★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

寒さと貧しさにおける貧困について

2022-12-31 18:27:11 | 旅行や帰省


寒くて何も思い浮かばない。マイナス10度近辺ではいつものアイロニーが隘路におちいる。……ぐらいしか思いつかない。

しかしこれが四国になれた体と頭のせいだと言い切れるであろうか。ドストエフスキーの世界だって本当に頭の良さと言い切れるであろうか。どこか動かなくなっている思考だからこそああなる可能性だって考えておく必要がある。われわれは寒いからこそ、あるいは暑すぎるからこそ、実存的になったり神について考えたりするという思考の枠組みを疑うべきである。

日本人?が我慢というのはまちがって伝えられてしまった道徳なんじゃないかなとおもう。ほんとは、何かあってもぼーっと真剣に考えることが我慢の原型だったのに、寒さに耐えるみたいな意味になってしまったのではないか。

環境の苛烈さ、貧しさはやはり貧しさを生む可能性がある。コロナ籠りでコミュ力笑がおちてる若者を問題にしているうちに、実際はもっとコミュ力も何もかも落ち込みが加速している爺さんばあさんのことも考えておくべきで、今回の年末年始はけっこう危険なイベントである。

かわいい文化というのも孤独感を深める効果があることを軽視すべきでない。我々人間は別にかわいくはない。よくみれば汚い醜い物体である。これを表現しようと思えば、熱帯の人々がむかしつくったおどろおどろしい人形のほうが正しいのかもしれない。我々のかわいさは欠損からくる心理的混乱かもしれない。

青木淳悟氏の『学校の近くの家』はすごい作品だったが、よくあるアスペルガー的な認識の洪水みたいなものを示すような外部に立って、つまり通俗的客観性みたいなものを破壊しようとしていた。こういうやり方は貧しくて寒くて乱暴な熱量で物事をやっつけることとはだいぶ違うことだ。いまのよのなか、政治家や商人までもがだめな小学校の先生じみている。子供のさまざまな意味での貧しさを、可能性や面白さに換言して熱量に昇華してしまうようなやり方がまずいのであろうと思う。

瀬戸内海に梁り渉る近代文明

2022-12-30 23:18:11 | 文学


主上今年は、八歳にぞならせおはします。御歳のほどより、はるかにねびさせ給ひて、御容美しう、あたりも照り輝くばかりなり。御髪黒うゆらゆらと、御背中過ぎさせ給ひけり。主上呆れたる御有様にて、「そもそも尼ぜ、我をばいづちへ具して行かんとはするぞ」と仰せければ、二位殿、稚き君に向かひ参らせ、涙をはらはらと流いて、「君はいまだ知ろし召され候はずや。先世の十善戒行の御力によつて、今万乗の主とは生まれさせ給へども、悪縁に引かれて、御運すでに尽きさせ給ひ候ひぬ。先づ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮伏し拝ませおはしまし、その後西方浄土の来迎に与らんと、誓はせおはしまして、御念仏候ふべし。この国は粟散辺土と申して、心憂き境ひにて候ふ。あの波の下にこそ、極楽浄土とて、めでたき都の候ふ。それへ具し参らせ候ふぞ』と、様々に慰め参らせしかば、山鳩色の御衣に角髪結はせ給ひて、御涙に溺れ、小さう美しき御手を合はせ、先づ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、その後西に向かはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位の尼先帝を抱き参らせて、「波の底にも都の候ふぞ」と慰め参らせて、千尋の底に沈み給ふ。悲しきかな、無情の春の風、たちまちに花の御姿を散らし、いたましきかな、分段の荒き波、玉体を沈め奉る。

海の底にある都といえば、そういえば有名な特撮番組にも海の底の地球の先住民のお話があったが、彼らがいたかどうかはしらぬが、いまや海からにょきにょきと人工物が生え、島伝いに鉄骨の柱が張り渡されている。逃げ場は海の底にもどこにもないのであった。

今年読んだ本ベスト10

2022-12-29 18:39:30 | 文学


今年はあまり読めなかった気がするが、あげてみる。

10、井原西鶴「西鶴諸国噺」、「本朝二十不孝」、「男色大鏡」……二番目については、みんなが言っていることであるが、不孝というよりヤンキーの自慢話ではないだろうか。三番目も、これも男色というより、武士道や歌舞伎役者万歳というかんじである。西鶴をみていると、われわれがつかっている二枚舌の起源をみるようである。もっともその二枚舌は、表向きのテーマではない内実をしめしながら、どちらも書いているうちに陳腐化して行くという運命である。こういう時には、時代を思想のごった煮の時代としてとらえ、どさくさに紛れてなにか鍋から飛び散るのを観察するのが面白そうだ。しかし、戦中戦後の似た時期を想起するに、最終的に飛び出たのは、「太陽の季節」みたいなものであった。気をつけなくてはならない。

9、奧野克己×清水高志『今日のアニミズム』……わたしはこれを読んだ後、元気の出るアニミズムということを構想したが、多くの学者は元気の出ると言うことには抑圧が必要では、とかいいそうなのである。これは多くの学者が教員をしているからではあるまいか。東浩紀氏もどこかで言っていたように、会社とか学校みたいな局面では近代主義をとれ、みたいなことであろう。

8、源実朝 (コレクション日本歌人選)……こういうものも一応読んでおかないと、大河ドラマを面白いということで済んでしまう。好きな歌とそうでもない歌がある。

7、空海『三教指帰』……天才の若書き。最初から天才と分かる書きぶりで、今年一番の絶望を与えた。ただし面白いのは、儒教を貶しているところで、仏教礼讃になるとあまりわたくしには面白くなかった。ただ、この書の三段構成が、弁証法的と言うより、万華鏡みたいなものであることはなんとなくわかる。

6、日蓮『開目抄』『立正安国論』……結論、日蓮と宮沢賢治、あまり関係なし

5、宇佐見りん『推し、燃ゆ』、『くるまの娘』……天才の天才期はまだ続く。

4、村田沙耶香『信仰』、『殺人出産』……浅野いにおのマンガを読んでも思春期を感じないが、村田沙耶香の作品からは思春期を感じる。いつの間にか消えてしまったものであるが、確かに体験してきたものだ。むろん、文字通りの作品内の事件を別に体験しているわけではないが、そう感じさせる。とくに我々がとっくに箱男ではなくコンビニ人間だった事態を、彼女は教えてくれたのである。

3、田中希生『存在の歴史学: 近代日本における未成の者たち』……この人の本も、毎回我々が体験したことを教えてくれる。わたくしは、年下のこの人の文章からけっこう影響を受けたと思う。

