★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大晦日

2023-12-31 23:00:35 | 日記


洗濯物をほしていたら雨が降ってきた。

わたくしは車を運転しないが、わたくしの気持ちを理解するために、年末に「フローズンリバー」という映画を観ることをおすすめしたい。

さっき家の横の路をとぼとぼ歩いている猫がいたのだが帰省(たしか夏の季語)であろうか。どうでもいいけど、明治文学以来はやっている「帰省」とやらも交通手段の発達のおかげなのである。歩いて木曽までいけるものか。

このまえ少年ジャンプの漫画のアニメ版である「ドクターストーン」というのを少し観たんだが、破壊願望をエヴァソゲリオンみたいに〈この作品造っている俺問題〉にしないで、全滅からの回帰・洞窟からの生還をえがいてて好感が持てた。巨大ロボットものにありがちな、それをつくった科学者をもっとリスペクトしろよという不満も解消された。ただ、これをある意味、戦中戦後の科学「技術」論の文脈におくとどういうことになるかというと思うところはあるのだ。少年漫画には、考えてみると、必殺技というものがあるが、これが何の犠牲もなく修得されてしまいがちなのも、「ドクターストーン」の既成の科学による回帰と同じなのである。

いじめと寒さ

2023-12-30 18:35:33 | 文学


藤壺・弘徽殿との上の御局は、ほどもなく近きに、藤壺の方には小一条の女御、弘徽殿にはこの后の、上りておはしまし合へるを、いとやすからず、えやしづめがたくおはしましけむ、中隔ての壁に穴を開けて、のぞかせ給ひけるに、女御の御かたち、いとうつくしくめでたくおはしましければ、「むべ、時めくにこそありけれ。」と御覧ずるに、いとど心やましくならせ給ひて、穴より通るばかりのかはらけの割れして、打たせ給へりければ、帝のおはしますほどにて、こればかりにはえ堪へさせ給はず、むつかりおはしまして、「かうやうのことは、女房はえせじ。伊尹・兼通・兼家などが、言ひもよほして、せさするならむ。」と仰せられて、みな殿上に候はせ給ふほどなりければ、三所ながらかしこませ給へりしかば、その折に、いとど大きに腹立たせ給ひて、「渡らせ給へ。」と申させ給へば、「思ふにこのことならむ」とおぼしめして、渡らせ給はぬを、たびたび、「なほなほ。」と御消息ありければ、渡らずはいとどこそむつからめと、恐ろしくいとほしくおぼしめして、おはしましけるに、「いかでかかることはせさせ給ふぞ。いみじからむ逆さまの罪ありとも、この人をばおぼし許すべきなり。いはむや、まろが方ざまにてかくせさせ給ふは、いとあさましう心憂きことなり。ただ今召し返せ。」と申させ給ひければ、「いかでかただ今は許さむ。音聞き見苦しきことなり。」と聞こえさせ給ひけるを、「さらにあるべきことならず。」と責め申させ給ひければ、「さらば。」とて、帰り渡らせ給ふを、「おはしましなば、ただ今しも許させ給はじ。ただこなたにてを召せ。」とて、御衣をとらへ奉りて、立て奉らせ給はざりければ、いかがはせむとおぼしめしてこの御方へ職事召してぞ、奉るべきよしの宣旨下せ給ひける。これのみにもあらず、かやうなることども多く聞こえ侍りしかば。

村上天皇と安子の争いの場面は教科書にも載っていたような気がするが、どういうつもりの話なのか昔からわからない。すくなくともわたくしは全く笑えないからだ。女の嫉妬ばなしというのは嘲笑のネタでもあるが、また桐壺の例のように度を過ぎると嘲笑ですらなくなる。ポイントは話のもっていき方にもあるだろうが、ここでは瓦の切れ端を壁の穴をあけて投げるのと、通り道にウンコをぶちまけておくことの違いがやっぱり問題だ。

平安朝の貴族達が排泄物の問題をどうしてたのかはいろいろ研究があるのだろうが、身近であったことは確かであろう。案外、おまるが主流の社会では、いまの水でヨコの配水管のなかのウンコを押しながしてゆきますよ、みたいな身近さに近かったのではなかろうか。我々は近いものに影響を受ける。最近の★便はあまり落下せずに水に流れながら自己崩壊して行くのであるが、まさに現代人みたいだ。むかしのぼっとんでは決死に落下したあげく仲間と団結してバキュームカーとの決死の対決をする。冬なんか凍っても更にガンバル。考えてみると、むかしの「このクソ野郎」という罵倒は火野葦平の「糞尿譚」程度のリスペクトはあったとおもうのだが、いまやほんとの蔑視に成り下がってしまった。

