★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

落鳳坡とよび申し候

2017-07-31 08:59:18 | 文学


草も木も猛暑に萎えて、虻や蜂のうなりに肌を刺されながら、龐統の軍隊は、燃ゆるが如き顔を並べて、十歩攀じては一息つき、二十歩しては汗をぬぐい、喘ぎ喘ぎ踏み登ってきた。
 そのうちに、ふと前方を仰ぐと、両側の絶壁は迫り合って、樹木の枝は相交叉し、天もかくれるばかり鬱蒼たる嶮隘な道へさしかかった。
 陽かげに入って、龐統は、ほっと肌に汗の冷えをおぼえながら、
「おそらく、こんな嶮しい山道は、蜀のほかにはあるまい。ここはそも、何という地名の所か」
 と、途中で捕虜にした敵の兵にたずねた。
 降参の兵は、言下に、
「落鳳坡とよび申し候」と、答えた。
「なに、落鳳坡?」
 龐統は、なぜか、さっと面色を変えて、急に馬をとめた。
「わが道号は鳳雛という。落鳳坡とは、あら忌わし」

――吉川英治『三国志』「図南の巻」

読経と最高気温

2017-07-30 23:24:07 | 日記


今日は35度以上あったような気がするのですが、法事で読経しておったので気がつきませんでした……

嘘です。読経していても気づきます。


ただいまレポートの採点とか『邪宗門』の勉強とか、しております。

嵐避け光に

2017-07-29 23:58:13 | 日記

雨が降ってきたので蝉様は動揺してベランダの下に移動

わたくしも洗濯物を取り込もうとベランダに突撃

と、わたくしのおまたをすり抜けわたくしの書斎に蝉様が


嵐避け光に突撃




「元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。」


「極楽ももう午に近くなったのでございましょう。」

セミがあの有りったけの声をふりしぼるように鳴きさかっているのを見ると、獲るのも躊躇させられるほど大まじめで、鳴き終ると忽ちぱっと飛び立って、慌ててそこらの物にぶつかりながら場所をかえるや否や、寸暇も無いというように直ぐ又鳴きはじめる、あの一心不乱な恋のよびかけには同情せずにいられない。よびかける事に夢中になっていて呼びかける目的を忘れてしまったのではないかと思うほど鳴く事に憑かれている。実際私はセミが配偶者を得たところを見た事が無い。

――高村光太郎「蝉の美と造形」


そういう一途な恋の叫びで配偶者にも嫌われている輩が、わたくしの書斎に闖入するとは蝉様とて許せぬ。でもちょっと怖いから一緒に勉強することにした。

今年の蝉2017

2017-07-29 20:35:04 | 日記
今年も蝉の季節です。

下方に妖しい影あり


蝉様





我が大学の構内は、夏になるとこの人たちの大声ですごい騒ぎになります。正直、鼓膜がどうにかなりそうです。なぜ蝉様はこのような美しいフォルムをしているのに、日本の大衆より付和雷同的な変態なのでしょうか。個性というものが全くありません。というわけで、蝉に擬人法をつかう場合、作者もちょっとおかしくなければなりません。

ねんねんよ。おころりよ。ころ、ころ、ころ、ころ、おころりよ。
ねんねんよ。おころりよ。おゝしいつくつく、ねんねしな。
ねんねんよ。おころりよ。みん、みん、みん、みん、ねんねしな。
ねんねんよ。おころりよ。かな、かな、かな、かな、ねんねしな。
ねんねんよ。おころりよ。めんめが覚めたら、何あげよ。
おつぱい、おつぱい、おいしいおつぱい。好い兒の坊やのおいしいおつぱい。
おあがり、おあがり、おゝしいつくつく。坊やのおつぱい、おゝしいつくつくつく。
みん、みん、みん、みん、おゝしいつくつくつく。かな、かな、かな、かな、おゝしいつくつくつく。坊やは好い兒だ、ねんねしな。

――島崎藤村「蝉の子守唄」


特に後半なのですが、こんな調子で寝られると思っているでしょうか。さすが、子どもに対してひどいことをしている藤村だけのことはあります。藤村の脳裡には蝉ではなくかわいい女子の×体がうつっていたに違いありません。いい加減にシテもらいたいと思います。

私は日本のセミの無邪気な力一ぱいの声が頭のしんまで貫くように響いてくるのを大変快く聞く。まして蝉時雨というような言葉で表現されている林間のセミの競演の如きは夢のように美しい夏の贈物だと思う。セミを彫っているとそういう林間の緑したたる涼風が部屋に満ちて来るような気がする。

