是以大臣文殊迦葉等。班芳檄於諸州。告即位於衆庶。是故。余忽承檄旨。秣馬。脂車。装束。取道。不論陰陽。向都史京。経途多艱。人烟瓊絶。康衢甚繁。径路未詳。一二従者。或沈溺泥中。抜出末期。或騁馬。奔車。先已発進。因茲。不棄微物。孑身負擔。糧絶。路迷。辱進門側。乞行路資。
経路は未詳である。未詳過ぎてわからないことを昔のひとはよく知っていた。最近は、未詳の他に道があると思う人が多い。すべてが未詳なのである。それを信じることが佛からの命令に従うことであった。
修行では、食べ物をもらわないと生きてゆけない。それが他人との縁をつくる――と同時に、自らの体が他人によって出来ていることを自覚させる。飽食の時代では、食べ物は他人との関係ではなく主観の問題となっている。
細は給食が楽しみでメニューをチェックして学校に行ってたらしいが、わたしは好き嫌い以前にあまり食欲がなく、給食のコッペパンもぜんぶ食べられたのは5年生の後半だった気がする。初めての給食の時間の衝撃をいまでも覚えている。目の前に70センチぐらいのコッペパンが置いてあったのだ。主観というのは怖ろしいもので、実際の3倍くらいに平気で物のサイズを変えるものなのである。
したがってわたしは、人々の小学校の記憶などというものをほとんど信用出来ない。勢い、そういうものに基づいて教育論をかたるなどおそろしくて出来ないのである。教育学部の学生は、こういう基礎からやりなおす必要があるが、そこに「生徒に寄り添う」とかいうジャーゴンが立ちはだかってしまう。寄り添う前に、認識の点検が必要なのである。
その点検なしにつらい人生を生きようとするから、たいがい前向きで生きてはいけない人間に限って前向きメンタルばっかりになりがちなのだ。昨日テレビを見ていたら、「魔女の宅急便」の紹介のせりふで「前向きに生きる少女」みたいなせりふがあって全部前向きにしてんじゃねえぞこら、と思わざるを得なかったわけである。けれども確かにそりゃ箒は後ろ向きには飛ばないのだ。キキの前向き?な行き方は、箒という物質にとらわれている。むろん、宮崎駿はよく分かっていて、最初に自信満々に町に乗り込んだキキが、交通事故やらをおこしそうになりながら箒の能力で切り抜ける場面がものすごい気合いで表現されているのである。
子ども向き?の作品の「夢を与える」みたいな性格は、主人公の真似を一応出来る、性質とセットであって、大ヒットする作品というのはそういうのが多い。ウルトラマンや孫悟空の真似は一応出来る、そして光線の部分は夢である。そして子どもは、手から光線が出ないことに気付いて自分の主観が身体的に限界づけられていることを知って行くのである。
そういえば「上を向いて歩こう」について、前向きな姿勢が感じられますよねと、以前、テレビのコメンテーターがまじめに言っていたが、もちろんちょっと気の利いたこととして言っていたのであろう――とは全く思えない御時世だ。歌詞の解釈ではなく、上を向く身体が問題だと自覚されていれば、言葉はどうでもよいことが分かるはずであるのに。
谷川俊太郎の詩に三善晃が曲をいくつか付けててそれを歌ったこともある。もっとも、なんとなくこの組み合わせは一体なんだろうと思っていたが、最近はやっぱりこの人たちはシティボーイで、馬糞の匂いがしないからだ、と思うようになった。吉本隆明がたしか評価してた、谷川俊太郎の「交合」を読み直したが、やっぱりなにかしっくりこない。
どのくらいの時間がたったのか分からない。めくるめくような感覚の流れはやんでいた。身を起こすと下腹にべったりと落葉がはりついて来た。私の羊歯は、私の身体の下敷になって押しつぶされ、その緑は以前よりずっと濃くそして濁っていた。葉先の細かい線が鋭さを失い、内側へめくれ始めている。同じ生命でありながら私たちは異種なのだ。胸の皮膚に不快なかゆみがひろがった。
谷川はゲーテとは違う。ゲーテは植物に主観的に入り込み、自分の詩神を見出したが、谷川は結局最後に羊歯と自分は違うということに気付く。そもそも羊歯と単独で性交しようというのが、ピグマリオンより更に慰撫的なのである。羊歯植物と交合するためには、周りに居るであろう虫やミミズや馬糞とも複合的に交合する覚悟が必要ではないのかっ。ちなみに吉本もシティボーイだ。彼の育った下町もむろんシティである。