あっ、大狸!いや、ジャイアント馬場!絶対違うな、大岡昇平!すごく近い気がする!
大谷か…
ところで、昨日、栃ノ心という力士が優勝したらしいので、グーグルで検索してみました。グルジア出身ですね。でかいです。筋肉もりもりです。もと柔道ジュニア大会のチャンピオンらしいです。海を渡って日本で優勝です。入門十二年での優勝。で、よくある日本人の感想↓
「がんばればいつか夢は叶う」
なんでそうなるんでしょうか?日本人のよくあるパターン↓
日本出身→170センチぐらい(もう少しほしかったなーなどと、モテないことを身長のせいに)→筋肉そこそこ→スポーツ大好き(観戦で少し盛り上がる)、もと小学校の運動会で短距離走クラスで10位→大学の時に友達とアメリカに留学、すぐ帰国→会社12年目で…
がんばれば夢は叶う!
結論:御嶽海はどうみても8勝7敗を意図的に狙っている
冬の空は不気味だなあ…。昨日寝る前に、筒井康隆の「ダンヌンツィオに夢中」を読んだので、リゴリズムについてあれやこれやと夢想する。
これは割と知られた三島由紀夫論であるが、読後感はあんまりよろしくない。この評論が書かれたのは89年でわたくしは高校生。まだまだトーマス・マンと安部公房がどっちが正しいかなどと、ラッパを吹きながらぼーっとしていたころであるが、なんとなくこういう評論の調子こいた感じの影響を受けているような気がする。前にも書いたが、文体は、読んでなくても影響を受けることがある。つまり、文体というのは、個人のものというより空気に近いからである。筒井康隆がちょっといやだと思うのは、――こういう文章を三島由紀夫を茶化して終えてしまうところで、せっかくダンヌンツィオと比較してるのに、最後はダンヌンツィオに対してちゃんと壮大な笑いを提供してくれたまえよ、と思うからだ。要するに、東条英機は誰も馬鹿にできるが、ムッソリーニはそうはいかないのが我々の文化的困難である限り……。わたくしは筒井ほどの芸当もできないが…
授業で、モンティーニュをちょっと扱ったときにも思ったが、我々に必要なのは、一辺倒でも両辺倒でもなく、リゴリズムの方ではないだろうか。
気分が沈みがちな時には、プロコフィエフの「十月革命20周年のためのカンタータ」が私にとってのドラッグである。シュワルツネッガーが出ていた「Red Heat」という映画のエンディングテーマとして使われたことで少し有名になった曲である。訳ありで、初演に三〇年もかかってしまい、十月革命二〇年記念どころか、五〇周年記念ぐらいになってしまい、逆にソ連崩壊まであと二〇年ぐらいしかなかったのであった。作曲者も、もう死んでた……。歌詞が確認できないので、よくわからんが、レーニン、マルクス、スターリンの名言をつなげているようである。今度下の動画でもゆっくり訳しながら…という気にもならんが…ヴィラ・ロボスのショーロス12番なども好きな私は、お下品にとっちらかった曲に惹かれる傾向がある。
https://www.youtube.com/watch?v=7r1adsrxz5c
ロシア音楽の作曲家は大砲とかピストルを楽器だと思っている節がある。マーラーを描いた風刺画に、「これも交響曲に使えるぜ」みたいなことをマーラーが言っていろいろなものを集めているのがあったような気がするが、マーラーはまだ牛の首にある鈴とかでかい金槌とか千人の農民兵合唱隊でとどまっており、まさにドイツロマン派の農民臭さを忠実に拡大しているだけの話なのである。――しかしよくわからんがプロコフィエフにしてはあんまりひねくれていない曲のような気がする。「古典交響曲」とか「シンデレラ」とかの方がよほどめちゃくちゃなことをやりくさっている、ように思われる。わたくしは昔吹奏楽で「シンデレラ」を演奏して、この作曲者の「演奏できない連中は十二時前に速やかに銃殺だ」みたいな感性に非常に腹を立てているのである。こういう曲とか、ショスタコーヴィチの交響曲第4番とかをちゃんとすぐに初演できないソ連という国、やはりセンスがおかしかった。いまや、オリンピックの壮行会で気持ち悪く集団応援みたいなことしたり、喜び組みたいな集団舞踊に気持ち悪く喝采しているという意味でセンスが北朝鮮に接近している我が国でさえ、昔のオリンピックなどでは、三善晃や湯浅讓二にファンファーレを書かせたりしていたわけで、まだましであった。ずっとましなわけではないが、過去の記憶というものは現在の愚劣さより大事である。