――高村光太郎「蝉の美と造型」


高村光太郎もこのように身体的な迫害を快感に感じるような人です。こういう人の部屋にはいざとなったら先祖の霊が「陛下が陛下が」と鳴いたりするのです。

原始人

2017-07-28 23:16:23 | 日記


実家にもあったのだが、古本屋でクラーク・ハウエルの『原始人』があったので買ってみた。むかしは、写真と絵を眺めていただけだったような気がするが、あらためてめくってみると非常に楽しい本だった。

ダーウィンやハックスレーが人間の進化についての本を書いて批判にさらされていたのが、1860、70年代である。そのとき、芸術の方では何をやっていたかというと、ドストエフスキー、トルストイ、フローベール、といったところか。一瞬、さすが文学の方が進んでるとか思ってしまったわたくしが情けない。




雲の層に厚薄があるらしく

2017-07-27 23:12:56 | 文学


五郎は背を伸ばして、下界を見た。やはり灰白色の雲海だけである。雲の層に厚薄があるらしく、時々それがちぎれて、納豆の糸を引いたような切れ目から、丘や雑木林や畠や人家などが見える。しかしすぐ雲が来て、見えなくなる。機の高度は、五百米くらいだろう。見おろした農家の大ささから推定出来る。
 五郎は視線を右のエンジンに移した。
〈まだ這っているな〉
 と思う。
 それが這っているのを見つけたのは、大分空港を発って、やがてであった。豆粒のような楕円形のものが、エンジンから翼の方に、すこしずつ動いていた。眺めているとパッと見えなくなり、またすこし離れたところに同じ形のものがあらわれ、じりじりと動き出す。さっきのと同じ虫(?)なのか、別のものなのか、よく判らない。幻覚なのかも知れないという懸念もあった。

――梅崎春生「幻化」

ヤクルト、セリーグでは66年ぶり0-10を逆転勝利

2017-07-26 23:38:27 | ニュース


・相手は、案の定、「中日ド★ゴンズ」。記念に弱い★ラゴンズ。

・今日のゼミは、神輿のデコ車化を止める要素とは一体何か、について話していたら見事に太宰治の話になったぞ……

・いまのお偉方はみんな「慇懃無礼」だな……部下もまねしてへんな敬語を使って失礼なことばかり、人によって態度を変え、いざとなったら「みんながやってるから」。幼稚園か。

・昨日のニュースウォッチ9の辺見庸のインタビューはあんまり良くなかったな……やっぱり文学者は危険な良い題材に出会うと文学者としてしか能力が発揮できないのであろう。辺見庸の文章はあんまり好きではないのだが……

・「覚えておりません」じゃねえよ、ていうか役人や政治家は記憶で仕事してるのかよ

・まあ、メモすらとれん能力の輩は恐ろしく大量にいる訳である。

・昨日から『木曽福島町史』をめくっていたのだが、これを見ただけでも、我々はご先祖の昔からちゃんと事実を記録しどのような議論があったのかを記すのが恐ろしく苦手だと分かる。「物語」は沢山あるのだが。テキスト評釈がやたら好きなのはその欲求不満がねじ曲がったものだといってよいとわたくしは思う。しかし、これではだめなのだ。事実を書いた文章という「物」が恐ろしいのは分かる。日記文化がむしろ事実を隠蔽する癖をつけてるところがあるし……

・この前、授業で坂部恵の『仮面の解釈学』の解説をしたのだが、結構嘘ついたかもしれない。

・モートン・グールドの音楽ってどういう系統なんだろう……

水無神社例大祭で帰省しております 3

2017-07-24 09:15:32 | 神社仏閣
祭りの二日目はみこしまくりです。

昔、惣助幸助というコンビが飛騨から神様を木曽谷に持ち込んだ時に、追っ手を振り切るために、みこしを谷に転がり落として難を逃れたという伝説があり、どうも本当はどうだったのか、他の神社の由縁と同じように相当にあやしいのですが――、とにかく「みこしまくり」という行事となって今に至っております。みこしを横に縦に転がしてたたき壊すどう見ても「奇祭」としか言いようのないものです。

