「これが声、まだ馴れずなむある。調へて奉れ」と仰せらるる時に、俊蔭、せた風を賜はりて、いささか掻き鳴らして、大曲一つを弾くに、大殿の上の瓦、砕けて花の如く散る。
帝が「もう少し慣らしてからもってきて」と例の琴を返すと、俊蔭は少しかき鳴らしてみると、瓦が砕けて花のように散った。すごい迫力である。ウィーンフィルの全員のフォルティッシモでもウィーン楽友協会の屋根がふっとんだりはしない。琴は彼らには関係ない次元の天女がついているのでこうなっても全然不思議ではない。不思議ではないのは、我々が原因であることをすでに免除されているからだ。しかし今の我々は天からの原因ではなく、地上的平面から原因を探すしかない。
フロイトが流行った時代には、なんでも性欲のせいにしてたし、マルクスが流行ればなんでも資本のせいにしてたし、フェミニズムが流行れば男の文化のせい、発達障害論がはやればみんなで自分の失態はそれのせいではないかと疑う。いろいろあったわけだが、昼間おれがいらいらしていたのは、お腹が空いたせいであろう。
そういえば、座学の反対がオンラインという珍説を聞いた。たしかにオンラインは寝っ転がっても逆立ちしてもできる。ほんと、座学を悪いものと思っている人間の頭の悪さはどうしようもないが、――確かに、座っていると自分が無能のような気がしてくるものである。反対に動いているとなにか有能なような気がする。学校の先生がよくあせくせ動いているのは単に忙しいからでもあるが、そうしていると絶望的な環境に於いても何か出来る気がするというのもあるのだ。そうでなければ、われわれは環境のせいにして逡巡をはじめるのがわれわれというものである。
先生だけではない、自分がいまいちの成績だったことを授業の形態のせいにするとか、半端もんのかんがえそうなことだ。もしかして英語が不得意なのは校舎が木造だからではとか、でんでん虫のおならよりもくだらないことを私もむかし考えたことがある。大学院にゆき、学者集団のなかに棲んでいてもわたしのような輩はかなりいるとみてよい。しかし、学者のかなりの割合は自分の主体の有能性を信じているから、――いろんな思想や文学を論じながら、国家や組織の思想が腐っても学生や自分だけは腐らないと信じている。なぜ腐っているのが国家や組織より自分たちの方が先だという可能性だけ排除されているのかわからない。しかし、都合が悪くなると学者も一気に環境のせいする。反映論はかかるいい加減さをもつのである。しかし、このいい加減さが我々の主体を幻想として形成する余地を残す。だから、反映論者は権力をもつと大変なのである。反映されることが十分に見えてなかったくせに、主体の効果としての反映を意図すると今度は、反映されることは見えなくては主体の否定となるから、我慢が出来なくなるわけだ。
支配者の権力と弱者の被支配をみつめている弱者も強者も、意図を言葉通りに貫徹しようとしがちである。例えば懇親会や何とか会に根本的な無礼講などありえないのがわからない馬シカというのが結構いるのだ。『飲み会』如きを権力の仕切るものだと思っているせいである。いったい、我々はいつからかように自分を肯定するか否定するかしかできなくなっているのか。例えば、教師が権力で子どもが被支配者という前提にのっかった論というのはかなりあるが、さすがに事態はそこまで単純ではないことは当たり前である。逆だと言いたいのではない。
中学校辺りでは、証拠は主張のための材料みたいな考え方が教えられてしまう場合がある。そもそも証拠の気持ちを考えろ、と言いたい。冗談ではない。その主張優先主義は、主張と証拠が絶対的かと発想している時点で、肯定か否定かの論理なのである。実際に、「証拠の吟味にこだわっていると主張が出来ないので、まずは主張をきちんとしたいです」みたいに生徒に書かせてそのまま放置されている場合がある。これは国家にとって将来的にみてすごくまずい。主張というのは、某首相の「加速度的に検討して参りたいと思います」みたいなのもそうなんだから。教育で扱われるメタ認知なるものも、こういうことを言って常に平気な人間を大量生産しかねない。まだ「反省」のがましだったということになりかねない。しかし「反省」を強いるのはこれまた連合赤軍にみたいに、それを指示した人間の意志貫徹に終わる。
メタはメタで終わらず、証拠は証拠のままではいられず、相互に変化しながら移動するものである。教師の命令をはいはい言うことを聞く子どもは主体性がなくなるというのは一種のイメージであり、教師の言うことを聞かない且つ非主体的な人間の方が多いのは誰でも知っている事実である。多いだけであるが。大人で批判精神旺盛な面子はもと根本的にいい子ちゃんが多いんじゃないか。これも多いだけであるが、従うのが教師から理念に変わってよかった場合もあろう。もちろん、だから駄目な場合もある。その教師が幇間みたいなときには最悪である。理念への幇間はまったく違う次元に人を連れ去る。往々にしてそんな場合がある。――そういう両義性があるのは当たり前の話だ。
単なる感想にすぎないが――、発達障害にかんして象徴的に語られる「部長の自慢話長かったです」みたいな不規則?発言は、現実には逆に面白い部分もあって大した問題にならない場合もある。実際に多く人間関係の軋轢になっているのはもっとどうでもいい、発言者のナルシシズムや他罰性みたいなものの発露である場合で、これは彼らの本質的な何かというより、世間が最終的に許しそうな態度を躊躇うことのない性質の現れの場合が多いように思われる。つまりこういうことは、世の中の社会常識の揺らぎが明らかに反映していて、昨今の、世間の自分だけは責めない傾向が、その人の傾向を後押ししているように感じられるのである。つまり、われわれは、発達障害であろうとなかろうと多数派の影響をもろに受けていると考えた方がよいと思う。少なくとも私の経験だと、それが疑われるという人間の言うことは、過剰に「常識的」であり一般論へ飛躍が多いとか、そういうことが観察されるように思う。怖ろしいのは、例えば私の指導の影響が、変形したかたちで過剰に現れるといったこともあるのであった。
よく言われる「空気を読む」場合の「空気」を同調圧力とか権力みたいなかたちだけで捉えるのはこれもイメージであって、その「空気」は圧力にもなりゃ圧力に対する緩衝材にもなっている。適切に空気を読むためには、その両義性をうまく使う必要がある。わたくしは、国家の機関たる教師として、これができないのはある種の頭の悪さだとしておいたほうがよいように思いさえする。あまりにもへたくそな奴が多くなっているからである。だいたいの人間は吉本隆明みたいな天才じゃないから、真実を言って世界が凍ったりはしないのだ。世の中が狂っている限り、「吉本」的存在以外みんなが狂うのであって、多様性に従う仕組みをつくることはこれからも必要だが、そこまでわたしは人間の能力を信用出来ない。言い方が難しいが、それ以前にというか、それよりも趨勢が狂わないようにしないといけないのである。