★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

組織と娯楽

2024-05-31 14:27:01 | 文学


 ある辺鄙な県庁所在地へ、極めて都会的な精神的若さを持つた県知事が赴任してきた。万事が派手であつたので、町の人々を吃驚させたが、間もなく夏休みが来て、東京の学校へ置き残した美くしい一人娘が此の町へ来ると、人々は初めて県知事の偉さを納得した。

――坂口安吾「傲慢な眼」


「人々」はともかく、組織内部ではそんな「納得」などほとんどなされない。トップの判断が規定路線みたいになっている場合、たいがい逆に慎重に事は進められ、反論を無視する過程を通して、規定路線であることを表面上なかば否定しつつ規定路線に突き進む。こういうことは小学校の学級会でもある訳であってみな面倒くさいから文句を言わなくなるだけだ。それでもあまり不満のマグマをためないように思想やイメージが組織内でも動員されるわけであるが、あやつはホントは(というか言うまでもなく)頭が悪いぞみたいなイメージが組織のそこここに滞留することだけはさけようとするものだ。組織が壊れているときには、そういう回避策がたいがい壊れており、表に出していはいけないイメージだけが流出してしまう。

エンターテインメントは娯楽なんだから、あらゆる批判からそもそもそれが逃れられると思ってしまった若者やおじさんやおばさんたちは案外多い。広告というものもそうで、あんなものを表で目立たせるのはサスガにマズイだろと思っても、広告的なものにまともに反応するのは野暮だとみんな分かっているだろうと高をくくっている。田舎だからもっているだけだ。

娯楽が娯楽として創作意図が誰かによって一貫するなんてことはなかなかないわけだが、しかしできあがったものはあるわけだ。

「❗️」とか「‼️」の太ったかたち

2024-05-30 14:18:20 | 文学


するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云う声がしたと思うといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたという工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒いたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦ってしまいました。

――「銀河鉄道の夜」


台湾の歴史勉強してみると面白い気がしてきた。われわれはほんとに隣人をしらないのである。キリストはべつに敵や他者を愛せという意味でそういうことを言ったのではなく、ただ我々が陥りがちな事実を言ったに過ぎないのかも知れないのである。

わたくしがもっている赤軍派の雑誌『赤軍』をながめていたら、びっくりまーくが「❗️」とか「‼️」の太ったかたちに近いものがあるし、メンバーのメモ書きがのこってるをのみるとほんとに丸文字だった。いまならほんと閉じて広がる別の空間で活躍できたのにとおもわれるが、むろん当時から閉じてはいたのだ。帝国主義も植民地主義もそう認識することで矮小化される。

現実離れとわれわれ

2024-05-29 23:16:59 | 思想


だが『資本論』の労働価値説は九三%でなく、「一〇〇%労働価値説」であり、しかもそれの適用される対象は、右のような単純な生産モデルや仮定を許さない、現実の資本主義社会である。そこでは財の価値を労働時間単位で計測することは不可能なのだ。[…]マルクスは複雑労働ないし高度労働は簡単労働への還元計算ができるのだから、価値の労働時間による測定ができると思っていたらしい。しかし、こういう還元計算をおこなうこと自体が、マルクスの意図とは逆に、労働を「時間」という名前の、時間ならざる経済単位で集計することになるのである。


――「マルクス「資本論」の正しい読み方 1――「資本論」に労働価値説は実在するか――」(1973)


この堀江忠男の資本論についての紀要論文なんかをさっき読んでたんだが、同名のサッカー選手がいて、ヒトラー五輪の「ベルリンの奇跡」のメンバーじゃないかすごいじゃないかと思ったら本人じゃないか。。。肩を骨折していたにもかかわらずむかしは交代制度がなく出場して、ナチスよりも強いんじゃないかと言われていたスウェーデンを逆転で破った。五輪の数年前まで、日本人のサッカーレベルはヘディングって何?という状態だったらしいのだ。しかし、心配するにはあたらない、「キャプテン翼」にみられるように、日本人のサッカーというのはつねに自分の現実とは離れたものである。

現実離れするわれわれとしては、現実的な実力なんて現実的すぎてつまらない。むろん、機械的なことは機械にというのは止められない流れではあるが、機械的なことだけを誰かにやらせて自分はもっと高級なことをというはただの妄想で、全体的にあたまがゆるくなって体もだるくなり何も思いつかないというのが一般化してきているにすぎない。そこまで都合良く頭よくできてねえわけである。

