★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ワガ帰省2017(大晦日編2)

2017-12-31 19:48:50 | 旅行や帰省
 

千村さんの家。由緒あるお家である。たしか義仲の子孫とか…。



大手橋。



千村さんと山村代官の家は木曽川を挟んで…

 

ゆうびんポスト「お代官さま」。このポストの中では検閲が行われているというのはわたくしが今考えただけ



わたくしの母校。

山村代官屋敷の裏側に「代官稲荷」があると古地図にあったから、山を登りかけてしまう…

 

何もなかった(あとで聞いてみたら、代官屋敷の中に遷座しているようだ)

ワガ帰省2017(大晦日編)

2017-12-31 18:39:32 | 旅行や帰省
 

上の段の水場。水場ではなく、氷場と称すべし。ただいま気温は0度ぐらい。少しも寒くないわ

  

本町に降りてきました。



御嶽山に登る古道アリ。この登山道のしるし、わしが小さい頃はなかったぞ。



この橋もなかったぞ

  

この川はあったぞ。えーと名前なんだっけ。木曽川じゃなかろうか。

登山道の入り口に足湯あり。



一年中営業してるらしいと聞きました…



これもなかったぞ



 

ゆうびんポストに名前がついている。しかも巴ごぜん。どこかから刀でも出てくるんじゃないだろうか。郵便物なんか巴ちゃんに押し込んだら大変ですよ。絶対殺されますよ。

……つづく

清明社を訪ねる(長野の神社2)

2017-12-31 18:25:50 | 神社仏閣
木曾町福島に清明社あり。



上の段の街。不思議なことに昭和時代よりも古風になっt



ありました。この神社は安永5年に大通寺内、明治5年に水無神社に遷座、安倍晴明没後千年の平成16年にここに落ちついた。神仏習合とかいうても弱小神さんたちが盥回しにあっているだけの可能性があるのであるが、……それはともかく、ご神体はどこかの山伏がもってきた幣束で「これをご神体にせよ」とか置いて行ったものだそうだ。どうみても、山伏氏の無賃宿泊のにおいがプンプン

しかし、清明の墓というものが木曽町にはちゃんとあるのである。バス停の名前にもなっているのだ、これは大きなエビデンスといへよう。レニングラードとかスターリングラードがあったからといってレーニンやスターリンがいなかったという人はいないであろう。それと同じだ。





一間社流造。なかなかの彫刻がある社であった。



額には「清明霊神」とあって、これは山村代官の11代目良熈の字らしい。代官も忙しいですね。

今年読んだ本ベスト10――2017編

2017-12-29 17:12:03 | 文学


毎年やっているのかは自分自身でも忘れたが、今年読んだ本ベスト10を発表します。ドルルルルルルルル

シャン

10、原武史『〈出雲〉という思想』……読むのが遅いわっ、と言われそうでしたが、とりあえず。

ブルルルルルルッッ

シャン

9、加藤典洋『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』……やってくるらしいです

ヅルウルルル

シャン

8、玉井五一『明平さんのいる風景』……なんだろう、新日本文学会のこのなかよしこよしな感じは……正直、精神のプチブルジョアを感じる。いまもいるけど、スキーマ疑い系の社交界

シャン

7、近代浪曼派文庫『大木敦夫/蔵原伸二郎』……『正論』の人たちって、こういうのちゃんと読んでんのかね

ジャン

6、清水高志『実在への殺到』……やってきたり、殺到したり、スピード感をもつ時代ですね

シャン

5、グレアム・ハーマン『四方対象』……ハーマンは、わたくしが高橋和巳の公開講座で平均年齢70代の聴衆に向かって本書を扱ったとは知るまい、ふっふっふ

じゃん

4、東浩紀『弱いつながり』、『観光客の哲学』……もう、われわれの世代が道徳を説き始めましたか、少し気持ちは分かるけど……

じゃじゃん

3、高橋和巳『邪宗門』……公開講座で語りました。昔、サッカーで「野獣」というあだなの人がいました。彼がワールドカップ出場をきめた試合にゴールしたとき「ヤジュー~」とアナウンサーがえらく盛り上がったのを覚えています。これからはサッカーでゴールを決めたときに『邪宗ー』はどうでしょうか。

ヅルルルルルルルr

チィーン

2、西田幾多郞『善の研究』……この本の再評価まで1秒前。煩悶……時間の無駄である場合も多し。

ドヅルルルウッルウルルルウル

ジャーーン

1、『香川県神社誌』(昭和十三年)……わたくしの神社探索のバイブル。ありがとう。しかし、わしに合わせたのか知らないが、なんだか神社・お寺巡りの番組が増えてる気がする。だいたい、作法がどうとか、カンゼンにどうでもいい内容ばかり。もっと、神話のエロチックな世界を紹介せえ。まあ、だいたい神社巡りやってる奴ってろくなやついなさそうだし(←お前が言うな)