そういえば、――風上に置くと臭気がながれてきて堪えられないから風上に置けないというんだとおもうが、むかしの人は実際に臭うものはさしあたりどかさなきゃならなかった。いまは消臭マシーンや芳香剤とかでごまかせる。平安朝もそうやってお香を使っていたのかも知れないが、いまよりはいろいろ臭っていたに違いない。匂いと光が我々の生と関係がある程度には重要なのは、源氏物語に端的に表れていよう。

枕草子には、
  またさらでもいと寒きに
  火など急ぎおこして
  炭もてわたるも
  いとつきずきし
  昼になりてぬるく
  ゆるびもてゆけば
  火桶の火も白き灰がにちに
  なりてわろし

という有名なところがあり、なにが「わろし」なのか平民のわしには全く理解できないが、寒いよ寒いよと歎きがないのはなんとなく推測できなくはない。むかしの暖房?は焚き火の延長で暖まるというより、体を芯から炙るかんじであった。これが温風で空気を暖める方式に変わってるわけだが、頭がぼうっとして体は冷えてる感じがおさまらない。

ただの風邪かもしれない。

現代人にとって成熟とは何か

2023-12-29 23:56:30 | 文学


ひととせ、入道殿の大井川に逍遥せさせ給ひしに、作文の船・管弦の船・和歌の船と分かたせ給ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言殿の参り給へるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」とのたまはすれば、「和歌の船に乗り侍らむ」とのたまひて、詠み給へるぞかし、
をぐら山あらしの風の寒ければもみぢのにしき着ぬ人ぞなき
 申しうけ給へるかひありてあそばしたりな。御みづからものたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩を作りたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口をしかりけるわざかな。さても殿の、『いづれにとか思ふ』とのたまはせしになむ、われながら心おごりせられし」とのたまふなる。一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道もぬけ出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。


漢詩・音楽・和歌と三艘の舟をつくってスペシャリストを乗せようという道長の魂胆はよくありがちな為政者の単細胞である。芸術の才をまさに役に立つ分野として考えているのであった。三つ出来る奴がいるに決まっているではないか。考えてみると、大谷選手の二刀流は、分業制が進んだベースボールに、自分はベースボールそのものができます、みたいなものである。野球の世界というのは、他の世界と同じく派閥のある世界で、自分の仕事におさまることが重要であるようだ。それにデータや賞が給料にそのまま反映されがちな競技である。それはもちろん、選手達自体の成熟とは関係のないものだ。

そもそも、我々は何回も成熟を崩壊させながら変容していく生物だ。

起きてからライヒやアダムスを聞いてて思ったんだが、わたくしにとっては青春の音楽だったにすぎない。これらをおもしろく聞く成熟が嘗てあったと言うことである。そういえば、最近、若手の短歌集を乱読してたら、ひとつまたパーツが埋まった感じがする。なるほど、そういうことだったかという感じだが、彼ら書き手が若いにもかかわらず、わたくしにとって、それは中年としての成熟に関係があったということである。

「カルメン純愛す」のなかで、高峰秀子氏が友人のストリッパーと彼女の赤ん坊すてちゃおうよと言って、捨てたあと蓮っ葉な歌をうたいながら国会前を歩いて行くところがいい。「どうせ日本はままならぬ~。へなちょこ野郎はけっとばせー チャー(金管)」という音楽がナンセンスですごいしそれなりに成熟しているのである。しかし、この子どもを捨てるという現実主義とナンセンスさは、高峰秀子演じるストリッパーが前衛画家に恋をして崩壊して行く。

むかしみた『小さき勇者たち~ガメラ』は、ガメラや主役達以外、逃げる群衆とかが意外に名演という、ガメラは一般人、特にガキの心に遍在するというテーマを地で行きすぎると妙なことになるみたいな映画であった。大人のマニア達が怪獣映画を難しく残酷にしていることへの抗議であったかもしれない。特撮映画やドラマに出てくる子供というのは大概演技も下手で、そのわりに大人が思いつかない良い計画を思いついたりする役回りなので、――思春期通過してから口を開けガキがと思わざるをえないのだが、やはり怪獣でドタバタやっていることじたいに、戦争ではない、子供的なものの存在が含まれていてさけて通れない。とりあえず、怪獣を子供に返してあげることは重要である。大人はもっと違うことで一生懸命仕事せにゃ