現実離れの才能のために、――かしこまって「思考力の育成」とかいっていたらどうなったかといえば、事実や名前や題名を正確に写したりするのが苦手になってしまった。実際そうなってるのだから仕方がない。病気とかではなく全体的に苦手になっている。日本がいまいちになった理由にはいろいろあるが、一種の事務的な能力が転げ落ちてるのだ、なにが創造力だよ

教職人気の低迷の理由は多くあるが、この基盤みたいな学力=体力を「勉強できればよいというもんじゃない」とかいって遠ざけ、あたかも「コミュニケーション能力」を純粋に個人の力能であるかのようにみなすことで、その実、学力が不安な学生のルサンチマンに訴えてしまっている大学にも問題があるのは無論である。「コミュニケーション能力」は環境と状況によるから現場があまりに複雑性を帯びると信用できないのは当然として、上の体力が余りに低いと当然信用されないのはわかりきっている。基盤がないとおどおどするか妙にはしゃぐかどちらかになり、そんな人間に「先生」面してもらいたくないのは当然なのである。やはり「こんぴら先生」だの「大石先生」だの「金八先生」とか極道とかなんとか、現実離れしすぎたのはよくなかった。もはや、現実を直視するほどの勇気もなくなり、遠慮という名の逃亡状態である。しかも、そこにはインターネットの楽しい世界が用意されているのだからたまらない。

ICTで授業が楽になったり、一人一人に対応して学力を伸ばせるとか簡単に言う人というのは、主体性?とやらに裏打ちされた人間の体力と能力というものの野放図さと馬鹿さを過大評価しているし、そもそもそれに乗り気でない人間を蔑視することがおおきな目標になっているからだめなのである。うちの父親と母親は教師の新人時代、録音テープの機械が使えるということで重宝されたらしいが、――どうせ「さすが戦中生まれは科学の子だな、戦争負けたけど」とか言われていたにちがいない。戦争はコミュニケーションであり、それを物量の問題だと思ってしまう頭の悪さにおいては、科学を扱うときにいらぬルサンチマンが混ざってしまうのであった。

あまりにもうまくいかない教育を労働時間の問題に還元しようとするのなんかも、上のサッカー選手に言われるまでもなく、ナンセンスなのである。73年当時、それでもなお「労働価値説」を振り回す人たちがたくさんいたのは、たしかに時間が重圧となっているかのような倦怠が日本中を覆い始めていたからだ。連合赤軍事件なんか、殺した数とか銃の数とか、はては県警が食べたカップラーメンの数だとか、視聴率とかが問題になる体たらくである。事件の前に、もっと面白い現実離れを起こすべきだったのだが、それをやりかけたのは大江健三郎ぐらいだった気がする。

ぜんぶ鳥の足跡のせい

2024-05-28 23:42:36 | 文学


昔者蒼頡作書、而天雨粟、鬼夜哭。伯益作井、而龍登玄雲、神棲昆侖

蒼頡という四つ目がある人が感じを作った伝説がある。鳥の足跡の文様をみて思いついたというのだ。すると詐欺が発生し、人は耕作を棄て錐刀の利に赴いた。で、天は人間が飢えそうなので粟を降らせ、鬼は文書によって責められることが分かったので夜泣いたという。

こういう挿話を我々は忘れたので、文書改竄などを自分たちのやったことだと思う。つまりせいぜい自分のせいだと思っているから誤魔化したり思い上がったりするわけであるが、文書改竄は、鳥の歩行や鬼の歎きにも繋がるただの奇跡に過ぎない。

西遊記に出てくる唐太宗の冥界訪問のときも、太宗の命は崔判官の計らい――棒を二本付け足して――二〇年寿命が延びている。もはや、鳥の足跡よりも単純な記号による変化である。

日常のすえに雨

2024-05-27 23:16:40 | 文学


あやしう躍り歩く者どもの、装束き、仕立てつれば、いみじく「定者」などいふ法師のやうに、練りさまよふ。いかに心もとなからむ、ほどほどにつけて、母・姨の女・姉などの、供し、つくろひて、率て歩くも、をかし。蔵人思ひしめたる人の、ふとしもえならぬが、その日、青色着たるこそ、やがて脱がせでもあらばやと、おぼゆれ。綾ならぬは、わろき。