2、山根龍一『架橋する言葉』……来年、書評をかくつもり。

1、米田翼『生ける物質』……今年は哲学書の傑作のラッシュで読むのに忙しかった。世の中、頭のいい人がたくさんいるもんだ。

剣を打ちなおして鋤とし、槍を打ち直して鎌とする

2022-12-28 21:14:09 | 文学


書を読み、遊びをし給へど、習はす師に多くしまし給ふ。都の物の師といふ限りは迎へ取りつつ、かれが才をば習ひ取り、わが才をばかれに教へつつ、かしこき琴の上手、朝廷を恨みて山に籠れるを迎へ取りて、さながら習ひ取りなどして経給ふほどに、二十一なり、御妻なし、よき人の娘ども奉れども、思ふ心ありて、得給はず。

また、スーパーマンみたいなのが求婚者となってあらわれた。嵯峨の院のご落胤の源涼である。ちょっと習っただけで師匠を次々に超え、朝廷を恨んで山に籠もっている琴の名手(また、こういうのでたね……)が教えてしまう人物である。むかしからこういうのがちやほやされるが、よくいる秀才に過ぎない。

こういう人物のほとんどはギフテットとみえてもそうではないから、学校としてもそれほど気にする必要はない。そういう飛び抜けた人物も大した問題ではないし、大概の優等生たちが教師をいつも馬鹿にしてる方が問題なのだ。教師を誤認しているのが問題なのではない。それが正解である事に興奮している脳みそが平凡なのである。で、そういう優等生は、たいがい学者や役人なんかになって、学歴や業績に縋って死んで行く。問題は、ギフテットに比べて学校がレベルが低いことではない。そんなのいつも当たり前のことであって、学校がいわば何かそこはかとない「正気のレベル以下」みたいなことになってることのほうが問題である。多様性を担保するみたいな見かけよりも恐ろしく難しい高等テクニックの前に、まずは正気を取り戻すことが必要である。そして言うまでもなく、正気を失ったのは学校自身ではなく、学校をそういう存在させた子どもと親と世間が正気を失ったに過ぎない。しかし、考えてみると、上のようなスーパーマンや光源氏ごときを愛でている時点で既に正気を失っているから、我が国ではむかしから正気は失われて久しいのであった。

聖書ですらそこに気付いている。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ちなおして鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書2:1-5)

優等生たちが出来ないのは、「剣を打ちなおして鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」ようなことである。剣を剣として洗練させる事は能力があればできる凡才の証拠である。

われわれの世界には優等生よりも不思議な事がある。例えば、ちびまる子ちゃんや普通のドラマなんかにはくすりともしなかった母はキョンシー映画は面白がっていた。こういうのはけっこう不思議な事であり、この謎を解く事は、剣を打ち直して鋤にすることに等しいか繋がっている。

例えば、今年の大河ドラマは大ヒットでわたくしも楽しんでみたが、――前にも書いたが極めて現代的で平凡さを貫いたドラマでもあるのだ。現代なら執権は官房長官というところであり、それが大臣を次々に暗殺したり、首相の息子をあれしたり、妻に毒もられたり、陛下を島流しにしたりしている。そして息子と姉上が大好きで女子はキノコが大好きだとか言っているのだが、――普通に狂っている。それがあまりに内の秩序に向かう物語として平々凡々でありすぎて、予測がある程度ついているから我々は期待の地平に沿って視聴欲をそそらるのだ。ほんとは、支配の広がる外への力の縁の部分の描写が必要で、それはむしろ神話とか純文学がやってきたことである。「破戒」の丑松が、物語の最後にテキサスへ渡ったとしてどうなるのか、おそらくはまた白人からの差別にあうというのはたぶん本当だが、――差別する側にそのままの人格でまわることは、状況によってはあり得る。たぶん中上健次が韓国に行って「日本人は一体何をしたのだ」と思ったような事態のことだ。被差別的な共同体の内側での暴力と外側からの差別の関係は繊細な問題である。中上はエッセイ「生のままの子ら」で、「生のまま」である子どもたちのすばらしさは「実態に触れたことのない差別」を暴力として予知すると言っている。すると、暴力的ではなかった丑松の方は、実態を知った上での暴力を予知する潜在的な存在としてありうるとわたくしは思う。

歌は物に乗せて

2022-12-27 23:37:38 | 文学


されど、また、ここらの年ごろ、露・霜、草・葛の根を斎にしつつ、ある時には蛇・蜥蜴に呑まれむとす、仏の御言ならぬをば口にまねばで、勤め行ひつる、仏の思さむこと恐ろしくなど思ひ返せども、せむ方知らずおぼゆれば、散り落つる花びらに、もとより血をさしあやして、かくきつく。

憂き世とて 入りぬる山を ありながら いかにせよとか 今もわびしき


息子に惚れてしまった継母を拒んだら悪口を言われて出家していた忠こそである。彼のもっていた琴は彼が出家した後、空に舞い上がって失われた。ここまでも大変な話であり、この話はもともと別の話かも知れないと言われているのだが、――その別物語の彼が、あて宮の求婚合戦に参戦。いままで蛇や蜥蜴に喰われかけひたすら仏の言葉を口にしてきたのに、憂き世とは言え、この恋心、どうすればよろしいのか、と自分の血で書き付けるのである。

既に終末観ただよう盛り上がり方である。

「宇津保物語」はいくつかの物語がくっついてできたと言われているけれども、ほんとはくっつけたあと削ってみたいなことをしてるかもしれない。物語は欠損を埋めたり編み物をするようなイメージで語られることがおおいけれども、意図的に欠落させることだってあるに違いない。そのかわりに、一気に血圧があがる歌の場面で盛り上げるのである。どうも、わたくしは、歌の世界と物語の世界はもともと相反していたような感じがしてならない。歌の世界はトリスタンのように死に向かってしまう暴力的なものであるからである。物語は、死を避けようとがんばる。うまくは繋がらない両者を、意図的な物語の空白に歌の情感を流し込んでしまったのではあるまいか。

それにしても、確かに、この感情の世界は繋げようと思って容易につながるものではなく、あまりに作為的だと白けてしまう。しかしこれに比べると、物体の方は否認出来ないものがある。上の琴や琴の音はその物体である。三種の神器だって、物体だからなんとか存在を否定されていない。贈答としての和歌でもおしゃれな物に書かれているからよいのであった。上の場合はそれを違うものに変えているだけだ。いまの世の中だって大して変わらないはずである。しかし、就職とか結婚から物を抜いていこうという動きが甚だしい。就職や結婚ですら情報と化している。マッチングアプリなんか我々を情報として扱っている。

