六五。田有禽、利執言。无咎。長子師師。弟子輿尸。貞凶。
上六。大君有命。開国承家。小人勿用。
師とは軍隊である。軍隊にとって、動物の動きは独特な意味を持っている気がする。「西部戦線異状なし」の最後に蝶に手を伸ばそうとして狙撃される兵士のことを思い出す。田に侵入した獣を捕まえるとよい。たぶん田を荒らすことは食料に怯える軍隊にとって厭な感じがするからでもあろうが、そもそも自分たちが獣のように田を荒らさざるを得ない。兵士の肉体は獣である、――生死を自由にするしかない意味で自由でも、動物たちの動きと似て生死によって左右される意味で完全に不自由である。
スポーツもそれに似て、お互いを獣として模倣している。相手を乗り越えるために模倣してしまう。王、長嶋、落合、清原、イチロー、大谷とならべてみると、その業界内の物まね(芸人や一般人じゃなくて特に野球選手のOBたち)でネタになっているのは長嶋落合清原であろうか。他の人はなんか怒られそうな気がするのかなんなのか。そして、長嶋落合だけが声色までも真似される。たぶん、アスリート化した選手は、言語と肉体に分割された世界を生きるので、模倣とは違うのだ。元プロ野球選手の物まね能力というのは独特なうまさがある。研究者や物書きでも物まねがうまいひとがいるが、それほどでもない。ものを書く人は、リアリズムでも目指さないかぎり、アスリート化している。
映画や演劇は、特に後者は模倣を中心とした芸術だが、前者も同じスタイルのくり返しが過ぎてくると、自然に関聯ありそうな物事が引き寄せられてくる。今回の朝ドラの功績は、わが讃岐うどん県にとっては、保井コノの存在を浮上させたことであると思う。女性初の博士、おなじ植物学で、たしかかなり年下の妹に世話をしてもらいながら、独力研究に挑んだ。夫婦愛にそぐわない人なので朝ドラにならんのだろうが、重要だ。こういうタイプの人が注目されることで、まったく同じに見えない当時の女性にまで我々の視線は到達する。