★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

野球観戦の小説的構造

2011-07-31 15:24:02 | 文学



120センチぐらいのカープファンの方が、野球選手より巨大な図。

野球場で野球をみると、改めてテレビで観戦する時との違いが興味深い。白黒テレビ時代の中継ならともかく、現在の中継は選手の表情まで細かく映し出すし、人間の眼が認識できないハイスピードカメラによるスローモーション、ベースにしかけられたカメラによるベース視線など、いろいろな意味で人間離れしている。こんな視点は球場ではありえない。上の図ぐらいにしか見えないし、視点を変えることも出来ない。ときどき、前の席の人間が視界をふさぐくらいである。

人間離れしているということは、問題が視覚の問題というより視点と観念の問題に移行しているということである。テレビだと、ピッチャーの背後からの視点が最も多く、次いで、バッターを横から見る視点とピッチャーの顔を正面から撮る視点が多いと思う。(といっても、最近野球中継見てないからよくわからんが……)我々は、この視点の切り替えの反復によって、野球という複合的な競技をまずピッチャーとバッターの対決(つまり、対の登場人物である)として認識しがちである。そしてまた、彼らを正面から、背後から、遠くから、近くから、と視点を微妙に変化させつつ、二人の人間への同一化と相対化を行っているのではなかろうか。これは、小説の全知視点による人物の内面への接近と批評のあり方のようなものである。アナウンサーがやたら選手の技術的な問題や内面を語りたがり、インタビュアーが選手の感情を聞きたがることもそれと同じレベルにあると思う。試合後、インタビュアーが「打った時の気持ちは?」とか「あのバッターをどう打ち取ろうと思いましたか?」とか「今の気持ちを誰に伝えたいですか?」とか聞くけれども、選手にとっては正直であろうとすればどう答えてよいやら分かるまい。そして選手がそんなのにまともに答えようとすれば、素人には到底分かるとは思えない珍妙なものになるはずである。だから適当に答える。「別になにも?」や「スライダーで外角に来ると思っているだろうから(以下20行省略)」とか「スナック××で待ってる××ちゃん」のかわりに、「やったと思いました」とか「慎重に攻めようと思いました」とか「両親です」とか答えるわけである。要するに、小説の主人公の内面をどう描くかと同じで、そこには内面の実態に対する想像力と社会的言語の戦いがある。試合中も実態への想像力は解説者、社会的言語はアナウンサーの担当である。そしてだいたい後者が声高である。小説でも後者が勝ることによってその物語は成立もし堕落もする。

球場では、監督はほとんど姿が見えないし存在感もない。しかしテレビや新聞だと違う。恰も監督が全面的に試合を演出しつくりあげているような感じになる。それも監督の顔が大きく映し出されたり撮られたりすることによってである。ここでも我々には、同一化と相対化の認識作用が起こる。

野球にかぎらず、我々は社会で起こる出来事について、小説をつくる作者のように、対象となる他人──すなわち同一化と相対化を行う自己像である──を批評しながら一喜一憂するようになってしまっているのかも知れない。専門家でもないのに、同じことだが──他人そのものではないのに、あるいは「人間」の問題ではなくても、一喜一憂だけはするのである。このような状態の果てには、先のインタビューの様に、紋切り型による妥協しかなく、いつのまにかそれが妥協であることも忘れ去られる。これは不可避である。厳密にすればよいというものではなく、相手が単なる他人や出来事であるということが忘れられている限り果てしない泥沼である。

野球場では、単に体が大きく、足が速かったり、玉を速く投げられたり、ボールを遠くに飛ばす人達が、なにやら飛びまわっているだけである。それを自分と引き比べて慎重に考えてみれば、彼らは明らかに常人離れした化け物の域であるとは思うが、それもよくよく推測してみたらの話であって、どう自分と違っているのかは「厳密には」分からない。ただ、「おっ、なんか球が速い」「あ、すごく飛んだぞ」ぐらいしか分からない。しかし、その事柄そのものだけは明瞭に分かる。

たぶん、この単純で明瞭だが厳密ではないもの、本当はそれが他者を認識できる限界である。このことを野球観戦は想い出させてくれるような気がする。ただこれが私がもっと野球に詳しくなり、野球の体験も豊富で……ということになるとあやしい。球場でも、もう解説者顔負けの勢いで、観戦しながらしゃべりまくってる人はかなり多い。ただし、このような人でも私と根本的に違っているわけではない。以前、落合監督がどこかで記者達に言っていた様に、「おまえらには分からなくて結構」なのが、他人である。

「中日×広島」観戦記

2011-07-30 12:49:19 | 旅行や帰省
昨日は、午後から広島で仕事でした。


岡山駅……です。


新幹線「さくら」号。初めて乗りました。きれいな車内です。



仕事を終えてから、中日広島戦をみにマツダスタジアムに向かいます。この球場は初めてです。大リーグの球場に似てとても美しいという噂なので期待大です。


見えてきました。


席を見つけました。三塁側です。中日の選手が練習しています。


あら、やっぱりきれいな球場。



……次第にお客さんも集まってきました……


あれ?……席間違えた?