大人が子どもをきらきらした瞳がーみたいに、馬鹿な大人の範疇に取り込んでしまうのであれであるが、子どもをそれとして尊重するのは大人に対する教育的にみて重要である。中学生らしさとか大人らしさとかを主張する大人があまりに馬鹿が多かったせいで、おかしいことになってしまったが、子どもっぽさや青年っぽさとか中年親父っぽさなどはお互いに必要なのである。それを制度がダメみたいな理屈で全否定して出来上がったのが、子どもから老人まで揃いも揃ってなんのあれもないだめな大人みたいな人間なのである、もはや波瀾万丈でなく砂漠のような人生と世界なのでつまらない、でもう死ぬしかないとなる。多くの人が経験することであろうが、思春期前の子どもとしての成熟、思春期としての成熟、青年期の成熟、壮年期の成熟、クソ親父としての成熟などなど、その時期それぞれの生成の仕方があり、その頂点で雪崩を打って変容するのが我々の人生だ。それを認めた方が気が楽だ。

みごとにインテリジェンスな女の人が子供っぽいあほ男の世話をしている例があるけれども、小学校高学年とかに初恋の相手が同学年の思春期前のアホザルだったりすることが関係あるのではないだろうか。自身の思春期前の成熟が成熟した目で見出すのが、アホザルの良さなのである。で、相手が思春期に入って更なるクソザルに突入していくときにも、その成熟への未練が残っている。彼女はそのままその未練を引き摺りながら大人になって行くのであった。

一方アホ猿の方も未練はあって、その成熟した女性的なるものへに対してアホザルに過ぎなかった未練である。それは一度雄ザルになってしまえば忘れてしまうのが普通なのであろうが、それを忘れられない輩もいて、それが芸術家になってしまったりすることもあるであろう。この人達の特徴は反復である。作品が、いちいち自らの死を体験させるから、もう一回人生が必要になってしまうのだ。上のような成熟の反復が許されない。

例えば、宮崎駿がずっと引退したかったのにしてないみたいなことがほほえましく語られたりする。ほんとわたくしみたいなだめな奴が言うのもなんだが、1、みんなが観てくれなかったらどうしよう→死にたい。2、もうこんな面倒な仕事はしたくない→死にたい。3、うまくいかなかったぞ今回も→死にたい。などの感情を社会的言語になおすと「引退したい」みたいなことになるのではないかと思う。ものを書く人や作品をつくる人は達成感と希死念慮が同時に来るようなひとが結構いる。作品に魂吸い取られるし体力限界に来るせいであろう。しかし、まあ、この人たちは作品に人生を預けて死ぬ癖がついているだけ救われている部分もある。そんな重大なことを経験するせいで、根本的に他者が消失しているからである。

そうではなくて、他者だけを相手にせざるをえない人もいる。例えば、お笑いの人とかに反権力などを求める人もいるが、人を笑わせる(というより、その舞台に立つため)にはどうしても聴衆のセンスへの接近が必要になり、マスコミに出てる学者とおなじで反権力というより、ボケとツッコミをみずからのうちに体現した半権力みたいな人になるのはある意味当然である。ちなみに教師もそうである。北野武が、お笑いではなく映画監督になったのは、こういう危険性を知っていたからではないかと思う。そういえば、松本人志はそれに失敗したような気がする。「大日本人」では、迫害される大日本人の姿がアメリカからきたウルトラマンもどきたちとの漫才的コメディにかわる。これは、同世代の庵野秀明たちと同じ幹から別れたあり方であって、自らの植民地性・空虚性をどう扱うかの違いでもあるが、多くの観客を相手にすることを相対化できるかの違いでもあった。

Das Ewig-Weibliche Zieht uns hinan.

2023-12-28 23:56:12 | 文学


「この日の荒れて、日頃ここに経給ふは、おのれがし侍ることなり。よろづの社に額のかかりたるに、おのれがもとにしもなきがあしければ、かけむと思ふに、なべての手して書かせむがわろく侍れば、我に書かせ奉らむと思ふにより、この折ならではいつかはとて、とどめ奉りたるなり。」とのたまふに、「たれとか申す。」と問ひ申し給へば、「この浦の三島に侍る翁なり。」とのたまふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申すとおぼすに、おどろき給ひて、またさらにも言はず。さて、伊与へ渡り給ふに、多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまに追ひ風吹きて、飛ぶがごとくまうで着き給ひぬ。湯たびたび浴み、いみじう潔斎して、清まはりて、昼の装束して、やがて神の御前にて書き給ふ。神司ども召し出だして打たせなど、よく法のごとくして帰り給ふに、つゆ怖るることなくて、末々の船に至るまで、平らかに上り給ひにき。わがすることを人間にほめ崇むるだに興あることにてこそあれ、まして神の御心にさまで欲しく思しけむこそ、いかに御心おごりし給ひけむ。また、おほよそこれにぞ、いとど日本第一の御手のおぼえは取り給へりし。

