寝ます
長谷川龍生の『立眠』を読んだ後、福嶋亮太の『百年の批評』を瞥見する。わたくしは福嶋氏をわりと尊敬しているのである。東浩紀の周辺にいた人間の中で一番好きだ。氏の文章には、力をぬいたよいフレーズが時々ある。
長谷川龍生は久しぶりに読んだが、まさに彷徨という感じであった。70を越えて彷徨するのはおそらく大変である。わたくしは、大学の時、こういう彷徨はだめななのではないかと思ったが、いまはよく分からなくなっている。
ただ、思うに――、二人の作品よりもいまは光源氏が語る物語論の方がリアリティがあると思ってしまうのは何故であろう。
「こちなくも聞こえ落としてけるかな。神代より世にあることを、記しおきけるななり。『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」
まったくその通りなのだ。どうもわたくしは日本書紀みたいな歴史書だけでなく、歴史小説にも、なにか現実の過剰さからの逃避の側面を感じるのである。最近ちょっと「平家物語」も読み始めたが、これにも同様の感想を持ち始めている。思い込んだらあれというやつだ。
その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、善きも悪しきも、世に経る人のありさまの、 見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおき始めたるなり。 善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世の他のことならずかし。
それにしても、こういうことを考えている人の世界は実は狭かったりするのであるが、だからといってそれが悪いというわけではない。NHKの「100分de名著」で「平家物語」について、安田登氏が、侍というのは貴族と違って「闇」の認識力を備えていたと言っていたが、――だからといって侍がさまざまなことに対して眼が見えていたとは限らないと思うのである。
日曜日は沙弥島と瀬居島に行って参りました。
Yotta氏の「ヨタの漂う鬼の家」……創作中を公開。鬼さんこちら……
かわいひろゆき氏の「先祖宮」……これは松本の祖父の家を思い出させました。これはすごい作品だと思いましたね。
由加大権現。 江戸時代には両参りといって、金比羅と岡山の由加を参ると御利益倍増だったらしいのだ。ここの神社の由来はよくわからないが、いまもちゃんと注連石が新調されている(平成十八年)。
境内には、蛭子さんと稲荷さんがいた。
蛭子神社は瀬居島。本殿の背後にすばらしい松の木がある。
明治四〇年に植樹されたようである。
観音様も蛭子さんとタッグを組んで島の生活を守護するのである。
蛭子神社は沙弥島。祠のなかをみると蛭子さんが数人おられるので蛭子神社であろう……
わりと島の神社には……これが祀ってあることが多いらしい。
珊瑚っ
仲良くやしろあり。
中には亀さんが鎮座。仄聞したところ、近くの濱に打ち上げられていた亀さんを祀ったということである。決して、カミとカメみたいな語呂で祀ってしまったわけではないようである。高松のシティ水神にも亀さんがいたが、それは本殿の外にいた。我が国では内と外の区別は重要だ。しかし、外から内に入ることはもっと重要な意味を持つ。
大統領が土俵の中に侵入したことが重要であるように。我々は、それを別に境界侵犯だとは必ずしも思わない。富をもたらしてくれる大物は内に入れてもいいのであった。トランプは蛭子みたいなもんである。貧乏神であってもまだぎりぎり許せる。問題は、疫病神みたいなもの(しかもそれが日本人)になったときが我々の凶悪さがでてくるときである。ほとんどの我々の憎悪が、外にではなく内に向かっていることは重要である。自虐的な人々を攻撃しようとして、結果的に自分たちの内部を虐めているのだから、ますます自虐的である。
瀬戸内芸術祭がはじまったので、沙弥島や瀬居島に行ってきた。島といっても繋がってるんですけどね。といっても、その繋がっているさきも島で、その島も橋でかろうじて本州と繋がっているのだが、その本州も島で、その島はアメリカに飼い犬みたいに繋がっている。
https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/tenji/tokubetsuten/kaisai/index.html
これをみにゆきました。「自然に挑む 江戸の超グラフィック――高松松平家博物図譜」
はじめは水彩画かと思っていたが妙に立体的なので説明をみたら、いろいろと貼り付けていた。つまり自然に挑むというよりある種の自然を借りている訳である。あるいは、自然を加工する――工業みたいなものかもしれない。まさにグラフィックで、リアリズムとは違うのであった。
来年度の授業の予習のつもりで、若い詩人・文月悠光氏の『臆病な詩人、街へ出る』を読む。以前に最年少芥川龍之介賞作家が、大学を卒業して苦労しているという話を聞いたことがあったが、文月氏も知らないうちにもう二〇代後半?ぐらいである。学生作家が大学を卒業するのは恐ろしいことで、食えないし容易に就職も出来ないという状況になるからであった。よくしらんけど大江健三郎だってそんな事情のために、セックスアンドバイオレンス路線に行ってしまったのではなかろうか。違うか……。
氏のエッセイを読んでいると、最後の一文がだいたい不要な気がするのであるが、わたくしが分からない世界があるに違いない。それは――しろうとのわたくしなら絶対に拒否する文句なのであり、もしかしたら、そういうわたくしのような羞恥心のありかたを乗り越えているのかもしれない。しかし、氏に限らず、孤独を思春期以前的な世界に戻ることによって回避しようとしている若者が多い気がする。