例えば、大学に就職するうれしさの何割かは、大学によってはそうじゃないが――研究する部屋を退職まで貸してもらえるというのがある。就職には金以外に物質的=うれしさがともなわないといけないんじゃないか。国民もれなく就職したら、木曽馬や田んぼや畑の一角などをもらえるようにしたらどうであろうか。武者小路の「新しき村」の意味は、芸術家が自給自足みたいな観念的意味もさることながら、自分が好きにしていい土をもらえるというのがあったに違いないし、文学結社なんかも雑誌は好きなことしていい畑みたいな性格がある。近代文学派か何かはたしか自分たちでビルかなんか建てたような。。

もう八〇を越えた知り合いが言ってたが、会社でお見合いをセッティングしてくれるというのは、親が選ぶよりもましなんじゃないかという気持ちが混じってたという。そうでもなかったらしいが……。つまり、給料と一緒に有り難い妻という物体まで贈答されるとなりゃ、まさに有り難く思ってしまうわけである。現代人はこういう発想を厭いがちだが、だからといって人間を大事にするとは限らない。情報をありがたがるより物体としての人間の方がましだった側面はあるに決まっているのである。しかし同時に、物はいつも物として捨てられる側面があるのも当然である。

そういう物は、実存みたいに観念化してしてしまうと、すぐ「この私」みたいなどっちでもいいものになってしまう。だいたいいくら単独性があろうとも、そこには観察されたものがないのだ。教育界にかぎらないが、我が国の人民の多くが、観察というのができなくなっているのが非常にまずい。観察は西田幾多郎の主客以前の「純粋経験」みたいなところあって、それがないと何を知っても見てもピントが狂う。公平さや客観性みたいなものはそれからの話だ。論文も観察がないものは数値や何やらが一見正しくても最終的に正しくない。そんな人間が面接で人を判断しようとしても無駄である。小学校の教育では、、児童がそういう経験の率直さに従うようになるような工夫があったし、今もあるんだろうが、――そういうものが「常識」や「意見の多様性」という言明にすり替わってしまうとどうしようもない。気をつけないと常にそうなる。教員に必要な資質として、その基盤になるようなよい感覚の持ち主というのがあったはずなんだが、これが「コミュニケーション能力」みたいに知識化・常識化してしまった。最悪である。

天気のよいときのマリンライナーからの瀬戸内海の眺めはこの世ならぬものがある。場所はちょっと違うけど、海の底にも都はありましょう、みたいな平家のセリフを観念的にとっていた長野県民時代の俺はほんと木曽の中の蛙であった。こういう感慨も経験であるが、これはわたくしが山国の人間で平家を読んでいたから起こることであり、まだ安徳天皇が眠る海には行っていないからでもあった。経験は、いつも偶然と欠落に満ちている。しかも、こういうことは歳をとってこないと分からないのである。この年寄りによる認識が根本的に「政治」である。中上健次は、宇津保物語の、うつほ=孤児たちが琴で楽をおこなうことが政治にまで到達するさまを、「治者の文学」と呼んだ。しかし物抜きでは、孤児たちがうつほを空洞(うつほ)を表現することもありえないし、政治もありえない。

まれでない人たちも来たれり

2022-12-26 23:42:10 | 文学


「はなはだ尊き仰せなり。いと小さくなむ侍るめる。少し人とならばさぶらはせむ」と申したまふ。宮、「いとうれしきことなり。かの御方にも常に聞こえさせむと思ふむやなどてなむ。と思うを騒がしなどもしたまふすずろなることなれば、うたて思せやなどてなむ。時どき聞こえさせむもはら聞き入れたまはむやうになむ」と聞こへ給へば、大将いといたくかしこまりて、「さらば仰せに従はむ」とてまかでたまひぬ。

「宇津保物語」のあて宮への求婚はいろんな連中が出てきて引きのばされてゆく。上のは東宮の求婚が案外あっさり受けいれらたかにみえる場面であるが、まだこのあとも求婚者が現れている。竹取以来の「まれじゃない人」大量に来たれりのこの引き延ばしは幕の内弁当的で、宮台氏のいわゆる「終わらない日常」という感じがする。竹取がいいのは、天の人たちの来襲とまれびとの帰還というでかい顛末が待ってるからで、おそらくその顛末のあとどう物語を作るか当時の人はすでに困ってた気もする。「宇津保物語」も最初に天の大きい話が続いたので、地上の話に移ったときに大変である。「源氏物語」は、地上で人間を異常に輝かすことによって、「蜻蛉日記」は、異常に沈潜させることによって地上の物語を紡ぐ。この「地上」は「平家物語」で、安徳天皇が海の都にダイブして崩壊したと思う。

さっき、北条泰時たちがつくった「御成敗式目」を少し読んでいて、またゆっくりと我が国の人間は地上に帰りつつあったのだと思った。これは京の貴族と付き合わざるを得ない、六波羅探題にいた泰時だからこそ作れたみたいなことを以前読んだ。大河ドラマの描くようには、御成敗式目は武士の世界の弁証法で出来たものではないと空想する。もっとも、「御成敗式目」は無学な武士でも分かるように書かれたものらしいので、これを読めない現代人は無学を通り越して武士ではない。――と、これは冗談だが、日本国憲法の力を侮ってはならず、これによって我々は地上に帰ったのである。三島由起夫は安徳天皇であることによって地上的であることを拒否しようと思ったのである。

いわば、テロや自決によってしか事態を表現出来ないわれわれの劣等性が問題だと宮台真司なら言うであろう。ことしのバイロイトの録音で「トリスタンとイゾルデ」をひさしぶりに通して聴いたが、ほんと脳みその位置が動く気がするよな危険極まる音楽で、歌手もよく倒れないと驚く。解説の三澤洋史氏も言われていたが、この音楽は最後のロ長調がすごく印象的で、――ハイライトで聴くとよけいそうなんだが、――それ以前の四時間はずっと殴られているような音楽で、三澤氏も涅槃の境地みたいなのをロ調の最後に感じると言っていた。宮台氏が「終わらない日常」下で興奮的に永久革命し続ける能力は、いわばトリスタン的なものだ。日本の幕の内弁当なら、トリスタンの相手はあと十人ぐらいでてくるに違いない。三島由紀夫が「憂国」にトリスタンを使ったのはたぶん大まじめだったのである。

こういう劣等性を、神仏習合的に褒めてみようという人もいると思う。神仏習合というのはほっといてもおこるもんじゃなく、現実には政治的結末だとしても、やはり誰かが観念的操作をやってると思う。安藤礼二氏の批評なんかがそういうかんじで、また誰かが氏の批評そのものを分析し直して、現実に敗北した感慨を持つのであろう。

いつのまにかわたくし抜きの強豪現象

2022-12-26 17:40:32 | ニュース


世の中、油断は出来ないのが、いつの間にか強豪現象というものがあるからだ。国民国家レベルでも時々起こるのだが、知らないうちに国力が上がっていたり下がってたりする。国民国家レベル、領域国家でもおこるんだから、スポーツや音楽では案外個人の力で何か急激に変わったりするものである。

