★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

えげれす万歳2

2011-04-30 04:27:31 | 音楽
えげれすといえば、ベンジャミン・ブリテンのことも言っておかなくてはならない。比較的よく知られた「シンプルシンフォニー」もこれまたずんちゃ的な趣がある。また「青少年の為の管弦楽入門」という曲があるが、これは昔よく聴いた。小山田宗徳ナレーターの録音である。管弦楽のパート別の紹介している前半は、はいはい、という感じで、眠くなってくる。しかし、「最後にみんなでフーガを演奏します」というナレーターの一声とともに、天才的なフーガが始まり、おメメぱっちりにな……るのであるが、なぜかとても聴いていて恥ずかしい。印象としてはとにかく、高速の木曽踊りなのである。

ブリテンは、日本にも縁がある。「シンフォニア・ダ・レクイエム」は、例の、皇紀2600年奉祝曲の一つなのである。結局、いろいろ理由があって演奏拒否ということでお蔵入りとなった。早崎隆志氏によると「神武天皇ノ神霊ヲ讃フル奉祝楽曲ノ内容ヲ有セザル」(http://www.tcat.ne.jp/~eden/Music/dic/kouki2600.html)……とかいうことらしい。あのね、「西洋音楽」を各国に依頼しておいて、神武天皇ノ神霊も何もあったもんじゃなかろう……。ブリテンは、戦後、日本にやってきたときに、自分で日本初演をやって帰っていったらしい。いまこの曲を聴いて思うのだが、本当は演奏拒否ではなく、難しくて当時の日本人は演奏できなかったんじゃないのか? 他に各国から贈られた曲が4曲ほどあったような気がする。フランス代表のイベールの曲しか聴いたことがないが、ブリテンの曲は、このとき、日本に届いた曲の中で群を抜いた傑作である可能性が高い。

皇紀2600年奉祝曲をウィキペディアでしらべてみると、こんなことも書いてあった。

作曲者に対する返礼 スタジオ録音されたSPレコード、印刷された楽譜とともに作曲者に送られた。また、織物なども贈ったようであるが、積んだ船が撃沈されたらしく、結局届かなかったという。リヒャルト・シュトラウスは当時寺の鐘を集めていて、作曲料の代わりにそれを送り、喜ばれた。」

……撃沈……鐘……

情けない……

ちなみに、ドイツ代表・リヒャルト・シュトラウスのその曲は、彼の曲の中でも最低ランクの曲とされ、お節介にも、N響の指揮者でもあったアシュケナージが録音しているけど、残念ながら私は聴いていない。シュトラウスが俗物でどうしようもやつだったという証拠にさえなっている曲であるが、いつか聴いてみたい。ちなみに構成はウィキペディアによると以下のようであるらしい。

1、海の情景(Meerszene)
2、桜祭り(Kirschblütenfest)
3、火山の噴火(Vulkanausbruch)
4、サムライの突撃(Angriff der Samurai)
5、天皇頌歌(Loblied auf den Kaiser)

……???

結論:日本はドイツじゃなくえげれすと組んどきゃよかった。

追記:以上を書いあと、ALTUSから5月に「皇紀二千六百年奉祝楽曲集」が発売決定ということを知った。なんと当時のSPの復刻である。最後に、ボーナストラックとして、陛下による玉音放送(日本終了のお知らせ)まで入っているらしい。この悪意丸出しのCDに期待である。さっそく注文した。

えげれす万歳

2011-04-29 23:19:48 | 音楽
テレビをつけたらなんかミサみたいなものがやってたので、よく見てみたら、長い白い布がみえたので、結婚式だと分かった。ハイビジョンになったら逆に画面をきちんと見なくなった。

えげれすの結婚式で、ダイアナさんの息子の結婚式であった。結婚式の主役二人の姿というのは、瞥見レベルでは絵になるが、なんだか間が持たないものである。というわけで、カメラは結構、合唱している子どもたちを映していた。

えげれすといえば、ローマ帝国の辺境国である。日本が中国の辺境国であるように。遠くからみると、形もよく似ているぞ。王政みたいなもんをやっている、というか、王室のスキャンダルでアイデンティティを保っているところもそっくりである。