明神が人間に敬語を使っている。そうして書の名人佐理に筆をにぎらせるのである。文学史を踏みにじった雑な意見を言わせて頂ければ、大鏡のこういうところは古事記のスサノオがアマテラスの家に押しかけてうんこをひりまくる場面よりも劣っている。結局、こういう小物ぶりが平安朝の平和から生み出されたちょこまかした精神であって、もう象徴天皇制まであと一歩なのである。なんかほんと適当な感想なのであるが、源氏物語みたいな散文精神がこういう事態を生み出している可能性があると思う。

昨日は、若手の短歌集乱読してたら、ひとつまたパーツが埋まった感じがする。なるほど、そういうことだったかという感じだ。我々はスサノオなのである。死ぬのを避けるために歌を詠む。

N響のマーラーの8番を聞いたついでにスコアの第二部を眺めたが、オーケストラも歌詞をうたっているように素晴らしい。しかし、この歌と音の話し合いみたいな緊張は非常に疲れる。マーラーはそれを大合唱と大オーケストラで昇天させる。ベートーベンの終末が揚棄や止揚だとすると、マーラーのそれは疲れはてた末の裏返ったような昇天であって、後者が労働の時代に好まれるのはわかるきがするのである。むかし、誰だったか音楽の先生がベートーベンだって結末に困ってたんだみたいなこと言ってたわ、昇天したくないのでと。第九の最後なんかがそれである。祝典はいつも花火に過ぎない。我々は死を生のような意味で裏返さないと納得しない。マーラーがやったのはそれである。

「涼宮ハルヒの憂鬱」のファンの学生にいまでも度々遭遇するが、なぜこの作品がいいのか説明しないのが特徴である。何かわしが知らないあれがあるのか、と思っていたが、こういう作品も主人公がもう死んでるのか生きてるのか分からないところがいいのであろう。現世が裏返っているのである。

マーラー(ゲーテ)もハルヒも女性に向かって行く。古事記の最重要人物と言えばやぱりスサノオだと思う。わたくしは時々――、やつがアマテラスに会いに行くのではなくちゃんと母親に会いに行くべきだったのではないかと思う。しかしそうはしなかった。光源氏も母親に直接会いに行くべきだった。いつも彼らはそうしない。われわれもそうしない。そのかわりに女性的なるものに現世をひっくりかえして会いに行く。

神は「生まれる」

2023-12-27 23:02:24 | 文学


また、北野の、神にならせ給ひて、いと恐ろしく雷鳴りひらめき、清涼殿に落ちかかりぬと見えけるが、本院の大臣、太刀を抜きさけて、
「生きてもわが次にこそものし給ひしか。今日、神となり給へりとも、この世には、我にところ置き給ふべし。いかでか、さらではあるべきぞ。」とにらみやりてのたまひける。
一度はしづまらせ給へりけりとぞ、世の人申し侍りし。されど、それは、かの大臣のいみじうおはするにはあらず、王威の限りなくおはしますによりて、理非を示させ給へるなり。


道真は「神」になったという。雷が鳴り響き清涼殿に落ちかかる。それに時平が反応してあなたは生きてるときも自分の次ではないか、としかりつける。神になったと言っても、わたしに敬意を払い給え、と。

いったい「神」とはなんであろうか。死んで神になるということはいかなることか。こうの史代氏の『ぼおるぺん古事記』は異様な傑作で、これをよむと、普通の人は読み飛ばしてしまう様々なる神々の生成が、必ずしも死の次の段階ではなく、我々が生まれるのと同様の事態として描かれているのがわかる。死と関係づけられたのは、例のイザナミとイザナギの件においてである。しかし、それにしたって、イザナミは死?にながら様々な神を生み出しつつ、黄泉の国に移動しただけでべつに消滅したわけではない。すべては増え続けている。

それにしても、『ぼおるぺん古事記』のイザナギがイザナミの腐乱する姿を見る場面がすごかった。八つの雷神を生成させながらウジにみまれ、寝ころびながらセンベイをほおばり足でテレビのつまみを操作するイザナミ。テレビには、「スクープ まさかの復縁か!!!?」と。

