狂人になったので弾が私をよける夜はありやなしや
最近の「マニュアル」って、ビジネスとか目的意識とか危機対応とかもっともらしい理由が付いているが、いわば昔のしきたりとか最初の目的が忘れさられた伝統とかと同じではなかろうか。弱者のルサンチマンが暴発しないように、誰でも行えることを集団の規則にしてしまうのである。
父の撮った木曽福島の紅葉
どうも赤が目立つなと思ったら、家の屋根も赤いのだ。紅葉の美しさなどというものはない。「美しさ」があるだけだと思う。小林秀雄は間違っている。
ストラヴィンスキーの三大バレエのうち私が一番好きなのは「ペトルーシュカ」であるが、他の二曲もしょっちゅう聴いているような気がする。そもそも私は、世界の中で一番の芸術国家はドイツとかアメリカとかではなく、ましてや日本などではなく、ロシアだと思う。トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、カンディンスキー、ムソルグスキー、チャイコフスキー、ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、リヒテル、ホロヴィッツ、レーニン、スターリン、ラスコーリニコフ……すごい、すごすぎるっ。
ストラヴィンスキーは根本的にロシア五人組の末裔であり、最後の輝きであると思う。チャイコフスキーのような西洋かぶれに人気で押され気味だったロシア国民楽派が、その弟子を巴里に送り込み、ついにヨーロッパの音楽を変えるに至った。つまりこれは、ソ連のベルリン侵攻とおなじようなものなのではなかろうか。……というのは冗談だとしても、ストラヴィンスキーの三大バレエの時期というのは、とにかく攻め込む気合いがすごいと思う(笑)まさにセンス抜群の野蛮人の襲撃である。
ロシアの芸術を楽しむなかで私が想像しようといつも思うのは、はたして彼らが生きていた、左翼用語で言うところの「封建」的なものとはどういうものであろうか、ということである。それは私が思いも及ばないものであろう。
で、気に掛かるのは、我々の住んでいる社会のことである。私も80年代以降の「ポストモダン」とかいうのに騙されていたのか、自分の棲んでいる世界がいかに藤村や啄木が住んでいた世界と変わっていないのかに気付いていなかった。私の周りを観察するにつけても、「家」にまつわる事象が関わると、普段は「21世紀市民」(笑)みたいに振る舞っている人間でも突然様変わりするし、普段は自分は時代遅れじゃけえと隠棲していた連中が突然居丈高になったりするのである。特に結婚に連なるゴタゴタはあまりに酷い。調べたわけではないから全くの私の妄想であるが、最近の若者の結婚を邪魔しているのは、コミュニケーション能力の低下とかではなく、親とか親戚とか、突然出現する仲人面の人間とかではなかろうか。この人たちは、他人の事柄を支配して喜ぶ趣味がある。私もさまざま他人の結婚式やら披露宴に出てきたが、出席者の中に混じっている、「この二人は俺が育てた」面をして偉そうにしゃべっている人間が多くて辟易する。極言すれば、こういう行事は、当事者や当事者の親をさらし者にして、「ほぼ赤の他人」が恩を売った気になる行事である。(葬式では、死んだ本人がいないだけに(笑)もっと酷いつばぜり合いがある。)底意地の悪い書き方をしているようだが、……こんな面倒なことになるくらいならやめとくわ、という人間が出てきても不思議はないと思う。信頼できる人間が集まってくるのはいいが、普段本人に恩売るほど能力のない「恩を売りたがる人間」というのが集まってくるのはたまらない。日本の「家」というのは、こんな感じの恩の売り合い、足の引っ張り合いで成り立ってきたのではないか。親戚同士の助け合いのためだ、というのは少しは本当かも知れないが、本当にそうであろうか?本当にそうであったら、近代社会で延々繰り返されてきた貧困や困窮は存在していたであろうか?利益のありそうなときには特定の人間に群がり困った時には助けないのが日本の姻戚関係ではないか?どうもそんな気がする。