先日、外国人観光客が雷門のまえで騒いでたから……
「……熱いわ――この乳も酔っている……」
と、いって寂しく微笑んだ。
「人目があります。これでは巡礼して、肌を曝しては、あるかれませんね。ぽっちり薄紅を引きましょうか、……まあ、それだと、乳首に見えようも知れません。」
浅葱の絵の具を取って、線を入れた。白雪の乳房に青い静脈は畝らないで、うすく輪取って、双の大輪の朝顔が、面影を、ぱっと咲いた。
蔓を引いて、葉を添えた。
「うまいなあ、大野木夫人。」
「知らない。――このくらいな絵は学校で習います。同行二人――あとは、あなた書いて下さいな。」
「御意のままです、畏まった。」
――泉鏡花「白花の朝顔」
仕事を終えて新宿のでかい映画館に行ってみたのであるが、吹けば飛ぶような映画しかやっていなかったので絶望して世界の良心・神保町に行く。
日本人の良心・岩波ホール。さすがエルマンノ・オルミ監督のやつを上映していた。戦争はオバマが言ったような「死が降りてきて」云々ではない、権力の処世による殺人である。私はこの映画にはちょっと音楽は余分に思えた。極めて抑制された使い方をしてあったけど……。イタリア人にとっては、そうではないのかもしれない。
そういえば、林光の「原爆小景」は、ながらく「夜」で終わっていたのだが、2001年になって「永遠のみどり」が作曲されている。私は、これを聴いた時に余分だと思った。原民喜の詩どおりなのだからそれでよいかもしれないのだが、緑は戦争があろうとなかろうと関係なく自然と生えてくるのだから……。放射能汚染などものともせず、それを内部に呑み込みつつ植物は生えてくるのである。アメリカ大統領が広島に来て演説をすることは、緑とおんなじでいずれは実現するものであって、今回それが実現したに過ぎない。非道いことだと知っていてもアメリカ大統領はいつも核のスイッチを持ち歩いている。平和のために彼はボタンを押すであろう。
イタリアではどのような反省が行われているであろうか?この前からレスピーギをよく聴いていて、イタリアのファシズムについて勉強しようという気にもなってきた。
日本人の良心・岩波ホール。さすがエルマンノ・オルミ監督のやつを上映していた。戦争はオバマが言ったような「死が降りてきて」云々ではない、権力の処世による殺人である。私はこの映画にはちょっと音楽は余分に思えた。極めて抑制された使い方をしてあったけど……。イタリア人にとっては、そうではないのかもしれない。
そういえば、林光の「原爆小景」は、ながらく「夜」で終わっていたのだが、2001年になって「永遠のみどり」が作曲されている。私は、これを聴いた時に余分だと思った。原民喜の詩どおりなのだからそれでよいかもしれないのだが、緑は戦争があろうとなかろうと関係なく自然と生えてくるのだから……。放射能汚染などものともせず、それを内部に呑み込みつつ植物は生えてくるのである。アメリカ大統領が広島に来て演説をすることは、緑とおんなじでいずれは実現するものであって、今回それが実現したに過ぎない。非道いことだと知っていてもアメリカ大統領はいつも核のスイッチを持ち歩いている。平和のために彼はボタンを押すであろう。
イタリアではどのような反省が行われているであろうか?この前からレスピーギをよく聴いていて、イタリアのファシズムについて勉強しようという気にもなってきた。
小学校4年だかのときに埋めたタイムカプセルが、このたび掘り出されたようです。確かに、あまり待てばよいというものではない……。
私は、埋めた時のことをかなりはっきり憶えていて、カプセルに入れた花の絵のイメージまで頭に残っていた。しかし、作文まで入れていたことは忘れていた。今回、それを読んでみたが、なんというか、すでに確かにわたくしの文章であった。
基本的なところがまるで変わっていないところに、あきれ果てるばかり……である。ただ、確かに小学校四年生の私に私の「内面」があるということが明らかであったのがちょっと不気味であった。
今日は、内容学演習のレポート課題「蓮實重彦の記者への発言を