昨日、高校駅伝で、男子 1位倉敷 (岡山)に次いで、2位佐久長聖 (長野)が入っていて、いつの間に信州は強豪国になってんねんと思っていたら、午前中に終わってた女子は長野東が優勝していた

佐久長聖は吹奏楽でも強いし、なんかあれなのであるが、そんなことはどうでもいい。ちなみに、わが男子うどんは42位小豆島中央 (香川)である。小豆島強いね。女子うどんは45位四学大香川西である、頑張ったからいいと思う。

ちなみに、わが都留文科大学吹奏楽部もコロナ禍にひそかに高松で行われた全国大会に出場していた。

……冷静に考えてみて、わたくしが属していないチームだから優秀なのだ。

まれびととカーニバル

2022-12-25 23:10:05 | 文学


かくて、この寺には、今日の色節にて、怪しからぬ、いと多かり。遊びの所には、嵯峨の院の牛飼ひ、講説の所には、講説の長、楽とては、鼓打ちて遊びす、講説とては、こしきする真似をす。かかるほどに、大将殿の御車、御前三十人ばかりして立ちぬ。親王の君、「しそしつ」とて仰すやう、「講説始めよ」とのたまへば、牛飼辻遊びす。老僧ども、集まりて、声を合はせて罵れば、物見に来たる人々、いとほしくもあり、をかしくもあり。博打、京童部、数知らず集まりて、一の車を奪ひ取る。殿の人々空騒ぎすれば、車の簾を掲げてのたまふ、「奪ひ得つ。これやこの、惜しみ給ふ御娘。なめき罪ぞ謀らるる。疎かなる罪ぞ凌ぜらるる。双六の主たち」と言ひて、牛飼ひども、田鼓ども打ちて、草刈笛吹く。


上野の宮が、正頼に言い含められた樵の娘をあて宮と思い込んで掠う場面であるが、この祝祭的なかんじがむしろ印象に残る。人が移動し入れ替わるときにはお祭りだ。

わたくしもミロが好きで、小学校のころ、美術の先生がミロの真似をさせた授業がたのしかった。これはしかし、ミロのシュルレアリスム以降の、星と動物の世界の絵のまねであった。わたしも確かに小中学校の頃、下手すると最近まで「アルルカンのカーニヴァル」(1924)みたいな作品が好きであった。しかし、かれはもともと、農村の風景を描いていた画家で、彼の怖ろしい才能は、「農園」(1922)あたりが一番すごいような気がする。この動いているようでうごいていない世界は澄み切っている。これをカーニヴァルのようにしてしまうのが彼のシュルレアリスムだったきがするが、――これはいずれに孤独な可愛さの存在として星の世界に追いつめられて行く。ここでは、「すべて」が「まれびと」のようである。

もう誰かがさんざ言っているのであろうが、サンタをはじめ自分の親や孫でさえ、折口のいう「まれびと」みたいになっている可能性があり、これじゃ落ち着かねえから、これからの人類のめざすのは第二の定住ではあるまいか。

池谷仙克氏の怪獣のデザイン画などをみていると、怪獣特撮で難しかったのはどうしても着ぐるみなので、我々の体格にあったものに修正されてしまうということだったなと思う。頭と胴体のバランスを変えただけでおどろくほど不気味になったはずだが、これだと子どもが怪獣に親しみをもつことはなかったかもしれない。しかし、デザインにあった不気味さをやはり怪獣たちは残していて、まだ昭和四十年代のこどもにとって怪獣はかろうじて「まれびと」だったに違いない。こういうバランスの問題は、文章に於いてもあって、いかにバランスを崩すかというのは考える事はあるが、われわれはそれが驚くほど苦手になっている。みなかわいいぬいぐるみみたいな文体になってしまうのだ。

サンタクロースは煙突から入るということを知って、木曽の家ではストーブの煙突から焼けながら侵入してるのかもしれないと子どもの頃思った。この状況はなんかまだ「まれびと」の存在感があった。いまはエアコンの室外機で粉砕されてから我々の部屋に闖入しているにちがいなく――むろんはそれは無理であって、完全に「まれびと」がくる余地がないのだ。わたくしが大人になったからではなく、人間が完全に「箱男」化しているからである。彼のところにはせいぜいいるかいないか分からない看護婦や偽物が来るだけであった。

運命と道

2022-12-24 23:46:15 | 文学


宰相、珍しく出で来たる雁の子に書きつく、
 卵の内に 命籠めたる雁の子は 君が宿にて 孵さざるらむ
とて、日来はとて、「これ、中の大殿にて、君一人見給へ。人に見せ給ふな」とて取らせ給へば、兵衛、うち笑ひて、「かばかりにをや。罪作らむ人のやうにもこそ。仕うまつれば」。「いで、かばかりぞかし、御心は」とのたまふ。兵衛、賜はりて、貴宮に、「巣守りになり始むる雁の子御覧ぜよ」とて奉れば、貴宮、「苦しげなる御物願ひかな」とのたまふ。


宰相源実忠は雁の卵の孵化を自分の恋心に喩えているわけであろうが、たしかにわれわれは卵から孵る姿が大好きで、やたら卵状のものを開けたがる。そういえば、親ガチャとかいって、どんな親に当たるかが人生の分かれ道みたいな怖ろしい人生観を「ガチャガチャ」で喩えている人も多いが、じっさい、ガチャガチャはそんな真剣なものではなく、卵をぱこっとあけてくだらなそうなものが入っていてなんぼみたいな側面がある。最近は、ガチャガチャをまとめた専門店まであるらしい。ガチャガチャは楽しい。怖ろしいのは、偶然が、運命のように長い時間をかけて生成されてくるところの、長い人生の方なのである。すぐ結果がわかるガチャガチャの潔さはむしろ面白いものである。

偶然でも運命でもいいが、それを解釈しようとする人間はいつもおり、それが集団で行われるといやなものだ。和歌の贈答なら、解釈も心に秘められたものだし、物語のなかで書かれていても、読者は人物たちの動きまで決めるわけには行かないから、勝手もそこそこだ。問題は、現実の人間が死んだ後である。もうだれかが調べているんだとおもうが、――三島由紀夫が自決したときに、小林秀雄に「哀悼の意を表したいので発起人になってくれ」と頼んできた人がいたという(小林秀雄「三島君の事」)。小林を担ぐという発想がとてもめんどうくさいかんじである。三島も小林もこういうめんどくささとさしあたり戦わなくてはならなかったから、そりゃ疲れる。