なぜか三塁側までカープファンが……

ここで、「かっとばーせ~森野~」なぞ言おうものなら、確実に殺される。

ということで、急遽わたくし、「カープファン」に。心の叫びで中日を応援することに。



……試合開始!

このところ、広島に4連敗の中日中日に4連勝の広島、先発はバリントン。

右隣の終戦直後くらいからのカープファンのおじいさん。山本浩二のユニーフォームを着ている。(以下「山ユ」と表記)「今日も勝ったな!」(一番いいぴっちゃーを中日にあてるなんて卑怯すぎる)

バリントンがすいすいストライク。球場大騒ぎ!(今日も負けたか……)

……二回裏、広島栗原の打席。

山ユ「くーりはらーく-りはらー!」
わたくし「くーりはらーくーりはらー!」(はやく凡退しろはやく凡退しろ)


かきーん(ヒット)


山ユ「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
わたくし「くrぃるbtyぃわうえdyrちううぇbv」(今日も終わったー)


広島一点先制のチャンス。打席松本(←誰?)

山ユ「お前でもうてるううううううううう」


かっきーん(犠牲フライ)


広島ファン「ぎゃああああwqいう゛ぃwtyえつbvjyばんざーいばんざーいばんざーい」\(^o^)/
わたくし「ばんざーい」/(^o^)\


……中日は4回表、堂上直の適時打で同点。

左隣の鬼の様なカープファンのおじさん。(以下「鬼カ」)完全に酔っ払い始める。
「ドラゴンズ、毎年卑怯だぞー。ちょっとは遠慮しろ~ふにゃ」( ̄ー+ ̄)

 
照明点灯!

……6回、中日・グスマンの打席。(いい加減打てよ、本国に強制送還するぞコラ)

かきーん(ヒット)

山ユ・鬼カ「うそおおおおおお」
わたくし「えええええええええええ」

……中日・中田亮のあわやホームランの二塁打。中日勝ち越し。

山ユ・鬼カ「うわぁぁぁぁぁああぁっぁあぁオワッタぁ」
わたくし「うわああぁぁぁあぁ」(中田愛してるー)

前の席の広島ファンのガキが愚図り始める。(静かにせんか!これが人生だ!)


……8回の裏、中日ついに浅尾登板。

山ユ・鬼カ「少しは遠慮しろ、落合ー!」

当然、三者凡退。

山ユ「打てる気配すらない」
わたくし「はぁぁ」(当然だわな。浅尾君すごいっす)


……9回表、中日・平田の三塁打で加点。(さすが平田!)次第に球場が静かになってくる。荒木凡退のあと、グスマンの打席。

かきーーーーん(タイムリーヒット)

山ユ・鬼カ「うそおおおおおお」
わたくし「えええええええええええ」(グスマン愛してる~)


9回の裏、三瀬が打たれて岩瀬登板。

最後のバッター山本芳彦(←はじめて聞いた)

山ユ「山本って誰だっけ?」(←おい)

かきーんん(フライ)






センターにぽてんと落ちる。

広島ファン「ぎゃああああwqいう゛ぃwtyえつbvjyばんざーいばんざーいばんざーい」\(^o^)/
わたくし「wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」/(^o^)\

しかし東出センターフライで試合終了。/(^o^)/



山ユ・鬼カ泥酔状態。


いい一日であった。


ヒーローインタビューは敵地なのでなし。

      


わたくしが座っていた椅子

 
ホテルに戻ってお勉強。


×松に帰ってきました。やっぱり私は青鬼が好き。昨日の赤鬼元気かなあ……


\(^o^)/

教科内容学の苦悩

2011-07-27 19:55:24 | 大学
今日は教科内容学のFDがあったので、ちょっと顔を出してみた。ちょうど国語科内容学演習を担当しているし、なにか面白いことを言う方がおられるかと思って出かけてみたのである。

