★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

沈没船・漂流船

2010-09-30 22:15:11 | 大学
今日は公開授業の見物。教育実習の終了式の挨拶もしたので、8時半から5時まで中学校の中で過ごした。今日は、朝から個人的に非常に心配な学生が続々と公開授業をするので、こっちも緊張した。何度か、緊張のあまり教室から逃げ出した。(←よわっ

1さん→港を出たところ、鯨にぶつかりアラスカの夢をみつつ沈没

2さん→魚を捕りに行ったのに、わかめを大量に採ってしまった

3さん→太平洋のど真ん中で、何を釣ろうか迷ってるうちにガス欠

4さん→公開漁業ではなく、裏で密漁。

5さん→瀬戸内海で、鮫に追いかけられ「私は本当は猟師です。海は嫌いです」と叫んでいるうちにガス欠

6さん→襲ってくる鮫をすべて拳銃で撃ち殺してしまった。硝煙の臭い漂う中、終了。

こんな感じの授業であった。でもみんな能力以上にがんばりました。そして附属の先生方、まことに申し訳ありません。でも私のせいじゃありません。学生のせいです。

ドヴォルザークはやっぱりすごかったの巻

2010-09-29 23:34:52 | 音楽
ドヴォルザークの交響曲第8番を聴く。中学の時に、吹奏楽で第一楽章をやってみて、あまりの自分たちの下手さにトラウマになって以来、あまり聴く気がしなかったのであるが、改めて聴いてみると、超のつく名曲だった。

第一楽章と第二楽章で、「なんだ普通の名曲か~」と油断していると、第三楽章のワルツが始まり、そこらの歌謡曲の作曲者が全員離職を考えるほどセンチメンタルなメロディーにびっくり。第四楽章は、トランペットのファンファーレで「なんだ普通の第四楽章か~」と思っていると、これでもかと思うほどダサイ(いや民族色豊かな←棒読み)メロディーがいくつか形を変え組み合わされてなんだが興奮してくるぞ、と油断していると、「♪コガネムシ~は金持ちだ~」によく似たメロディーまで飛び出してくるのだが、あまりに展開がうまいので、さっきまで「チェコはヨーロッパの田舎」とか「さすが民族主義」とか「民謡で交響曲つくるとはベートーベンに申し訳ないとおもわんのかっ」と思っていた聞き手は、もはや「チェコは素晴らしい国です。あいらぶちぇこ」と口走ってしまうのである。

彼のあと、さまざまな民謡を使ったクラシック音楽が作られるわけであるが、やはり誰かが大成功するまで、路線というものは始まらない。

そういうドヴォルザークであるが、鉄道マニアで、ガタンゴトンの音がいつもと違うと言って故障を発見したり、機関車一台と自分の全作品を取り替えてもいいと言い出したり、家庭教師先の教え子に手を出そうとして結局その妹と結婚したり……と、かなり面白い人であった。

花井一典氏追悼

2010-09-28 23:15:12 | 思想
中世哲学の研究者、花井一典氏が亡くなったそうである。トマス・アクィナス『真理論』やヨハネス・ドゥンス・スコトゥス『存在の一義性』の翻訳(山内志朗氏との共訳)などで私の中ではかなりの有名人であった。トマスに関する「超越概念と経験」という論文を大学院のときに読んだ覚えがあるが、無学の私はまったく歯が立たなかった。

私の論文を「スコラスティックである」と言っていた人がいたが、たぶんこれは批判されたのであろう。しかし、私は褒められたようなくすぐったい気持ちがしたものである。この知的風土で、処世と興奮と刺激だかをもとめて、転向を繰り返す学者の中にあって、スコラスティックであることができたら驚異的である。果たしてそんな強さを我々は持っているのであろうか。だいたい「スコラ哲学」とは何か、そもそも我々には分かっていないではないか。

小室直樹氏も死去されたか……。こちらは昔、ある新書の帯の推薦文に談志師匠が書いていて、その文章があまり好きになれなかったので、つい読まずに放り出した経験がある。読んでおけばよかった。宮台真司への影響は大きいのだろう。その立ち振る舞いにおいて。

20代のはじめ、どちらかといえば、私は花井氏のような文章にあこがれていたのである。また一方で、「花」しか共通してない、文体もまるで違う花田×輝氏を研究対象として選んだけれども。彼らの文章にある共通性を見出すこと、これが20代の私の願いであった、――というより幻想であった。

al funghi porcini

2010-09-28 22:16:03 | 食べ物


これは、旦那とイタリア旅行してきた妹のお土産。

このグローバリズムの時代に、英語表記なし、鎖国してんのかこの国は……。これからは中国語の表記ぐらいはつけとかんとな。さすがイタリア、固有の領土を主張しておるな。

このデザインは昭和の香りがしますね。例のボ×カレーのポスターなどを想い出します。日本でこの分野からリアリズムが消滅したのはいつだろう……。やたらキャラクターばっかりになっちゃって。なんの想像も働かないではないか……。