三島はたぶん自分の行く先を「道」のように考えていた。しかし、まわりはそうはとってくれない。江藤淳は、いつも、道の代用品としてイデオロギーを据えてしまうみたいな言い方で現代人を批判していた。この「代用品」というところが乱暴だと思う。そう言ってしまうと、代用品で何が悪いみたいな反論を逆に許してしまう。全然べつものだと考えるべきのような気がする。なにか江藤は、そういう現代人を批判しながら、違うものまでたどり着く事に失敗し、視点が明治に止まっていたような気がする。だから、司馬遼太郎と同じようなポジションから身を引き離す事が難しくなる。その影響が、今の右派にも残っている。

三島にあって江藤になかったのは、近代が常にゆっくりではあるがおわり続ける、という事態で、彼が気に入らなかった若者達のなかにも、近代の凋落と成立はあった。

三島「僕は、日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現れず、時にはそれによってしか、西欧文明摂取の結果現れた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる『近代化』も可能ではない、というアイロニカルな歴史意志を考えるのです」

――林房雄・三島由紀夫「対話・日本人論」


集団にとって、一番よいと思う状態の直後に崖があり、そこで決定的に何かが終わっているにもかかわらず、そこに気付いているからこそ持続可能な道を進み、緩慢な死を迎えるものである。これは近代化の過程であり、近代化のおわりでもある。SDGSとはその過程をイデオロギーごとに分解して色鉛筆セットみたいに並べてみたものである。これは確かに江藤の嫌っていたありかたのようだ。しかし嫌うだけでは何も起こらない。一体、他の「道」はないのか。たぶん、宮沢賢治をエコロジーに繋げるみたいな道にはあまり期待出来ないというのがわたしの実感である。

器械的人物

2022-12-23 19:46:04 | 文学


左大臣、「正頼が、『らうたし』と思ふ女の童侍り。今宵の御禄には、それを奉らむ」とのたまへば、からうして、万歳楽、声ほのかに掻き鳴らして弾く時に、仲頼、行正、今日を心しける琴を調べ合はせて、二なく遊ぶ時に、なほ、仲頼、感に堪へで、下り走り、万歳楽を舞ひて、御前に出で来たり。行正琵琶、大将大和琴、皆調べ合はせて、ある限りの上達部、声を出だして、遊び興じ給ふ。仲忠、例の曲の手をば弾かで、思ひの物を弾く時に、「かくては、御禄もいかがはせむ。なほ、少し細かに遊ばせ」と、切にのたまへば、調べ変へて弾く。面白きこと限りなし。いまだ、仲忠、かやうに弾く時なし。御前にて弾きしよりもいみじう、この声もたうへきて習ひ来たれば、なつかしくやはらかなるものの、いと珍かに面白し。万の人、興じ愛で給ふ。

室城氏のビギナーズクラシックでも触れられていたが、柳田國男の「酒の飲みやうの変遷」(『木綿以前の事』)にもあるように、音楽や舞を肴にしたり、引出物(ここではかわいい娘)を贈ることを言明して、酒を更に飲ませるみたいな場面である。冗談なのかそうでないのか、酒の席はそれがよくわからない面白さがありしかも危険である。

酒に酔うこと自体をわれわれは自分の意志そのものだとは思わない。音楽や虚構が入り込む何かなのである。そこには、楽器などの人工物や贈答物が現れる。もともと、技術がもたらす何かの変化が神秘的なのである。音楽はそのなかでも圧倒的に酒に近い陶酔を作り出す。概念規定と仮説から構築する学問ばかりやってると修辞が修辞としかみえなくなり、学問が足し算みたいになっていくのだが、文章自体が人工物であり、そこに音楽の発生のような陶酔的な「化け」が含まれていて、それと我々がロジックを操るときにもあることを忘れてはならないと思う。

そういえば、上の音楽の天才の親子が洞窟に住んでいたときに、やはりそばに巨岩があった。石を祀った神社がわたくしの家の周りにはいくつかあるが、いつも思うのは、巨岩の前では何か微妙に声の響きが違い、考えてみたら反響板になってるんだな、少し。この少しがいい。我々の増長を押さえているようだ。

われわれは組織の機構の中で、どこかしら狂った言行を要求されている。様々なる文書をみると、執筆者全員発狂しているのではないかと思うほどである。しかし、そこにある意味、人間の可能性をみることもできるのだ。可能性自体に善悪はない。AIも妙に人間性にこだわらなくても、十分人間が狂った器械なのだ。

かくて三年ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。

鷗外の「舞姫」における「器械的人物」という言い方、「的」がついてていやだなとむかし思ったけど、鷗外はじゅうぶん分かっていたと思う。人間はたんなる器械じゃなくて、「器械的人物」というもっといやな生き物なのである。それは「自由」を求める。しかし、器械的人物の自由は自由をもたらさない。

今回行われたデジタルライブラリーのリニューアルは検索機能の充実など画期的な進化で、コロナ禍が幸いしたようにもみえる。私もそれでついうきうきしたが、これでまた我々が研究の見かけの充実と引き替えに能力の一部を失うんだろうな、とも思う。技術は悪魔であり、我々と取引している。チェンソーマンという作品でそういう場面をみたので、比喩能力を奪われました。インターネットは道具とは違うものである。どちらかというと電話化した「本」である。これは我々を変形させるより、能力を奪う方が大きかったような気がする。少なくとも我々の世代は、パソコンとインターネットでそれまで身につけた記憶力を失った気がする。そして、その失うプロセスがインターネットの発達と重なってしまった。鷗外も、以前の我でないものを発見したけれども、それを自分のせいではなく、国家という器械のせいにしているところがある。

されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。


憎む心でようやく人間である道を主人公は見出したような気がする。

洞窟・寄居虫・大和魂

2022-12-22 23:55:58 | 文学


うつほの前に、一間ばかり去りて、払ひ出でたる泉の面に、をかしきほどの巌立てり。小松所々あるに、椎、栗、その水に落ち入りて、流れ来つつ、思ひしよりも、使ひ人一人得たらむやうに、便りありて思ゆ。朝に出で、夕べに帰りに暇のなさも、休まりぬ。ただ目の前なれば、我も人も、箱の蓋なるものを引き寄するやうにて、煩ひなくて、ただうち遊びて明かし暮らせば、「ここにて、世を過ぐさむ」と思ひて、子に言ふ、「今は暇あめるを、おのが親の、かしこきことに思ひて教へ給ひし琴、習はし聞こえむ。弾き見給へ」と言ひて、龍角風 をば、この子の琴にし、細緒 をば、我弾きて習はすに、聡く賢く弾くこと限りなし。人気もせず、獣、熊、狼ならぬは見え来ぬ山にて、かうめでたきわざをするに、たまたま聞きつくる獣、ただこのあたりに集まりて、あはれびの心をなして、草木も靡く中に、尾一つを越えて、厳しき牝猿 、子ども多く引き連れて聞く。この物の音を聞き愛でて、大きなるうつほをまた領じて、年を経て、山に出で来る物取り集めて住みける猿なりけり、この物の音に愛でて、時々の木の実を、子どもも我も引き連れて持て来。