以上のラインアップをみて、「うわっ、こいつカンゼンに日本回帰してるやん」と思った人手を上げて~




ついでに、今年の私的10大ニュースも述べておこう。

1、ニュースウォッチ9、嘘つきバラエティに転向……というより、視聴者のレベルを小学生に合わせた感あり。
2、トランプ大統領誕生……オウム事件並の衝撃。しかし、オウムもそうだが、意外というより、現実の再認識に役に立った。
3、森友・加計関連……教育に絡んだ事件はめちゃくちゃ。このまえもスカした経済人が「大学教育の改革」とかなんとかニュース番組でエラそうに主張していたが、大学の役割とは、こういう危険人物を演習などで鍛え直し卒業させないことにある。本当は在学中から危険と分かっているはずであるから、われわれの手抜きがこういう事態を生んだのだ。
4、稲田さん……タクシーのうんちゃんがめちゃくちゃ批判してたな。「あいつ襟章の階級とかちゃんとしらんだろ」と。おれも知らん。
5、韓国大統領やめる……匹夫という観念が生きているなあの国は……
6、共謀罪……共謀もイケないと思うが、だいたい人民の糞みたいな絆も問題なんだよね。集会届けを出さなければサティアン学生宿舎で雑談もできない某大学がどうなったか。勉強するかオタクになるか同棲するか、という真・善・美みたいなことになり、結局、肝心な魂がひん曲がると聞きました。わたくしは実際、そこに行って確かめましたが、確かにひん曲がりました。エビデンスはわたくしです。
7、眞子さん海の王子……がんばれ、妹に負けるな
8、コノハゲー……
9、北朝鮮Jアラート……で?どうしろと?
10、日馬富士リモコン殴打……どうでもいい

Tu es ma raison de vivre.――世川行介氏

2017-12-28 23:07:41 | 文学
わたくしのことを書いた人がいると学生が言うので、見てみたら世川行介氏のブログであった。世川氏の本は昔、「新宿……なんとやら」(「歌舞伎町ドリーム」だった)というのを読んだはずだと思ったが、その本が本棚にない。どこかにあるかもしれないからいつか発見されるかもしれないが――と思って、コピーの小山の中を別のものを探していたら『世川行介放浪日記 貧乏歌舞伎町篇』というのが見つかった。今年五月に買っていたのであるが、存在を失念していた。……というか、付箋を貼っているところから実は読んでた……と分かった。



表紙は、上のような感じで、写真にはない下の方にはちゃんと「世川行介」という著者名も書いてあるのだから、表紙だけで本人が三人(題名・絵・名前)いる。吹雪の中を麻雀の牌が飛び、たばこも右手においてある。ということは、この表紙は、麻雀の最中に氏が氏自身を卓の上に幻視しているイメージなのかもしれない。四人目の世川氏がいるということだ。しかし、赤い傘に本人の顔が隠れて見えない。慎み深いようなそうでないような、――内容を予感させる表紙である。

再読し始めたら、内容を思い出した。

坂口安吾は、「流浪の記憶」で、「地上の放浪に比べたなら私の精神の放浪の方が余程ひどくもあり苦痛でもあった」と言っている。実際、坂口の無頼というのは、あまり場所の移動を感じさせない。安吾は、友人に恵まれ体が頑強にできているのにひどく自意識過剰な心の不安定さに苦しんでいた。どうも安吾には、存在自身の孤独や不安みたいなことをいうくせに、恐ろしく社交的な一面がある。わたくしはそれが自意識過剰の原因だったのではないかとにらんでいる。しかし世川氏のものは移動する場面がなかなか切実で、女と病気が絡んでいる。にもかかわらず、非常に澄み切った感じの文章である。氏は吉本隆明の影響から出発しているようだが、むしろ作家としては、山之口貘とかに似ている気がする。ルンペンで、たぶん案外いい男というところも似ている。もともとそうだったのかは知らないが、たとえば「蘇った古い記憶」などに書かれているようなシンドイ経験をすると、2ちゃんねらーのような幼い自意識からは抜け出せるものだと思う。まともな魂を持っていればの話であるが――。世川氏の場合、非常に頑強な、孤独に対する耐性があって、ひどい目に遭うことで魂の堕落を引き起こすことがなかったのであろう。そんな気がした。案外、といったら失礼だが、体もちゃんと気にしているところが、本物のやくざな者たちとは違う。学者たちの方が、魂も体もめちゃくちゃになっている人がいる……コワッ