ところで、この前中井貴一や波瑠、満島真之介といった皆さんが「娘の結婚」というドラマに出ていた。「東京物語」や「麦秋」の危険な香りはどこへやら。娘が結婚相手として連れてきた相手が、昔集合団地?の奥さんグループのなかでちょっと「トラブルメーカー」のように扱われていた奥さんの息子なのであった。団地で起こった自殺もその人のいじめが原因だという説が週刊誌に載ったこともある。そこで父は調査してみたり、記憶を探ってみたりする。で、むしろ彼女がいい人だとわかったし、死んだ妻とも仲良かったらしいので、結局、結婚を祝福することにしたという話である。父親は、母親とは縁を切ってもいい、と言い放つ結婚相手を静かに叱責する、「逃げちゃだめ。君にとって母親はどういう存在だったのか考えてみよ。子のことを大事に思わない親はいない」と。確かにいまの我々の社会は、「いい人」と「トラブルメーカー」が二項対立してしまうようなばかげた倫理観が横行しており、まったくこの人たちの改心は期待できない。だから、そんな人々は気にするな、という呼びかけが有効なのはわかる。しかし、ここでも親子の絆みたいなものは自明の理なのである。わたくしは、てっきりその結婚相手が「わたしにとっても、母親はトラブルメーカーでした」と言うのかと思った。ここでそう言わせないと、人間探求の道は始まらない。だいたい娘も、父親と普段からラインばっかりして癒着しすぎなのだ。波瑠女史、そこは、突然の駆け落ちだろうがっ。
不自然ですね。はいはい、リアリズム、リアリズム……。日本で小説家などに「リアリズム」が異常な反感をもたれてきたのは、日本でのリアリズムというのが、社会主義リアリズムと同じで、単に「馬鹿の命令」をそのままリアルに実現してやることだからである。
https://www.youtube.com/watch?v=7r1adsrxz5c
ロシア音楽の作曲家は大砲とかピストルを楽器だと思っている節がある。マーラーを描いた風刺画に、「これも交響曲に使えるぜ」みたいなことをマーラーが言っていろいろなものを集めているのがあったような気がするが、マーラーはまだ牛の首にある鈴とかでかい金槌とか千人の
ところで、この前中井貴一や波瑠、満島真之介といった皆さんが「娘の結婚」というドラマに出ていた。「東京物語」や「麦秋」の危険な香りはどこへやら。娘が結婚相手として連れてきた相手が、昔集合団地?の奥さんグループのなかでちょっと「トラブルメーカー」のように扱われていた奥さんの息子なのであった。団地で起こった自殺もその人のいじめが原因だという説が週刊誌に載ったこともある。そこで父は調査してみたり、記憶を探ってみたりする。で、むしろ彼女がいい人だとわかったし、死んだ妻とも仲良かったらしいので、結局、結婚を祝福することにしたという話である。父親は、母親とは縁を切ってもいい、と言い放つ結婚相手を静かに叱責する、「逃げちゃだめ。君にとって母親はどういう存在だったのか考えてみよ。子のことを大事に思わない親はいない」と。確かにいまの我々の社会は、「いい人」と「トラブルメーカー」が二項対立してしまうようなばかげた倫理観が横行しており、まったくこの人たちの改心は期待できない。だから、そんな人々は気にするな、という呼びかけが有効なのはわかる。しかし、ここでも親子の絆みたいなものは自明の理なのである。わたくしは、てっきりその結婚相手が「わたしにとっても、母親はトラブルメーカーでした」と言うのかと思った。ここでそう言わせないと、人間探求の道は始まらない。だいたい娘も、父親と普段からラインばっかりして癒着しすぎなのだ。波瑠女史、そこは、突然の駆け落ちだろうがっ。
不自然ですね。はいはい、リアリズム、リアリズム……。日本で小説家などに「リアリズム」が異常な反感をもたれてきたのは、日本でのリアリズムというのが、社会主義リアリズムと同じで、単に「馬鹿の命令」をそのままリアルに実現してやることだからである。
高松のくせにこの寒さは何なのでしょうか。最高気温が二度ぐらいのようです。開田高原かっ
冬空寒すぎっ
買い物に行った後、鹿の井の水神さんを訪ねました。夏に見たように、勧請されたのは最近なんですが、祠自体は昭和六年に建てられたみたいです。
ところで、こういう寒い日には、映画「書道ガールズ」なんかはいかがでしょうか。四国中央市の書道部の話です。書道家の父をもつ美少女がほかの美少女(三人)とへたれ男子(三人)と一緒に、「書道パフォーマンス」をやって町おこしみたいな雰囲気を作る話です。部員不足で困っているところからはじまる、部活譚の基本的なあれなのですが、どうみても、この美少女軍団に人が群がらないという恐ろしく「美少女に簡単になびかない硬派」の高校の話です。お話の主題自体はありふれているのですが、…
成海璃子(美人部長)
桜庭ななみ(明るい美人部員)
山下リオ(家族が病気の不幸な美人部員)
高畑充希(KYで眼鏡ッ子である意味ださい子扱いなのだが、よく見たらただの美人部員)
小島藤子(元不登校の子で、暗い子キャラなのであるが、よく見なくてもただの美人部員)
金子ノブアキ……(ただの顧問)
ただの、芸能事務所じゃないか。
かわいそうだったのは、書道家の頑固親父。娘がいまいちな才能であるのを見抜き、彼なりにがんばって指導していたところ、娘は部活のみんなと友情を暖めて「お父さんにはわからんよ」などと反抗期。お父さん、大丈夫です、娘の頑固なところはあなたにそっくり!