――上の本の文章には構造があって、世間で流行語になっているような言葉や「常識」を氏が知らないところから話が展開する。ポストトゥルースとか「初詣」とかである。わたくしだったら、無智をあえてさらけ出すようなこの書き方は嘘を書くことに思えるのだが、氏の場合はもしかしたら本当かもしれない。というのは、わたくしも中学高校まではそんなかんじであったからである。氏は高校生でもう書き手だったから、その状態でいままで来ているのかもしれない。普通の人は、社会に出るまえに(というか一人前の口をきくことを禁じられたつまらない学生時代に――)、流行語などを使用を、社会の言葉として意識的に使用する処世術としてあえて――というより適当に身につけてしまうだけなのだが、それはむろん自意識や表現の意識とは別物の「行為」であり、氏の場合は、自意識と表現意識だけで過ごしてきてしまったのであろう。それは逃避でもあったが、氏にとって詩は若くして架空の社会内で単純労働をさせられていたようなものだ。だから、大学を卒業した氏に、はじめて、社会に出ることと社会の言葉を認知することが同時に起こる。というわけで、それはまるで炭鉱で働かされていた小学生が外の世界の言葉を覚える状態のようでもある。そこに社会に対するアイロニカルな姿勢はない。それを氏は未熟ではなく「臆病」と呼ばざるをえないのは、氏が表現の上ではすでに社会化している自尊心があるからであった。
もっとも、これはいまの大学生にも多かれ少なかれ起こっていることではないか。おそらくスマホを使用して表現過剰になっているせいである。彼らは案外、社会の言葉を知らないのである。
社会的な言葉が国民を覆い尽くすことが全体主義の特徴かというとそうではないかもしれない。その前に、国民が低年齢化していることが重要なのである。
題名に反して、詩人は自分が臆病ということを人並みな状態を越えて確認しに街に出て行く。確かに、寺山修司みたいに「暴力としての言葉」とか何とか言ってくだを巻くよりいいのかもしれない。知らんけど。
最後に書店員として働く氏であるが、わたくしは「たかが書店員が本屋大賞とか言って思い上がっている」とかいっていた西村賢太の方が理解できる。西村の方が書店員を馬鹿にしていないと思うからだ。――思うに、このエッセイ集の最後が氏の店員体験談で終わるのがまったくイマドキと言ってよい。
氏が触れたそれは「社会」ではなく「店員」なのではないのか。職域奉公というのは案外こういう錯視があるのかもしれないとわたくしは思った。
授業で「パノラマ館」、それについて触れている乱歩や朔太郎などについて話す。ああ、それは「ドラゴンボール」のオープニングみたいなもんです。とつい口走ってみたのですが、実際にオープニングテーマをきいてみたら、「ひろがるほにゃららら~」とちゃんと歌っておりました。わたくしの記憶もまだまだ健在です。授業後、ネットで調べてみたら、「ドラゴンボールパノラマワールド」なるおもちゃまで売っているようです……
だいたい悟空というのは、グローバル人材です。内向きになっているのは尻尾だけで、どんどん外側にいってしまいます。神様やなんとか王に会っても「おっす、オラ悟空」という感じです。コミュ力もスゴイです。ある少女にセクハラをしたのをきっかけに、競技大会の時間を使って結婚してしまうというコミュ力的時間の節約の仕方も知っています。自分の武力は、自分を守るときと「わくわくしてきたぞ」の時だけ使います。友だちを殺された時だけ口が悪くなり「このクズ野郎」とか言ってしまいましたが、普段は、「おっす、オラ悟空」とか「かーめーはめーはー」みたいな事しか言いません。しかし有言実行です。しかも、知らないうちに子どもまで作っており、人口減少対策に一石を投じました。
ゼミでは、菊池寛と志賀直哉について考えました。菊池寛が、志賀直哉のクズっぷりに「義しさ」みたいなものをみているのはいかがなものか。たぶん菊池寛も本当はあまり性格が良くなかったのではないでしょうか。志賀直哉は、「おれの戦闘力は90万です」とか家族のみんなを脅しつけながら、その実戦闘力は1ぐらいのゴミで、お父さんから小遣いをもらいながら女中に手を出しているような輩です。悟空なら「次から次へとおかしなことばかり言いやがってこのクズ野郎」と言いながら、「おっす、オラ悟空」といって友だちになってくれるでしょう。こういうのがヒューマニズムというのです。
「ドラゴンボール」はこう考えてみると、八犬伝と言うより、「近代の超克」という感じに見えてきました。以前、島田雅彦がたしか「ドラゴンボール」とか「ナウシカ」について「愛のテーマ」があると言っていましたが、果たしてそうか。パノラマ好きが志向する次のような場面のつながりに果たして愛があるであろうか。
「かーめーはーめーは~」(「ドラゴンボール」)
その時、北見小五郎は、くらめく様な五色の光の下で、ふと数人の裸女の顔に、或は肩に、紅色の飛沫を見たのです。最初は湯気のしずくに花火の色が映ったのかと、そのまま見すごしていたのですが、やがて、紅の飛沫は益々はげしく降りそそぎ、彼自身の額や頬にも、異様の暖かなしたたりを感じて、それを手にうつして見れば、まがう方なき紅のしずく、人の血潮に相違ないのでした。そして、彼の目の前の湯の表に、フワフワと漂うものを、よく見れば、それは無慙に引き裂かれた人間の手首が、いつのまにかそこへ降っていたのです。
北見小五郎は、その様な血腥い光景の中で、不思議に騒がぬ裸女達をいぶかりながら、彼も又そのまま動くでもなく、池の畔にじっと頭をもたせて、ぼんやりと、彼の胸の辺に漂っている、生々しい手首の花を開いた真赤な切口に見入りました。
か様にして、人見廣介の五体は、花火と共に、粉微塵にくだけ、彼の創造したパノラマ国の、各々の景色の隅々までも、血液と肉塊の雨となって、降りそそいだのでありました。(「パノラマ島奇譚」)