わびしげに見ゆるもの 六、七月の午、未の時ばかりに、穢げなる車に、えせ牛かけてゆるがし行く者。雨降らぬ日、張筵したる車。いと寒きをり、暑きほどなどに、下衆女のなりあしきが、子負ひたる。老ひたる乞食。小さき板屋の黒うきたなげなるが、雨に濡れたる。また、雨いたう降りたるに、小さき馬に乗りて御前したる人。冬はされどよし。夏は袍、下襲も、一つにあひたり。
太宰なら
路を歩けば、曰く、「惚れざるはなし。」みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字がない有様。誰でも、よい。あなたとならば、いつでも死にます。ああ、この、だらしない恋情の氾濫。いったい、私は、何者だ。「センチメンタリスト。」おかしくもない。
――「思案の敗北」
わびしいという言葉はわびしいとしか言いようがないんだが、清少納言が上のような記述をしているのにわたくしは共感する。これは雨に濡れたことのある人間の記述である。「舞姫」だかも確か、エリスを捨てた豊太郎が罪悪感で雨に濡れておかしくなってしまう場面があった。いや、あれは雪だったか……。罪悪感のさなかでも考えること、これこそが我々にわびしさを教える。もっとも、考えすぎると、太宰のように、「みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字がない有様」になる。太宰は、こういうふわふわした気分といつも戦っていたのだが、これも罪悪感のなかで考えたことのある人間だからこそだ。
ワイルドの「獄中記」のように書けないことが、我々を苦しめる。ワイルドは確か、最初の方で「苦難は廻転する」みたいなことを書いているのだが、これは非常に鋭い。いつも夕暮れのような心情が続く、とも言っていたと思うが、夕暮れが廻転するような時間――これを体験するかどうかが、我々の一生を決める。
そういえば、「スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」というのを観てきたが、この作品も、二つの太陽が沈むシーンから始まり終わる話であった。ただし、この作品は娯楽ということもあって、罪が行われるとすぐその人物が消えたり、ダークサイドに落っこちたりするもんだから、それからの復活も意志とみんなのフォースで何とかなるみたいな話になっている。フォースはみんなの力で、ダークサイドは取り除かれ得る原因みたいな構図だ。この構図では、結構人生忙しくなるのではないかと思う。ワイルドを読んでいると、悲哀も一種の治療だなという感じがする。映画の中で、最初の主人公のルーク・スカイウォーカーは孤島に長い間隠遁していたことになっていて、長い間何をやっておるんだという感じであるが、この時間が必要だったのである。考えてみると、この映画、もう40年ぐらいやってるわけで、そして――この時間が、この映画をして、悪と民主制の関係って何だろうみたいなことを大衆娯楽として思考させたのであった。それを除いて「フォースとともにあれ」では、単なるオカルトである。だから「絆」と「エビデンス」しか言わないやつは馬鹿野郎だというのだ。