しかし――、わたくし、小学校の頃は、なんかアイスクリーム的なものが不足している祭りなのであまり興味がありませんでした。中学校の頃は、「無神論ですが?」とあっち向いておりました。高校時代の時はいろいろと興味がありませんでした。大学の時はほとんど帰省しておりません。大学院の時はもはやいろいろな記憶がありません。就職してからは、研究の関係上、結構興味が出てきたのですが、学生のために授業を休む訳には参りませんちゃんと仕事しなければなりませぬ。というわけで、やっと地元の祭りに興味を持って参加した訳であります。わたくし、高松祭とか土浦花火大会などちゃらちゃらしたものに感心する前に、自分の地元のお祭りの異様さに気づくべきだったのです。

ですが、細君と油断して夕食を西洋料理などを食してのんびりしていたところ、近所でバタンドカンといきなり始まりました。「よこまくり」


動画でもどうぞ


惣助幸助の頃は、道が土だったのでしょうが、今は違います。アスファルトです。アスファルトにみこしを衝突させれば何が起こるか神様でも分かります。いちはやく壊れてしまっては神社まで何に乗ってゆけば良いのでしょう?しかも、――二人は飛騨から神さんを強奪してきた盗人であるからして闇に隠れて転がしてきたに違いありませんが、いまは観光客も観ております。というわけで時々修理しながら転がすという、壊してるのか直しているのか分からない謎の展開のうちに1時間も転がしております。

さて、いよいよ「たてまくり」のお時間です。中の神様が失神(あっこの単語まずい)しているのではないかと若干心配なのですが、もはや派手にまくらなければ国民が納得いたしません。しかも担ぎ手にも観客にも相当外国の皆さんが混じっておりますから国際問題にもなりかねません。というわけで、いきます。


もうこれ以上まくると壊れる(そのためにやっていたのでは……)というアナウンスがあり、みこしは担ぎ手の「高い山」のメロディにふらつきながら神社にお帰りになります。

しかし、実はここからが、祭りのメインイベントなのです。神社はどこ?歩いてどのくらいかかるか考えないことにいたしましょう。かなり遠いといっておきましょう。みこしを担ぎながら休憩もなし。祝祭の雰囲気は一気になんだか空恐ろしい雰囲気に……。



この風景何かに似てるなあ……


あ国会前のデモ


あれは国会議事堂じゃないか……


しかし×倍はやめろとは言ってないし、ラップもなし。



それはともかく、日本から暗闇が消滅したなどと、調子こいたモダニストが昭和初期に既に言ってましたが、間違いです。木曽は真っ暗です。「夜明け前」です。出発から1時間ぐらいたちますが漆黒のなかで「高い山」も途切れ途切れです。必死のみこしに三〇人ぐらいの我々普通の人が、心配そうにぞよぞよと着いていきます。ちょっと異様な雰囲気であります。写真ではよく分かりませんが、ここから30分間ぐらいは我々の体験にはベンヤミンの所謂アウラがありました。たぶん、こんなものが「神的なもの」なのでしょう。昔の人は我々より、こういうのをちゃんと体験していたのではないでしょうか。

水無神社に行き着くためには、直前で長い坂道をのぼらなくてはなりません。言い忘れましたが、みこしは約400キロです。我々は何かに(みこしですが)導かれてあとをついて行きます。


本殿で神事が行われ、無事に神さんはお帰りになりました(ここもなかなかのものだったのですが、興味のある方はどうぞ来年ご参加下さいませ)


中の神様がぬけたみこし



そして、もう深夜一時なので人間も帰宅しました。

水無神社例大祭で帰省しております 1

2017-07-23 02:50:35 | 神社仏閣

新幹線で鳥を食う

木曽福島駅で降りると丁度御神輿の人たちが駅前で休憩していた 僥倖である。






お尻を写す


江戸時代ではこんな感じ……


家で豆を食う

歩行者天国に繰り出す(たぶん40年ぶり)



花火が始まるので橋でそれを待つ人々


御神輿やだんじりを先導する天狗?様(猿田彦)が、注連縄を切る。わたくしの幼児の頃は、これを妨害しようと近所のクソガキどもが縄を揺すったりした光景が見られたものだが、いまはみんな羊のようにおとなしい…というか子どもが少ないのであろう。わたくしといえば、もちろん、天狗?を妨害…

