★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「わびしげに見ゆるもの」今昔物語

2020-01-31 22:03:53 | 文学


わびしげに見ゆるもの 六、七月の午、未の時ばかりに、穢げなる車に、えせ牛かけてゆるがし行く者。雨降らぬ日、張筵したる車。いと寒きをり、暑きほどなどに、下衆女のなりあしきが、子負ひたる。老ひたる乞食。小さき板屋の黒うきたなげなるが、雨に濡れたる。また、雨いたう降りたるに、小さき馬に乗りて御前したる人。冬はされどよし。夏は袍、下襲も、一つにあひたり。


太宰なら

路を歩けば、曰く、「惚れざるはなし。」みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字がない有様。誰でも、よい。あなたとならば、いつでも死にます。ああ、この、だらしない恋情の氾濫。いったい、私は、何者だ。「センチメンタリスト。」おかしくもない。

――「思案の敗北」


わびしいという言葉はわびしいとしか言いようがないんだが、清少納言が上のような記述をしているのにわたくしは共感する。これは雨に濡れたことのある人間の記述である。「舞姫」だかも確か、エリスを捨てた豊太郎が罪悪感で雨に濡れておかしくなってしまう場面があった。いや、あれは雪だったか……。罪悪感のさなかでも考えること、これこそが我々にわびしさを教える。もっとも、考えすぎると、太宰のように、「みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字がない有様」になる。太宰は、こういうふわふわした気分といつも戦っていたのだが、これも罪悪感のなかで考えたことのある人間だからこそだ。

ワイルドの「獄中記」のように書けないことが、我々を苦しめる。ワイルドは確か、最初の方で「苦難は廻転する」みたいなことを書いているのだが、これは非常に鋭い。いつも夕暮れのような心情が続く、とも言っていたと思うが、夕暮れが廻転するような時間――これを体験するかどうかが、我々の一生を決める。

そういえば、「スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」というのを観てきたが、この作品も、二つの太陽が沈むシーンから始まり終わる話であった。ただし、この作品は娯楽ということもあって、罪が行われるとすぐその人物が消えたり、ダークサイドに落っこちたりするもんだから、それからの復活も意志とみんなのフォースで何とかなるみたいな話になっている。フォースはみんなの力で、ダークサイドは取り除かれ得る原因みたいな構図だ。この構図では、結構人生忙しくなるのではないかと思う。ワイルドを読んでいると、悲哀も一種の治療だなという感じがする。映画の中で、最初の主人公のルーク・スカイウォーカーは孤島に長い間隠遁していたことになっていて、長い間何をやっておるんだという感じであるが、この時間が必要だったのである。考えてみると、この映画、もう40年ぐらいやってるわけで、そして――この時間が、この映画をして、悪と民主制の関係って何だろうみたいなことを大衆娯楽として思考させたのであった。それを除いて「フォースとともにあれ」では、単なるオカルトである。だから「絆」と「エビデンス」しか言わないやつは馬鹿野郎だというのだ。

わざと尋ね呼びありくは

2020-01-30 23:59:57 | 文学


かやうにて、寺にも籠り、すべて例ならぬ所に、ただ使ふ人の限りしてあるこそ、甲斐なう覚ゆれ。なほ同じほどにて、一つ心に、をかしき事もにくきこともさまざまに言ひ合はせつべき人、かならず一人二人、あまたも誘はまほし。そのある人の中にも、口をしからぬもあれども、目馴れたるなるべし。男なども、さ思ふにこそあらめ。わざと尋ね呼びありくは。

正直申し上げて、神社は境内でのんびりしたいとは思わない。神が祀られているところが妙に仰々しくて近づき難いからである。むろん、そこに抽象的な形の紙とか何かとか、――何もない感じが恐ろしい。これに比べると、お寺は、仏像が楽しい。わたくしは「ごんぎつね」よりも一〇〇倍「かさこじぞう」が好きである。喋る動物は信用できないが、地蔵が動き出すのは信用できる。

『源氏物語』も『枕草子』も仏教なしには考えられぬ。源氏の守護神の住吉神社というのが不気味であるが――、たぶん当時も既に神社の方は何かよくわかんないものになっていたに違いないのだ。それは基本自然崇拝で、海も太陽も不安定で何が起こるか分からない。仏教の移入とはおそらく暴力的なものだったのであろうが、どうも、われわれの風土には、神道みたいなもんと何かを習合しなければならない事情がずっと存在しているような気がし、天皇が仏教徒だったのは必然だった気もするのである。平成の天皇にはどこかしら宗教的オーラがあったが、それは神道じゃなくてヒューマニズムのそれであり、――しかしそれでこそ彼らの行動としっくり来ていたところがあった気がする。ローマ皇帝がキリスト教を信仰したのと同じ事情がわれわれにもないであろうか。神格化というものには常に二重の神格が重なっているものだ。