私の長い塾講師とか非常勤講師の経験からすると、例えば中学校の国語をまぁ自信を持って教えることができるかもしれないと思ったのは、博士課程の後半ぐらいからであった。これは教育技術の向上も関係してただろうが、文章が読めるようになるためには、それぐらい学術的な読みの訓練が必要であったということである。方法そのものより「頭」の問題なのだ。もし、中学生ぐらいだったら、学部の勉強で十分と自信を持って言える人がいたら、よほど力があるのか、文章を読めていないことに気がついていないかどちらかである。私の経験からすると、後者が圧倒的に多い。とすれば、教職に就く人間を全員、文学部や理学部の博士課程に放り込まなければならないのか?いまのところ現実的には無理であろうから、学部の教育を最大限レベルを上げてかかるしかないと思う。少なくとも国語に関してはレベルを下げるのはあり得ない選択である。当の教育のために現実的でない。

今日話題になっていたのは、教科専門の授業を「教科内容学」という形で練り直すことであった。どうも外からの要請は、教科専門の無駄な専門性を「教科内容」というパッケージに落とし込むことで枝葉を切り落とすべき、といったニュアンスらしい。教科によって違うのかも知れないのだが、上記の理由により、これは非常に危険な発想であると私は思う。

だいたい、その「教科内容学」は、教科専門の教員と教科教育の教員が対立するという「観念」から導き出される心理的軋轢を強引に止揚しようとして出てきた発想ではなかろうか。実態としては、そんな対立は明瞭に存在しないにもかかわらず、仮想の対立に煽られた心理が、仮想の統一物に実態を与えようとする良くあるパターンである。例えば、それは、認識の型として、西洋と東洋の対立を満州で止揚しようとしたこととほぼ同じである。だいたい、対立が存在するとしても、一般論として、対立して当然のものは対立させておいた方が生産的である、というのが大人の常識というものである。なぜそれが忘れ去られているのであろうか?

音楽のI先生の報告は、具体的で面白かった。「さっちゃん」の前奏に、ワーグナーの専門家によってこそ見出される和音が使われていた場合、これを認識できるのはI先生のような専門家である。音楽の面白さというのは、このような認識からもあり得る(というか和声が認識されるというのはそのようなことである)ので、教科専門の教員が存在することの意味はそこにある、とI先生は言っておられた様にみえた。私もその通りだと思った。で、仮に「教科内容学」みたいなことを考えるとして、小学校の音楽の教員はその和声をどう認識しておくべきか?それをどのように大学の教員は伝えるべきか?と私は質問してみたが、I先生はちょっと迷っているようにみえた。私が思うに、あまり迷う必要はなく、音楽の教員は和声の感覚が良いことはもちろん、和声を歴史的に知的に認識できる人間でなければならない、少なくともそのような方向でこれからは進むべきである、ということでよいのではないか。音楽も文学もそうだが、演奏者や作曲家・作家だけで成り立っている文化ではなく、批評的な認識があってこそ発展するものだし、教員は少なくとも芸の師匠ではなく認識を伝える人間であるべきであるから。だいたい、奇妙な和音を奇妙な和音といっただけでは「奇妙な和音」として捉えることは出来なくて、ワーグナーのことを話した方がその奇妙さが印象づけられるに違いない。「ごんぎつね」がいかに奇矯な話であるかは、話を読んでいるだけでは気づきにくく、森鷗外や宮沢賢治や芥川龍之介を勉強した方がよいのと同じだろう。……どうもI先生を迷いに追い込んでいる現実の方が間違っているような気がする。

……というのが、私の感覚であるが、一点だけ気になるのは、次のことである。私が小学校の教員の息子であり、教育は徹頭徹尾子どもたちのために行われなければならぬという哲学を生活感覚でたたき込まれているから、逆に教員の頭脳の問題を課題にしたがるのかもしれないということである。(付記:というわけでもなさそうだ)

1968 対 マチウ書試論

2011-07-26 23:22:34 | 思想


大学院の最後の授業では、小熊英二の『1968』と吉本隆明の「マチウ書試論」を比較して話をする。吉本が摘発するコンプレックスによる観念秩序の生成は、小熊にも吉本にもあり得る。吉本に於いては罵倒の重奏の中に、小熊に於いてはこの本の重さの中に……。というのは冗談でもあり、半ばそうでもない。私は授業のなかで、そうではないものとしてニーチェの「反キリスト者」を推したが、これもまたそう言ってしまうとそうでもない気がしてくる。

