スマートフォンで一生懸命、スパゲッティや肉が料理される様をずっとみているひとがいたんで、細に聞いてみたら、いまそういう動画が一部ではやってるらしいよと聞き、遊んだつもり喰ったつもりの経験について沈思黙考した。
考えてみると、この「つもり」に研究なんかも近いのかもしれない。だから、若い頃は、偉そうな自分に羞恥心があったのだ。これがない若者は論外だ。
仕事で文学を講義したりしてるのに羞恥心があるのはどことなく、文学研究者が自己主張が苦手だということに通じている。無理やりつくった、文学青年の対義が研究者、こんな研究者の自意識が結構散見されるけれども、これもそのせいである。一時期、わたくしなんか、文学青年を脱皮して文学少女になってたけども、これはもっと「つもり」であった。太宰が少女小説を書いているようなものである。この副作用は太宰には大きかった。
しかし、これは文学研究にかぎったことではなく、あらゆる未熟な者、学修過程にあるものにはつきまとう事態である。のみならず、国民国家体制では、国家が学習される真理の主体の座に居座っているので、我々はいつまでたっても主体ではあることはできないにもかかわらず、それを否認する輩があとを絶たない。右翼や三島言う以上にわれわれは自由な主体における自意識において欺瞞的なのだ。いわゆる主体性をそだてるみたいな教育は、結局は北朝鮮風の「主体教育」とならざるをえない。つまり、ボス気質(そしてそれは奴隷的幇間気質でもある――)、少なくとも自意識を育てて、いちばん大切な副委員長みたいなやつを育てられない傾向がある。尻ぬぐいは命令によってなされるもんじゃないし評価がなくてもやらなきゃならないが、コミュニティにとっては必要なのである。国家にとってそれは必要ないので、ボス=幇間主体だけが必要なのである。
この病が昂じると、結婚なんかも効果半減である。結婚すると自我が二人分になって面白いみたいは話も聞くことは聞くが、二人分のプライドが合体変身して、出来の悪い戦隊もののロボットみたいになってる人間もいるといえばいるのである。こんな滑稽さを若者が目指すはずがない。
主体を彩る「優秀さ」についてもおなじことが言える。一芸に秀でていればよいというものではないみたいな言い方が教育界で屡々行われるけれども、藤井君や大谷君に言ってからにしてほしいものだ。一芸に秀でると言うことは、もやしみたいにある部分だけが突出しているわけではない。あんたに料理させたら家が燃えると妻にいわれている柄★行◎氏とか、靴下も自分ではけない某モダンジャズピアニストとか、そういうイメージはちょっと昔のイメージに引きずられている。それで、得意なものがあるタイプや成績がよいタイプをどうせコミュニケーション能力が足りねえだろみたいな感じで相対化ばかりしていると、すべてができないやつばかりを選抜することになる。実際すでに、おしなべて、日本の選抜的なものはそんな風になりかけてるからな。この前、馬鹿をやれるかどうかをみる面接があると聞いたが、そりゃまた賭だ。そんなのはたいがい本物の馬鹿に決まっているではないか。
ほんとに怒っている人は宴会などで愚痴を言ったりはしない。だから、悪評みたいなものはほんとはたいしたことではないことが多く、やべえ悪事がさりげなくスルーされてゆく原因ともなっている。むろんネットでもおなじことがいえる。ここでも主体でないものばかりが繁茂する。時代に乗っていたみたいな人物が、ちょっと調子わるくなってきたときに、時代に合わなくなったなみたいな批評は結構間違っていて、大概当時から批判はあったが本人と特にそのドーナツみたいな取り巻きがそれをたたいてなかったことにしている場合が多いような気がする。とにかく、その勢いがあるみたいな時の常軌を逸したかんじの王様ぶりはすごくて、なんだかオーラでもでている気がするものだ。――かんがえてみると、取り巻きはたいがいドーナツの形はしてはいない。むしろ、別の戦いで調子悪くなったひとが勝ちに乗じたり俺が育てたみたいなことをいいたいがために庇護者を買って出たり、もちろん単なるファンも混じっており、讃岐うどんにのっかって、野菜だみたいな主張をしているかき揚げみたいなものである。
たしかに私の言うこともドーナツやかき揚げみたいに主体的ではない。死んだふりをしているのである。しかしだからといって、われこそ文学の言葉を吐いている主体なりみたいな率直な人々がこんどはなぜか非常に文化的ではなく、せいぜい人間的なのはなぜなのか。文化は、あるていど人間的現実からの反映ではなく、天からふってくる機械みたいなものだからである。同時代性みたいなものは、人間的な環境であって、文化に比して非常に実証をおおざっぱにしないと証明の形をとることができない。
おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
――宮沢賢治「農民芸術概論要綱」
最悪な意味で、こういう論法をとるしかなくなるのである。世界全体の幸福と個人の幸福の一致は、一致したと言わなければ示されることがない。前者か後者のどちらかに降伏する主体を寄せようとすれば、かならず暴力的になるのである。前者は、時代や主体や政治が入り、後者には文学がはいる。こんな時間を限定した空間においてはその一致はありえないのである。