イザナミはまったく死んでない。こうの氏のマンガには明らかに死の影がちらついているのであるが、それでも嫌な感じがない理由が分かった。氏は死を生と見ていたのである。

さるは、大和魂などは、いみじくおはしましたるものを

2023-12-26 23:16:20 | 文学


あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御末はおはせぬなり。さるは、大和魂などは、いみじくおはしましたるものを。延喜の、世間の作法したためさせ給ひしかど、過差をばえしづめさせ給はざりしに、この殿、制を破りたる御装束の、ことのほかにめでたきをして、内裏に参り給ひて、殿上に候はせ給ふを、帝、小蔀より御覧じて、御けしきいとあしくならせ給ひて、職事を召して、
「世間の過差の制きびしきころ、左大臣の、一の人といひながら、美麗ことのほかにて参れる、便なきことなり。はやくまかり出づべきよし仰せよ。」
と仰せられければ、承る職事は、いかなることにかと恐れ思ひけれど、参りて、わななくわななく、しかしかと申しければ、いみじく驚き、かしこまり承りて、御随身の御先駆参るも制し給ひて、急ぎまかり出で給へば、御前どもあやしと思ひけり。
さて、本院の御門一月ばかり鎖させて、御簾の外にも出で給はず、人などの参るにも、
「勘当の重ければ。」
とて、会はせ給はざりしにこそ、世の過差は平らぎたりしか。
うちうちによく承りしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝と御心合はせさせ給へりけるとぞ。


年末ということで雑なこというと、――芸術は感情の表出じゃなくて感情の発見である。ただし作者としてはそういうつもりではないことも多く、批評家や学者が間違えるのはそういうところである。しかしこれは作者の意図より複雑なものを実現してしまうということを意味しているのではない。その意味で言うと、わたしが素人だから分からないのかも知れないが、――上の大鏡の場面なんか、帝と時平が示し合わせて、華美な衣装などを下々に戒めるように一芝居打ったみたいな面白さのほかに、感情の発見があるかというとそうでもないように思う。悪事(道真追放)の一方でこんな事も出来ましたみたいな、人間の行為をプラス面とマイナス面で秤にかけるような幼稚な忖度的な心情があるだけではないか。この話者は天下を取っている権力者に対決しておらず、たぶん自らの無力さを権力者への評価で埋め合わせている。そんなからくりを含んだ感情が「大和魂」と呼ばれていることが面白いと言えばそうではある。

メリークリスマス2023

2023-12-25 23:11:24 | 日記


1、お前の鼻が役に立つのさ、というてる爺は産学協同のスパイかも殲滅せよ。

2、研究データを供出せよみたいな議題がこの前教授会であったが、この前おれが殴り書きした「漱石のウンコタレ」みたいなメモならどうぞ。

3、ケーキが崩れて届いたとか、それも食べれば形崩れるから早く食せよ。

4、クリスマス刑期くらい自分で作れ、俺もつくってねえが。いちごの旬はまだだろが。

懺悔2023-1

2023-12-24 23:08:50 | 大学


今年の懺悔1:ミッキーとアトムの類似性を黒板に絵を描いて説明しようとして、目つきの悪いただのねずみと脳天がぱっくり割れた人間もどきを書いて受講生を怯えさせたことをお詫び申し上げます。


怨霊帰郷

2023-12-23 19:53:49 | 文学


内裏焼けて度々造らせ給ふに、円融院の御時のことなり、工ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋かきてまかり出でつつ、またの朝に参りて見るに、昨日の裏板に物のすすけて見ゆる所のありければ、梯に上りて見るに、夜のうちに、虫の食めるなりけり。その文字は、
 つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、このおとど、筑紫に御座しまして、延喜三年癸亥二月二十五日に失せ給ひしぞかし。御年五十九にて。


有名な道真の怨霊帰郷の場面である。血が浮き出たとか夢に出たなんかではなく、虫が食った後が和歌だというのがいい。この怨霊が、精霊のように我々のいる空間に満ちている感じがすごい。我々の世界は恨みではち切れんばかりだ。ネットなんかがなくても、昔の人だって気付くのだ。

細部を聞き取る能力は長い文脈をとらえる能力と大概裏腹だ。他人の話をきけなくなった人間に、短く分かりやすく話しても大体だめである。もう短い伝達事項も正確に伝わらない。我々が、言葉を聞くというのは、精霊が満ちた空間を聞くことに他ならない。

ところで、独歩の「初恋」に出てくる在野の漢学者みたいな人たちはいまや文化的基盤があった証拠みたいに捉えられることもあると思うけど、むろんある種のナショナリズムのエンジンにもなっていたような気がする。それを含んで評価されるべきだと思うんだが、それは漢学者たちに菅原道真の怨霊がとりついていたためでもある。そして、もともと道真も漢学と和歌が魂の中で割れているところからでてきた怨霊の化身なのであろう。