いずれにせよ、この三者を並べてああだこうだと批評するのは、いわば内ゲバである。我々が普段要求されるのは、もっと低次元の事柄である。しかしこれも小熊英二並みの量を持ってくると、質に転化している。質になったというのは、別に迫力を増したというのではなくて、一つ一つが劣化していることによって量を支えているのである。


研究室裏遍路

2011-07-26 00:59:22 | 文学
音楽学のI先生から×川大学のメールマガジンの原稿を頼まれていたので、とりあえず書き始めておくかということで、朝9時のゼミが始まる前にそそくさと書き飛ばし、書き終わりかけていた……ところ、I先生から正確な字数制限などの情報をメールでいただく。私が勝手に妄想していた字数より少なかったので、ゼミが終わってはじめから書き直す。また、焦って失敗したっ。基本的に敬体にしたためもあってかなり趣の違うものになった……どころではなく全く違う内容になった。ちょっと私の悪いところが出てしまったような文章で、書き終わってから落ち込んだ。10月になったら×川大学のホームページで読めると思うから、もの好きな方はどうぞどうぞ。




というわけで、以下はボツにしたバージョンである。もう自棄で、ブログ用にふざけた感じに直したところもある。

研究室遍路……渡邊史郎


……×育学部内の「日本近代文学」研究室の渡邊史郎先生にお話を伺いに行きました。

──失礼します。××研究室の××です。今お時間よろしいでしょうか。

渡邊:誰ですか?こんな時間に失礼な。

──(まだ午後2時じゃねえか……)すみません。けけけんきゅう室遍路の取材で。

渡邊:なんだあれか。いま恋愛小説を読んでていい場面なんだ。「ボブはいきなりジェシカの……」。明日にしてくれよ。

──明日は、教員採用試験なんです。もうせっぱ詰まってるんです。

渡邊:そんな時に来るなよ。馬鹿じゃないの?じゃあ、この引用の作品名を答えられたら時間を作ってやってもいい。「いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう。朝は、意地悪。」

──昼間からなんなんですか、それ。えーと「身悶え意地悪」ですか。

渡邊:帰れ帰れ。


──(次の日に)失礼します。××です。昨日の小説は太宰治の「女生徒」です。

渡邊:君、採用試験は?

──受けてきました。先生のおかげで轟沈です。

渡邊:(突然にやにやして)君は、いけすかないヤサ男だと思っていたが、見どころがあるな。この前一緒に歩いていた彼女とは別れただろうね?

──なぜ分かったんです?

渡邊:私の専門は日本近代文学です。明治時代の小説の主人公は、だいたい法学部か経済学部のヤサ男に女を寝取られる。そして懊悩しているうちに試験勉強もやらず転落人生一直線だ。ましなやつも、労働者を先導して糞資本家を吊し上げたりして、結局牢屋に入ったりする。「君も一緒に革命しない?」といって若い子をナンパするやつもいるな。しかしその場合もたいていは「世界観とは?」とか「矛盾とは?」とか「弁証法とは?」とか「不条理とは?」とか「虚無とは?」とか悩んだあげく「嗚呼女人哀也」とか言って転落だっ。それに引き替え糞ヤサ男と来たら、「あなた?今朝は何にします?」と妻に聞かれると、「そうだな。今日はボルドーにしよう。明日は海岸をドライブさ。」だと。「あなた、子どもは何人にする?」……こんなだぜ。俺をどうしてくれるっ。不公平だっ!

──……先生、私の姿からそこまで妄想できるんすか。完全に私怨じゃないですか。落ち着いてください。ところで、先生は昨年の共通科目のシラバスで「人生の醍醐味は失恋である」と断定されていますが、科学者である先生がこんなことを言っていいんですか?

渡邊:科学よりボケを優先してるのがわからないんですか?大学は知的なことをやるところという漠然な位置づけでいいんだよ。モンテーニュあたりを読んで君も勉強したまえ。文学者で科学者を僭称する奴って間違いなく、学会や政府や党の犬っころで(以下、誹謗中傷のため10行削除)

──先生の論文一覧を見たんですが、小説だけでなく評論についての論文があるんですね。

渡邊:私は、花田清輝というマルクス主義評論家の研究から出発しましたからね。

──そ、それはアニメ原作者の花田十輝さん──キャラ設定を勝手に変える悪名高い……

渡邊:なんだ、君はアニヲタか。終わったな、君の人生終わったな。

──その発言は教育者としてどうなんすか!