この女の人、左利きかな?あれ?スープは左で食べるのがルネッサンスだっけ?ばっちり化粧して食べてるね。どういう状況だろう。この目つきからすると、ばっちり化粧してデートに行ったけど、途中で彼氏が街行く少女に色目を使ったので、怒り心頭、どうやって別れようかしらと思いつつ……という妄想をしながらの朝食というところだろう。よくみると、手から湯気が出ているように見える。あまり集中していないのは、背後に現れた画像がスープじゃないところにも現れているな。キノコ……。少々錯乱しているようだ。

文人画路線

2010-09-27 20:26:36 | 文学
数日、パソコンに入っていたペイントソフトで殴り書きをつくって載せてみたのだが、――それで思いついたことがある。

芸術家や文学者が市場で生きるためにはどうするか、というのは、いつ頃からか知らないか、大問題として意識されている。そこから彼らの悲喜劇が生じており、近代文学史はそんな話題ばっかりである。

しかし、市場で生きるのがますます無理なのであれば、中国の文人画が官僚や地主によって担われたように、芸術の世界を思い切って公務員の世界に移すというのはどうであろう。何も、昼間の勤務時間中に絵をかけとはいわぬ。勤務が終わったら、いそいそと芸術活動にいそしむのである。お金に困らないから魂を売らなくても済む。昼間売りまくってるしな……。

公務員の世界が、世間とずれてるとか言うなかれ。確かにそういう面もあるかもしれんが、それはどの職業にもある程度いえることだ。しかも、彼等の職場は、面倒な権力闘争に巻き込まれつつ、天下を隠微にコントロールする、現実か虚偽かわからないまさに文学的世界である。昔の左翼みたいに、政治的世界からの疎外感に悩むことはないぞ。もうその「中」にいるのだから。

それは――近代文学の悩みを一気に解決する事態である。上司にどういうつもりだと詰問されたら、森鷗外みたいに「あそびです」と言えばよいし、在野のプロに、片手間にやるのが芸術じゃない、といわれれば「アマチュアを否定することはできませんよね」といえばよい。

純文学に関わる批評家や小説家が大学から給料をもらうしかなくなったような昨今、実際は既にこうなってるんじゃないかな。大学の教員も雑務を主として生きてるような状態であるし……。

これがひねくれた状態ではなく、柄谷行人のいう「平常な場所での文学」である可能性もあるのである。

白鵬 VS わたくし

2010-09-26 18:02:53 | 日記


白鵬62連勝

私も体格は似てるから、たぶん相撲界入っても70連勝くらい軽いと思う。











附記)私は相撲の盛んな街に育った。中学の時に、北信越大会の応援に行かされて、石川かどっかの中学の、180センチ以上140㌔の奴とトイレいっしょになった。(こづかれただけでまちがいなく死ぬ)一戦挑もうと思ったけど、150センチ45㌔の私に負けたとあっては彼のトラウマはさぞかし……と思い、とりあえず「がんばってくださ~ぃ」と小声の挨拶で許しといたわ。彼は実は十両までいって引退しちゃったらしいんだけど、私の脅しがそこまで効き目があるとおもわなかったな。誠に申し訳ございませんでした。

「意味という病」と「病という意味」

2010-09-25 22:32:14 | 文学


例えば柄谷行人氏にとって、初期の『意味という病』から「病という意味」(『日本近代文学の起源』)への転換はおそらく大きいものなのだが、それを大げさに「転向」だと言い立てる論者(そんなのがいるのか知らんけど)は何か間違っている。この二週間ぐらい、私自身がそういう感じだったので反省しているのである。

以前、デビュー当時の柄谷氏が父親の病気のことを書いていた文章を読んで、この人はだいぶ「病」んでるな、近代文学の人だなあ、と感じた。私もそうだが、「病」とか「告白」とか「児童」とかに対して何か客観視して振る舞わなくてはならなくなったときに、むしろ私自身の陥っている文学的〈病〉が急に表面化するような気がするのである。『日本近代文学の起源』という本が面白いのは、風景や内面や構成力、ジャンルの消滅を論じた部分そのものにはなく、上記の三つ(病、告白、児童)をそこに並列させたことにある。このセンスはとても面白い、と私は思う。