喧嘩はちゃんと勝者が生じないのが世の常であるが、……そこで登場するのが、金で彼らを買い、一儲けしたい商人。九人揃った背中の龍は、ただの昇り龍の幻覚を起こしただけだったが、……とりあえずプロ野球選抜チームを四十五人連続ホームランでノックアウトする。九人は、かつてプロ野球チームを解雇された親の怨念を背負った子どもたちであった(ので?)、プロ野球チームをやっつけた後は、じぶんたちを雇った商人と縁を切って、「自由」になったのであった。おわり。
最後のあたりでよいシーンがあった。恥をかかされたプロ野球チームの主将?が、九人と一緒に、商人とオーナーの密談に殴り込みをかけるところ。この場面で、オーナーをぶん殴ったのは、主将(長嶋)のみ。いままで喧嘩ばかりしてきた九人はなにもせず。考えてみりゃ、彼らの暴力はひたすら内ゲバで、一般人にはご迷惑をおかけしていない。一方、一般人に手を挙げた長嶋……日本プロ野球終わったな……
革命は、最後は非暴力で、敵の自滅を俟つ……。そういえば、怨念が本人でなく子どもたちによって昇華されるのは当たり前ではあるが、重要なことであろう。でも、怨念がただでは消えなかったことを自覚する必要もあります。
やっぱり野球やってるだけじゃつまらんので、喧嘩マンガに戻った第三巻。やはり民主主義のゆったりした流れには堪えられなかった群竜たち。しかも、彼ら以外の一般ピーポーの怨念はほったらかしにして、ひたすら群竜エリートたちの権力闘争。彼らは怒ると背中に竜の一部が顕れ、かれらが全部揃うと何かが起こるらしいのだ……。という理屈とは関係なく、誰がリーダーか決めようと喧嘩が始まる。とにかく、全体のことはあとまわし、自分が偉ぶろうと頑張る。次は、歴史の必然として、……
野球が始まったら意外と普通の野球漫画になった「群竜伝 2」。前半で、野球部がやさぐれていた理由が、かつて、ミスした一年生を応援団がリンチして死亡させた事件にあることが明かされるが、とりあえずどぐされ野球部であることには変わりがなく、気合いやらルール違反すれすれの脅しなどで予選を勝ち上がる。
つまり、あれである。一人一人が親分のような人間しかいない集団が暴力ではなしに合法的に勝ち上がるためには、「野球」というゲームが必要だったのである。これは民主主義のようなものではなかろうか。
……僕は政治的民本主義が実施さるるに先って道徳的といわんか社会的といわんか、とにかく政治の根本義たる所にデモクラシーが行われて始めて政治にその実が挙げられるものと思う。モット平たく言えば民本思想あって始めて民本政治が現われる。して民本思想とは前に述べた平民道で、社会に生存する御互が貧富や教育の有無や、家柄やその他何によらず人格以外の差別によって相互間に区別を付けて一方には侮り、一方は怒り、一方は威張り一方はヒガみ、一方は我儘勝手の振舞あれば一方は卑屈に縮むようでは政治の上にデモクラシーを主張してもこれ単に主張に終りて実益が甚だ少なかろう、トいって僕は然らば政治は圧制を旨としても思想的のデモクラシーを主張すれば足れりとは信じない。
――新渡戸稲造「平民道」
……新渡戸の言っていることはたぶん半分間違っている。
本宮ひろ志のマンガを読んだことがなかったので、読んでみたんだが、今のところ登場人物たち全員が鼠なみの脳みそらしいので好感が持てる。普段練習もせず賭け事と喧嘩しかしてないようなクズ野球部のなかの親分格が、129頁でとつぜん、その哲学を披露し始めたので面白かった。
「おのれの世界をだれにもじゃまさせぬ そのためのむすびつき……そのための連合体だ」
で、その野球部を甲子園に連れて行こうとしている主人公?が、だからこそいいのだと言い、「ひとりひとりの個性を思うぞんぶん見せつけるんだ!」と叫ぶ。
思うに、ひとりひとりが違ってみんないい、みたいな哲学は、平和なユートピアをもたらすどころか、喧嘩しか頭にない荒くれどもの世界を現出させるのであった。今もそうなっている。たぶん本宮ひろ志の描くような世界は七〇年代ではなく、今にこそ当てはまる。