以上は完全な妄想であるが、――それはともかくお寺は近代でもいろいろな舞台となった。

山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の悪寒を催した。

――漱石「門」


そういえば、わたくしは寺に一人で行ったことはほとんどない。確かにちょっとお寺は入るときに怖い。神社が入るのは簡単なのと好対照である。清少納言が「みんなで誘って楽しい寺参りっ」と言って居るのもそういう気持ちが一方であるのかもしれぬ。出家だって、「みんな出家するんだもん」というのが理由だろう。浄土思想だけでそんな簡単に行動を起こせるとは信じられぬ。

おのづからさるまじくあだなるさまにも

2020-01-29 23:31:41 | 文学


先日山本淳子氏の『枕草子のたくらみ』を読みとても面白かった。大学一年生の頃、古典の担当の先生に「女房たちは政治的な関係のど真ん中にいたはずなのに、恋愛に集中できるんでしょうか」みたいなことを聞いたことがあるが、そのとき先生は「うーん」と言ったままであったが、わたくしは結局、女房の生き方を勝手に馬鹿にしていたに過ぎない。「あはあはしうわるき事に言ひ思ひたる男」の一人であったのである。もっとも、この労働にも似た「をかし」の世界には楽しい無理みたいなものがかかっている気がしていた。山本氏の推理はああ確かにという感じがした。『源氏物語』がなんとなく霧の中の物語という感じがするに対し、『枕草子』の方は大げさなのにリアルである。紫式部は日記の中で

かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。

と非常に鋭い事を言っている。清少納言の「人と異なろうとしている」あり方をきちんと見ていて、そういう人は、やたら「あはれ」「をかし」に拘っているうちに、現実離れを起こしてしまうのだと。これは一般論としても正しい。5ちゃんねるの行く末をみるがよい。ただし、これは、道長たちに殺されたも同然の定子を燦然と輝かす事――意図的な政治的なたくらみとしての現実離れであった、というのが山本氏の見解である。わたくしは労働令和の時代の人なので、これを苦しい労働だったと受け取っていたのだが――。そのたくらみを、あくまで定子個人に向けているところが重要だとわたくしは思う。

絵にかきおとりする物、なでしこ、さうぶ、さくら。物がたりにめでたしといひたるおとこ女のかたち。


こういうことを言う清少納言が確かに文章の真実にいい加減な態度をとるはずないな……。

「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔し以太利の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」と主人は無暗に感心している。金縁の裏には嘲けるような笑が見えた。


漱石だって、こんな調子で絵の世界をちょっとからかっている。ちょっと本当に底意地が悪い気がするのが漱石で、虚勢をはっている気がする。近代の文章家は、人に向かっているようでいて、よくわからん「大衆」にむけて始めから書くから、こういう拡声器みたいな大げさなかんじになってしまうのであろう。

ことにきこゆる――西と東

2020-01-28 23:09:19 | 文学


つねよりことにきこゆるもの、正月の車のをと、又鳥の声、あかつきのしはぶき、物のねはさらなり。


暁の咳払い、暁の音楽は言うまでもなし。なぜ、普段より特別な感じに聞こえるものが、こんなものなのか?

男女の逢瀬にかかわるものであろうと注釈には書いてあったりするのであるが、――コンサートが好きなわたくしは、演奏の始まる前の咳払いと音の始まりをついイメージしてしまう。咳払いと音楽は一続きであり、この前の正月の車の音とニワトリの声も同じような関係ではなかろうか。ニワトリの声は音楽ではないかもしれないが、メシアンが好きなわたくしなんかにとっては鳥の声だって十分音楽だ。