そして私にとってえげれすといえば、ヴォーン・ウィリアムズの「イギリス民謡組曲」である。吹奏楽経験者にとっては初恋の思い出かトラウマかどちらかに属する曲である。私はどちらかというと後者であり、とにかく、最初の「ずんちゃっちゃあ、ずんちゃっっちゃ~、ずんちゃずんちゃずんちゃ」というところで、激しくさぶいぼが立ったのである。感激したのではない。あまりの田舎臭さに、木曽踊りを無理矢理昼休みに一人で校庭でやらされている如き感触がしたのである。どうもそれ以来、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲もホルストもあまり聴く気にはなれぬ。ホルスト「惑星」のなかの「木星」を日本の歌手が歌ってヒットしたことがあったが、私はまったくおしゃれだと思わなかった。冷静にメロディーを聴いてみるがよい。確実にこぶしをきかせたくなってくるでしょうが。

それでも、ヴォーン・ウィリアムズやホルストの次の世代のウォルトンになると、まさに長野県民が東京にでてきてがんばっている程度には、帝国的になっている。「クラウン・インペリアル」(王冠)も吹奏楽でやったよ。なんですか、この同じメロディーの繰り返しは。くどすぎる。押し寄せる金管のハイトーンと太鼓と銅鑼の乱れうちがたまらない。くどすぎる。

妄想えもん

2011-04-27 22:51:13 | 思想
ホリエモン氏がどうやら実刑を喰らいそうな感じらしい。私は彼に逢ったことないし、宮台真司と神保哲生の番組にでてるのをみたのと、オタキングと対談してるをみたのと、本を二冊ぐらい読んだ程度なので、よくわからない。しかも事件の金関係の話はちんぷんかんぷんなので、さっぱりだ。私はなんとなく彼の狙っていたのは、株式をつかった共産主義みたいなものだと思っているのであるが、たぶん間違っている(笑)諸行無常な資本主義もみんながホリエモンに投資すると共産化するという(笑)

じつは妙なところで彼と関係があった人が突然目の前に出現したことがあるが、まあそれはどうでもよい。であるからして、以下は私の持った彼のイメージから導き出される妄想である。

どうも彼は昔の左翼小児病という感じがする。判断は良くも悪くも速いし、ときどき鋭いことも言うし、ファイティングスピリットもありありなのであるが、敵を自分以外の「みんな」だと思ってしまう癖があるのではなかろうか。要するに世の中に対する分析がまあまあ当たっていても、具体的な他人に対する洞察力や心情を忖度する力が、別に偽装ではなしに、本当に低いのである。こういう自意識だと本当に知的な人間を味方にしておくことはできない。彼が成功しているうち、そして文句をつけられるのがめんどくさい時節には、彼のミスをフォローしている人間も、遠からず、いつか彼のミスを派手に必要以上に彼におっかぶせようと画策するようになってしまうのである。彼としては、情報音痴だったり能力がないために人間関係でこつこつ生きるだけの人間たちが世の中を旧態依然としたつまらないものにしてしまっている、と思っているのかもしれないし、実際そういう側面はある。しかしそれを旧世代とか権力とか常識にとらわれている人々というかたちで抽象しがちであり、そのことによって自分もやや抽象化した英雄になりがちなのである。──これは確か南直哉が言っていたが、おそらく彼は金儲けよりイデオロギーが好きなタイプなのだ。……無論それだけではモチベーションがもたないので、あとはとりあえず、自分が幸福になれそうなかたち──欲望を軸に本音を言うことで、社交辞令につつまれた言説空間を破壊していくうちに、自分の勢いに押されて自分を邪魔する人々が退散してくれるかも知れない、と思う。だからというわけではないが、対立する人がいなくては自分のエネルギーも枯渇しそうだから、がんばって古そうな人達と闘う。そのうちに、相手も彼もプロレスみたいな劇をまわりからも期待され、自らも自分の発言の反響ばかりを気にするようになってしまう、という感じである。確かに反響はすごいんだよね、今回も、彼を擁護する声もすごかったけど、「塀江もんの誕生である」「ついにホラレモンw」とか……彼は、完全に「ネタ」になってしまっている。

気がついたら、左翼小児病とはやや違っているような気がしてきたが、彼がはじめから自己演出をあまり意識的にやっていなければ、の話である。

ともあれ、彼のようなイメージを振りまいてしまう人間は、しまいにゃガス抜きに利用されてしまう。そして、彼みたいな、敢えて空気を読まない突撃劇みたいなものを、彼の勉強とか本当の狙い(←あったかどうか知らんけど)をすっ飛ばして模倣しようとする人間が多くなるとそれはそれで悲惨である。とりあえず、コミュニケーション能力とは勢いだとか思ってしまった人間は、確実に、脅し優先で他人に対するようになる。無論、こんなことは彼登場以前にも其処此処にあった現象であるが、それが社会的な当為にすらなりかねない。ガキであった方が勝ちという。以前、島田雅彦の言う「青二才」をイロニーととらずに、本気で青二才たらんとしてた馬鹿が大学院などにもたくさんいたが、今度はそれ以前的な状態に戻ろうというのだから……。こういう戦略は演技のうちはいいかもしれん。ひとがちょっとびっくりしてくれるから。しかしその大きな欠点は、次第に本当に幼くなってしまうことである。仮面の肉体への浸透力を侮ってはならない。