わたくしはもともと感想文を美味くやらかすたちではなく、妄想タイプである。大河ドラマをみていても、スカートをはきたいとは思わないんだが、十二単は着てみたいとか考えていた。

枕草子について、あれは特殊な非日常系のエッセイなんじゃないでしょうかと、昔、中学だか高校の先生に言ってみたらハテみたいな顔されたけど、今回の大河ドラマで分かっただろ、貴族の日常みたいなものじゃないことが。

文学にとって「日常」とは何か考えていたので、今日は、講義で、サルトルの情動論と文学の「日常系」の関係みたいな妄想を繰り広げて研究室に帰った。

雨が降っていた。

日曜日

2024-05-26 23:21:38 | 文学


龍王これを聞きて大きに憤り、「若かくのごとくなる時は、水中にある處の吾眷屬共、ことごとく此賈卜が為に捉盡さるべし。我自から長安城に至り、賈卜を打殺すべし」とて𠝏を提け躍り出んとす。あまたの魚臣等推とどめて申しけるは、「大王今怒を起して彼所へ御出らば、かならず洪水ありて長安の人民を損じ、上天の咎を蒙り給ふべし。只々方便をもつてかの賈卜を殺し給はんこそ然るべからん」と諌めければ、龍王も尤と是にしたがひ、身を變じて一人の書生となり、只一人長安城の西門に至り、ここかしこ尋るに、果して一箇のト舗有り。

そういえば、「地球防衛未亡人」のユニフォームデザインを藤原カムイ氏がやっていたを始めて知った。

今日は、『支那文学大観 第8巻』に載っている人虎伝の現代語訳などを読んだ。

闇の世界における安易さ

2024-05-25 23:17:50 | 文学


私は建築のことについては全く門外漢であるが、西洋の寺院のゴシック建築と云うものは屋根が高く高く尖って、その先が天に冲せんとしているところに美観が存するのだと云う。これに反して、われわれの国の伽藍では建物の上にまず大きな甍を伏せて、その庇が作り出す深い廣い蔭の中へ全体の構造を取り込んでしまう。寺院のみならず、宮殿でも、庶民の住宅でも、外から見て最も眼立つものは、或る場合には瓦葺き、或る場合には茅葺きの大きな屋根と、その庇の下にたゞよう濃い闇である。時とすると、白昼といえども軒から下には洞穴のような闇が繞っていて戸口も扉も壁も柱も殆ど見えないことすらある。

――谷崎潤一郎「陰影礼讃」


仕事の時間まで藤原安紀子の詩集を読んでいた。現実に内属しすぎると何が何だかわからなくなる。最近の世の中は、皮膜がわからなくなった白夜の段階をすぎて、谷崎の言う闇の世界になっているのではなかろうか。

家庭も労働も勉強もすべて、当初おもっているよりも簡単じゃなく、ものすごく難しいものだ。特に最初にやつにかんしては、労働を平等に分配すれば即カンタンになるほど楽なことではない。もともと技術や方法論が複雑になっていた分野なのである。家事労働とカンタンに片付けたリベラル風な思想は処方箋化してもそれ自体はつかえない。障害者差別などにもおなじことがいえる。

吹奏族として経験で学んだことと言えば、どんなに人が「協力」しようとしても、個人の力量が上がらない限りどうにもならないという身もふたもない現実である。

教育実習で多くの学生が経験するのは、人を注意するというのも予想してたよりかなり難しいことだという現実である。まだ教師の立場に僅かに残っている権威とかでどうにかなることもあるが、それがない場合はとても大変である。家庭や会社でもそもそもその前提が安易に考えられすぎている。で、気がついたときには組織をピラミッドにしたり評価をちらつかせたりする手に出てしまう。こういう傾向と、人間よりも自然だとか環境だとか暴力的な転倒に影響を受けているインテリの傾向は、関係がある。――むろん、いまは「手に出てしま」った自覚すらなくなった段階である。

導き出されるものとそうでないもの

2024-05-24 23:54:44 | 文学


パツセン大街道のひのきから
しづくは燃えていちめんに降り
はねあがる青い枝や
紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや
もうまるで市場のやうな盛んな取引です


