孔子に語道に似たれども 愚意の及ぶ所をいふのみ。これは後のためなれば。」と理りを演て諫むれば、小文吾もききつつ感服して、「教諭まことにその理あり。[…]あへて武芸を見はし、誉れを求めて、匹夫の勇を好むにあらねど、和殿の諫めは千金にて、我があやまちを知るに足れり。
小文吾は、行徳口の戦いで奮戦する。金棒振り回すなんとかいう人と、鉞を振り回す「赤熊如牛猛勢」(しゃくまにょぎゅうたけなり)を相手に大立ち回り。疲れた金棒の人が斃れると、「朋輩の仇だ」と鉞赤熊牛の人は小文吾(犬田)に猛然と打ちかかる。牛の如しの方の鉞が、犬の人の馬の首を襲う。馬の首飛び散る。馬が斃れる前に、犬の人はさっきの金棒の人の馬を拝借。ついでに金棒も拝借。「赤熊如牛猛勢」の右肩に打ち下ろす。そのまま「赤熊如牛猛勢」は死ぬ。
こんなケモノの入り乱れた戦いを、荘介が諫める。あんたはすごい。しかし、弓で狙われたら危なかったですよ。軍隊が勝つことを考えて下さい、と。
確かに小文吾は「孔子」ではない。どちらかというと犬なので、素直に「ワンそうだね」と納得である。それにしても、「あえて強いところ見せたり、名誉を求め、深く考えず、ただ血気にはやるだけの勇を好んでるわけじゃないんですが、」といういいわけが調子に乗りすぎである。しかし、この犬は、金太郎や熊なんかを一撃に仆すスーパードッグであり、こいつが孔子だとか匹夫とかなんと記されていると逆に笑えてくる。
武士道は斜面緩かなる山なり。されど、此処彼処に往々急峻なる地隙、または峻坂なきにしも非らず。
この山は、これに住む人の種類に従って、ほぼ五帯に区分するを得べし。
その麓に蝟族する輩は、慄悍なる精神と、不紀律なる体力とを有して、獣力に誇り、軽微なる憤怒にもこれを試みんと欲する粗野漢、匹夫の徒なり。彼らはいわゆる「野猪武者」にして、戦時には軍隊の卒伍を成し、平時には社会の乱子たり。
――新渡戸稲造「武士道の山」
近代になると匹夫も惨めなものである。匹夫が孔子であり犬であるような世界がそれ以前はあったのである。「賢い犬リリエンタール」というのはなかなかよかったが、犬が主人に優しいところがいまいちである。芭蕉曰く、
行く雲や犬の駆け尿村時雨
このぐらいの根性は欲しいものである。ただ、いかんせん犬なので、こういう犬は大概いざという時に遁走する。