そうであるからこそ、嫌われないように右顧左眄術が横行するし、案外(どころの話ではないが)金のやりとりが主たるコミュニケーションである。贈与ですらない単なる「取引」だ。頼んでもいないのに世話を焼いて(いるそぶりをし)しまいにゃ金を要求する、俺を結婚式に呼んだ呼ばないで陰口をたたく(←そんなお前だから呼ばないんだよ、早く気づけ)……こんなんじゃ、根本的に他人の幸福は考えない社会になって当然である。……ちなみに、差別問題とか家の格式問題みたいな亡霊が突然蘇るのもこういう時である。まったく、どの人間だってもともとはどこの馬の骨だかわからん奴が先祖の癖して、一体何様のつもりなのだ。
私は、こういう問題を回避したところの芸術や思想を認めないつもりで勉強しようと思っている。例えば、少し前内田樹氏がブログで、「人間は競争に勝つために徹底的にエゴイスティックにふるまうことで能力を開花させる」という考えの輩が多いことを難じ、人の役に立つということを労働観としておくべきみたいなことを言っていたが……(http://blog.tatsuru.com/2011/10/20_1207.php)私もそう思う。が、そうは思うものの、「エゴイスティックにふるまう」人達が、「競争に勝つため」にそうなっているかは本当のところはわからないと思う。私の推測では、「人の役に立つ」という顔をしながら「恩を売るだけ」の近しい人間を振り払うための行為である可能性があると思う。私はなぜ日本の若者が内田氏の言うような振る舞いをせずには居られなくなったのか分析が必要であるように思う。あるいは、「エゴイスティックにふるまう」のは、昔からの「恩を売る」人間の特徴でもあったわけだから、そいつらの生まれ変わりである可能性もある。私はその可能性の方が高いと思っているのであるが。生まれ変わった彼らは「恩を売る」のもめんどうになってしまったわけである。
教育業界でよく「中心文」っていうのを使って議論をしてるんだけど、だれか説明してくれませんか。この「中心文」とかゆーのを。どうやら説明文にはそういうものが存在しているらしいんだけど(笑)まさか、論理的な文章が主題を示す文とその他で成り立っていると思っているんじゃなかろうな。たぶんそういう考えの奴が、小説も説明文を読む能力で読めると称し、誤読を教室で振りまいているんだろう。
問:次の文章から中心文をさっさと抜き出せ(笑)。
私は筆を執っても一向気乗りが為ぬ。どうもくだらなくて仕方がない。「平凡」なんて、あれは試験をやって見たのだね。ところが題材の取り方が不充分だったから、試験もとうとう達しなくって了った。充分に達しなかったというのは、サタイアになったからだ。その意ではなかったのが、どうしても諷刺になって了った。(二葉亭四迷「私は懐疑派だ」)
……まさか最初の文とかいわんよな……
献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。しかし献身には、何の身支度も要らない。今日ただいま、このままの姿で、いっさいを捧げたてまつるべきである。鍬とる者は、鍬とった野良姿のままで、献身すべきだ。自分の姿を、いつわってはいけない。献身には猶予がゆるされない。人間の時々刻々が、献身でなければならぬ。いかにして見事に献身すべきやなどと、工夫をこらすのは、最も無意味な事である、と力強く、諄々と説いている。聞きながら僕は、何度も赤面した。僕は今まで、自分を新しい男だ新しい男だと、少し宣伝しすぎたようだ。献身の身支度に凝り過ぎた。お化粧にこだわっていたところが、あったように思われる。新しい男の看板は、この辺で、いさぎよく撤回しよう。僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」
さようなら。
(太宰治「パンドラの匣」)
……Made in Occupied Japan
×川大学の学生どもに告ぐ。
