★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

さむくなってきましたね

2024-11-02 23:42:37 | 大学


ひさしぶりの休みなのであるが、いろいろ仕事が溜まっている。

卒論なんてやり始めればなんてこたないんだよな、とか学生に指導しているそこのあなた、ほんとにそれに当てはまっているのは、お風呂入るとか、年末調整ぐらいである。嘘つくな、と言いたい。

卒業論文中間発表会

2024-10-28 23:45:50 | 大学


アーアーいやになってしまう。もうだめかな。もういかんや。ほんとうに人を馬鹿にしとる。いやになっちまうな。いやになりんすだ。いやだいやだも………だっていやがらア。衣、骭に――到り――か、天下の英雄は眼中にあり――か。人を馬鹿にしてるな。そりゃ、聞えません伝兵エサンと来るじゃないか。三吉一つ歌って見や。

――正岡子規「煩悶」


本を読むのは好きだが論文書くの辛いと思っている若人に言いたいのは、自分で書くと劇的に読めるようになる場合があるということである。全部が読めるようになるわけじゃないが。小学生の国語とおなじなんだよ。

国語研究室合宿で海の近くに泊まりました

2024-10-20 23:50:07 | 大学


全体からいうと、主従の関係、人と人との間の道徳であり、集団生活、社会生活の道徳でない点において、武士道は現代生活の根本精神とは一致せざるものである。あるいはまた、家族生活の特殊形態の如きものもこの例であろう。家族生活は如何なる時代にもあるが、その生活の形態なり様式なりは時代によって変化するので、徳川時代のそれは平安朝のそれとは遥かに違ったものであり、そうしてそれは徳川時代の民族生活、徳川時代の社会組織や経済機構の下において、始めて成り立ちもし維持せられもするものである。それとても、遠い昔の家族形態から民族生活の変化に応じて歴史的に発展して来たものであるには違いなく、それと共にまた、徳川時代の家族形態によって馴致せられた家族感情というようなものが、徐々に変化しながら今日までも或る程度に遺存してはいる。

――津田左右吉「日本精神について」


自由の追究を断念させられた主体こそが、集団形成をなしえない。反抗とか依存体質とか道徳心とかの説明を加えると分からなくなるが、つまりは精神の動きが体の運動としてつながっていないのだから、組織も個人の自由も不能である。全体主義的な状態は苛烈なぶんだけ十分自由な主体に移行できる。実際、現象を見た限りは、名だたる統制的国家がそういう運命をたどっている。

結局、どちらかというとそういう運命を持たない場合、我々はこんな感じの生物である↓



わがままで可愛らしく、一人で生きてゆける。すべての条件を整えられて。

environmental accelerationism

2024-09-25 18:50:33 | 大学


一、牛込神楽坂上のさる古本屋には伊仏の新刊書時々ありダンヌンチオが散文集(伊語)アダネグリ女史の詩集「母の心」(同じく伊語)なぞ有りしを見たり。
一、西洋出版の美術雑誌名画集の類は購ふ人多きにや神田本郷始めいづこの古本屋にも沢山あり。
一、江戸時代の読本は馬琴の八犬伝弓張月をはじめとして今も猶得るに難からず。然るに紅葉露伴等の小説は僅二十余年程前の出版なるに早くも湮滅して尋ねんやうなし。一体近頃の出版物は凡て出版の当時にのみ限りて数年を経れば忽ち散逸して古本屋の手にも残らぬなり。何処へ行きてしまふものなるや。或人のはなしによれば当今の出版物は古本にしても売買するほどの値段にならぬ故紙屑になし原の製紙原料にしてしまふなりと。或は然らん。


――永井荷風「古本評判記」


東京大学が学費値上げすると決定したというので、紛糾している。大学紛争のころもそうであったが、その政策の妥当性よりも、非人間的な人間のうごきがある場合――例えば「人々はそうかんがえるであろうが、合理的に考えてみろ」と主張するルサンチマンに満ちた高学歴自意識のおひとが出てくる場合――に紛糾する。

