「又八、棒切れを貸せ」
愚堂はいって、彼の拾った棒切れをうけ取った。武蔵は、頭上に下る三十棒を観念して、眼をふさいでいたが、棒は彼の頭には来ないで、彼の坐している外を、ぐるりと駈けて廻った。
愚堂は、棒の先で、地へ大きな円を描いたのである。――その円の中に、武蔵の姿は在った。
「行こう」
と、棒を捨てた。
そして愚堂は、又八をうながして、すたすた歩み去った。
武蔵はまたも、取り残された。岡崎の場合とちがって、ここに至ると、彼も憤然とした。
数十日のあいだ、真心と、惨憺たる苦行をこめて、教えを乞おうとする末輩に、余りにも、慈悲がない。無情酷薄だ。いや、ひとを弄びすぎる!
「……くそ坊主め」
彼方をにらんで、武蔵は、唇を喰いしばった。いつか、無一物などといったのは、絶無の頭脳を――真から空ッぽの頭脳を、さも何かありそうに見せかける坊主常習の似非のことばなのだ。
「ようし、みておれ」
もう恃まぬと思った。世に恃む師があると思ったのが不覚と悔まれもする。自力――以外に道はないのだ。さもあらばあれ、彼も人、自分も人、無数の先哲もみな人間。――もう恃むまい。
ぬッと立った。怒りが立たせたように突っ立った。
「…………」
そしてなお、月の彼方を、睨めつけていたが、ようやく、眸の焔が冷めてくると、眼はおのずから、自分の姿と足もとへ戻って来る。
「……や?」
彼は、その位置のまま、身を巡らした。
円い筋のまん中に、立っている自分を見出したのである。
――棒を。
と、先刻、愚堂がいっていたのが思い出された。その棒の先を地にあてて、何か、自分の周囲に迫ったと思ったが、この円い線を描いていたのか――と初めて今、気がつく。
「何の円?」
武蔵は、その位置から、一寸も動かず考えた。
円――
円――
いくら見ていても、円い線はどこまでも円い。果てなく、屈折なく、窮極なく、迷いなく円い。
この円を、乾坤にひろげてみると、そのまま天地。この円を縮めてみると、そこに自己の一点がある。
自己も円、天地も円。ふたつの物ではあり得ない。一つである。
――ばっ!
と、武蔵は、右の手に一刀を払い、円の中に立って凝視した。影法師は、片仮名のオの字のような象に地へ映ったが、天地の円は、厳として、円を崩してはいない。二つの異なった物でないからには、自己の体も同じ理であるが――ただ影法師が違った形として映る。
「影だ――」
武蔵は、そう見た。影は自己の実体でない。
行き詰ったと感じている道業の壁もまた、影であった。行き詰ったと迷う心の影だった。
「えいッ――」
と、空を一颯した。
左手に、短剣を払った影の形は変って見えるが、天地の象はかわらない。二刀も一刀――そして円である。
「ああ……」
眼が開けたようだった。仰ぐと、月がある。大円満の月の輪は、そのまま剣の相とも、世を歩む心の体としても見ることができた。
「オオ! ……。和上っ!」
武蔵はふいに、疾風のように駈け出した。愚堂の後を追いかけて。
だがもう何を、愚堂に求める気もなかった。ただ、一時でも、恨んだ詫びをいいたかったのだ。
――しかし、思い止まった。
「それも、枝葉……」
と。そして、蹴上の辺りに、茫乎として佇んでいる間に、京の町々の屋根、加茂の水は、霧の底から薄っすらと暁けかけて来た。
――吉川英治「宮本武蔵」