来年度の授業の予習のつもりで、若い詩人・文月悠光氏の『臆病な詩人、街へ出る』を読む。以前に最年少芥川龍之介賞作家が、大学を卒業して苦労しているという話を聞いたことがあったが、文月氏も知らないうちにもう二〇代後半?ぐらいである。学生作家が大学を卒業するのは恐ろしいことで、食えないし容易に就職も出来ないという状況になるからであった。よくしらんけど大江健三郎だってそんな事情のために、セックスアンドバイオレンス路線に行ってしまったのではなかろうか。違うか……。
氏のエッセイを読んでいると、最後の一文がだいたい不要な気がするのであるが、わたくしが分からない世界があるに違いない。それは――しろうとのわたくしなら絶対に拒否する文句なのであり、もしかしたら、そういうわたくしのような羞恥心のありかたを乗り越えているのかもしれない。しかし、氏に限らず、孤独を思春期以前的な世界に戻ることによって回避しようとしている若者が多い気がする。
――上の本の文章には構造があって、世間で流行語になっているような言葉や「常識」を氏が知らないところから話が展開する。ポストトゥルースとか「初詣」とかである。わたくしだったら、無智をあえてさらけ出すようなこの書き方は嘘を書くことに思えるのだが、氏の場合はもしかしたら本当かもしれない。というのは、わたくしも中学高校まではそんなかんじであったからである。氏は高校生でもう書き手だったから、その状態でいままで来ているのかもしれない。普通の人は、社会に出るまえに(というか一人前の口をきくことを禁じられたつまらない学生時代に――)、流行語などを使用を、社会の言葉として意識的に使用する処世術としてあえて――というより適当に身につけてしまうだけなのだが、それはむろん自意識や表現の意識とは別物の「行為」であり、氏の場合は、自意識と表現意識だけで過ごしてきてしまったのであろう。それは逃避でもあったが、氏にとって詩は若くして架空の社会内で単純労働をさせられていたようなものだ。だから、大学を卒業した氏に、はじめて、社会に出ることと社会の言葉を認知することが同時に起こる。というわけで、それはまるで炭鉱で働かされていた小学生が外の世界の言葉を覚える状態のようでもある。そこに社会に対するアイロニカルな姿勢はない。それを氏は未熟ではなく「臆病」と呼ばざるをえないのは、氏が表現の上ではすでに社会化している自尊心があるからであった。
もっとも、これはいまの大学生にも多かれ少なかれ起こっていることではないか。おそらくスマホを使用して表現過剰になっているせいである。彼らは案外、社会の言葉を知らないのである。
社会的な言葉が国民を覆い尽くすことが全体主義の特徴かというとそうではないかもしれない。その前に、国民が低年齢化していることが重要なのである。
題名に反して、詩人は自分が臆病ということを人並みな状態を越えて確認しに街に出て行く。確かに、寺山修司みたいに「暴力としての言葉」とか何とか言ってくだを巻くよりいいのかもしれない。知らんけど。
最後に書店員として働く氏であるが、わたくしは「たかが書店員が本屋大賞とか言って思い上がっている」とかいっていた西村賢太の方が理解できる。西村の方が書店員を馬鹿にしていないと思うからだ。――思うに、このエッセイ集の最後が氏の店員体験談で終わるのがまったくイマドキと言ってよい。
氏が触れたそれは「社会」ではなく「店員」なのではないのか。職域奉公というのは案外こういう錯視があるのかもしれないとわたくしは思った。