教職志望の学生がよく、苦手だった教科をわかりやすく教えてくれた先生の存在を志望動機にしている。嘘かも知れないが、本当だとすると、その人はまだその教科が苦手である可能性があり、もしかするとその分かりやすく教えたという先生も苦手である可能性があるとおもう。そういう教育だか支援だかもそれで意味がある場合もあるに決まっているが、――わかりやすさというのはどこかしら嘘を含んでいるのみならず、そもそも学問の面白さとかいうけれども、学問は「面白い」とは限らない。面白いな、という言葉はあまりに表現として社交辞令過ぎる。実際、文系の学問なんか、先人の恨みを木に彫りつける虫の役目を果たしているのであって、それ自体は別に面白くも何ともない。他人の頑張りなんかを気にして生きること自体が不健康であり、ときどき憑依されて恨むことそれ自体が趣味になっているひともいるが、職業的に慣れただけだ。

もしかしたら、20代のときのように、酒臭い大衆食堂でカレーを食べながら、論文を読んだり漫画を読んだりソ連が崩壊したぞわーいとか隣のお爺さんと談笑なんかすれば、20代に戻れるかも知れない。わたしだけが老いるわけがない。環境にあわせて若返るはずだ。――むろん、そうはならないから文学も存在するのである。道真は「大鏡」のために存在したのである。

学問の神様と二項対立的体力衰弱問題

2023-12-22 17:19:24 | 文学


このおとど、子どもあまたおはせしに、女君達はむこどり、男君達はみな、ほどほどにつけて位どもおはせしを、それもみなかたがたに流され給ひて悲しきに、おさなくおはしける男君、女君達したひ泣きておはしければ、「ちひさきはあへなん」と、おほやけも許させ給ひしぞかし。帝の御おきてきはめてあやにくにおはしませば、この御子どもを同じ方につかはさざりけり。方々に、いと悲しくおぼしめして、御前の梅花を御覧じて、
 こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
また、亭子の帝に聞こえさせ給ふ、
 流れゆくわれは水屑となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ


道真にはたくさん子供がいた。バッハも子供が多かった。学者が痩せてて咳しているイメージはどこから来たものであろう。大学に住んでいても、学者達はどちらかというと欲望が溢れる屈強なタイプが多い。そうでないと体力を使う作業をやりきれない。かつて希代の天才としての浅田彰が出てきたときに、彼はやせぎすなメガネ君にみえるが、すごく欲望の強く出ている顔をしていると誰か言っていた気がする。そりゃそうである。「逃走論」の最後あたりで、逃走(闘争)する人間は異種交配も辞さずとか出てくる。

『構造の力』がどうしても本棚からみつからないので、最近出た文庫をつい買ってしまったわけだが、結局、届いた日に本棚の奧から出現するという、以前蓮實重彦の何かの本と同様の現象が生起したので、文庫の方は大学の研究室に飾っておこうそうしよう。

浅田彰の本の影響というものが、どれだけあるのかわからんが、氏のしゃべり方とか文体を似せた奴は確かに存在していた。で、とにかく、「軽やかになんちゃらした」みたいなこと言っているやつは当時も今も軽やかに大嫌いである。

少し大きい活字で文庫になった『構造の力』は、少し安っぽくなった。この活字の大きさについては、ネット上でたくさんの人が報告していた。決してわたくしの老眼鏡のせいではなかったのだ。で、活字に比して相変わらずの大きさで余白に押し込められたクラインの壺の絵をみてて思ったが、――浅田彰の本は受験参考書というより活動家の演説に近い。演説は、二つの袋を持ってきて、こちらはこっち、こっちはこちらという感じで文脈をつくるものだ。世界情勢の代わりに世界思想情勢を文脈化する、世界を小説を読むように扱うカリスマがやる仕事だ。本当にそうなっているかは知らない。クラインの壺が袋に似てたので、そう思っただけである。

むろん、浅田の脳裏には、逃げずに自滅した連合赤軍の姿があったに違いなく、多くの人が抱いた革命軍に対する感情に依拠していたところがある。しかし実際に、どうすれば逃げることが出来るのか。浅田氏がこの問に答えることがないのは、氏も周囲も理解していたように思われる。柄谷行人なんかも、彼の書き方は「ものすごくレベルの低い人に向か」うものだと言っていた。つまり、二項対立に依拠するスローガンを行為と錯覚してしまう人たちに対する書き方といったところであろうか。結局、浅田の読者達は、せいぜい面従腹背を行うアカデミシャンたらざるをえない。浅田の本心(というより動機)はそういう者への反抗にあったに違いないが、にもかかわらず。『構造と力』の冒頭は、「《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み――千の否のあと大学の可能性を問う」という序であって、それははじめから「大学の可能性」に着地する準備を読者に与えていた。しらけつつのり、のりながらしらける、のは、結局はしらけたふりをしながら大学に乗ることを合理化する理屈に墜落したのかもしれなかった。実際、そういう人間をわれわれは多く目撃してきたではないか。