田舎の部活の話は意味もなく共感してしまう私であるが、――この手の話が問題だと思うのは、地方の衰退というのは、もっと精神的、知的に悲惨な出来事だからである。しかし個々の人間の魂の堕落に比べれば、地方の堕落など最後までよくわからないものだ。――まあそんなことはどうでもいい。とりあえず、この美少女たちは、愛媛大学いや×川大学に進学してほしい。さすれば当然所属は、うちの国語研究室である。間違っても、×応とか×畿とか、早×田とかいうでかいだけの田舎大学に進学しないでほしい。山下リオは、書道の先生になりたいらしいので、特に…
冬空寒すぎっ
買い物に行った後、鹿の井の水神さんを訪ねました。夏に見たように、勧請されたのは最近なんですが、祠自体は昭和六年に建てられたみたいです。
ところで、こういう寒い日には、映画「書道ガールズ」なんかはいかがでしょうか。四国中央市の書道部の話です。書道家の父をもつ美少女がほかの美少女(三人)とへたれ男子(三人)と一緒に、「書道パフォーマンス」をやって町おこしみたいな雰囲気を作る話です。部員不足で困っているところからはじまる、部活譚の基本的なあれなのですが、どうみても、この美少女軍団に人が群がらないという恐ろしく「美少女に簡単になびかない硬派」の高校の話です。お話の主題自体はありふれているのですが、…
成海璃子(美人部長)
桜庭ななみ(明るい美人部員)
山下リオ(家族が病気の不幸な美人部員)
高畑充希(KYで眼鏡ッ子である意味ださい子扱いなのだが、よく見たらただの美人部員)
小島藤子(元不登校の子で、暗い子キャラなのであるが、よく見なくてもただの美人部員)
金子ノブアキ……(ただの顧問)
ただの、芸能事務所じゃないか。
かわいそうだったのは、書道家の頑固親父。娘がいまいちな才能であるのを見抜き、彼なりにがんばって指導していたところ、娘は部活のみんなと友情を暖めて「お父さんにはわからんよ」などと反抗期。お父さん、大丈夫です、娘の頑固なところはあなたにそっくり!
田舎の部活の話は意味もなく共感してしまう私であるが、――この手の話が問題だと思うのは、地方の衰退というのは、もっと精神的、知的に悲惨な出来事だからである。しかし個々の人間の魂の堕落に比べれば、地方の堕落など最後までよくわからないものだ。――まあそんなことはどうでもいい。
今日は、学生の卒業論文の提出日で、なんとなくいろいろと心配する日である。
わたくしは、徐々に学生に勝手に書かすスタンスに移ってきているので、イメージとしてはこんな感じである。
前方を担いでいるのがゼミ生で、後ろで担いでるのか引き摺られているのかわからないのがわたくしである。卒業論文はまあ、試行錯誤を自分だけでやってみる最初で最後の機会かも知れないが、一編の、世の中を変えるすごい研究者の論文も、学生たちの「とりあえず考えてみた」みたいな論文と無関係ではない。後者がなければ前者は絶対に存在し得ない。論文というのは筆者が考える以上に集合的な知なのである。どんなクズ論文にも一分の魂という意味では、論文というのは、生きとし生けるものに近いっ
とはいえ、昔のわたくしの論文など振り返ってみると、大概、筆者にその都度おしりぺんぺんが必要なレベルのどうしようもないものである。
わたくしは、徐々に学生に勝手に書かすスタンスに移ってきているので、イメージとしてはこんな感じである。
前方を担いでいるのがゼミ生で、後ろで担いでるのか引き摺られているのかわからないのがわたくしである。卒業論文はまあ、試行錯誤を自分だけでやってみる最初で最後の機会かも知れないが、一編の、世の中を変えるすごい研究者の論文も、学生たちの「とりあえず考えてみた」みたいな論文と無関係ではない。後者がなければ前者は絶対に存在し得ない。論文というのは筆者が考える以上に集合的な知なのである。どんなクズ論文にも一分の魂という意味では、論文というのは、生きとし生けるものに近いっ
とはいえ、昔のわたくしの論文など振り返ってみると、大概、筆者にその都度おしりぺんぺんが必要なレベルのどうしようもないものである。
・パソコンを新調したら、知らないうちに顔認証みたいなことになっており、顔が近いとか遠いとか言われて、もはやセクハラで怒られている気分だった。
