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120センチぐらいのカープファンの方が、野球選手より巨大な図。
野球場で野球をみると、改めてテレビで観戦する時との違いが興味深い。白黒テレビ時代の中継ならともかく、現在の中継は選手の表情まで細かく映し出すし、人間の眼が認識できないハイスピードカメラによるスローモーション、ベースにしかけられたカメラによるベース視線など、いろいろな意味で人間離れしている。こんな視点は球場ではありえない。上の図ぐらいにしか見えないし、視点を変えることも出来ない。ときどき、前の席の人間が視界をふさぐくらいである。
人間離れしているということは、問題が視覚の問題というより視点と観念の問題に移行しているということである。テレビだと、ピッチャーの背後からの視点が最も多く、次いで、バッターを横から見る視点とピッチャーの顔を正面から撮る視点が多いと思う。(といっても、最近野球中継見てないからよくわからんが……)我々は、この視点の切り替えの反復によって、野球という複合的な競技をまずピッチャーとバッターの対決(つまり、対の登場人物である)として認識しがちである。そしてまた、彼らを正面から、背後から、遠くから、近くから、と視点を微妙に変化させつつ、二人の人間への同一化と相対化を行っているのではなかろうか。これは、小説の全知視点による人物の内面への接近と批評のあり方のようなものである。アナウンサーがやたら選手の技術的な問題や内面を語りたがり、インタビュアーが選手の感情を聞きたがることもそれと同じレベルにあると思う。試合後、インタビュアーが「打った時の気持ちは?」とか「あのバッターをどう打ち取ろうと思いましたか?」とか「今の気持ちを誰に伝えたいですか?」とか聞くけれども、選手にとっては正直であろうとすればどう答えてよいやら分かるまい。そして選手がそんなのにまともに答えようとすれば、素人には到底分かるとは思えない珍妙なものになるはずである。だから適当に答える。「別になにも?」や「スライダーで外角に来ると思っているだろうから(以下20行省略)」とか「スナック××で待ってる××ちゃん」のかわりに、「やったと思いました」とか「慎重に攻めようと思いました」とか「両親です」とか答えるわけである。要するに、小説の主人公の内面をどう描くかと同じで、そこには内面の実態に対する想像力と社会的言語の戦いがある。試合中も実態への想像力は解説者、社会的言語はアナウンサーの担当である。そしてだいたい後者が声高である。小説でも後者が勝ることによってその物語は成立もし堕落もする。
球場では、監督はほとんど姿が見えないし存在感もない。しかしテレビや新聞だと違う。恰も監督が全面的に試合を演出しつくりあげているような感じになる。それも監督の顔が大きく映し出されたり撮られたりすることによってである。ここでも我々には、同一化と相対化の認識作用が起こる。
野球にかぎらず、我々は社会で起こる出来事について、小説をつくる作者のように、対象となる他人──すなわち同一化と相対化を行う自己像である──を批評しながら一喜一憂するようになってしまっているのかも知れない。専門家でもないのに、同じことだが──他人そのものではないのに、あるいは「人間」の問題ではなくても、一喜一憂だけはするのである。このような状態の果てには、先のインタビューの様に、紋切り型による妥協しかなく、いつのまにかそれが妥協であることも忘れ去られる。これは不可避である。厳密にすればよいというものではなく、相手が単なる他人や出来事であるということが忘れられている限り果てしない泥沼である。
野球場では、単に体が大きく、足が速かったり、玉を速く投げられたり、ボールを遠くに飛ばす人達が、なにやら飛びまわっているだけである。それを自分と引き比べて慎重に考えてみれば、彼らは明らかに常人離れした化け物の域であるとは思うが、それもよくよく推測してみたらの話であって、どう自分と違っているのかは「厳密には」分からない。ただ、「おっ、なんか球が速い」「あ、すごく飛んだぞ」ぐらいしか分からない。しかし、その事柄そのものだけは明瞭に分かる。
たぶん、この単純で明瞭だが厳密ではないもの、本当はそれが他者を認識できる限界である。このことを野球観戦は想い出させてくれるような気がする。ただこれが私がもっと野球に詳しくなり、野球の体験も豊富で……ということになるとあやしい。球場でも、もう解説者顔負けの勢いで、観戦しながらしゃべりまくってる人はかなり多い。ただし、このような人でも私と根本的に違っているわけではない。以前、落合監督がどこかで記者達に言っていた様に、「おまえらには分からなくて結構」なのが、他人である。