――宮沢賢治「春と修羅」


街灯で宮沢賢治を想起するひともいるに違いない。『まんが日本昔ばなし』にでてくるおにぎり山は、作画の池原昭治氏が香川県出身であったことと関係があるという説がある。最初にマリンライナーにのって香川にちかづくにつれ風景とつられて「ぼうや~」という曲が浮かんだのは、ただの連想ではなく、画と実景の一致であったかもしれない。このように、作品にかかれたものは、いろんなものを導き出す。

私はあれこれ頭をなやませた揚句、母にせがんで、お茶の水の宮様専門のセーラー服店でとび切り上等のカシミヤのセーラー服を作ってもらった。上衣を思いきり短く、イキに、そして、アコーディオンのように、ひだの多いすてきなセーラーを。私は、後で学校をクビになるまで、この一着を着通した。

――高峰秀子「私の渡世日記」


一方、すべてが導き出されるわけではない。戦前の世代には、ときどき「学校を首になる」という人がいた。この緊張感はわれわれにはもう分からなくなっている。想像はできるが。。。

赤ん坊と虫――前衛

2024-05-23 23:38:59 | 音楽


シェーンベルクの室内交響曲第一番を聴いていると、ほんと赤ん坊からやり直した音楽という感じがし、保護したくなる。前衛はいつも保護されたがっているのであろう。

この音楽は、小さいラジオから聞こえてくる自然音みたいな感じがする。スマホ依存ときいて思い出すのは、ポケットに入るラジを肌身離さず一日中聴いていた祖父の世代の人びとで、――結局、この大きさから音が出るみたいなのが人間好きなのではなかろうか。籠の中の虫みたいなものである。

反観光客の哲学

2024-05-22 19:37:52 | 文学


「あの光り立候山こそ、蟠桃會をかき亂したる斉天大聖を、如来の封じ置き給ふ五行山なり。金字の壓帖則かしこにあり。師父立ちよりて看給ふべし」菩薩則其言に随ひ、この山上に至りて帖子を見給ひ、一絶の詩を賦し給ふ。
  堪歎妖猴不奉公
  當年狂妄逞英雄
  自遭我佛如來困
  何日舒伸再顯功
かく詠じて山を下り、悟空が在所を尋ね給へば、土地山神都て出迎へ、悟空が居所に導き奉る。悟空原來石の匣の中に壓へられ、手と口とは働けども、身は一分も動く事あたはず。菩薩立よりて、「我を見知りたるや」と問ひ給へば、悟空面を上け、「我よくを見知りたり。南海普陀落迦山の大慈大悲の南無観世音菩薩にてはあらざるや。


われわれの記憶は実に信用できない。三蔵法師が悟空が埋まっている五行山で七言絶句を詠んだことなんかすっかり忘れていた。英雄の再出発を迎えるにあたり、じつに手順を追って悟空を再登場させているのである。三蔵法師だって過去に罪があって、それがたしかあとで語られるところも趣がある。英雄を英雄のまま扱えるなんてのも最近強まったに過ぎない勘違いである。

わしらの業界だけでなくいろんな現場で、悟空並みに狂った支配者予備軍が、今日も制度を壊す、遠慮なしの意見を言う形で出現し続けている。そもそも、「空気を読む」という言い方がコミュニケショーン能力あるいは群れの情けなさを示しているのは半分以上嘘であって、そこにはもっと明確に個人主義的な矜持じみた心理が混じっている。空気を読む能力と新たな世界を作り出そうとする能力はそれほど違っているわけではない。だから神話に於いては英雄を善として描き出すのに躊躇いがみられ、しかし、この躊躇いを払拭したい心理が極端な英雄像をつくりもするのである。

朝ドラでも大河でも、主人公が男でも女でもそれは英雄で、それが好きなひとはおおいが、――実際世の中を動かす当事者というのは「頑強な」保守性の中にこそあり、弱者も英雄もその保守性の一部なのである。それがめんどうでかったるく感じる言語優先的な人々が急に法の支配に人間性を押し込めようとする。法はもともと人情の世界に接地しているべきもので、それ自体をいじくり回す段になったら、極端な過ちが隣に控えていると言ってよい。だから、われわれはその接地を文学やドラマで確認しながら現代社会を生きている。今やっている朝ドラなんかの心意気はそんなところだろう。