学問基礎科目で「嵐が丘」や「ハイジ」をネタに、「自然」と文学について語ったわけだが、「嵐が丘」ではぴくりともせんくせに、「ハイジ」でいきなり眼を覚ますのはやめなさい。
昨日届いた『聖おにいさん7』。まだ読んでないがたぶん面白い。
確かに、イエスや仏陀をキャラ化してしまっているという意味では、宗教漫画としては最悪であり、宗教に対する冒瀆とさえいえ、――それが日本的な悪習なのかもしれないのは自明である。しかし、こういう漫画が出てくる必然性を無視してはいけないと思うのであった。
この漫画の特徴は、主人公が「聖人」であるからということで、ブッダやイエスにアイデンティティに関する悩みが全くないことである。前の記事「自分を保守しますっ(笑)」で書き忘れたが、最近よくある大いなる勘違いの一つに、「人は他人による承認がない状態、つまり自分が必要とされていないと感じると実存的な不安に陥ってしまうし、陥って当然である」というドグマがある。だから仕事で交換可能な人間であると見なされるとみんなアイデンティティを失って辛くなると言うわけだ。本当にそうであろうか。
ブッダはイエスは常に自分が必要とされているが故に、下界でそうではないただの人として暮らすことがとても気持ちのよいことであった。私はこのことは別に聖人に限ったことではないと思う。人は誰にも必要とされず、仕事では代替可能な人間となることによって解放されることもあるのである。だいたい他人が、──親や恋人であっても、というか寧ろ近い人間であればあるほど──自分のことをきちんと認識することなど絶対にありえない。自分でもよくわからんのに。他人にやたら承認を求めるのは、すなわち、自分の価値をわかった気になる輩、つまりは他人の価値についてもそういう即断をしたがる輩なのではないか?そもそも私は人間にはアイデンティティなど存在していないと思っている。人間にはもしかしたら人権が神から付与されているかも知れない。しかしそうだとしたら、なおさらアイデンティティはない。平等なんだから。アイデンティティを過剰に求めることこそ差別化への道である。実際、自分の得意な分野で自分を持たせている人間は、その分野だけじゃないところで寧ろ威張りたがっているではないか。
私も、将来の見えない10年間を過ごしていろいろな仕事場を転々としていたことがある。確かに私は代替可能な人的資源に過ぎなかったが、代替可能だからこそ、仕事場を移動することも出来たはずだ。確かに学問もやりながらであったから特に自尊心を全面的に打ち砕かれなかったかもしれないので、本当に何もかも失った精神状態を知っているとはいえない。だから、中島氏のように、例えば加藤智大氏の代弁をしようとも思わないし、出来るとも思わない。ただ、加藤氏のような人が、本当に自分の代替可能性に嫌気がさしてぶち切れてしまったのかはわからないと思う。代替可能性は自明の理に過ぎない。我々がストレスを感じるのは、そこじゃなくて、処世のために仲間はずれを食ったり、頭が悪そうな上司(部下)に使われたり……といった、もっと具体的なことではなかろうか。代替可能性はあってがよいが、代替基準がおかしいとかね……。だいたい、代替するということそのものに、誰でもよくない理由が存在しているわけで、首を切っている方は、いわば、その人の特殊性にこだわっているわけである。本当に代替可能性があるなら誰でもいいはずだからだ。我々が苦しむのは、その判断の内容であって、判断そのものではないと思う。
端的に言えば、個々の実存はどうでもよい、問題は正統性の方だ、とわたしは思う。無論、われわれはそういうことにほとんど堪えられないわけであるが……
中島岳志氏については、氏がヒンズーナショナリズムやボースの研究でデビューしてきた時からちらほら読んできたが、たぶんこの本は氏の著作の中でもあまりよくないものに属するのではなかろうか。中島氏は私の見るところ、典型的なある種のアカデミシャンであり、本の中で対談している宮台真司などとは根本的に異なる人種である。この本の中でも第2部以降の、『論座』などに書かれたジャーナリスティックな文章は、あまりよくない。なぜかといえば、ジャーナリズムのなかでは人に通じさせることが必要だと思ってか、知的厳密性が失われているからである。引用されている文章の解釈がかなり恣意的になっている。これは氏が馬脚を現したというより、マイクの前で緊張してつい人の言っているようなことを口走ってしまう習性のためだと思う。マイクの前でむしろ知的になる傾向にある宮台とは違う。