ゼミの時にも言ったが、結局、文章の狙いをそれを評価する以前に厳密に忖度する訓練とかを怠った結果、上記のような糞コミュニケーション優先主義みたいなのが蔓延っていると思うのである。文学の教員として思うのは「ほれ、みたことか」である。

私はホリエモンのことは全く知らないが、彼が目立ってしまう、あるいは目立たされてしまう社会はかなり不健全だし、彼も本当はそう思っているのではなかろうか、と思う。あるいは、本当に目立ちたいだけの阿呆かもしれないし、悪辣なことをやったのかも知れない。繰り返すが私は何も知らないけども。

とりあえず、彼を塀の中に放り込んだ連中が何を考えているのか分からんが、これだけは左翼文学研究者として言っておく。──戦後、塀から出てきた左翼の一部は、ヤクザの親分も顔負けに歓声に包まれ威張って出てきた。

論論論論論

2011-04-26 23:56:56 | 思想


今日は、大学院の授業でサンデルやらコミュニタリアンについてひとしきり騙ったあと、マチウ書試論についての論文を読みました。キリストたちを論じたマチウ書を論じたキリスト教神学を論じたマチウ書試論を論じた論文を読んでいたわけである。

アリスたちに惑乱すべし

2011-04-25 16:44:32 | 思想
昨日、西原理恵子の感想を起点に、「アリス・イン・ワンダーランド」の感想を書いていて思ったんだが、たしかに最近、対立している者に対して、どっちの言ってることも分かるよと言って客観的な態度とることが批評的だと思っているやつが多く、私もその気がある、と思った。バランスを取るだか、相対化するだかしらないが、その実だいたい処世術に他ならない。夜、アリス・リデルに捧げられたオリジナル版を読み直していて思ったが、穴に落ちるアリスには、子どもにはありがちな似非批評家的な側面がある。(これが我々の心を意外とくすぐるのである――)いわば、まだ人生の手前なのでそうなっているに過ぎないけれども……。我々は、このような世界には二度と帰ることはできない。リアリズムが必要なのはそういう認識のあとである。しかしそれはなかなかうまくいかない。だからといって、アリスのみた世界こそが現実である、といいたげな安部公房も、やはり現実がみえているわけではないのではないか……、少なくとも我々のいる言論の世界は、そんな課題を解けないので(←残念ながら小説家たちがまずこの課題から降りたんじゃねえかな……)、抽象的な図式で現在の現実をねじ倒すか、歴史的な推移を参考にすれば未来も読めるといった余裕を見せようとしているに過ぎないのではないか。

ときどきNHKの「日曜美術館」を録画しているが、昨日は、ちょうどルブランとダビットというフランス革命のときの画家が取り上げられていたのでみた。番組は、アントワネットの友達ルブランも市民側についたダビットも、革命のごたごたや絵画の潮流に翻弄されました……、といった「どっちの言っていることも分かるし大変だったろうねえ」、といった批評態度が、やっぱり前面に出ていたような気がする。そしてなんとなく最後は、美の観念にこだわった女性ルブランより、観念に踊らされてフランスに帰れなかった男性ダビットの方が、なんだかアワレね……、という感じで紹介されていた。しかし、二人の晩年の作品──ルブランの「ミゼノ岬のコリンヌに扮したスタール男爵夫人」と、ダビット「ヴィーナスと三美神に武器を取り上げられるマルス」を比べると、後者はなんだか中途半端にみえる、という解説は、はたしてそうか……?という感じがする。ヴィーナスと三美神の顔はなかなか楽しそうで良いではないか。

私は、不偏不党の構えよりも、まずは作品をよくみなきゃね、と少なくともそう心掛けたい。

アリス錯乱

2011-04-24 21:55:43 | 映画


穴に入る話としてやはり「不思議の国のアリス」は欠かせない。西原理恵子が以前「アリス最悪」と言っていたので、観てなかったのだが、今日、ティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」をやっとこさ観た。