かくして、――戦争責任論にあった、そもそも文学者や学者に面従腹背なんか本質的に可能なのか、という観点が忘却され、賢しらに戦略だとか言っていたひとが結局どうなったか。

時間を減らしても労働のしんどさが本質的に軽減されるとは限らないことなんか小学生でも知っている。1時間目からどんだけの児童の目が死んでるとおもってるのだ。教育を支援に言い換えても本質的な不自由さが変わらないので関係ない。教師から児童に主体を移動させても不自由なのは変わらないのは当然である。問題は、教育がなにかの奴隷になったことだ。それに堪えうるような人材を中心にしか集まらなくなるんだから当たり前である。しかし、子供はむかしと同じく全員である。もう現状はかなり異常で、教育界に元々あった権威主義が国家や何やらへの依存体質にまで変容してしまった気がする。教員の個性の消失は、大学にも及んでいる。国家の放つスローガンに是々非々みたいな判断をしようとか考える貧弱な知的感覚を身につけている教育界に、面従腹背なんか実際は無理だ。

軽やかな知的横滑り(これは、結局二項対立の時間的連続となる)ではなく、古典的な訓練による知的愉悦が必要だ。教員は授業がおもしろい、というか知的な勉強そのものが好きではないとその唯一自由がきく楽しい時間がコミュニケーションの苦行になり、活動全部が地獄になる。勉強よりもコミュニケーション力が大事とか言っているから全部がコミュニケーションの地獄になったのだ。単なる労働環境の問題ではない。教職志望者のよくある大きな勘違いのひとつに、小学生相手ならこちらの方が学力も上なので大丈夫というのがある。上にもいろいろあるし、実際「上」なのかあやしい学生はかなり多い。人間性が問題というなら尚更だ。もっと上であるのは難しくなるわけだ。――すなわち、実際は、大学における落ちこぼれ問題みたいなものをもっとクローズアップする必要があるのである。これをきちんとやっておかないから、大学卒が大学の教育云々を言いたがるし、学生の知的体力(上で述べたように、ほぼ普通の意味での「体力」のことである)がおちてしまうのである。

高松ネオン2――極寒篇

2023-12-21 17:18:16 | 日記


高松のくせに雪が舞い、昼間も3度ぐらいまでしか上がらなかったと思う。故にわしの脳みそはくだらないパロディしか思いつかない。

昔から「政治と金」の問題とか言われているものは、すぐ政治には金が要るみたいな糞壺に結論が墜落するのがつねであって、むしろ、「お前らのやってることはある種の民との金の戯れであり政治ではないんじゃないカネ?」問題と言うべきである。

若者達は、こんなに寒いのに踊りの練習とかを外でやっていた。元気すぎてどこかおかしいのであろう。青春ですね。

寒いのでわたくしはライトノベルばりのおふざけも低レベルにしかできない、せいぜい「『わし等の高松がこんなに寒いわけがない。』ただいまこの商品は扱っておりません」としか。

暗い青春

2023-12-20 23:59:57 | 文学


 まつたく暗い家だつた。いつも陽当りがいゝくせに。どうして、あんなに暗かつたのだらう。
 それは芥川龍之介の家であつた。私があの家へ行くやうになつたのは、あるじの自殺後二三年すぎてゐたが、あるじの苦悶がまだしみついてゐるやうに暗かつた。私はいつもその暗さを呪ひ、死を蔑み、そして、あるじを憎んでゐた。
 私は生きてゐる芥川龍之介は知らなかつた。私がこの家を訪れたのは、同人雑誌をだしたとき、同人の一人に芥川の甥の葛巻義敏がゐて、彼と私が編輯をやり、芥川家を編輯室にしてゐたからであつた。葛巻は芥川家に寄宿し、芥川全集の出版など、もつぱら彼が芥川家を代表してやつてゐたのである。
 葛巻の部屋は二階の八畳だ。陽当りの良い部屋で、私は今でも、この部屋の陽射しばかりを記憶して、それはまるで、この家では、雨の日も、曇つた日もなかつたやうに、光の中の家の姿を思ひだす。そのくせ、どうして、かう暗い家なのだらう。