するどころではなく、天狗?様が怖くて泣 き な が ら 逃 げ て た


だんじりが子どもたちの楽隊を乗せてぴーひゃららーとやってくる


40年前と同じ光景が目の前にありました

参考・高畑勲の「かぐや姫の物語」



ウサギの世界

2017-07-21 23:15:01 | 大学


大学の博物館でやってるウサギ展をみてきました。http://www.museum.kagawa-u.ac.jp/usaginosekai.tirasi.pdf

 造物が責任を持つからいいと言えば言うようなものの、彼が無暗に生命を造り過ぎ、無暗に生命を壊し過ぎるとわたしは思う。[…]わたしの母は前からわたしが猫を虐待することを好くないことだと思っていた。現在おおかた、わたしが小兎のために不平を抱いて、ひどい目に遭わせたんだろう、と思われたに違いない。家中の者の定説では、わたしはたしかに猫の敵と見られている。わたしはかつて猫を殺したことがある。平常好く猫を打つ、ことに彼等の交合の時において甚しい。しかし、わたしの猫を打つ理由は、彼等の交合に因るのではなく、彼等の騒ぎに因るので、騒がれるとわたしは眠れないからである。わたしは思う。交合は何もこんなに大騒ぎをしなければならないというものではなかろう。まして黒猫は小兎を殺したのではないか。わたしは更に「師を出すに名あり」である。母があんまり善行を修め過ぎるのではないかと思われた。そこで我れ知らず言葉に稜が立ち、そうではありませんよ、というような答えをしなければならなくなった。
 造物はあんまりガサツだ。わたしは彼に反抗しないではいられなくなった。そういいながらかえってわたしは彼の忙しない仕事を援助するのかもしれない……
 あの黒猫はやがて塀の上に威張っていることが出来なくなるのだろう。わたしは腹を極めた。そこで我れ知らず本箱の中の一瓶の青酸カリウムを眺めた。

――魯迅「兎と猫」(井上紅梅訳)


魯迅の「兎と猫」は不思議な短編で、我々が小さい頃感じた世界の陰惨さを思い出させる。無論、魯迅は別にそんな普遍的なことを言いたいのではなく、もっと卑近な世界のことを描いているのであろう。

破壊を回避するお姫様

2017-07-19 23:46:55 | 文学


かやうにそこはかとなきことを思ひつづくるを役にして、物詣でをわづかにしても、はかばかしく、人のやうならむとも念ぜられず。このごろの世の人は十七八よりこそ経よみ、おこなひもすれ、さること思ひかけられず。からうじて思ひよることは、「いみじくやむごとなく、かたち有様、物語にある光源氏などのやうにおはせむ人を、年に一たびにても通はしたてまつりて、浮舟の女君のやうに、山里にかくし据ゑられて、花、紅葉、月、雪をながめて、いと心ぼそげにて、めでたからむ御文などを、時々待ち見などこそせめ」とばかり思ひつづけ、あらましごとにもおぼえけり。

浮舟になりたいなどと、この方は本当にちゃんと本文を読んでいるのであろうかと思うのであるが、――確かに、紫の上やましてや桐壺のようにはなりたくないのは当然である。孝標の娘は彼女なりにしんどい人生を送ってきているのであって、とりあえず落ち着こう、みたいな夢を抱くのも分かるような気がするのである。だいたい、源氏物語に流れる「男はいやよ、ノーサンキュー」の如き感性をちゃんと受け取り、「年に一度でいいわオトコなんて」と思っている彼女はほんとよく分かっていると言わざるを得ない。しかし、生きて行ければのはなしだ……。あと、本気で惚れてしもうたばあい、例の蜻蛉さんがボンクラを待ち焦がれて病んでしまったように、恋愛は常に恋愛以外のものを総べて破壊するのである。というわけで、そんな都合よくいくわけはない。

志村けんが、何かのテレビ番組で、週に一回のような「通い婚」がよいと言うのを、いしのようこが「何それー」と言っていた。孝標の娘にも「何それー」と言いたい。

寢覺め夜深き窓の外
しばし雲間を洩れいでゝ
靜かに忍ぶ影見れば
月は戀にも似たりけり。

浮世慕ふて宵々に
寄する光のかひやなに
叢雲厚く布き滿てば
戀はあだなり月姫よ。

あだなる戀に泣く子らの
手に育ちけむ花のごと
色青じろう影やせて
隱れも行くか雲の外。


――土井晩翠「月と戀」


土井晩翠は、人間が常に恋に泣いたり忍んだりしていると思っているのかもしれないが、昔から、そうでもない人間も多く。忍んでいるうちに何に忍んでいるのか分からなくなってしまう人も多いのである。それはそれで、自己保存本能としてわたくしはいいと思うのだ。ダダよりも破壊的であるものを我々は常に作動させる必要はない。