この映画は、少女アリスの13年後の後日談である。すっかりいい女になって結婚させられそうになっているアリス。現実逃避して穴に落ちると、体重が増えているせいか(←違う)物凄いスピードで落下する。ワンダーランド(実はガキ時代の聞き違いで本当は「アンダーランド」らしい……)に着いてみても、「こいつは別人アリスだ」とか兎や猫やら芋虫に言われてもうどうしようもない。しかし、この夢は私のものよ私が自分で決めるわ、と身も蓋もないことを言いだし、……えっとなんか理由があったかも知れないのだが、途中で半睡状態になってしまったので覚えていないのであるが……、所作が気持ち悪い白い女王の方に肩入れして、顔が大きい暴君・赤の女王の方のペットである怪物を、なぜか赤の女王の口まねをして「あんたは打ち首よっ」と殺してしまう。こうして芋虫の言う昔の「強さ」(←そもそもそんなのあったか?)を取り戻したアリスは現実に戻る。そして、婚約者を「胃が弱そうだから」と結婚を断り、中年になっても王子様を待っているおばさんに「王子様はいないわよ。医者に診てもらえ」とか現実を突きつけ、私は父のやっていたことをひきつぐわということで、インドシナ?との貿易はぬるいわよ、中国まで行きましょうよ香港がいいわよ、と大海原にのりだしていくのであった。そして香港を占領。帝国主義の時代のジャンヌダルクとしてアリスは暴れ回るのであった。たしかに、亡き父親が少女時代にアリスに言ったように「おまえ(アリス)は完全に頭がおかしい。しかし大物というのは、みんなそうなんだ」である。ワンダーランドの人達も現実の人々もそうだが、善でも悪でもありかわいくもあり気持ち悪くもある。そんな中で決断を行ったアリスは、現実逃避としてではなく、実現につながる夢を見る意志のつよさを獲得し、虚飾を嫌う女へと変貌する。しかしそんな人間がそれから何をやらかすかは分からない。

なんだ、けっこう面白いではないか。あからさまに貴族批判と女性の社会進出と帝国主義?と、少々おかしい夢を見るやつこそが大物であるというイデオロギーと、大人になる決断という成長物語、などが重ねられているので、びっくりしちゃったよ。それらが肯定的に描かれているのか、否定的に描かれているのか、そこんとこがあんまりよく分からないから、ファンタジーなのか、批評なのか分からないわけだ。が、たしかに、そんな簡単には19世紀のイギリスを善悪に分けて判断するわけにはいかん。この映画はその意味でわりと正直なのではなかろうか。「アリス・イン・ワンダーランド」と「パンズ・ラビリンス」が違うのは、前者が攻めていく方の錯乱を描いたのに対し、後者が攻められた方の錯乱を描いている点であろう。西原理恵子は、たぶん、前者を断じて錯乱とは認めないだけなのである。それはそれで立派である。

長いトンネルへの飛翔

2011-04-24 01:38:44 | 文学
大学院生が「わすれられないおくりもの」を推薦していたので、気になって読み直してみた。

ある日、老アナグマはふわりと浮いて長いトンネルの向こうにいってしまった。どうやらこのことは彼の死であったらしいが、それを悲しむ彼と親しい動物たちは、彼が自分たちに教えてくれたことを冬の間中に時間をかけて確認し、春には悲しみを消滅させていた話。モグラが一番悲しんでいたのは、彼がアナグマに似ていたからであろうか?モグラ、キツネ、カエル、ウサギ、みんな地から離れられない、どちらかといえば地下に潜ったりする動物であろう……。アナグマも、死の際に地上から離れなかった。これには意味があるであろう。彼らには天への憧れはないようにみえる。

私は芥川龍之介の「トロッコ」とか安部公房の「鞄」を思い出した。「トロッコ」の少年は、トロッコにつられて予想外に遠いところまでいってしまった。「鞄」の語り手は、鞄の重さにつられて歩みを止めることができない。「私は嫌になるほど自由だった」と語りを終えている。


カツアゲしない子猫物語

2011-04-23 03:12:08 | 映画


以前から観たいと思っていた「子猫物語」が、ハードオフで100円以下で転がっていたので買ってきて観た。

子猫のチャトランはかわいいけどたぶんおバカだったので木箱に入ったら川で流されてしまう。そのチャトランに破格の愛情を抱くブルドック♂のなんとか(←もう忘れた)は後を追いかけていく。二人は、様々な動物と戦いながら遂に再会するが、帰路の最中に、にゃんとチャトラン♂(←この時点で気づいた)は美人白猫に色気づいてしまい、ブルドックのなんとか(←思いだせん)はもうどうでもよい存在に。人生の厳しさを思い知ったブルドックの何とか(←……)。冬を越す間に白猫は出産、すっかり顔つきが悪くなったチャトランの代わりにかわいい子猫たち。しかもブルドックの何とか(←えーと)も、なワンと、いつの間にか家族をつくっており、二つの家族はいつの間にか出会って(子どもがいるというだけで、どうみても気が合わない同士もママ友とかになって陰口をたたき合うものであるが)、最後はかわいい子猫子犬たちが草原で戯れている……。