洞穴はアリスの穴や河童の隧道とことなり異界と繋がっておらず、Uターンして現世と新たに繋がるのだ。岩を反響板にしたそこでの楽器演奏は、一方で天からの啓示であり、孫に受け継がれたものであるが、現世の生まれたての世界に広がって行くのであった。まずは、動物たちがそこにむらがってくる。

プラトンの洞窟は、ヨーロッパの牢獄の世界を思わせる。人間が洞窟から出られないのは、物理的なそういう状況があったからで、決してメタファーとしてありがたがるべきではなかった。そんな風に考えてしまうと、我々は主観を洞窟として思い込むことになる。ほんとに、他人の視点がメタ認知だみたいな議論をしがちなのが我々の教育風土である。まだ、大和魂が逆説的に漢学を勉強することによってでてくるみたいな、大和魂を嵌入された結果の何かと思い描く方がましであった。欧文で論文書くべしと言っているひとたちはむしろ大和魂を使いたい人たちだと思う。実際そうなんだよな、欧文とか言っている時点で光源氏と同様にヤドカリもいいとこなわけで、そのうちヤドカリも外に出たがる。その下半身が痩せた気持ち悪い生物が大和魂だ。源氏物語や宣長が言いたいのは、それはそもそも学問的に正確ではなく、そういう輩が推測に推測を重ねるようなことを客観的といって威張っているということであった。

つゆばかりも、己が臆度をまじへて理を以て云は、漢意におつること也。(鈴屋答問録)

洞窟の外を現実以上に輝やかしてはならない。他人の視点が自動的に客観的はなずがない。こういう視点は前期思春期の人間が持ちがちなのではなく、むしろ権力を持とうとする人間に現れる。「他者」から何か言われなければ自分は主観に閉じ込められていると思っているのは、かわいそうでも哀れでも何でもなく、権力意志を持った危険人物だ。普通に怖い。

不安な人間はまだまだましなわけである。解消したらいけない不安が世の中かなりあるのであって、洞窟であるべきでなく、現に洞窟でない主観の世界を明瞭に洞窟として認識することで、ますますおかしなことになる。優等生の場合は、出来ない同輩を馬鹿にすることによって世界を失い、劣等生は、だいたいうまくいかないときによけい自己肯定が持続可能なかんじで高まってしまい、自らの可能性を失う。教育の場合も同じで、する側にとっては寄り添うみたいな「哀れみ」の世界になっており、教育される側にとっては現状維持に留まるエネルギーを自己肯定の形でため込む契機となってしまう。どちらも主観を洞窟のように捉えているからである。それがだめなのは、権力は実際に権力を行使する相手より力があるとは限らず、常に相互浸透している現実を忘れ、むしろ自分の思考停止を相手に感染させるからである。

評論家が自分の意見を評して「こういう意見を寡聞にして聞いたことがない」と持ち上げ始めたらちょっと心配になる。実際は大概のことは言われているからだ。学者だと「管見では」と言い始めたらお前はもう死んでると大学院の頃言われた。死んでいるかどうかはともかく、管を覗いているのがどんだけあぶねえかということだな。。絶対階段から落ちる。

和文と欧文でしか論文を書いてはいけないらしいのだが、悪文しかかけない俺なんかは正直おわりである。ここでは和文が洞窟で欧文が太陽の輝く世界であるわけだが、そこにはまさに、洞窟に閉じ込める権力者の意志がある。客観的な視点を得れば幸福になれるとか、誰が教えてるんだろうと疑問だったが、疑問に思うまでもなかった。われわれの世界における思想的権力の直截的な反映だ。

わたくしは調子に乗って第三外国語まで大学の時にやったし、古文漢文は外国語みたいなところがあるから、いまだに大学は、光源氏の時代とあんまり変わってねえわなと思う。で、昨今の学ぶ外国語の種類を減らしていこうという動きは、戦時下のようなもので、漢心と一緒に大和魂を縮小させてゆく末期症状である。

子供への恐怖

2022-12-21 23:01:40 | 文学


二人は、おじさんに、竹のてっぽうを造ってもらうことを約束しました。
「田舎は、やぶへゆけば、いくらでも竹があるが、ここでは、なかなか竹がありませんね。」と、おじさんは、考えていました。
 きれいな、大きな床屋へいって、この小さな床屋へこないほかの子供たちは、なんとなく、この縁台にきて、腰をかけて、おじさんから、お話をきくのを遠慮していましたが、いつのまにか、みんなおじさんと親しくなって、この床屋へくるようになりました。
 おじさんが、子供が好きだったからです。そして、しまいに、この床屋は、子供の床屋という、あだながつくようになりました。近所の子供は、床屋の前をいい遊び場所にしました。おじさんは、いつも元気で、小さい店先で、子供たちの頭を、ジョキジョキ刈っています。


――小川未明「子供の床屋」


特撮シリーズは、子供への恐怖を、怪獣と人間をアンヴィヴァレンツとして表現したものでもあった。子供向けの作品が子供向けに書かれているとは限らない。そのアンヴィヴァレンツそのものを体現する者として、中年親父や鬼婆みたいなひとたちが選ばれたりする。それはむろん働き盛りの人間たちの自己防衛でもあったに違いない。

蜻蛉に流民

2022-12-20 23:37:24 | 文学


「おぼろけにては、かく参り来なむや」などのたまへば、けはしなつかしう、童にもあれば、少し侮らはしくや思えけむ、
蜻蛉の あるかなきかに ほのめきて あるはあるとも 思はざらなむ
と、ほのかに言ふ声、いみじうをかしう聞こゆ。


訪ねた理由は「おぼろけ」じゃないんだという若小君にたいして、うまいこと言った俊蔭の娘(童)であった。「蜻蛉のあるかないかみたいに立っている私なんで、あるかないか気にしないでいただきたいんです」。しかも声がいい。蜻蛉でも何でもいいが声がすごい蜻蛉は逆にすごい。で、ますます自分が来てしまったことの意味を確信してしまう若小君、なのかは知らないが、とにかくいきなり一晩泊まってしまったのである。童の運命やいかに。これは、完全に一夜ばらみのパターンであり、英雄的なにかが生まれるあれである。

これは恋ですらなく、運命ですらない。物事の推移に過ぎないが、必然のように子が生まれてしまうのである。これは、イエスが処女懐胎によって生じた神秘とは別の神秘である。因果ではあるが、物事の推移そのものに因果的なつながりがなく、和歌のなかの言葉のような感じで繋がっていくような現実の神秘である。季節の巡りにも近いかも知れない。貴種流離譚と四季を愛でる感性は同じ根から来ている気がする。