柴崎友香氏の『あらゆるところは今起きる』という、みずからの発達障害の報告記は、氏が巻末で言うように、横道誠氏の試みに続くものである。だから、接地するのがおそらくテキストで、自らのほんとうの体験は記されていないような感触があった。小説家なので、どことなく上手く嘘をつくのがうまい文体が氏に身についているからかも知れない。男女の違いもあるかもしれないが、わたくしには生々しい感触がなかった。

観光客になってはいけないのだ。観光は、認識したもの/見たことのあるものを見に行くことである。そりゃ実物を見て何ものかを感じるために行くのだということであろうが、実際は、まったく知らないものにはなかなか出会おうとしないのがわれわれで、観光に行きすぎる人間には感想がなくなってゆく。最近ニュースになっている、山梨にコンビニの上の富士山を見に行くみたいなものとか、ばかばかしいにもほどがあり――そもそも花火とか富士山とかを観に行くこと自体がダサいのである。線香花火とか隣のガキが作った砂山の美を堪能すべし。よほど発見があるはずだ。

確かに、山梨側から見る富士山はぼってっとしたかんじが、ルッキズムに対するなにかであろう。

形だけだったら讃岐富士の方がいい。自然の造形とはおもえない。

そもそも観光というのが冷静に考えてすきではない。むかしからさんざ言われてきたように、観光地の創造とは、ある種の歴史の修正であって、さまざまな要素が観光地化で撤去されたり言い換えられたりして、その土地の不自然な発展や没落が強いられている。木曽なんかでもそういう要素がある。観光地化にともなったそのオモテナシ的なたいどのおかげで、日本人総幇間化が起こっている。――富士山を日本人が古来愛してたとか、うそばっかりついている。富士山なんかほとんどの国民は見たことなかったわ。

そういえば、罪人・三蔵法師も一種の観光客じみた甘さがあり、五行山で漢詩など詠んでしまったに違いない。

極楽以上、地獄以上

2024-05-21 21:02:05 | 文学


「そんな事はないじゃろう。十年なり二十年なり坐って居ると、又別な世界へ行けるのじゃろう。」と、おかんは、腑に落ちないように訊き返した。
 宗兵衛は苦笑した。
「極楽より外に行くところがあるかい。」と云ったまゝ黙ってしまった。そう聴かされて見るとおかんにも宗兵衛の云って居る事が、本当であることが、解った。御門跡様のお話にも、お寺様の話の中にも、極楽以上の世界があることなどは、まだ一度も聴かされたことがなかった。


――菊池寛「極楽」


NHKの「漫勉」で知ったんのだが、水木しげるの漫画に特徴的な真っ黒い影や闇は、アメコミの影響があるかもしれないということである。地獄とは、敵さんのアメリカであったのであろうか。

猫が蛙を食べるというの、最近我が庭にノラが闖入してしていて知ったんだが、「猫ちゃん」とか猫のことを言っている人って自分も猫並みにかわいいと持っている可能性が高く、蛙でも食べればもっとその境地に近づくであろう。それは無論地獄であろうが、地獄をみないうちは極楽は見えない。昔の人は、それが普通すぎて分からなくなっていたのであろうが、現代人みたいにぬるま湯の煉獄に居座ってしまうと、地獄や極楽が、むしろ例外的なものとして、浮かび上がってくるのである。

公犬論

2024-05-20 23:48:26 | 文学


妖魔是を聞きて大きに驚き、寶杖を投げすて、菩薩の前に跪づき、謹んで申しけるは、「我は原天上靈霄殿に有て捲簾の大將なりしが、玻璃の蓋を打砕きし罰によって、鞭打るると事八百、終に下界へ逐下され、此河中に身をしづめ、常に食乏しく飢にくるしみ、たまたま往來の人あれば是を捉て食となす。今も菩薩の來迎を知らず、凡胎の僧なりとおもひ、とらへて吃はんとおもひこそ罪ふかくもおろかなれ。唯望むらくは大慈大悲の菩薩あはれみを垂れ給ひ、我が此くるしみを救ひ給はば、生々世々の大恩わするる期あるべからず」と旧瀑布をなして告まゐらすれば、菩薩も憐れとおぼしめし、「你天上にて罪を犯し、下界に来つて殺生をかさねば、さらに減罪の期あるべからず。我今東土に行きて経をとる人を需めんとす。你早く善果にして、かの経をとる人の弟子と成り、西天に来て如来を拜せば、其時罪を免されて、ふたたび本職に帰るべし」