そういえば、大学時代でよかったことといえば、下宿代の安さであった。東大の場合も、ただ同然の寮があって多くの不良思想家達に宿を貸していた。私が4年生の頃いた下宿も一ヶ月2000円だった。そこは、むかし学生運動の連中のたまり場だたったらしく、大家さんも集会にお茶出したりしてたそうだ。そういう感じの過去のためか、九十年代になっても下宿代を上げることができなかったときいた。そのかわり下宿の環境は――廊下を鼠が運動会、雪が天井のどこからか降ってくるありさまであった。わたくしはそこで「ブリダンの驢馬」に関する論文を書いた。だめな論文だが、いままでで一番一生懸命な文章だ。

学費もそうだが、生きるのにあまりに金がかかりすぎる。そして人も金がかかった環境を望んでいる。そういう人間に生産性などあるはずがないというのは人間的常識であろう。

だいたい、環境があまりに整った部屋に古本なんかが置いてあると嫌われるのである。お金持ちのボンボンであった荷風の家なんかもわりと汚い方向に向かって加速していった。彼にとって、戦争で古本が焼けた経験がいろんな意味で大きかったのである。

小ささと大きさ

2024-06-27 23:22:46 | 大学


草になお強さでまだ負けているバッタどの

小さいことを愛でてしまう我々はモノに対してもそれをする。かくしてお札に小物の人間を印刷する。それはなにか日本国の信用の小ささを象徴しているような気がするので、今度かえるときには、1万円札=光源氏 5千円=ゴジラ 2千円=ラムちゃん 千円=孫悟空 みたいな感じでいいだろう。

結局大きさを想像によって埋めているのが我々である。この前、いつか登録しておいたせいなのか、円谷の事務=ウルトラマンゼロとかいうひとから誕生日メッセージが届いていた。いきなり「史郎さんは何歳になったんだ?俺は5,900歳さ!」と年上マウント、「また会える日を楽しみにしているぜ。」と言うが、まだこの巨人に会ったことはない。

で、この現実の小ささと想像の大きさのギャップを解消するのが、気合いであった。今日は、授業で、日本の「西洋化」と日本近代文学の話をしていて、――結局結論は、「頭あまりキレないんだから必要なのは気合いだ」となった気がする。ありがとうございました。

【地獄的】口頭試問+【謝恩会】

2024-02-09 23:26:16 | 大学


卒業論文口頭試問と謝恩会が終わって一段落である。

コスパ的卒業論文はありえない。授業のためとはいえ、なにゆえわたくしが「推しが武道館いってくれたら死ぬ」をかわにゃならんのだとはわたくしも思うわけだが、すべて様々なもののために必要なのである。以前から申し上げているように、コスパ的生き方というのは誰かに仕事を押しつけている/そして自分の体力のためにさまざまな人の仕事を無視する、という意味で卑怯なのだ。――というわけで、わたくしは、上のマンガから、推しに崇高さがあるとしてそれはやはり崇高さに止まるのではなかろうかという認識を得た。

しかし、思うに、いろんなことをしておりますみたいな人物がどことなく信用できないという若者達の感覚もわかるような気もするのだ。昨日は、『週刊東洋経済』に載っていたアニメの特集をみていたら、なんとか証券のなんとか審議会のなんとかいう人物が1文字も役に立たなさそうな記事を載せていた(文章は、「構成」の人のもの)。所謂「マルチ」みたいなキャラクターが例外なくやばいやつであるというのはイメージ以上の現実を構成している。

押見修造というのはどうみても現代最強のリア充(獣)作家である。彼の作品は、同じ路線で恐竜のような進化を志向している。マルチなのではない。

「夜半の寝覚め」の主人公の娘って、太政大臣の娘であった。まあすごい世界である。政治と色好みが空間的につながっているかんじなのだ。しかし、この作品の音楽の位置づけが途中でそれほど意味を持ってないようにみえるのも、作者がマルチみたいな人間を信用しない証拠のように見える。