――坂口安吾「暗い青春」


上は、坂口安吾の文章の中でも出色のエッセイであるが、――芥川龍之介と坂口安吾は自分の核を暗い家とか山房みたいな空間として把握するところが、案外にていると思う。ただし、文学的履歴は逆方向を向いている。一方、三島と太宰は、似たもの同士なんだとか、三島の側から文学的な違いを云々することもあるんだが、ほんとはもっと表面的かつ根本的な違い、例えば戦時下と戦後とかいった違いを考えさせるものもありそうだ。最近の学生の人間失格の読解は、もしこれが戦時下に読まれていたらどうだったかみたいな思考実験に誘うところがある。太宰も三島も時代への恨みが自分の核だった。

音楽の王国

2023-12-18 23:21:03 | 音楽


16日は楽聖の誕生日である。ベートーベンは、わたくしの中学までの「尊敬する人第一位」だったのだ。なぜかというと、ロマンロランの伝記とジャンクリストフ読んだし、フルトヴェングラーの演奏が狂ってるから、というベタベタな理由である。田舎者でよかったぜ。下手に都会に生まれていたら、YMOとかにはまり込んで村上龍とかを読んでいたかもしれない。

なぜ私は作曲するか?――〔私は名声のために作曲しようとは考えなかった〕私が心の中に持っているものが外へ出なければならないのだ。私が作曲するのはそのためである。
[…]「霊」が私に語りかけて、それが私に口授しているときに、愚にもつかぬヴァイオリンのことを私が考えるなぞと君は思っているのですか?
[…]私のいつもの作曲の仕方によると、たとえ器楽のための作曲のときでも、常に全体を眼前に据えつけて作曲する。ピアノを用いないで作曲することが大切であります……人が望みまた感じていることがらを表現し得る能力は――こんな表現の要求は高貴な天性の人々の本質的な要求なのですが――少しずつ成長するものです。
 描写 die Beschreibung eines Bildes は絵画に属することである。この点では詩作さえも、音楽に比べていっそうしあわせだといえるであろう。詩の領域は描写という点では音楽の領域ほどに制約せられていない。その代わり音楽は他のさまざまな領土の中までも入り込んで遠く拡がっている。人は音楽の王国へ容易には到達できない。


――「ベートーヴェンの思想断片」(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、ロマン・ロラン、片山敏彦訳)


我々は全体を考えずにキーボード(鍵盤、つまり上の「ピアノ」)をたたいてしまうので、結局彼の言う「音楽の王国」に到達できないことが多い。X(ついったー)や掲示板で我々は、ヴァイオリンやピアノを漫然と弾いているに過ぎず、全体としての心を表に出すことがない。さすが、楽聖である。我々の陥っている現象をもうすでに見切っていた。

例えば、やっぱり、勇気のだしようがないおおくの人間に、「構造が悪い」とか「人間より仕組みの改善」みたいな浅知恵をさずけるべきではなかったのではないか。全体が見えない上に、目の前の矛盾におびえてしまう我々は、上のような台詞は、あたかも全体構造が見えたかのような錯覚をうんでしまう上に、目の前にあるものが部分だということで矛盾に対する勇気を流産させるいいわけを作ってしまうからである。

もっとも、ロマンロランのつくったベートーベン像はわたしみたいな文弱に勇気を与えた一方で、なにか理想主義的な勘違いも生んでいたようで、最近はいろいろな研究があるようである。ベートーベンのウィキペディアみると、すごく金に関する記載がおおい。彼の生涯は金との戦いであった。また、最近の研究では、やつは案外プレイボーイだったみたいなものがある。まったく、モテない芸術家の夢を粉砕しおって。というか、考えてみたら、やつの曲ならモテるわな。。。

わたくしとしては、人を自由にする音楽とそうではないものがあると思う。むろん、ジャンルにこだわらないみたいな態度が自由をもたらすとは限らない。大事なのな「音楽の王国」であって、音楽ではない。

付記)同僚がいいこと言ってて、――最近のいまいちな文章は箇条書きとおなじ価値しかないと。文章にして生じる意味がほとんどない。論文にも言えることであるが、これは深刻で、キーワードとかパーツに実際に分割できてしまうものもある。本質的な意味で論理がないと言えるかも知れず、論理国語をつかった授業なんかもたぶんそうなる。

雲の山

2023-12-17 23:47:32 | 日記


 このごろは、日没前になると、きまって大空に、雲がわくのでした。ときどき、雷が鳴って、雨がふりそうに見えながら、夜は、また、一片の雲すらなく、晴れ晴れと晴れ上がるような、日でりがつづきました。
 そんなときは、足ばやに、秋のくるけはいが感じられたのです。勇吉は、毎日、庭のやまゆりの花へきて、その茎にとまる、とんぼのあるのを知っていました。


――小川未明「雲のわくころ」