・西部邁が入水自殺したらしい。確かなことはいえないが、どうやら死ぬ自由を選択したみたいである。確かに言いたいことはわかるのであるが、生きる自由の方は死ぬ自由よりも地味になってしまうからこまるのだ。まあ、最近は、善意はあるのだが人の手足を縛ることばかりしてしまう輩に生かされているだけになっている人も多いので、いっそのこと、と思う人も出てくるであろう。大概、自分ではなく他人を殺す(ことを想像する)方を選択するであろうが……
・学生が推薦してくれた「ぼくらの」という作品を少し読んだが、世界の終わりのかわりに自分の終わりが近い場合、人はどう行動するかという話であるようだ。主人公たちは子どもで、突然巨大怪物の操縦を任されて、大怪獣と戦わなければならない。「エヴァンゲリオン」の場合は、なんだか選ばれた子どもたちが、親との心の壁に悩んでるタイプで、だからこそロボット(親)とシンクロしようとするから操縦できるという――親と一緒に幼稚園に行けば無敵みたいな、幼児みたいな話であったが、一応、理屈はあった。「ぼくらの」はそれがないので(これから明らかになるかもしれないが、1巻では理由はわからなかった)ほぼ徴兵制であった。言うまでもなく、人間、自発的な兵役の場合は、その目的意識と違う場合は不満を持つのだが、自発的ではない場合には不満も持ちようがない。というわけで、理由を探したあげくに従うしかない。こんなものは目覚めでも何でもない。
・黒澤明の「生きる」の場合はどうであろうか。主人公の公務員は癌に侵されながら、急に自発的に仕事をし公園をつくる。わたくしは、昔からどうもこの結末は好きではなかった。もう遅いような気がするのである。
・どこかで読んだんだが、西部邁は学生時代、マルローの「征服者」とかが好きだったらしい。わたくしも好きだったと言いたいところだが、なんかそう言ってしまうと恥ずかしい書物であると思う。
山口諭助の「無の藝術」とか「個と全体」とかを読む。学校現場ではないが、こういう書物からは「いいところ」を見つけようと思って読む方がいいような気がする。
松本清張の「潜在光景」を映画化したのが「影の車」である。若い岩下志麻を眺める映画である。
阿部公彦氏の『史上最悪の英語政策』を激読(
この本で戦犯として名指されているのが、安河哲也と松本茂である。そういえば、松本氏の本は以前めくってみたことがあった気がする。
この本のクライマックスは、156ページからの新指導要領の添削である。コミュニケーションという言葉の入った部分をすべて削るとすばらしい文章にはや変わり。これは英語だけではなく、ほかの教科でもおなじようなことがいえる。わたくしも、以前、ある人に頼まれて指導要領の文章を添削したことがあるが、悪文をものすことにかけては天才のわたくしにかかってさえ、すごくまともな文章に化けた。よい文章とは、「まともさ」があることを言う。この「まともさ」には反論も可能だから自由な議論が生じて認識の上昇があり得る。「まともさ」は決して「わかりやすさ」ではない。「まともさ」を奪っている原因の一つが、意味がはっきりしているようでしていない言葉を無理矢理入れることである。「コミュニケーション」とか「主体性」とかが入っていれば「わかりやす」く感じる頭のあまりよろしくない人にかかると、新指導要領なんか結構わかりやすいのである。しかし決して「まとも」ではないので、その狂ったスローガンだけを連呼する幇間たちは繁茂するが、議論も評価も生まれない。反論しようとすれば「ばかじゃねえの」ぐらいの反応が正直なところ、になってしまう。――なぜ、こんなことをするのか。簡単である。目的が、読む側(教員)の自由を奪うことにあるからだ。――罵倒を繰り広げる巨大掲示板の人間に思考の自由がないように、不満分子ではあるが自由がない、そんな状態におくためだ。
もともとコミュニケーションという言葉は、阿部氏の引く例でいうと、ゴッフマンをはじめとして、有効な理論的なツールである場合がある。ゴッフマンは個人的にはなんかいやだけど……。それを意味不明な言葉にしてしまったのは、阿部氏も言うように、粗雑な連想的な文脈の接続にこの言葉を使ったからだ。英語の会話の問題と、共同体の衰退の問題とか……。〈常識〉においては、こういう問題を一緒くたにするのは頭があまりよくないと判断されるのであるが――、それを一緒くたにすることこそが「わかりやすさ」だと思っている人たちがすごく多くなってきている。
結論:阿部公彦氏は、いつも安部公房を思い出させる。