その巡りは、極端な温度が去来しないから推移に思え、我々の感情自体を無に近づけて行く。ロシアに行ったことはないが、ショスタコービチの「冬」という歌曲にあったように、「絶望も凍り付く」寒さなのだと思う。ロシアには、絶望の次のそれを超える段階が死ではない形であるのかもしれない。つまりそこには感情がまだ絶望の先にある。我々はどこか絶望すると死んでいなくても虚無に突入する(前日の記事参照)

夭折した者の死はわたしらに蓮田善明の「文化とは死である」という定義のそらおそろしい武断的な宣言を想起せしめる。たしかに一個の文人の死は、自死であれ、自然死であれ、何ものかの意味を残す。この生死を、今日の詩人はいったいどう葬ろうとするのであるか。

――村上一郎『「内部生命論」考』


たぶん虚無において行われるのは、義時のような政治であり、それを文化にするためには「死」が必要なのだ。大河ドラマの結末を見ていたら、――案の定ネット民を中心に、北条義時みたいなサイコパスの心の闇やサッカーオタクの弟の愛嬌とかどうでもいいことがクローズアップされ、しまいには巴御前は髭和田の妻で格好いいみたいなことになっており、今こそ速やかに義仲殿のご恩を思い出せ、と思わざるを得なかった。死んだように生きた義時も含めて生きた奴らは、政治をやった。さっさと死んだ奴だけが芸術となる。「平家物語」で復活したのは義仲である。

――という具合で、芸術の徒である松尾芭蕉や保田與重郎が義仲を神と崇めたことは有名である。しかし、一方で、彼らは文化芸術の継承者として啓蒙者なのであって、決して生活に基づいた人間なのではない。本当に放浪的なのは芭蕉ではなく、小林秀雄とかの方だ。今日授業で、日本浪曼派を扱っていたら、小林秀雄の文章は歌みたいだけど日本浪曼派の評論は会話みたいになってる気もした。中島栄次郎が、大事なのは文学作品ではなく文学の機能なんだみたいなことを言ってたが、そういうことであろう。でもこれは読者が読むときに会話するつもりになってくれないといけない。そして同等の素養を持つ人間でないとそもそも会話に参加しようと思わない。流浪の民的な小林に対して、案外日本浪曼派は学校の先生的なんだと思う。そして歌の系譜は、中野重治や花田★輝に続いて行く。可能性の中心は、ほんとの流民的な連中に自然に流れていったのではなかろうか。

死に至る病

2022-12-19 23:32:23 | 文学


確かに今乗った下らしいから、また葉を分けて……ちょうど二、三日前、激しく雨水の落とした後の、汀が崩れて、草の根のまだ白い泥土の欠目から、楔の弛んだ、洪水の引いた天井裏見るような、横木と橋板との暗い中を見たが何もおらぬ。……顔を倒にして、捻じ向いて覗いたが、ト真赤な蟹が、ざわざわと動いたばかり。やどかりはうようよ数珠形に、其処ら暗い処に蠢いたが、声のありそうなものは形もなかった。
 手を払って、
「ははあ、岡沙魚が鳴くんだ」
 と独りで笑った。


――泉鏡花「海の死者」


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終わった。わたくしは大河ドラマは大概苦手で、日本のヴィルドゥングスロマンの達成に絶望していたぐらいだが、今回のは面白かった。面白かったといってもそれは、――前にも書いたかもしれないが、今時なおもしろさだと思う。言葉のつながりによる、編み目のような脚本で、現実からは大きく離れた、因果律的な物語である。これは、現実に対して、やや高をくくった姿勢でないと書けない物語である。だから、本質的には、いままでの三谷幸喜の推理小説的脚本の系統のものである。

主人公?の北条義時は小栗旬氏が演じていた。すごくうまい演技で、三浦義村の山本耕史氏もそうだが、「達人」的な俳優である。義経をやった菅田将暉氏の方が変な俳優で、パッションが技術を曲げてしまう。今回の小栗旬氏の演技で、というか脚本から演出すべてで面白かったのは、苦悩とか秘めた愛とかではなく、虚無の存在をしめしたことであった。生きながら地獄に墜ちてる義時にはいわば生きた感情がない。それが息子や家への愛に支えられていても虚無は虚無のままで存在する。最後、義時が「俗物だ」と批判した運慶がつくったの義時の像は、餓鬼風な聖天像で、いわばそれは人間的過ぎるんじゃないかと思うほどだ。かれはそれほど人間として崩壊してはおらず、虚無を抱えているだけなのである。おそらく、人殺しを自分の意思以外の動機によって行い、最初の妻が死んだ時点で義時は絶望して精神的に死んでいる。その後の鎌倉のためみたいな目標は方便に過ぎない。

絶望というのは非常にやっかいで、スターウォーズや大河で描かれた『闇落ち』というのは絶望のことだとおもう。それを大概「大きな悲しみ」と人は解してしまい、優しさや良心で治癒されるものと思ってしまいがちだが、ぜんぜんそうじゃない。それが闇=虚無を生むのである。それをわかっていない者が、人に寄り添い無神経な言葉をまき散らす。

北条政子が「ひどいことをしてきた義時だが彼はまじめなんです」とか言ってたが、あれはある種のアイヒマンだといっているようなもので(アイヒマンの意図がどこまであったかの論争は一応知ってるが、それは置いといて)、鎌倉時代だと言うことを抜いた場合、「だから」だめなんだということになると思われる。とりあえず、地獄に行ってないのは大姫ぐらいだとおもう。義高殿は、生きた蝉ではなく蝉の抜け殻集めが趣味ということで私の独断により極楽往生――。

――とはいえ、我々の世界には他の虚無もある。今起こっているのは右傾化みたいな内面的で感情の上での動的なものではなく、無知と思い上がりによる人間に対する蔑視である。転向の余地がないので絶望的である。本人たちには意識しない絶望だが、それは虚無である。文章の読解力みたいなものも、蔑視があるものだから成長するはずがない。これは客観=他人の目みたいな図式で考えていることとも関係がある。要するに自分は虚無だから、主観性すら本当は存在していない。ひでえな、西田幾多郎の初期からやり直せ。

斯の如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。数学者は自己を棄てゝ数理を愛し数理其者と一致するが故に、能く数理を明にすることができるのである。美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に没することに由りて甫めて自然の真を看破し得るのである。また一方より考えて見れば、我はわが友を知るが故にこれを愛するのである。境遇を同じうし思想趣味を同じうし、相理会するいよいよ深ければ深い程同情は益々濃かになる訳である。しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。

――「知と愛」(『善の研究』)