試験第2――大河ドラマを中心に

2024-01-14 23:14:57 | 大学


この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば


受験ではべつに月が欠けたり満ち足りもしないので大丈夫です。でもべつになかったことにはならない。

今日は朝、マイナス2度だか3度だかあったらしい。――それにしても、マイナス3℃ぐらいで激寒とか言ってるうどん県民は、木曽に強制移住されるべきであろう。うどん県は木曽とだいたい同じ大きさだからちょうどいいし、水不足解消で最高。うどんも、木曽川の水でつくり放題だ。そのかわりうどんを作ったり食ったものは懲役5年ぐらいにしておく。まことに申し訳ございませんが、木曽のあれは蕎麦と決まっている。

にしても、もう既に試験監督のセリフ、ほぼ暗記したかもしれない。中学の時、田舎のくせに管理教育してた学校の校則のテストで1番とったきがするけど、わし、そういうとこあるよな。。。こんなところで記憶野をつかっているから大学入試でこけたのであろう。

帰宅すると、大河ドラマやってたので見た。国文学徒がひさしぶりに尊大な顔ができる一年がやって来た。今日は第二回で、先週、紫式部の母上が道長のサイコパス兄貴に刺し殺されるという、いつものちゃんばらだけが命の偏差値30ぐらいの野蛮さに対抗していた。いわば、この一年間を支配するのは、偏差値180ぐらいの頭脳の連中の小競り合いであるから、もうすっきりしたかったのであろう。

今回から吉高由里子(紫式部)さんが登場である。吉高由里子さんは家の中にいるのがかったるいので、町中で和歌の代行業をやっている。もう、宮中の和歌をすべて代筆していた話でいいや。クライマックスは、吉高由里子さんが母親の敵を道長にとらせるかもしれないが、――同衾にさそって自ら筆を喉元に突き刺してもよい、ペンは剣より強し。あるいは、彼女の子どもが流れ流れて巴御前の先祖でいいや、やっぱり剣がつよし。

吉高、――義高(義仲の子ども)

懺悔2023-1

2023-12-24 23:08:50 | 大学


今年の懺悔1:ミッキーとアトムの類似性を黒板に絵を描いて説明しようとして、目つきの悪いただのねずみと脳天がぱっくり割れた人間もどきを書いて受講生を怯えさせたことをお詫び申し上げます。


レジャーランドと健康ランド――ミッションの再定義を中心に

2023-11-25 23:23:14 | 大学


誰がそのもっともらしいことを言っているか注意せよというのは、大人の常識であるが、肝心なときにその常識を思い出さずに、そこはそういうことにしとけよみたいなことに対してだけ思い出す。――そういう人間が社会の空気を制圧するといまみたいな感じになる。

かかる人間的空気のおかげかしらないが、――結局実現したのは脱近代じゃなくて脱温暖湿潤気候だった。

コミュニケーション能力を観察できなにか人間性を判断できると考えるのは、そもそもコミュニケーションを舐めてる。もっと言えば人間を舐めている。その結果がこの有様である。

ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ
――中澤系『uta 0001.txt』


大学はレジャーランドか、みたいな議論は定期的に催される。そろそろ入試の季節だからであろうか。管見では、――苦労して入った割にはずっと出られない人たちがおり(ここにいる)、もすかして遊園地に見せかけた監獄なのではないだろうか。そして、やっと娑婆に帰ってきたら白髪の老人になってましたとか、どっかできいたことある話だ。最近は竜宮城にもミッションの再定義などの地上の何かがながれてくるのであるが。酒池肉林ではないから、竜宮城でも監獄でもどっちでもかまわない。もっといえば、レジャーランドでも健康ランドでも解放区でも植民地でもなんでもいいけれども、――従業員の給料、とくに事務の給料をあげてほしい。あとレポートには自分の名前を書け。

