天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。
どうも『大学』も『中庸』もエッセンスが腑におちないが、上の記述は、その形式性故に言いたいことがあるはずだと思う。道も教えも何かの結果にみえるので、自分で自覚できそうなのは性である、これを「あるがままの性質」とみなせば、あるがままの性質こそが天の命ずるところであることになるから、いまでいえば〈自己肯定感〉といったところか。一方、天の命じているところの不可視な「性」があるとなれば、我々の道も教えも天に従わなければならない理念であり、しかも我々の理想の性を追求する理念となる。たぶん、このような二つの道を同時に強制するのがこのイデオロギーである。
われわれは自分の〈性〉が分かっているようでいて分からない。例えば、いじめのある種のものは、ミスしたり不遜な人間に対する不公平な扱いにある。そういう人間をみつけた時点では単に善悪の判断や真偽の判断だったりするわけで、その判断の正しさがつづく不公平さに対する意識をなくしてしまうわけである。そんな馬鹿な、とおもいきや、たいがい我々はその程度だと思った方がよい。その「程度」が我々の〈性〉であるような気がする。しかし、これが否認すべき何かによって引き起こされているとみれば、そうでない理想的な天命的〈性〉がありうる気がしてくるのである。
現代ではそれがイデオロギーとなってあらわれる。その魅力は我々の天命を感じさせるのだ。で、マルクスもフェミニズムも発達障害の権利運動も、マイノリティや虐げられた人々を超えて、それを武器として使うべきでないかもしれない人間によって用いられ利用される。しかし、こういういわば「不純さ」に対する社会的反感は、彼らがそこそこ自分を少数者だと思っているせいなのか過小評価されてしまうが、ほんとうはけっこうな量を持って存在し始める。いや、「不純さ」と述べたが、これは本人にとって結構意識する以上のレベルでの不純さだと思う。マルクス主義がブルジョアジーの琴線にもふれたように、発達障害の件は、すごく「普遍性」があって、非常に多くの健常者にも自分のことのように思われるのである。そのことを梃子に世直しをしようというのが理想なのだが、人間、自分の意識以上のことをしてしまうもので、ついついやってしまう生存競争的な行為が、――自分もやってるくせに他人のそれが目につく。それでいらいらしてくるというわけである。その葛藤が、あまりに理念を素朴に信じているようにみえるひとに対する複雑感情となって現れる。
すくなくとも大学教育ぐらいで、ある種のイデオロギーが無垢な顔をするために利用され、むしろよろしくない結果を導いてしまった歴史、学問と理念との関係、政治と理念との関係、資本との関係などを学び、世のなか簡単ではないが、それゆえ粘り強く考えて戦わなきゃ、と教えるべきである。主体が大学教員から学生に移ったとか、協働だとか、そういう、――革命が主体の逆転だとか協働して戦争だみたいな、小学生が夢想するレベルのことを大学が口走るべきではないと思うのである。
例えばよくある職場の風景としてあるのが、――発達障害の疑いをもたれている人が、むかしのようにいきなり叱責されないことで、自らそのイメージを利用して、自分の利になりそうなときだけ頑張ったり上司に媚びたり、逆にそうでないときには、自分の性質のせいにしたりといった使い分けがすごく傍から見ていて目立つ、みたいな風景である。人は他人のことはそこまで気にしていないこともたしかだが、自分が思っているよりも気にしていることもたしかなのである。この背反的な真実が、発達障害云々ではなく、多くの人にとってわけが分からないものになりつつある。まわりをみわたしてみたら、これは発達障害の問題ではなくなっているのであった。社会的なものの確立が、対人的な緩衝(ケア)によってしか導かれないような感覚は子どものものだとおもっていたらいまやそうではない。