まあ、忘れてはならないのは、氏が本質的には失業者だということであろう。氏は、東京に出てきて「アーチスト(学者、でも可)目指してますわ」→「女と同棲しましたわ」→「捨てましたわ」→「就職ありませんわ」のような人ではなく、証券会社から特定郵便局と、ちゃんと働いていたのである。ところが、小泉の時のあれで……。確か氏は郵政民営化に関する本を書いていたはずである。勇気ある氏は、失業ついでに日本自体を捨てることにしたのである。「疎外されたら、相手を疎外せよ」とはわたくしの昔の指導教官(世川氏と同世代)の言葉であるが、ほんとにそれを実行に移す人間はほとんどいない。せいぜい、留学して「ポストコロニアル」な論文を書くだけだ。勇気のある行動とは、職場での迫害に抵抗してとどまること、そして国内における外国(氏にとってはちょっと前の歌舞伎町とか)にとどまることである。おそらく、世川氏はそれをやろうとしたのだし、氏と吉本隆明との相異がここにある。

「レエゾン・ド・ビイヴルということを考えるとやりきれない。」と坂口安吾は言ったが、世川氏はあんまりそういうことも言わないのではないだろうか。続編の「愛欲上野篇」を読んでないのであまり即断しかねるが、――氏の姿自体より、ほかの女たちの姿の方が鮮明であり、氏が歴史小説(これも読んでないが)の書き手なのもなんとなく分かる気がする。安吾とちごうて、書き手の氏は、Tu es ma raison de vivre.(君なしでは生きていけないんだ)で大丈夫なのである。本人がどうかは分からないが……

そういえば、山之口貘は戦後、故郷の沖縄の運命に苦しめられた。放浪者にとって、本当に恐ろしいのは「政治」なのである。我々小市民は「政治」の中にいるから案外気づかない。氏もそれで苦労したようだ。

八皇子神社を訪ねる(香川の神社162)

2017-12-28 15:52:08 | 神社仏閣


八皇子神社は円座町。

 

左は昭和四十二年。右は昭和二十年二月の注連石。二月と言えば、ヤルタ会談の頃である。この頃、ベネズエラとかペルーとかエジプトとかの8国ぐらいが枢軸国に対して宣戦布告している。アメリカとイギリス、ソ連だけに脅迫されたと思いこんでいる方々が忘れているのは、ホント多くの国に宣戦布告されたということである……



享和三年の灯籠



地神宮。

 

「八皇子御廟」とあり。鳥居は、明治十二年か?



香東川の方をのぞむ

 

本殿。

バラマキ

2017-12-27 23:16:52 | 食べ物


彌彦神社はバラマキ事件で有名である。といっても政治家がやらかしたそれではなく、初詣の餅まきに殺到した人民が将棋倒しになって120人以上が死んだ事件である。そろそろ、餅まきとかナニまきかしらないが、そういう類がニュースになる時期である。神職やお相撲さんが上からなげるものに、群がる人民の姿をみていると、日本人の何かを感じる。クレクレ体質というか、こういうときには、まさに上から何かが与えられているにもかかわらず「上から目線」とか批判しないところが笑える。どこでわれわれはこういうさもしい根性を身につけてしまったのであろう。奴隷としか言いようがない。

こういうことを言うと、またホ★エ▼ンのまねをした中年の若者が、「あれはじいちゃんばあちゃんだけでしょ」とか一見冷静な意見をしたりするのであるが、まったくそんなことはない。考えてみりゃ、恥も顧みず、モチに群がって将棋倒しになるみたいなのは、まだかっこをつけてないだけ見どころがあるような気がする。自分が奴隷的であることを素直に行為できる人間と、自分が奴隷でないと思っている自意識をこじらせた奴隷と、どっちがエゴイスティックであるかといえば、圧倒的に後者なのである。要するにニーチェ言うところの「奴隷の反乱」こそ、奴隷性の本質である。

【ガストン】科学と諸科学【グランジェ】

2017-12-25 16:39:42 | 思想


年に数回、同僚が集まって読書会をやっていて、わたくしも時々参加しているのである。この前は、ポランニーの「暗黙知」のあれを読んだのだが、今回はジル=ガストン・グランジェの「科学と諸科学」を読んだ。この本は、クセジュから「科学の本質と多様性」と題されてこのたび出版された。訳者のお一人がうちの学部におられるのである。

