教師をしていると学生の虚言癖をどうするかはいつも悩まされるけれども、倫理自体を教えてもだいたいだめで、実力をつけないと結局は嘘をつくようになるということを教える必要があるのだ。しかし、この必要性から逃避していつも倫理だけいう教師が多くなる。教師という職業、もともと少し嘘をつくことが必要だということもあって、そういう心のからくりがわからなくなった人間もたぶん多いんだろうと思う。
このような意識の欺瞞と惰性は日常性という維持が目的のせいでもある。これだと息が詰まるので、人間は、嘘を虚構という花火にすることによって昇華してしきり直しをするという発明を行った。スポーツ大会や祭りもその一種であろう。スポーツが虚構化されているのは言うまでもなく、いわゆる「文化」だってそうなのだ。だから、文化祭も少しスポーツの祭典の香りがしないでもなく、スポーツに文芸臭も付着しているのだ。
昔の学生に会って、黄表紙とか太宰の話をしてするする通じるいうちは世の中捨てたものではないが、誰も彼も疲れている。
文化祭で、こういう疲れを別のものに変形しなくてはならない。
もっとも、わたくしくらいになってくると、学園祭への参加は、秩序維持(警備)ぐらいだ。ゆえに、なにゆえ我が輩は秋空のなかを出勤しているのであるかと思わざるをえない。
海の向こうでは相変わらず戦争である。無駄な批判的能力をそぐと肯定する力はおろか伝言も精確にできない人間が大量生産されることがわからないようなやからは教育に関わってはならない。当たり前であるが、戦争責任やらなんとか責任は、その主体がどう評価され信用されているかによる。で、個人を超えた主体の場合は、過去の歴史や現在や未来(の見方)によってその信用は変化し、「やはりやばい」や「不幸にもやばい」、「なくなってもかまわんのでは」といった価値によって規定される。我々は価値から生ずる責任にむかって歩んでいる。今戦争をやっている国でさえそうなのだ。
学園祭でなんか文化の香りがなくなったとか言うてるそこの同世代のおじさんに告ぐ。その香りのいくらかは酒のにおいである。バッカスは退場せられた。学園祭の治安維持係の一角を担っているので、コロナ開けの学生の酒喜乱舞を怖れていたのであるが、とっくに学内では普段から飲酒が禁止されていた。チャットGPTにきいてみた。
酒の香りとの関連について言えば、一部の学園祭ではアルコール飲料を提供することがあります。ビールやカクテルなどのアルコールの香りは、祭りの一部として楽しまれることがあり、社交的な雰囲気を醸し出すことがあります。ただし、未成年者へのアルコール提供は法律に反する場合があるため、適切な規制と監督が必要です。
学園祭は、文化とエンターテインメントが融合する場であり、多くの異なる香りが出会う場所でもあります。その香りは、参加者にとって楽しい思い出と共に残ることでしょう。
そういうことを聞いてんじゃねえんだよ。
学生の展示を見て回るとそれなりに文化はある。文芸部の展示は、自分たちの同人誌と好きなライトノベルとかイラストとかが同一平面に並んでいるカオスで、しかもえらく盛況だなと思ったら、ほぼ部員が客みたいに騒いでいるという、読者文化論的に非常に興味深い事態が展開されている。美術部はこれにくらべて作品をみてくれみたいな感じが強く、展示の裏のすごく奥に眼光鋭い部員が座ってるみたいな感じがいつもの感じである。ジャズ研はいつもがんばっている。