★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大学は文学少年が答えられる問題をもっと出せ

2024-06-26 21:45:53 | 思想


第二に、それは本質的に社会の国家に対する言説であった。より正確にいえば、それは公的領域を奪われたネーションの言説であり、私的領域を、その剥き出しのナショナルな身体を、外部から侵略してくる国家に直接対抗するために操ることを強いられた言説であった。それは、枯れつつある、あるいは枯れ果てたナショナリズムの形式であった。というのも、それはもはや、内的な民族の本質を、政治的な行為によって植民地国家から防御することができないものとなっていたからだ。それは、国家なきネーションのナショナリズムであるばかりでなく、政治なきナショナリズムでもあった。政治がなければ、あるいは、ナショナルな差異を分節化し、擁護し、再生産することのできる公的領域がなければ、ナショナリズムは結局、ナショナルな差異を消去した関連性のない言説の断片に分解されてしまうだろう。したがって、戦時中の台湾の文化ナショナリズムもまた、消滅の言説、あるいは無為に終わった空騒ぎの記念碑であったというのが、私の結論である。

――呉叡人『フォルモサ・イデオロギー』(梅森直之・山本和行訳)


昨日は授業で、「こころ」の小森陽一の読解を敷衍?して、「ごんぎつね」における兵十とごんのBL的展開について提案してきたのである(2分ぐらい)が、わたくしもせいぜいデコンストラクション紛い、ジェンダー論紛いで学生を混乱させる癖ばかりがついていてどうしようもない。

朝から反省して、尾形明子氏の『女の世界』を読んだ。

ニュースをみていたら、大英帝国の首魁がキティちゃん50歳みたいなこと言ってて、キティがロンドン出身なんだと初めて知った。日英同盟どころではない、出身まで英国に奪われていた。ちなみにキティちゃんには彼氏もいれば親もいるのである。どうみても彼らも日本人ではないのではなかろうか。

いま文庫になって話題のガルシア・マルケス「百年の孤独」は、いままで英訳含めて3冊ぐらい買った気がするが、一冊目は繰り返して読んだら壊れた。初読は高校1年ぐらいの時である。当時のわたくしの優先順位は、1、ピアノの練習 2、百年の孤独 3、ドストエフスキー読破計画 4、京都学派、5、吹奏楽部 100高校の授業 というかんじであったので、万国の文学少年達に警告します――「百年の孤独」はたばこや酒が飲めるようになってからの方がいい。

ホントのこというと、「百年の孤独」はあまりに我々とは何かが違いすぎて、ほんと酒みたいなものだ。優れた古典教師が日本古典をもっと生徒に読むようにさせないと我々は「消滅の言説」をつむぐ癖をつけてしまう。私もそうだった。

――結局、受験期に入ってもピアノを中断、2.3が違うものに入れ替わっただけで、受験勉強をどこの順番に入れてイイノカ分からなくなってしまい、けっきょく大惨事であった。だめじゃんというのは簡単だが、こういうのも地方にはかなりいるのであってみれば、地方の子どもが東大に入れるように格差を埋めろみたいな議論は、国民国家の議論としては正しいが、よりわたくし寄りに云わせて頂ければ、そもそも大学は文学少年が答えられる問題をもっと出せよコラッというね。。

予備校に入っても、予備校の寮で、浅田彰や小林秀雄について「現代思想のファン」みたいなやつと話したぐらいしか記憶がない。これは楽しかった気がする。結局わたしにとって予備校時代は、高校の復習と、木曽にはなく名古屋にたくさんあった本にふれたという、大学の授業の予習みたいな感じになっていたのだ。大学の文学の勉強やなにやらには、その準備があまりに足りない。ふつうの高校の勉強じゃ大学の勉強にはまるでついていけないのが本当のところなのである。

高校3年生には、浪人して本を読むことをおすすめする。浪人して予習しないと、確実に落ちこぼれる。


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