あまり体調がよくないまま読んだのでかなり理解が行き届かない所もあったが、本質的にやくざなタチであるところの文学の徒であるわたくしからみると、なぜこんなに真面目に「科学」の存在証明を行わなければいけないのかそもそもよくわからないのであるが、確かに、こうでもしないと、「科学」は誤解と偏見にさらされているのであろう。「結」の部分なんか、大学のシラバスみたいな感じであるし……。この人の「科学」概念を支えているのは数学であろうが、何しろ、ほとんどの人類は学校数学の初歩で躓き、――ファイヤアーベントみたいな人に、科学は神話と変わらんよ、と言われると喜んでしまうような輩である。グランジェは科学哲学の大家であったが、孤立していないとは言えないのではなかろうか。文学でもこういう役回りをする人がいるべきなのかもしれない。もう読者たちの擁護は期待できない。

文学の徒のわたくしは、いや神話だって数学と同じく、最近はいろいろと形式的内容によって進歩していて、例えば「君の名は。」とか「ハリーポッター」とかさ、――など、また大多数の人類を喜ばしてしまいそうになってしまうのであるが……。しかし、確かにグランジェの言うように、科学が執拗な一貫性への追求によって、クーンのいうパラダイムの如き、一見すると共約不可能性が存在するような状態を経験しながら、結局は全く進歩の止まらない――その様子を概観させられると、人文学の方にこそクーンのパラダイムによる進歩の停止が起こりやすい気がしてくる。グランジェが本書で指摘しているように――、人文学は数学とかと違って日常言語から借用した概念(言葉)による操作とある種のレトリックの巧みさに頼っている所があるので、その操作とレトリックの違いがすぐさま意見の対立に見えてしまうのである。かかる「言葉違えば主張違う」の哲学は外野が考えるよりも非常に神経質かつ感情的な対立を生み出している(学会に行けばそれが分かる)。――のみならず、だからこそ議論をして自分の意見を固めているうちに自分の説が神話的に見えてくることがあるわけで、そうなると符丁でしゃべり合って徒党を組むこともしばしばである。また、言うまでもなく、最近言われている「実践的な」ものなど、グランジェが科学に対比させる技術知ですらなく、むしろ神話の実現のための労働に近いから、実現されていないものまで実現されたと思い込む(最近の企業の隠蔽騒ぎなどよい例だ)。そんな停滞を見えなくするためにも、たとえば一年ごとにテーマ(神話)を変える教育学者とかが現れる次第である。わたくしが思うに、数学のような役割を文学の場合果たしていたのは、良くも悪くも心理学とかマルクス主義だろうと思う。これがリアリズムとファンタジーの対立などを止揚してきたところがあるばかりではなく、文学者が世界から降り注ぐ過剰な何かで気がフレることを防いできたように思われる。最近の小説なんか、方法の不在のためか、むやみに「私小説」=「全体小説」への意識なんかが出てきているのが現状ではあるまいか。そうすると、もう文学の議論は、世界観(宗教)の対立みたいな話になってくるのでは……

この書を読むにあたって、本棚の奥に転がっていたファイヤアーベントの「方法への挑戦」をめくってみたが、懐かしい感じであった。

一番おもしろかったのは、「第5章、自然科学と人間科学」の「歴史学という極端な事例」という節で、歴史学の対象は常に個体でありその理念は「真なる小説」である――「ポイエーシス(詩的)」であるとグランジェが言っているところであった。例としてあがっているのは、ミシュレであるが、わたくしとしては、「チゲーよ」と言いたい。理由は、司馬遼太郎好きが喜びそうな意見だからということに尽きる。

読後の感想は、「われわれは学問をやっていればいいことあるぞ」みたいなものであった。確かに、グランジェの云うように危険なのは、科学に対する過度な懐疑や盲信なのである。道学者じみた言い方ではあると思うが、とても難しく知性を要求する言葉であった。

追記)このときの読書会で初めてPDCAサイクルがイノベーションを絶対に生まないということを即座に了解してくれる集団に出会った。よかったよかった。

Happy Holidays

2017-12-25 15:16:32 | ニュース
卒業論文やレポートをほったらかし、愛する人や大して愛してない人や、プレゼントありゃあでもなんでもいいと思っているお方達と楽しい夜を過ごしたみなさんこんにちは。
皆さんの運命をサンタクロースで表現したいと思います。


「メリークリスマース」「イエーイ」


「あけましておめでとうございまーす」「イェー」


「卒業論文締め切りまで10日きってるよ、どうしよー」「イッ」