西遊記は、人間と河童と豚と猿の物語である。さすが中国である。われわれはつい「犬」を入れてしまいがちである。映画「ケルベロス」は好きな映画であるが、押井守が組織の中の人間ばかり描いているからだ。この物語に出てくる犬としての人間は、――「犬」でありどこまでいっても「犬」なのである。押井は人間が犬として死ぬこと描きながら、その死んだことに堪えられない。だからその犬死をくり返し描いている。わたくしはまだこういうドラマの方が堪えられる。緩慢な生を組織する社会は学問にまで浸潤している。

学会とか会議の司会がアナウンサーみたいな口調になっているのは流行なのであろうか、と思って細に聞いてみたら、事務職でもそうらしいから学問の堕落ではなかった。社会の堕落であった。――むろん、こういうのもある種の抑圧であり、神経質な殺伐さが失われて対話もなにもなくなってゆく。学会発表もどこかしらショー化している。本質的な議論は議論をすべきところでやり、懇親的なところではもっとくだけた裏話みたいなものをやるのが学問の動物的社交というやつだったとおもうが、いまは下手すると議論をすべき場が社交ダンスの場となって、めんどうな議論は懇親会で(――しかも結局はしない)というかんじになっている。だから、仲間はずれみたいなものが、何処の場でも隠されて隠微に行われる。建設的な意見を、みたいな方向性はたいがいこういう結果をもたらすのだ。政治家達を笑えない。――われわれは、周囲の物を臭う風景ではなく、物の手触りみたいなものとして愛玩するようになっているのだが、要するに育ちが良くなりすぎて犬ではなく人間になってしまったのであろう。アンチヒューマンみたいな論調はその証拠である。坂口安吾が野良犬のような人間に人間をみた直観は間違っていなかった。

雑多な成績の人間がいる高校を出たので、都会の均質化された集団出身の連中において、知的緊張感があるかわりに魂が弛緩している場合が多いことを、わたしは昔感じたものである。大学に金がかかるようになればますますそういう魂の状態は広がってゆく。

一方、所謂「文化」についてわたくしはあまり心配はしていない。ネット上の、大河ドラマとか朝ドラの感想をみてると、結局、物語や小説でものを考え始める人はとてもおおい。。そりゃそれによって限界づけられることは多いが、その限界でさえ我々を別の思考へ促している。文化的なもので本質的に非人間的であるが、そういうものは容易に続くものである。

我々は文化的な連続を人間にもインストールできると考えがちである。人間も連続的な――発達過程があるとか考えるからでもあろう。で、その発達も個性があるとい言うので、一人一人に対応しようとするわけであるが、――ひとりひとりにきちんと対応した教育というのは、下手すると教師の指示をある種の「公」の指示ではなく、自分への指示だと受けとることを肯定する訳だから、何かの指示を自分の文化的=利益だけに照らして判断する人も増やすにちがいない。教員の指示というのは、大学だってそうだが、個々への指示ではなく「大体こんな感じであとは自分で考えて」みたいなものを逸脱することはない。社会でも規則とかコモンセンスなんてそんなものだが、それを自分への厳密な命令(文化的なもの)ととるひとが増えるとどうなるかということだ。「公」というのは、犬の群れにちかいものである。

二重の想像力

2024-05-19 23:39:04 | 文学


「ごついな」
「おなごのくせに、自転車にのったりして」
「なまいきじゃな、ちっと」
 男の子たちがこんなふうに批評している一方では、女の子はまた女の子らしく、少しちがった見方で、話がはずみだしている。
「ほら、モダンガールいうの、あれかもしれんな」
「でも、モダンガールいうのは、男のように髪をここのとこで、さんぱつしとることじゃろ」
 そういって耳のうしろで二本の指を鋏にしてみせてから、
「あの先生は、ちゃんと髪ゆうとったもん」
「それでも、洋服きとるもん」
「ひょっとしたら、自転車屋の子かもしれんな。あんなきれいな自転車にのるのは。ぴかぴか光っとったもん」
「うちらも自転車にのれたらええな。この道をすうっと走りる、気色がええじゃろ」


