
年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
命は命そのものを覗き込んでいても、「命なりけり」としか言いようがないところがある。
戦後、命が軽く扱われた反省で、命は、体に付与したい希望みたいなものになったところがある。ウルトラマンは、自分の命を地球人に預けるし、仮面ライダーは体が改造されても命は続いている。――というより、この異形の人たちに残っているのは命と言うより、正義や希望なのである。命自体はもう簡単に吹き飛ぶ事が分かっているからである。逆に、――同じ事だが、命を機械的に延ばす事も常態化してしまった。
そういえば、仮面ライダーの息子が仮面ライダーを演じるらしいが、蛙の子は蛙ならぬ、バッタの子はバッタであるにすぎない。むしろ昆虫だから、ちゃんと変態と言って変化していだきたいのであるが、――要するに、繋がれた命が、昆虫のそれか正義のそれか、それが問題なのだ。最近は、正義よりも人間関係を優先したりするヒーローもいるようである。つまり動物である。
それはともかく、――西行が命を確認しているのは、むしろ命とは生きていたとしても途切れ途切れになりがちであることを知っているからである。人間五十年以上生きるためには、何度も再出発を繰り返さなければならないのだ。もっとも、われわれはそれも自覚がしにくくなっている。命が機械のように作動していると思っている事もあるし、文化的意識の上でも持続性があり過ぎる。
漫画やアニメからなぜ卒業できない人が増えたかと言えば、すぐそれを再生できるみたいな条件がある事はいうまでもないが、ひとつの作品をみんながみることがなくなったことが大きい。嫌いな同級生や馬★が自分と同じものを見ており、真似をしていきがっているのをみて、自己嫌悪に襲われ恥ずかしくなる経験は極めて重要である。ちなみに、わたくしは、夏目漱石や大江健三郎でもおなじような経験をした。そこで我々は人生を一回終えているのである。宮崎アニメの功罪はいろいろあるだろうが、主人公のまねをして遊ぶ馬鹿をあまり発生させないことがすばらしくかつ危険である。ごっこ遊びのばからしさを子どもに教えないからである。
「鬼滅の刃」はひさしぶりに子ども達にごっこ遊びをさせた気がする。つまり、それは、やはくこういう思春期未満的世界とは手を切りなさいという当為の復活とみてよいのではなかろうか。第一巻しか読んでいないからなんともいえないが。。
郡司ペギオ幸夫氏の本のなかで、いましろたかしの漫画をよんで怖ろしくなって生活を見直したみたいなことが書かれていたような気がする。作品の教育的?意義はこういうところにもあって、こういう反作用を持たない作品は逆に傑作でない気がするくらいだ。作品は、反社会的であり社会をかたちづくる。ヘッセの作品なんかがあいかわらず学校で扱われているのも、教育業界がその作用と反作用をよく知っているからだと思う。こういう作品世界にのめり込んでおかしくなるやつは少数な訳だしね。。。しかのみならず、そんな社会化できるレベルを超えた毒性がつよい作品は、常に排除されていてあいかわらず反社会的な志を持つ人たちがこそこそ読むものだ。
しかし、こういういわゆる「思春期」は遠からず終わるべきである。それからは人生がほとんど過ちでできていると分からなければやっていけない大人の世界である。そこでたよりになるのは、家族や友であることもある。が、それらは一番の持続的あやまりであり得ることもあって、それに比べると思想や文学はより瞬間的にたよりになる。