それにしても、中原中也の「音楽と世態」というのはちょっと何言ってるかわからんな……と今でも思うんだが、――果たしてそうか。

何しろ近頃の世の中は、――尠くとも知識階級は、まるで肚が坐つてゐない。何のことはない妄想家流であつて、ジャズだつてオネガだつてアッターベルヒだつてラヴェルだつてシトラウスだつてマーラーだつて、妄想家流――といつて妥当でなければ幻想家流である。彼等は、自分が自分の主人たり得てはゐない。神経的、或は潔癖精神的に幻想のげにも脆い臍の緒を掴へることによつて、心境の一断想を歌ふばかりである。それを聴いて感じられるものは、はや気分でさへない、云つてみれば気分の暈縁くらゐな所かもしれない。


これはこれで乱暴な感想ではあるのだが、確かに、彼は確かに西の問題と東の問題を混同したりはしていないのだ。本当はいまでもそういう問題はあって、我々がそれを忘れているだけなんだと思う。

今日の演習で、フランク・ボーゼイギの『第七天国』などを扱った評論を考えたのだが、第七天国と聞いてperfume の曲を思い浮かべる人はまだいい方で、――そうでない人が多い以上、音楽でなくても、我々にとって「気分の暈縁」であるものは多いのである。我々の国民教育みたいなものに意味があるとすれば、そのことを自覚するところにある。ただ、古典を読んだり体操をしてりゃいいというものでもないのは当たり前だ。

池川玲子氏の『ヌードと愛国』を読んでいたら、石岡瑛子の「西洋は東洋を着こなせるか」のポスター(1979)についての分析があった。これはわたくしもなんとなく記憶があるが、よくわかんないけれども、これは何か違うんじゃないかと思ったのを覚えている。我々にはもっと思想があるんじゃないかとわたくしは考えているのである。

生ける甲斐なさよ

2020-01-26 16:28:54 | 文学


見ぐるしきもの 衣の背縫ひ、かた寄せて着たる。また、のけ頸したる。例ならぬ人の前に子負ひて出で来たる。法師陰陽師の、紙冠して、祓へしたる。


別にいいじゃねえかっ

色黒うにくげなる女の鬘したると、髭がちに、かじけ、やせやせなる男と、夏、昼寝したるこそ、いと見ぐるしけれ。何の見る甲斐にて、さて臥いたるならむ。夜などは、容貌も見えず、また、皆おしなべてさることとなりにたれば、我はにくげなりとて、起きゐるべきにもあらずかし。さてつとめては、とく起きぬる、いと目やすしかし。

一応口語訳しておくと、「色黒で醜い女でかずらをした女が、髭ずらでやつれ痩せこけた男と、夏、昼寝をしているのは、極めて見苦しい。どんな見る意味があって、そんな風に昼寝などしているのだ?夜などは顔も見えねえし、また世間一般的に寝ることになっているのであるからして、自分がつまんねえ顔かたちだからといって、起きているはずのものではねえんだよ。早朝から早く起きるのが、極めて見苦しくないというものだ。」といったかんじであろうか。

控えめに言って、ひでえ言いぐさである。しかし、ここで、ブスは死ね、みたいなことを言うと、若い頃のビートたけしみたいでろくなもんではないが、と思っていると、

夏、昼寝して起きたるは、よき人こそ、今すこしをかしかなれ、えせ容貌は、つやめき、寝腫れて、ようせずは頬ゆがみもしぬべし。かたみにうち見かはしたらむほどの、生ける甲斐なさよ。

「生きる甲斐なさ」……言ってた……。

清少納言は一体何様なんだ、お前こそ死ねっ、となるのが現代のネット民であるが、そんなことを言っても仕方ない。(どうも、清少納言にもネット民と同じくなんとなく下々に対する愛憎相半ばするところがあるような気がするね……親父に対するコンプレックスもあるしね……)だいたい我々は大概、見苦しい顔をしているわけであってそれを知らないヤツというのはそれはそれで問題なのである。わたくしは、教育学者?などがいう「自己肯定感の不足」というものを学生から感じないわけではないのだが、――確かに、下手すると、自分を「俺はいまいち」ぐらいに肯定している人間が多い。違う。お前はいまいちですらない、ほとんどぼろぞうきんに近い人間である。

こんな事を言うと、「ぼろぞうきんの美しさ」みたいなブルーハーツみたいなことを言うやつがでてくるのだが、ぼろぞうきんは特に美しくも何ともないのである。

わたくしが言いたいのは、自己を肯定するというのは、そういう性急な回復を期待しないことであると同時に、自己を肯定するか否定するかみたいなくだらない判断から逃避することである、ということだ。人生には意味があるが、生きることには特に意味がないとわたくしは思う。それに対するユーモアもアイロニーも手段に過ぎない。その意味のなさを認めることが必要で、そうでないとわれわれは物事に一生懸命になれないように出来ているのだ。