――「二十四の瞳」


果たして、「二十四の瞳」は、どの程度「模写は虚相を生ず」みたいな考えを実現しているのであろうか。わたくしは、こういう会話の場面こそがそうであるきがする。戦後の想像力は、こういうところがある。想像が現実の真実と言うよりすこしうわずった感じになってしまう。

大学院のころ、ある先生に「推測に推測を重ねてはいけません」と言われたが、――わたくしは、ゴジラが空を飛んだりする場面を想起した。我々の想像力は、そういう意味で推測を推測で重ねるような行為をしてしまう。それをやめると、正義派になってしまい、それはそれで嘘くさくなるからだ。

最終回と歴史の終わり

2024-05-18 23:21:27 | 文学


毬栗の丸い恰好のいい頭が、若い比丘尼みたいに青々としている。皮膚の色は近頃流行のオリーブって奴だろう。眼の縁と頬がホンノリして唇が苺みたいだ。睫毛の濃い、張りのある二重瞼、青々と長い三日月眉、スッキリした白い鼻筋、紅い耳朶の背後から肩へ流れるキャベツ色の襟筋が、女のように色っぽいんだ。

――夢野久作「難船小僧」


昭和50年代の『文藝春秋』めくっていたら、文士劇の広告が出てて、村上龍とか中上健次がでていた。たぶん文士劇の最終回である。村上龍とか中上はこういう意味でも最終回の役回りになってしまった。

そういえば、長谷川宏氏の『日本精神史』において特徴的なのは戦後である。朝日新聞の『語る――人生の贈りもの』においても、鶴見や吉本が触れられていないのはなぜなんだと友人たちから文句が出たらしい。わたくしはなんとなく、長谷川氏が歴史を終わらせたくなかったからではないかと思った。鶴見や吉本というのは、歴史を終わらせた人なのである。村上や中上と同じである。

強風で、庭にあった鳩の糞が彼方に――ABCD

2024-05-17 23:12:12 | 文学


 その頃この町の端に一つの教会堂があった。堂の周囲には紅い蔦が絡み付いていた。夕日が淋しき町を照す時に、等しくこの教会堂の紅い蔦の葉に鮮かに射して匂うたのである。堂は、西洋風の尖った高い屋根であって、白壁には大分罅が入っていた。
 日曜になっても余り信徒も沢山出入しなかった。
 その教会に計算翁と渾名された翁が棲んでいた。


――小川未明「点」


お寺に囲まれていた町で育ったので、そもそも教会と大学が結びついているような空間に対する恐れが昔からあった。そして、わたくしにとって、大学入試なんてのも――そもそも本格的な入試というものも田舎にはない文化であっったようなきがする。わたくしはセンター試験第一期生だ。雑な言い方すると、本質的には、AかBかという風な読解はあり得ない。だから、AかBではなく、その間のように見えるところのどこかだ、ということを選択させるのがセンター試験のような形態だが、――受験生はへたするとこれをAかB式の思考の一種だと思ってしまう(たまたま選択したものが解答だったときは特にそうだ)。記述式では選択じゃなくもとから生成させなくちゃらならぬが、いざ書こうとすると、AとかBの言い方になってしまう。やっぱり弊害は大きかった。

わたくしもつい、例えば、「エヴァンゲリオンて、昔の少女漫画にいた13頭身ぐらいの色男に仮面ライダーの頭部をくっつけてナイフもたしたかんじだ」とか考えてしまう。せいぜいABCDと付け足す思考である。

わたくしも勝手に博士課程にすすんだが、迷いはなかった。こういうものは迷っている時点で負けという気がしてならない。必然性というものが存在するのである。しかし、学者の業界にはいろんなにんじんがぶら下がっている。ただの100メートル競走に勝手ににんじんが障害物としておいてあり、それをぜんぶ咥えてゴールした奴が一位みたいなやばいゲームになっている。つまり、ニンジンはABCD、、としてのものである。さすがにわたくしは、もともと生来のあれにしたがって、そういうものをいちいち咥える習慣がなく、必然性に従っている。

昨日は、強風で、庭にあった鳩の糞が彼方に飛んでいった。