江藤淳や吉本隆明には、柄谷ほど病んでいなかったせいかそれができなかった。花田清輝は病みすぎていて出来なかった。小林秀雄は、ちょっと私には不気味すぎて……。こいつが実は一番健康な気がするんだが……。

深夜に小難しい

2010-09-25 02:11:44 | 思想

深夜に小難しいことを考える。

大概、朝になってみると間違ってたなと思うことも多いが、――その認識も間違っていることが多い。つまり、だいたいわたくしの考えていることは間違っている。

我々は自然を見ることが出来るか

2010-09-24 23:08:09 | 文学




見えなかったり見えたり……。別のものが見えたり、こんなことが繰り返されるのが我々の日常である。

思うに、文学研究者というのは、──特に最近は、作家たちを自然物のようにみなしている。自然科学の影響かもしれない。理系と人文学との違いは対象を自然とみなすか人間とみるかが大きいだけに、我々はアイデンティティを失いつつあるのかもしれない。

もっとも、評論家を論ずるときには、自然物ではなく人間であるか、偶像としてみている。このとき、今度は文学を生じさせた「自然」にふれていない嫌な感じが伴う。

しかし、以上のような感想はすべて錯覚ではないか。

果たして、我々の相手は論ずるに値する自然、あるいは現象なのであろうか。柳田國男の文章を読んでいると、彼がそんな逡巡を回避するために、必死だったような気がしてならない。そしてそれは、文芸評論家なども必ず通らなければならない苦しみではないか。

学者は、学問領域という自明性のためについそのことを忘れがちになるのではなかろうか。

月の兎後日談

2010-09-23 21:49:29 | 文学


 いまし三人の 友だちは 
 いづれ劣ると なけれども
 兎はことに やさしとて
 骸をかかへて ひさがたの
 月の宮にぞ 葬りける
 
 今の世までも 語りつぎ
 月の兎と いうことは これがもとにて ありけると
 聞く吾さへも 白袴の
 衣の袖は とほりて濡れぬ

有名な良寛の『月の兎』である。今昔では「三獣行菩薩通兎焼身語」という題になっている例の話を長歌にしたのである。飢えた老人のために、猿と狐は食糧を集めてこれたけど、兎は何も出来なかったので、火の中に投身して自ら食糧となった。老人は実は帝釈天で、兎だけ月に飾ってあげたという。

今なら、兎に嫉妬した猿と狐が、「上から目線はやめろ」とか「かわいい子をひいきした」とかいって帝釈天を訴えるところだ。そのうち、帝釈天が公文書偽造をしてたとか、兎と渋谷でデートしてたとかいう事実が、週刊誌をにぎわし、若い社会学者とかが「兎がかわいいというのは老人の常識に過ぎないんじゃないですか~。」とか自慢げに言い出し、統計を取ったりして「猿や狐も好きな人がたくさんいました」と喜んだりする。

夢の総量はエスカレーターを逆走する

2010-09-23 00:56:28 | 旅行や帰省

おとつい、つい嬉しさで緩んでエスカレーターで降りようとして上りの方に突入したんだよね、二回も↑

東京にいくと、国会図書館に通った日々を想い出す。東京はなんとなく集中力が高まった気がするところなので、自己点検が難しく……と考えるほど私は田舎者なのである。以前、東京出身の評論家が〈郊外論〉と称する箱庭論を展開していたが、裏山にキノコを取りに入ったロマンを論じているようなものだ。私にはあまり関係がない。

東京の空がみえた。置き忘れてきた私の影が、東京の雑踏に揉まれ、蹂みしだかれ、粉砕されて喘へいでゐた。限りないその傷に、無言の影がふくれ顔をした。私は其処へ戻らうと思つた。無言の影に言葉を与へ、無数の傷に血を与へやうと思つた。虚偽の泪を流す暇はもう私には与へられない。全てが切実に切迫してゐた。私は生き生きと悲しもう。私は塋墳へ帰らなければならない。と。

これは、新潟から東京を幻視した坂口安吾(「ふるさとに寄する讃歌――夢の総量は空気であつた――」)だが、彼でさえ、東京に帰ったところで、言葉をあたえる以前に、粉砕され喘がなければならなかったことに変わりはあるまい。ロマンどころではない。夢見る総量が多いだけ、我に返るのも遅くなる可能性もあるだろう。結局、読まれるべき一行、振り返るしかない一画面をつくりだすのは場所がつくりだす空気ではなく、自分である。