垣間見と覗き

2020-01-25 17:48:39 | 文学


御膳のをりになりて、御髮上まゐりて、蔵人ども、御まかなひの髮上げて、まゐらする程は、隔てたりつる御屏風も押しあけつれば、垣間見の人、隠れ蓑取られたる心地して、あかずわびしければ、御簾と几帳との中にて、柱のとよりぞ見奉る。衣の裾、裳などは、御簾の外に皆押し出だされたれば、殿、端の方より御覧じいだして、「あれは誰そや。かの御簾の間より見ゆるは」と、咎めさせたまふに、「少納言が、物ゆかしがりて侍るならむ」と申させ給へば、「あなはづかし。かれは古き得意を。いとにくさげなる娘ども持たりともこそ見侍れ」などのたまふ御けしき、いとしたり顔なり。


土田耕平に「のぞき眼鏡」という話があって、村町で「のぞき眼鏡」でみた異人の少女がその夜の夢に出てくる。

やつぱり昼間見たときのまゝ、小腰をかゞめて、花を摘まうとしてをります。
「あれ、まだあんなことをしてゐる。馬鹿だな。」
 太郎さんはいひました。女の子は、太郎さんの方をふりむいて、
「これ摘んでもかまはないの。」
と日本のことばでいひました。
「きまつてゐるぢやないか。」
 太郎さんがいひますと、女の子は嬉しさうにしてその白い花を摘みとりました。とあたりは急にうすぐらくなつて、深い霧の中につゝまれたやうにおもはれました。


覗き眼鏡のなかの人物たちは昼間は動かない。夢の中で動き出す。昔、怪獣特撮がすごく流行したが、これはみんなが5時にテレビにかじりついていたせいばかりではない。怪獣図鑑とか怪獣消しゴムのような動かない物が身近にあったことが重要である。この前、古本屋にあった「ウルトラ何とか図鑑」を覗いてみたら、テレビで動いている怪獣よりも非常に芸術的にシーンが切り取られていることがわかった。子どもは夢の中で一段上のレベルの芸術と出会っていたのであろう。

その点、清少納言の世界が非常に現実的な平面のなかで行われているのは注目すべきだと思う。垣間見しようとすると自分の衣装がはみ出てだれかに見られる。これが西田幾多郎ではないが「自己が自己の奥底を見る」(『一般者の自覚的体系』)みたいなキツイ状態を避ける一方で、如何に衣装を見せるかみたいな世界へ行きがちである。

土田の話は、上の夢の後があって、見世物小屋のあとに行ってみると

紙くづや蜜柑の皮がちらばつてゐるきりでした

というわけで、まさに「夢」を夢として押し上げているのであるが、いずれ、この紙くずや蜜柑の皮も夢の中にでてくるのである。(ちなみに土田耕平は不眠症に苦しんでいた。)――世界の全体とは何処にあるのか。かくして、この問に漂着する人間が、土田のようなタイプに多いのか、清少納言のようなタイプに多いのか。

植物のために

2020-01-24 23:55:42 | 文学
The Thing From Another World (1951) Official Trailer #1 - Howard Hawks Horror Movie


51年の「遊星よりの物体X」はいまみると、その物体Xは全然物体Xではなく、フラン★ンシュタインである。しかもなんと植物であるということにされている。もげた腕を蒔いて?血漿をくれてみたら釣鐘草みたいなものが生えてきたので、というわけである。ドラマでは、軍の隊長みたいな色男と、学者だか秘書の女性が惹かれあっていて、たしか女性が「ケモノみたい」と男性を言う場面がある。植物人間とコミュニケートしようとして殺される学者のリーダーに対して、最後、この二人の美男美女は結ばれている。明らかに、ケモノ派が植物派を殲滅した話なのであった。なんと、現場を目撃していたはずの新聞記者が、死者はなかったことにしているのだ。

56年あたりの「ボディ・スナッチャー」という映画でも、サヤエンドウみたいなものから人体をのっとった宇宙人が生まれてくる。犬はだめだ、植物の清潔さがなんちゃらと言っていたのは確かドゥルーズだったかどうだったか……忘れたが、太宰治も安部公房も植物としての人間を描いている。ゴジラやウルトラマンにも植物人間はいた。「ウルトラQ」には「マンモスフラワー」というすばらしい造形もありましたね……