夕方は寒くなりました

2023-11-07 23:58:01 | 大学


唯我は子產むわざもしらざりしに、しうの御使にいちへまかりしに、又わたくしにもぜに十貫を持ちて侍りけるに、にくげもなきちごを抱きたる女の、これ人にはなたむとおもふ、子を十人までうみて、これはし十たりの子にて、いとゞさつきにさへ生れてむづかしきなりといひ侍りければ、この持ちたる錢にかへてきにしなりと。姓は何とかいふと問ひ侍りければ夏山とは申しける。さて十二三にてぞおほき大殿には參り侍りし

繁樹老人は、市で買われてきた幼児だったという。市は寒かったであろうか、暖かったであろうか。

祭りにまつわるエトセトラ

2023-10-29 16:39:13 | 大学


教師をしていると学生の虚言癖をどうするかはいつも悩まされるけれども、倫理自体を教えてもだいたいだめで、実力をつけないと結局は嘘をつくようになるということを教える必要があるのだ。しかし、この必要性から逃避していつも倫理だけいう教師が多くなる。教師という職業、もともと少し嘘をつくことが必要だということもあって、そういう心のからくりがわからなくなった人間もたぶん多いんだろうと思う。

このような意識の欺瞞と惰性は日常性という維持が目的のせいでもある。これだと息が詰まるので、人間は、嘘を虚構という花火にすることによって昇華してしきり直しをするという発明を行った。スポーツ大会や祭りもその一種であろう。スポーツが虚構化されているのは言うまでもなく、いわゆる「文化」だってそうなのだ。だから、文化祭も少しスポーツの祭典の香りがしないでもなく、スポーツに文芸臭も付着しているのだ。

昔の学生に会って、黄表紙とか太宰の話をしてするする通じるいうちは世の中捨てたものではないが、誰も彼も疲れている。

文化祭で、こういう疲れを別のものに変形しなくてはならない。

もっとも、わたくしくらいになってくると、学園祭への参加は、秩序維持(警備)ぐらいだ。ゆえに、なにゆえ我が輩は秋空のなかを出勤しているのであるかと思わざるをえない。

海の向こうでは相変わらず戦争である。無駄な批判的能力をそぐと肯定する力はおろか伝言も精確にできない人間が大量生産されることがわからないようなやからは教育に関わってはならない。当たり前であるが、戦争責任やらなんとか責任は、その主体がどう評価され信用されているかによる。で、個人を超えた主体の場合は、過去の歴史や現在や未来(の見方)によってその信用は変化し、「やはりやばい」や「不幸にもやばい」、「なくなってもかまわんのでは」といった価値によって規定される。我々は価値から生ずる責任にむかって歩んでいる。今戦争をやっている国でさえそうなのだ。

学園祭でなんか文化の香りがなくなったとか言うてるそこの同世代のおじさんに告ぐ。その香りのいくらかは酒のにおいである。バッカスは退場せられた。学園祭の治安維持係の一角を担っているので、コロナ開けの学生の酒喜乱舞を怖れていたのであるが、とっくに学内では普段から飲酒が禁止されていた。チャットGPTにきいてみた。

酒の香りとの関連について言えば、一部の学園祭ではアルコール飲料を提供することがあります。ビールやカクテルなどのアルコールの香りは、祭りの一部として楽しまれることがあり、社交的な雰囲気を醸し出すことがあります。ただし、未成年者へのアルコール提供は法律に反する場合があるため、適切な規制と監督が必要です。
 学園祭は、文化とエンターテインメントが融合する場であり、多くの異なる香りが出会う場所でもあります。その香りは、参加者にとって楽しい思い出と共に残ることでしょう。


そういうことを聞いてんじゃねえんだよ。

学生の展示を見て回るとそれなりに文化はある。文芸部の展示は、自分たちの同人誌と好きなライトノベルとかイラストとかが同一平面に並んでいるカオスで、しかもえらく盛況だなと思ったら、ほぼ部員が客みたいに騒いでいるという、読者文化論的に非常に興味深い事態が展開されている。美術部はこれにくらべて作品をみてくれみたいな感じが強く、展示の裏のすごく奥に眼光鋭い部員が座ってるみたいな感じがいつもの感じである。ジャズ研はいつもがんばっている。