公開当時から、動物虐待疑惑があり、主役のチャトランは途中で何回も死んでるらしいぞ最後のやつは何人目だ?とかいわれていた。

ただ、動物をこんな物語に当てはめている時点で虐待だ。(小津や黒澤は役者を虐待していると言えなくもないではないか)リアリズムに徹して本当にチャントランが死んだりする映像を出したりしたら、それはそれで問題だっただろう。だいたいペットを猫かわいがりしてることが一種の虐待だ。ほんとに猫がかわいそうだと思う人は、道路の真ん中でひどい姿になっている猫を一匹残らずちゃんと供養し、自動車免許を破棄せよ。……というのは冗談であるが、ほんとに動物を虐待するのが趣味の人もいるらしいから、困ったものだ……。

人間の世界もそうだが、動物の生きている世界は死んだり生きたりのわけがわからないひどい世界なのであって、そういうものを描こうとすれば、死にかかったりするひどいシーンもつくらなければならない。しかし動物が主人公の映画は、この映画がそうであるように、だいたいかわいい主人公が人間みたいにがんばるというものなので、実際に画面上で殺すわけには行かぬ。私が思うに、こういう困難を避けることができる簡単な策は、人間を救世主や保護者として出してくることだ。そして、人間と動物の心の交流というコンセプトで動物愛好家の涙をカツアゲしてごまかすのである。私は、「子猫物語」の良いところは、そのクソ人間を出してこなかったことにあると思う。この映画に不満だった人が多かったのは──、「南極物語」みたいに人間が決定的な助け船を出すという場面によって、我々のペットかわいがり願望を満足させなかったことにあったと思う。

露木茂のナレーションや、谷川俊太郎の詩を朗読する小泉今日子とか、なんとなく画面に品格さえだしてしまう坂本龍一の音楽とか、人間は確かに存在している。なんとなく、これが不自然なかんじなのがある種面白いな。動物と人間はちがいますよ、という諦念が感じられる(笑)

結論:わたしは動物映画には目がない。できるなら、全ての映画の出演は動物だけにしていただきたい。

キャンディーズの田中さん死去

2011-04-22 06:21:28 | 音楽
キャンディーズの田中好子さんが55歳で亡くなったそうです。

よしこさんと言えば、「蒲団」の横山芳子しか浮かんでこなかったので、調べてみた。

キャンディーズは私の小学生低学年の頃まで歌ってたはずだが、案の定、私はテレビをほとんど見ていなかったし、ピンクレディーを「ピンク映画」に出てくる人達だと思っていたぐらいであるから、おそらく、キャンディーになぜ「ズ」がついてるんだろうふざけてる、ぐらいに思っていたに違いない。おにゃんこ倶楽部に至っては、たしか私は思春期だったので当時からウィルスソフトで私の頭には何も情報が入ってこないように設定されていた。いまでも何も画像が浮かんでこない。のみならず、妹に「しろうって秋元康に似てるよね」と言われたので、調べてみたところ、そのおにゃん子やらとんねるずのプロデュースやらで芸能界の良き伝統を全てぶち壊した大悪人だということが分かり、よけいに秋元は(ついでに私も)嫌いになった。

というわけで調べてみたら、キャンデーズはPerfumeより前の人達だということは分かった。
Perfumeの事務所のあみゅーずはキャンディーズ関係だった人が仕切っているところらしい。で、いま売れているらしいAKBなんとかは、案の定、私に似ている秋元……。

学生どもに告ぐ。私の前で蛇ーローテーションを歌うときには気をつけるように。私の頭には秋元の顔しか浮かんでいない。

田中好子さんて、そういえば「黒い雨」に出てた人ではないか。もともと女優だと思ってた。


朝と分身

2011-04-21 06:39:34 | 日記

おはようございます


今年も不気味に成長をつづける植物


彼らは、上の子どもたち。といっても落ちた葉っぱからにょきにょき芽が出てきた不気味な方々である。私の片手から私が生えてきたようなものである。