そんな現実を支える、協働やケアみたいなイメージは、主観と客観を作用項として分けるような単純さと、人間関係や社会を技術的に操作できる感覚に基づいている。例えば、マジョリティ?の社交的なものが、幼少期からおぼえた社交的言語のパーツをつなぎ合わせているだけみたいな認識が散見されるが、さすがに人間世界を舐めすぎである。たしかにそんな風に見える連中もいるが、それは見えるだけかも知れない。細かく見れば難しいことをやっている場合が多いように思う。それはそれで経験と長い練習が必要なものだったはずで、だれかにおしえてもられば出来るというものではない。「コミュニケーション」とか言ってしまった時点でそこらあたりの能力形成の問題をなめているんだよな、そもそももっと難しいもんですね。
読書感想文もエッセイも論文も何もかもそうで、やり方教えてもらえばよいみたいなものじゃないんだわ。小学校低学年向きの読書感想文のフォーマットみたいなものが話題になっていた。ああいうものを児童に対して提示する場合も多くのやり方があるし、もちろんあれで止まるのは最悪なので、あのあとの指導こそが長く難しいプロセスを持つべきである。また、何も指導もなくやらせているのも問題なのかもしれないが、それによって得ていた自由もあった。で、もちろんその自由がその後そのひとにとって足枷になったり桎梏となる場合もあるのである。妙な型を教えられたやつはそれに反発するかも知れないし、大学になってもそんな型で書いているかも知れないし、一時の教材の是非は、一概に言えないところがある。むしろ、問題なのは、学校の先生や児童がフォーマットがあると書けてしまう現象をなにかの成果として認識し過ぎる傾向である。そして一番危険なのは、教師も児童も、コンクールとかで賞をもらっている倫理的にも認識的にも狂った作文をほんとによいと思ってしまうことだ。教師はすくなくとも職に就くまでに文化の千本ノックを受けるべし。
政談でもそういう単純きわまりない志向が幅をきかすようになっている。例えば、ある政党の台頭は世界的な潮流の一部で、それを認められない知識人の鈍感さはいかんという人が結構いるが、これも人間をなめすぎである。知識人全員が理念的知識のパッチワークを信じて生きていると思ってるんじゃなかろうか。こういう作法は、吉本隆明が知識人を人生活が分かっていない馬鹿とみなして罵倒するところから始まっているような気がするが、これは単に喧嘩の作法だったことを、吉本チルドレンはたぶんよく分からず、いじめの作法として受けついだ。
喧嘩は、相手も自分がやっていることは一番世界にとって必要なことだという誇りがあってやっているだろうという前提がないとやっていられない。わたくしは、学校の先生の家で育ったから、親の「小学校教育こそ一番大事な仕事」と主張を半分に聞くことからはじめなければならなかった気もするわけだが、――親の世代は、多くの人が小学校しか出なかった時代を知っていたし、何だか理由は分からんが自分の人間「性」や教育で子どもがすごく変化してしまうことを知っていたんだと思う。しかし、これがなにか責任が教師にあるかどうかみたいな話は別であった。教育は効果があることも効果がないことも証拠をだせといわれれば分からないとしかいいようのない微妙な問題であって、親と子の関係とおなじくそれはおそらくそもそも子どもとの「関係の絶対性」(吉本)があるからだ。だから、そこに責任の観念を過剰に持ちこむことには躊躇があったはずだ。しかし、それが持ち込まれると、こんどは責任を持ちなくないから、関係性を薄めたり、本質的に手を抜くことになるわけだ。かくして、学校の先生から「自分のやってることが一番重要な仕事だ」という誇りを結果的に奪うことになったと思う。
大学の先生をふくめて自覚がむずかしいのは、目の前の児童生徒学生が自分にとても似てしまう、下手すると、なぜか悪い方の「性」だけ模倣してしまっている現象だとおもう。わたくしは、だから、できるだけ、自分的ではないものを理想的に教えたいと願っているが、そんな風にうまくいったことなどない。たぶん『中庸』は、そんな絶望に対して、天はあるから安心せよ、と言いたいのかもしれない。