渡邊:(記者の発言は無視して)花田清輝は十輝の祖父であって、パロディの名手だった。私が昔書いた卒業論文は、彼の「ブリダンの驢馬」というエッセイが、多様なジャンルの大量の引用の織物──つまりパロディといってもよい──であることを示したものです。彼はあらゆるジャンルをごちゃ混ぜに「綜合」して芸術を蘇生させようとしたと思います。はじめは、西田哲学と日本浪曼派、マルクス主義といった思想の理論レベルでの結合を試みた。戦後は視聴覚芸術さえ取り込もうとした。口語と近代叙述文体との関係をいじくって評論と小説の結合もやったよ──小林秀雄と太宰治をくっつけた様なものですね。私が論じてきたのは、花田のそんな側面です。

──その花田のやり方は、違うものを強制的に統合するという、悪い意味で「前衛党的」というか、ソ連というか……を想起させるんですけど……

渡邊:馬鹿の割に、良いところに気が付きましたね。その危険性をついたのが吉本隆明(あ、「ばなな」の父ちゃんね──)だね。花田の芸術論は、諸芸術の関係という抽象的な「関係」を見出す作戦といってもよかったが、その「関係」は非常に文学的な、現実疎外的「幻想」である。しかも、それは実は革命政府の暴力──つまり「幻想」的理想を強制するための様々な個人やコミュニティへの暴力──の本質なんだと見なされる。これは花田の企図というより吉本の解釈だが。で、吉本は「ちがう、我々の現実にあるのは、親や恋人といった『関係の絶対性』だ。花田達『前衛』は夢から覚めろ」と言ったわけだ。

──なんだか分かってきました。意外と文学の問題は現実的なんですね。花田の言っているのは所謂「コラボ」やら「連携」をどう見るかという問題ですね。花田は社会での「連携」を、吉本は「隣の女」との「連携」を重視する、と……悩みますね、こりゃ。

渡邊:違う。それは吉本が構成した抽象的な対立……あ、ごめん、どちかというと私が今作ってみた対立であって、彼らが言ってることじゃない。君もそんな風に発想していると、結局女を守るとかいいつつ空気を読むだけの男になる。

──先生、自分を追い込んでるんですね。

渡邊:俺の話聞いてないだろ。だから、それはせいぜい吉本と花田が喧嘩したことで構成され得る二項対立であって、個々の作家や作品の問題として存在するとは限らない。俺たちはすぐ社会をそんな対立で捌く癖をつけている。ネットの言説の大半はそんなもんです。駄目だね。ところで、ここで本題にやっと入るわけだが、作品を「読む」ということは、さしあたりそういう対立を持ち込まずに読むことだと思う。これはすごく「社会」、いや「人間」を見るための思考の訓練になる実践的な苦行です。小説読みをディレッタントとしかとらえられないのは、ディレッタントだけです。優れた作品には、仮想の対立を屁とも思わない認識が書かれている。私は評論より小説や詩の方がその点優れている気がしています。で、×川大に来てからは、日本浪曼派や中野重治や中勘助、芥川龍之介などの小説を論じている。ときどき、花田や吉本論を書いたり、遊びで「犬がでてくる文学史」を構想したりしているけれども。梅崎春生や森鷗外なんかも好きです。本当は漱石を尊敬していますが、こいつは不気味な感じがする作家です。得体が知れない感じがするので、まだ近づけません。

……以下、渡邊先生は、三時間近く、ヘーゲルだのマルクスだのジャック・ラカンだの原発問題だの宮崎アニメだのいろんな話を延々しておられました。ほとんど何を言ってるのか分からなかったです……

漱石私論とわたくし

2011-07-23 23:58:21 | 文学
『文学論』や「倫敦塔」に触れたことが文学をやろうと思う契機になったとはいえ、私はどうも夏目漱石というのは不気味で恐くて近づきがたい。これは大学の頃からほとんど確然たる思いであって、漱石の小説もちゃんと再読してこなかったし、彼についての厖大な研究論文もあまり読む気になれなかったが、近年、芥川龍之介のことを考えているうちにどうしてもそうはいっていられなくなってきた。

とはいえやはり不気味である。

心配なのは……漱石を愛読したり、研究論文を書いたりすると怖ろしく何かに自信がついてしまいそうだということだ。漱石自身はどうだったか分からないが、読者をある種の満足に追い込むことにかけては漱石はそれこそ「何か」を持っていた(笑)