大川周明の原稿を発見したときのナイーブで無邪気な文章を読んでいると、私なぞ、ついこういう輩を徹底期に弾圧したくなるのであるが、それは無論、私がやや同類であるからだ。ただ、私が次のような文を書けるかと言えば無理である。「人生が研究の方向に大きく旋回していった」とか「私は、震える手を握りしめながら、その場に立ちつくした」とか「そして私は、橋川の残した課題を、生涯をかけて引き継いでみたいと思う」とか……。私はこういう文を羞恥心のあまり弾圧するところから思春期が始まると思っていたのだが、思春期が終わったところにこういう文がでてくるのが信じられない。しかしアカデミシャンの中にはこういうタイプがかなりいる。この素朴さが論文を書くのに必要な人達もいるのだ。
対して宮台氏の方はどうかといえば……。宮台氏の愛読者の男の子が自殺するといった事件があった。彼は、宮台が『ダヴィンチ』に書いた「男性諸氏に告ぐ。婦女子保護のため、真実の愛、絶対禁止!違反者は即死刑!」といったせりふに反応したらしいのだ。宮台のこういうせりふは、彼の一番よいところで、人を元気にさせるものだと私は思っていた。演説としてちゃんと韻を踏んでいるw、まさに死を賭して「真実の愛」に突き進む勇気を与えるよいせりふではないか。宮台の見立てで言うなら、宮台の演説は常に美学的ではあるが、後期ロマン派のファシズム的「美」はない。こういうせりふを「死刑宣告」と受け取り死んでる「美」的な奴はほっとけばよろしいというのが私の意見であるが、中島氏の著作を読んでいると、どうも「死刑宣告」ととりたがる弱い青年達に優しくしないといけないような気がしてくるのだ。
中島氏と同じく昭和初期のナショナリズムの周辺を研究しているから、この時代の青年の鬱屈を最大限すくい取ろうとは思ってきた。なんでもかんでもとりあえず肯定だ、これが学問の基本姿勢である。中島氏の研究は、確かに、90年代以降のアカデミシャンたちのそうしたうじうじした動きの中から出てきたのだ。むろんそれは自らの周りが昭和初期の鬱屈と似ているような気がしたからでもある。……だから中島氏がある程度世代論的に語るのもわかる。しかし世代論なんてものは、おおむね、先行世代に対する勘違いと、大人に対する子どもの処世みたいなもんだということも忘れずにいようと思うのだ。なかなか自分が信頼されず存在感もなくなりそうな子どもが「僕はいらないの~」と愚図ってみせてもあまり効果がなかったので、「俺は右翼だからさ~いつキレてもおかしくないぜ」と言ってみたところ、戦後民主主義者の心の広い大人達が案外優しくしてくれたというわけである。アカデミシャンなら大学ポストを巡る処世のなかでそんな演技をしている奴がいた。そういえば、私もその一人だったかも知れない。ポスコロとカルスタ(←軽いスターリン主義かと思った。実際やってることはそんな感じだったしぃ)に媚びを売るよりはましだったかも知れないが、恥ずかしい限りだ。大江健三郎「セヴンティーン」のヘタレ主人公とあまり変わらん。……申し訳ないけど、まだまだ90年代以降の右的な動きは、こういった大人の〈庇護〉の中でこそ許されている側面があると思う。戦争での「外」からの爆撃を身をもって体験し、貧困やあからさまな占領を知っている親の世代に対して、海外旅行に行ったとか留学してきたという理由だけで「戦後世代は内にこもった平和ボケをやめよ」とか「これからは日本だ」とか、勘違いも甚だしい。内にこもっているのはどっちなのだ。
保守の立場とは、目に見えない地味なものだと思う。聞いてくれる親たちがいなくなりかけているのに、「オルタナティブ」がなんとかとかいっているうちは我々は確実にほろびる。