受験生の夜明け
野戦病院の寝台の上で蘇生をしたイワノウィッチは、激しい熱病から覚めた人間のように、清霊な、静かな心持を持っていた。
彼には、なんらの悔恨もなかった。なんらの興奮もなかった。彼が歓楽の瞬間も、罪悪の瞬間も、戦線で奮闘した瞬間も、すべてがなんの感情も伴わずに、単なる事実として思い出された。もうすべてが、今からいかんともしがたい、前世の出来事のように思い出された。彼は、そのすべてが許され、そのすべてが是認されたようなのびのびした心持であった。煉獄を通ってきた後の朗かな心持であった。
時々、人を殺したということが、彼の心を翳らそうとすることがあった。が、そんな時、彼は幾十万の人間が豚のごとく殺される時、そのうちの一人や二人が何かほかの動機から殺されても、何もそう大したことではないように思われた。恐らく、目の前であまり多くの人が殺し殺されるのを見たので、人殺しに対するイワノウィッチの感覚は、鈍ったのかも知れない。しかも彼自身、機関銃を操って、他の多くの人間を殺していたのである。
――菊池寛「勲章を貰う話」
「事件は現場で起きてんだ」という俗情に媚びたセリフがあった映画があった。なぜこれがだめかというと、たしかに机上の空論で遊ばざるを得ない上の方の方々の言うこともおかしいが、おかしい意味での純粋性はあるのに対して、「現場」の戦場性というのは、倫理のめちゃくちゃなひどいことが評価されたり、現場を支えた人間が生け贄にされたりといった、魯鈍な煩雑性が生起するものであるからだ。それを「事件が起きてんだ」と言い張る奴はたいがい、実際は真の事件をみていない。