というわけで、あいかわらず怖ろしいので、いつも勉強机の前に置いてある(芳賀紀雄先生の本の横に並んでいる……)越智治雄氏の『漱石私論』をめくっていたら一日が過ぎた。私は漱石の小説よりこの研究の方が今は好きです。私の思考がいかに細切れになっているかを反省させられる本である。その細切れとは、単に持続していない、ということではない。「研究」を何かの手段として扱ったり、先の「何か」を否定神学とか何かの主義みたいな形で対象化しようとしたりする精神の習慣と関係がある。もはや私はそれを「荒廃」だと言って達観する状況にはないが……。

偏向オールスター番組

2011-07-22 23:08:16 | 日記


今日は学部の前期授業が一段落したので、嗚呼なんて私はかわいそう、という日であった。ということで、6時から野球のオールスターゲームを観た。(ナゴヤドームの試合だったから中日どらごんずの選手とかがたくさん出るかと期待したからね。)録画されていないビデオテープが余っているのでかわいそうということで、急遽地デジの機器からジャックを引っ込ぬき、ビデオデッキにつなぐと懐かしく眼に優しいアナログ放送が……と思ったら、


「アナログ放送終了まであと2日

文字でかっ

画面が三分の一ぐらい見えない気分だ(怒)というか、実際、字幕とか見えないだろこれじゃ。

地デジの押し売り誠にお疲れ様です

こういう穏やかな(←穏やかじゃないけど)脅迫最近ホント多いな……。テレビだけの問題じゃないが、テレビに限って言えばどうせほとんど見ないからいいけどな。内容が粗悪なのを余計画像を良くしてみさせようとしてるんだから恐いわ。文化祭で下手な演劇とか漫才の催しがあると仮定してみたまへ。そういうものに対しては遠くから「なんだあの馬鹿。さっさと引っ込め。」とか言いつつ、隣の友人と駄弁を弄したり他のことを考えたりするから耐えられるのであって、それを「下手だからせめて近くてやっていいですか。私たちをよく見て~」と言われたら普通断るだろう。テレビのやってることはそれだわな……。

番組の内容はこんな感じであった。

0、試合開始前から、解説の野村氏、「昔は夢の舞台だった。しかし今の選手は選ばれて嬉しいとかおもってんのかね」と批判開始。次いで、画面とは関係なく監督の落合氏を褒めはじめる。アナウンサー無理矢理ハンカチ王子の話題を連発。解説の桑田氏はこの二人を仲介する役回りに。

1、セリーグ先発の岩瀬投手が、巨人の××のエラーでピンチに陥り、内野安打で一点を先制される。まあ球界一のクローザー岩瀬投手の常で、「いくら打たれても、逆転されなきゃいいんです。負けなきゃいいんです」の精神を貫いたから安心(←先制されてるっつーの。巨人の××は意図的にエラーしただろ……許せん)

2、着実にセリーグのピッチャーが打たれる。

3、中田翔を絶賛するアナウンサー。野村氏「あの打撃フォームはいかんでしょ」

4、野村氏、教え子の武田投手を褒め始める。荒木選手空気を読まず同点ホームラン(←シーズンで打てよ)。アナウンサー、「意外なホームラン」と失礼な解説。画面はあいかわらずハンカチばかり映す。

5、放心状態の武田投手、連続ホームランを浴びる。野村氏、「キャッチャーの配球が悪すぎる」と不機嫌に。巨人の××まで調子こいてホームラン。

6、武田投手のピンチを救うように遂にハンカチ登板。登板前にアナウンサーがインタビュー(←選手を馬鹿にしすぎてないか、これ。いい加減にしろっ)桑田氏「登板前にあれはきつい。それを乗り越える精神力(が必要)ですね。」と大人の対応。

7、ハンカチいきなり打たれる。野村氏「プロでやってけるのかね、彼は。という不安はあります」。アナウンサー、ハンカチをがんばって応援。

8、中田翔センターフライ。「あーーっ。もうひと伸びありませんでした」(←ただのセンターフライだろ。三伸びくらい足りねえよ)。野村・桑田氏無言。

9、世界一のイケメン浅尾投手登板。アナ「浅尾投手も急成長の選手ですよね~」(←元からすごかったわ、ボケッ)野村「そうですね。落合監督の眼力が……」と試合に出てない森野選手の話まで交え、落合監督を絶賛。画面はハンカチ。

10、ハンカチ・マー君対談。(ここでわたくし、別の番組に浮気)

11、試合終了。勝利監督、落合監督のインタビュー、その途中でアナウンサー割って入り、そそくさと番組終了に持っていこうとする(←いつものことだが酷すぎる。)

12、野村氏「武田が打たれて残念」