一歌にことの飽かねば、いま一つ、
とくと思ふ船悩ますはわがために水の心の浅きなりけり
この歌は、みやこ近くなりぬる喜びに堪へずして、いへるなるべし。「淡路の御の歌に劣れり。ねたき。いはざらましものを」と、悔しがるうちに、夜になりて寝にけり。
確かに、理屈っぽさを感じる歌でふて寝するのも無理はない気もするのだが、こういう失敗作とみられる歌からは、我々と同じく形式論理的な思考が垣間見え、昔の人が妙なアニミズムやすぐれた詩心を殊更に持っていたという怖れを解消してくれる。今残っている和歌は、天才が作ったものなのである。「この歌は、みやこ近くなりぬる喜びに堪へずして、いへるなるべし」とか、殊更に説明的でわざとやっているのであろうか……。それにしても、神だ心だなんだいっている割には、彼らは水は水として扱っている。ところが、近代になるとアニミズムになってくる。
水は つかめません
水は すくうのです
指をぴったりつけて
そおっと 大切に──
水は つかめません
水は つつむのです
二つの手の中に
そおっと 大切に──
水のこころ も
人のこころ も
――高田敏子「水のこころ」
水にしてみればいい迷惑だ。妙な有機体に弄られて。だいたい、水をすくうときは、コップや何やらを使えばいいのである。