考えてみると、それらが花鳥風月的なものとまったく関係ないとは言えないのだ。ケモノ趣味に対立するものは大概、植物派なのではなかろうか。「置かれた場所で咲きなさい」とか「世界でたった一つの花」とかいうのが花鳥風月の本体である。それはニーチェのいうキリスト教みたいなものではないだろうか。ルサンチマンの表現なのである。

中納言まゐり給ひて、御扇たてまつらせ給ふに、「隆家こそいみじき骨は得て侍れ。それを張らせて、まゐらせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじければ、もとめ侍るなり」と申し給ふ。「いかやうにかある」と問ひ聞こえさせ給へば、「すべていみじう侍り。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり』となん人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ」と、言たかくのたまへば、「さては、扇のにはあらで、海月のななり」と聞こゆれば、「これ隆家が言にしてむ」とて、笑ひ給ふ。かやうの事こそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つなおとしそ」と言へば、いかがはせん。

確かに、ユルい笑いで平和であるが、――海月の形状に黙ってしまう感性の方がわたくしは好きである。骨がない、ひいてはありえないものの喩えに使われる海月ではあるが、そんなこといったら虫も植物も骨はないではないかっ。植物だからエイリアンだ、みたいな発想も恐ろしいが、だからといって、対象をみることを忘れたら元も子もないような気がするのである。

こんなことを考えたのも、この前、ニコニコ動画で、むかしラジオでやっていた「フランケンシュタイン家の家庭読本」というラジオドラマを見つけたからであった。ここでもフランケンシュタインがつくったその人の形状についての描写は一切なかったが、――考えてみると、われわれの文化はしゃべり言葉に寄っていて、視覚をそもそも恐れているところがあるかもしれないと思われるのであった。花鳥風月にしても紫水黎明にしても、もはやほとんどその内実は視覚表現じゃねえからね……。

ホームドラマ

2020-01-24 02:24:19 | 文学


学生に、「ホームドラマ」の原案を書いてきましょう、という宿題を出したら、揃いも揃って、実家を出る手段の話であったのは驚いた。考えてみると、お年頃から考えてもそうなのであろうが、――家庭内での弁証法的解決はほとんど望まれておらず、居ても平穏離れても平穏みたいなものが望まれている模様である。

「でも、叔父さんなぞは御存ないでしょうが、宅でまだ川向に居ました時分――丁度私は一時郷里へ帰りました時――向島が私の留守へ訪ねて来て、遅いから泊めてくれと言ったそうです。後で私はそのことを先の老婆から聞きました。よく図々しくも、私の蒲団なぞに眠られたものだと思いましたよ。そればかりじゃありません、宅で向島親子を芝居に連れてく約束をして、のッぴきならぬ交際だから金を作れと言うじゃ有りませんか。私はそんな金を作るのはイヤですッて、そう断りました。すると、宅が癇癪を起して、いきなり私を……叔父さん、私は擲られた揚句に、自分の着物まで質に入れて……」
 豊世はもう語れなかった。瀟洒な襦袢の袖を出して、思わず流れて来る涙を拭った。
「叔父さん――真実に教えて下さいませんか――どうしたら男の方の気に入るんでしょうねえ」
 と復た豊世は力を入れて、真実男性の要求を聞こうとするように、キッと叔父を見た。


――島崎藤村「家」


こんな場面をみても、むかしの人は思ったことは口に出していたような気がするのであった。思ったことをあまり秘めていると、思い自体がなくなる。

糟粕と千の歌

2020-01-22 23:37:08 | 文学


「何か、この歌、すべて詠みはべらじ、となむ思ひはべるを、物のをりなど、人の読みはべらむにも、『詠め』など仰せらるれば、えさぶらふまじき心地なむしはべる。いといかがは、文字の数知らず、春は冬の歌、秋は梅の花の歌などを詠むやうははべらむ。されど、歌詠むといはれし末々は、少し人よりまさりて、『そのをりの歌は、これこそありけれ、さは言へど、それが子なれば』など言はればこそ、甲斐ある心地もし侍らめ。露とり分きたる方もなくて、さすがに歌がましう、我はと思へるさまに、最初に詠みいではべらむ、亡き人のためも、いとほしう侍る」と、まめやかに啓すれば、笑はせ給ひて、「さらば、ただ心にまかす。我は、詠めとも言はじ」とのたまはすれば、「いと心やすくなり侍りぬ。今は、歌のこと思ひかけじ」など言ひてあるころ、庚申せさせ給ふとて、内大臣殿、いみじう心まうけせさせ給へり。