大殿の上の瓦、砕けて花の如く

2022-12-18 22:41:52 | 文学


「これが声、まだ馴れずなむある。調へて奉れ」と仰せらるる時に、俊蔭、せた風を賜はりて、いささか掻き鳴らして、大曲一つを弾くに、大殿の上の瓦、砕けて花の如く散る。

帝が「もう少し慣らしてからもってきて」と例の琴を返すと、俊蔭は少しかき鳴らしてみると、瓦が砕けて花のように散った。すごい迫力である。ウィーンフィルの全員のフォルティッシモでもウィーン楽友協会の屋根がふっとんだりはしない。琴は彼らには関係ない次元の天女がついているのでこうなっても全然不思議ではない。不思議ではないのは、我々が原因であることをすでに免除されているからだ。しかし今の我々は天からの原因ではなく、地上的平面から原因を探すしかない。

フロイトが流行った時代には、なんでも性欲のせいにしてたし、マルクスが流行ればなんでも資本のせいにしてたし、フェミニズムが流行れば男の文化のせい、発達障害論がはやればみんなで自分の失態はそれのせいではないかと疑う。いろいろあったわけだが、昼間おれがいらいらしていたのは、お腹が空いたせいであろう。

そういえば、座学の反対がオンラインという珍説を聞いた。たしかにオンラインは寝っ転がっても逆立ちしてもできる。ほんと、座学を悪いものと思っている人間の頭の悪さはどうしようもないが、――確かに、座っていると自分が無能のような気がしてくるものである。反対に動いているとなにか有能なような気がする。学校の先生がよくあせくせ動いているのは単に忙しいからでもあるが、そうしていると絶望的な環境に於いても何か出来る気がするというのもあるのだ。そうでなければ、われわれは環境のせいにして逡巡をはじめるのがわれわれというものである。

先生だけではない、自分がいまいちの成績だったことを授業の形態のせいにするとか、半端もんのかんがえそうなことだ。もしかして英語が不得意なのは校舎が木造だからではとか、でんでん虫のおならよりもくだらないことを私もむかし考えたことがある。大学院にゆき、学者集団のなかに棲んでいてもわたしのような輩はかなりいるとみてよい。しかし、学者のかなりの割合は自分の主体の有能性を信じているから、――いろんな思想や文学を論じながら、国家や組織の思想が腐っても学生や自分だけは腐らないと信じている。なぜ腐っているのが国家や組織より自分たちの方が先だという可能性だけ排除されているのかわからない。しかし、都合が悪くなると学者も一気に環境のせいする。反映論はかかるいい加減さをもつのである。しかし、このいい加減さが我々の主体を幻想として形成する余地を残す。だから、反映論者は権力をもつと大変なのである。反映されることが十分に見えてなかったくせに、主体の効果としての反映を意図すると今度は、反映されることは見えなくては主体の否定となるから、我慢が出来なくなるわけだ。

支配者の権力と弱者の被支配をみつめている弱者も強者も、意図を言葉通りに貫徹しようとしがちである。例えば懇親会や何とか会に根本的な無礼講などありえないのがわからない馬シカというのが結構いるのだ。『飲み会』如きを権力の仕切るものだと思っているせいである。いったい、我々はいつからかように自分を肯定するか否定するかしかできなくなっているのか。例えば、教師が権力で子どもが被支配者という前提にのっかった論というのはかなりあるが、さすがに事態はそこまで単純ではないことは当たり前である。逆だと言いたいのではない。

中学校辺りでは、証拠は主張のための材料みたいな考え方が教えられてしまう場合がある。そもそも証拠の気持ちを考えろ、と言いたい。冗談ではない。その主張優先主義は、主張と証拠が絶対的かと発想している時点で、肯定か否定かの論理なのである。実際に、「証拠の吟味にこだわっていると主張が出来ないので、まずは主張をきちんとしたいです」みたいに生徒に書かせてそのまま放置されている場合がある。これは国家にとって将来的にみてすごくまずい。主張というのは、某首相の「加速度的に検討して参りたいと思います」みたいなのもそうなんだから。教育で扱われるメタ認知なるものも、こういうことを言って常に平気な人間を大量生産しかねない。まだ「反省」のがましだったということになりかねない。しかし「反省」を強いるのはこれまた連合赤軍にみたいに、それを指示した人間の意志貫徹に終わる。

メタはメタで終わらず、証拠は証拠のままではいられず、相互に変化しながら移動するものである。教師の命令をはいはい言うことを聞く子どもは主体性がなくなるというのは一種のイメージであり、教師の言うことを聞かない且つ非主体的な人間の方が多いのは誰でも知っている事実である。多いだけであるが。大人で批判精神旺盛な面子はもと根本的にいい子ちゃんが多いんじゃないか。これも多いだけであるが、従うのが教師から理念に変わってよかった場合もあろう。もちろん、だから駄目な場合もある。その教師が幇間みたいなときには最悪である。理念への幇間はまったく違う次元に人を連れ去る。往々にしてそんな場合がある。――そういう両義性があるのは当たり前の話だ。

単なる感想にすぎないが――、発達障害にかんして象徴的に語られる「部長の自慢話長かったです」みたいな不規則?発言は、現実には逆に面白い部分もあって大した問題にならない場合もある。実際に多く人間関係の軋轢になっているのはもっとどうでもいい、発言者のナルシシズムや他罰性みたいなものの発露である場合で、これは彼らの本質的な何かというより、世間が最終的に許しそうな態度を躊躇うことのない性質の現れの場合が多いように思われる。つまりこういうことは、世の中の社会常識の揺らぎが明らかに反映していて、昨今の、世間の自分だけは責めない傾向が、その人の傾向を後押ししているように感じられるのである。つまり、われわれは、発達障害であろうとなかろうと多数派の影響をもろに受けていると考えた方がよいと思う。少なくとも私の経験だと、それが疑われるという人間の言うことは、過剰に「常識的」であり一般論へ飛躍が多いとか、そういうことが観察されるように思う。怖ろしいのは、例えば私の指導の影響が、変形したかたちで過剰に現れるといったこともあるのであった。

よく言われる「空気を読む」場合の「空気」を同調圧力とか権力みたいなかたちだけで捉えるのはこれもイメージであって、その「空気」は圧力にもなりゃ圧力に対する緩衝材にもなっている。適切に空気を読むためには、その両義性をうまく使う必要がある。わたくしは、国家の機関たる教師として、これができないのはある種の頭の悪さだとしておいたほうがよいように思いさえする。あまりにもへたくそな奴が多くなっているからである。だいたいの人間は吉本隆明みたいな天才じゃないから、真実を言って世界が凍ったりはしないのだ。世の中が狂っている限り、「吉本」的存在以外みんなが狂うのであって、多様性に従う仕組みをつくることはこれからも必要だが、そこまでわたしは人間の能力を信用出来ない。言い方が難しいが、それ以前にというか、それよりも趨勢が狂わないようにしないといけないのである。