清少納言は清原元輔の娘であった。有名な学者で歌よみでもあったので、娘は父の名を辱めるくらいならもう歌は詠みませぬ、と言って容易に歌を詠もうとしない。おまけに、「露とり分きたる方もなくて、さすがに歌がましう、我はと思へるさまに、最初に詠みいではべらむ……」と、「まったく大したことのないのにいかにも歌らしく、自分こそはというプライドを持っている風に、真っ先に読み出したりしては……」となにやら他人の悪口まで混じってしまうのだからすばらしい。

ただこれを真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事ならともかくも、二百年たつても三百年たつてもその糟粕を嘗めてをる不見識には驚き入候。何代集の彼ン代集のと申しても、皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。

――正岡子規「歌よみに与ふる書」


正岡子規の言っていることと、清少納言のいいわけを並べてみると、結局、歌の世界は人間の繋がりのことでもあり、その繋がりが絶たれなければ、新しい表現もありえなかったのだと思う。子規は、「糟粕の糟粕の糟粕の糟粕」とハンマーを何回も振り下ろしている。もっとも問題は、この「多」である。

「その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞ詠ままし。
つつむ事さぶらはずは、千の歌なりと、これよりなむ出でまうで来まし」と啓しつ。


清少納言 も父の名がなかったら千ぐらい軽く口からでてくると言って居る。糟粕よりもすごい数である。

しかのみならず――、彼らが至高の表現を目指していたとしても、人間の数は多く、結果的に、和歌は数えきれぬ程この国に溢れかえってしまうのであった。

XXXXXXXX遊星からの物体XXXXXXXX

2020-01-21 23:00:42 | 映画
『遊星からの物体X』オリジナル予告編


『遊星からの物体X』はすばらしい映画であった。原作は一九三十年代、初の映画化は五十一年だが、この映画を子どもの頃見てショックを受けたジョン・カーペンター監督の八十二年リメイク版がすごくて、仰天するシーンが連続する。ちぎれた人間の頭部から蜘蛛のような足が生えて歩くシーンはすばらしい。この頭部蜘蛛エイリアンがちょっぴり怯えて人目を避けてこそこそと歩いて行くシーンがユーモラスであり、ホラーというものが案外ユーモアと近接していることをわたくしに教えてくれたのである。そこにあるのはシュルレアリスムだと思う。考えてみると、なんとかの金曜日みたいな映画でも、だいたい若いカップルのベットシーンとかがある。ああ、これはユーモアではなかった。いや、ユーモアかもしれない。

『遊星からの物体Xファーストコンタクト』は、カーペンター版の前日譚である。これはひたすら怪物の恐ろしさで押してゆく感じの映画であった。(以下ネタバレ)だいたいカーペンター版のシーンをもじったような感じで進んでゆくのだが、その頭部蜘蛛エイリアンは、腕に触手がたくさん生えたかたちに変わっていて、それが人の口に貼り付くという、明らかに映画「エイリアン」の影響を受けたシーンになっていた。恐ろしい場面なのだが、ちょっと怖いというよりも不快な感じがした。あと、ラスボスエイリアンみたいなのを手榴弾で吹っ飛ばす場面がカーペンター版にもあるが、こっちにもある。しかし、それは、宇宙船の中での場面なのである。ここら辺の趣向は「Xファイル」みたいなテイストである。

巨大UFOを出しちゃおしまいよ……とわたくしは思った。つい、ウルトラマンなんかに出てくる「地球人を皆殺しにしてやる」とか甲高い声で会話している人型宇宙人の場面まで想像してしまったではないか。女性や黒人の扱いが重要な映画でもあって、いまどきの気の使いようであった。――要するに、観客をシュルレアリスムで感覚変革を図ろうとするよりも、観客に気を使っている映画といった方がよいと思った。

思い出さなければならないのは、カーペンター版が当時、罵詈雑言を浴びたということである。批判を恐れるようになったのも問題なのだ。

うつつの人の乗りたるとなむ、更に見えぬ。なほおりて見よ

2020-01-20 23:20:42 | 文学


卯の花のいみじう咲きたるを折りて、車の簾、かたはらなどにさしあまりて、おそひ、棟などに、長き枝を葺きたるやうにさしたれば、ただ卯の花の垣根を牛に懸けたるとぞ見ゆる。供なる男どもも、いみじう笑ひつつ、「ここまだし、ここまだし」と、さしあへり。
人もあはなむ、と思ふに、更にあやしき法師、下衆の言ふかひなきのみ、たまさかに見ゆるに、いとくちをしくて、近く来ぬれど、「いとかくてやまむやは。この車の有様を人に語らせてこそやまめ」とて、一条殿のほどにとどめて、「侍従殿やおはします。郭公の声聞きて、今なむ帰る」と言はせたる使、「『ただ今まゐる。しばし、あが君』となむのたまへる。さぶらひに間ひろげておはしつる、急ぎ立ちて、指貫たてまつりつ」と言ふ。
待つべきにもあらずとて、走らせて土御門ざまへやるに、いつの間にか装束きつらむ、帯は道のままに結ひて、「しばし、しばし」と追ひ来る供に、侍三四人ばかり、物もはかで走るめり。「とくやれ」と、いとど急がして土御門に行き着きぬるにぞ、喘ぎ惑ひておはして、この車のさまをいみじう笑ひたまふ。「うつつの人の乗りたるとなむ、更に見えぬ。なほおりて見よ」など笑ひたまへば、供に走りつる人どもも興じ笑ふ。「歌はいかが。それ聞かむ」とのたまへば、「今、御前に御覧ぜさせて後こそ」など言ふ程に、雨まことに降りぬ。


卯の花を牛車に飾ったのだが、法師や下々の者しか出会わない。侍従殿の家に声をかけておくと、お供とともにあえぎながら追いついてくるこの車においつき、「正気の人が乗っているとは思えませんねえ。降りてご覧なさい」というのだ。

 魔に襲われたような気分が二、三日つづいた。健三の頭にはその間の記憶というものが殆んどない位であった。正気に帰った時、彼は平気な顔をして天井を見た。それから枕元に坐っている細君を見た。そうして急にその細君の世話になったのだという事を思い出した。しかし彼は何にもいわずにまた顔を背けてしまった。それで細君の胸には夫の心持が少しも映らなかった。
「あなたどうなすったんです」
「風邪を引いたんだって、医者がいうじゃないか」
「そりゃ解ってます」
 会話はそれで途切れてしまった。細君は厭な顔をしてそれぎり部屋を出て行った。健三は手を鳴らしてまた細君を呼び戻した。
「己がどうしたというんだい」
「どうしたって、――あなたが御病気だから、私だってこうして氷嚢を更えたり、薬を注いだりして上げるんじゃありませんか。それをあっちへ行けの、邪魔だのって、あんまり……」
 細君は後をいわずに下を向いた。
「そんな事をいった覚はない」
「そりゃ熱の高い時仰しゃった事ですから、多分覚えちゃいらっしゃらないでしょう。けれども平生からそう考えてさえいらっしゃらなければ、いくら病気だって、そんな事を仰しゃる訳がないと思いますわ」


――「道草」


我々の世界は依然として「正気」ではないときに、何かを言ってしまうんじゃないかと恐れる状態にある。わたくしは正気を失って花を愛でてるとは思えないのだ。鶴見俊輔はかつて、戦前のプロレタリア文学は、手力男命のようなものだと言って居た。岩屋戸をこじ開けたあの男である。鶴見は楽観的であり、光は正義によって必ず無意識から解放されるとでもいいたげである。果してそうであろうか。清少納言の上の場面は、直ぐさま雨の場面にうつり、卯の花が直接雨に繋がっている。我々の世界は、その間にいろいろなものが混ざりすぎている。それが無意識というもので、こんなところに光があるはずがない。光は、照らされたものにしかないと、わたくしは思うのである。そして我々自身は光にはなれない。

セ2

2020-01-19 23:35:26 | 大学


確かにいやな業務ではあるのだが、きちんとやってしまうのが我々の性で。だからさ、「あのときはバカでした」といういいわけは大概嘘なんだと思うね……。

それにしても、わたくしは、センター試験第一回目の受験生であった。そして最後は試験監督している。西田幾多郎みたいに、黒板を前にしてそして背にして立った、つまり一回転したのだとか言ってみたい。わたくしは、まったくいまでも受験生の気分である。黒板を前にしても背にしてもまったく同じものに強いられているからだ。あるいは、西田ですら、黒板というものに拘りすぎていたのかもしれない。あまり気にしない生き方というものもありうるのである。