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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

細かい研究をする大衆の誕生

2025-04-19 23:25:30 | 思想


 所で何の研究でもさうでありますが、初めに總論のやうなものが出來ますと、それからあとの研究は段々、自然細かい所へ入り過ぎて仕舞ふ。其の細かい研究と云ふものは、研究者本人に取つては隨分相當に面白いことがあると思ひましても、一般の人が聽きますと、何か研究者自身が一人だけ分つたことを言つて居るやうになりまして、餘り興味が多くないと云ふやうなことになる傾きがあります。それで弘法大師の文學上の事に就きましても、既に大體の總論に於きましては、谷本博士の講演があり、又幸田博士の文學上に對する意見も發表せられて居りますから、其のあとで私が何か申さうとすると、自然どうしても一部分の細かい事に入り過ぎるやうな傾きになるのは免がれませぬ。勿論初めから其の覺悟で何か細かい一部分の事を申上げて、それで御免を蒙らうと云ふ覺悟でありますので、今日御話を致しますのも、弘法大師の文藝とは申しましても、極く其の中の一部分、詰り大師の著はされた書籍に就いて、それの批評と申しますやうな事を申上げるに過ぎませぬ。

――内藤湖南「弘法大師の文藝」


さっきテレビで司馬遼太郎「空海の風景」についてのシンポジウムやっていた。こういうのって、何処まで観客の頭脳に勝手に忖度しているのかしらないが、空海でも坂本龍馬でも聖徳太子でもおなじような結論に達するどうでもいい、かかる公開おしゃべりをやめないと日本の文学思想の世界はどうにもならない。なぜかと言うに、観客がバカになるからではなく、観客がいらぬ細かい研究に入ってしまうからなのである。よく知られているように、大衆とは自分が専門家だと思っている輩のことである。シンポジウムとかは「総論」なのである。しっかりしなきゃいけない。

つづいて「日曜美術館」がはじまった。これまた、何の専門家のつもりなのか、小説家がナビゲーターを務めている。よい総論とは毎回言えない。しかし、今回は、わたくし、新宿西口などをデザイインした坂倉準三て西村伊作の次女と結婚しているということを調べ、いっぱしの自己満足に陥ったことを良しとしよう。

壊死した自己

2025-04-17 23:30:15 | 思想


僕の家のすぐそばに巨きな廃工場があって、そこは戦時中日本の軍需物資を作っていたゴム工場で、僕たちは張りめぐらされたバラ線をくぐり抜けては、まさに宝庫というしかない工場に立ち入った。 防毒マスクの部品をはじめ、得体のしれない数々の小さな金具が山となって棄てられていた。たくさんのなかからいいヤツを選んで、僕たちのポケットはいつも欲しいだけの宝物で重くふくらんでいた。 家から近かったし、日ごろから友達とついはぐれることの多かった僕は、晴れた日にはいつも一人で本を持ってしのび込んだ。裏庭の、鉄やゴムや草の匂いと、焦げるような日向の匂いのなかで、読んでいる本の世界をふとはなれて、思いのまま、さまざまな夢想の世界に遊んでいたことを僕は昨日のように憶えている。

――森山大道「壊死した時間」


森山氏の文章は氏のすごい写真以上にノスタルジーに溢れかえっているが、上の部分の前には、朔太郎の「猫町」の描写があったり、そもそも題名が「壊死した時間」である。彼にとっての過去は、彼が文章を書いて塗ればぬるほど対象が遠ざかり、時間が止まったみたいに、すなわち絵のようになっていくのであった。芳賀壇は「ゲーテと人間」で次のように言っている。

ゲーテの「ゲーテは「あきらめ」と云うことを云っていますが、「あきらめ」は[…]己れ自身の上に立つこと、自分を超え、どの様にも捉われぬことであり、人間を高く、自由にするものであります。[…]『マイステル』の「遍歴時代」には「あきらめの人々」という題名がつけられている

「あきらめ」のために、かくも長い記述(というより「修行」)が必要なことは重要である。我々は諦めが悪く、みずからを流動するジャーゴンや何者かにいちいち沿わせて右往左往する。諦めは人生や社会に対するものではなく、そういう流れてゆく何かにたいするものである必要がある。特に、闘う人々はよくそのことを知っておく必要がある。

例えば、発達障害者を差別するな、と主張する闘いかたは、「我々は労働者」を合い言葉とした社会主義運動(というより「プロレタリア」文学運動)と同じく、みずからがラベリングを引き受けるやり方で団結し、差別を逆用するものである。だから逆にそのラベリングのおかげでより貼り付けられた差別の表徴が強力になってしまう事態を避けるための闘いも一方で必要なのである。いってみりゃ、転向文学は、その意味で、いったん「労働者」を人間に還元するための「進歩」だったのだ。それがなければ、戦後文学はありえない。そういえば、私の知る新左翼や新右翼のかたは、闘いのテーゼからはずれ人間的な泥沼に陥ったことを悔いている方も多いのだが、その泥沼でよかった面もかなりあるにきまっているのである。あまりに悔いすぎると、次世代に対して純粋さを期待してしまうのはある。で、結局そうはならないわけで、下手すると自分のほうがまだましだったみたいな絶対化に陥る。

職場でのトラブルを発達障害のせいにしたい人々と、発達障害のラベルを武器にするやりかたは、同じ武器を持っているパワーゲームになってしまいがちである。だから、つねに何がどのようにトラブルになっているのかという問題に戻していかないと逆に事態は悪化しかねない。そもそも仕事そのものがどのような考えのもとに必要なのか、やり方は適切なのか、みたいな問題を、まずは民主的な手続きや公平さ以前に検討しないと、少数派だから正しいとか多数派だから正しいとかいう思考にいつも差し戻されてしまい、様々な人間に怨恨だけが残る。例えば、*さんはそういうタチ(能力)だからという配慮をすることは安易に判断されるが、それが精確かどうかみたいな問題もあるが、一方で、その人がそういう風に演技している可能性を瞬時に考慮するみたいな感覚――判断力が、多くの人から奪われてきている。発達障害でもそうでなくても自意識によるネジクレはつねにあるわけだ。差別する側も差別される側も人間観が純粋な人形みたいになってしまっては元も子もない。

万博・祭・家

2025-04-11 23:26:02 | 思想


ヤコブ・ブルクハルトさえ、「歴史は幸福のためでなくて、悲劇と涙のために存在する」と言わねばならなかったのです。正義をかかげるだけの勇気も力もなく、使命をも持たぬまやかしの者を、いつも人は正義であるとはき違えてきたからです。

――芳賀壇「何んのために文学するか?」


芳賀みたいな人物はブルクハルトの全体というより一部を取りあげて、歴史は涙のために、みたいな言い方をして歴史をすぐ泣く学生みたいにしてしまうわけだが、まだ、歴史は戦争の歴史で、例えば第一次第二次大戦があります、みたいなことばかり言っているファクト教信者よりはまだわかるのだ。しかし、最近は実証的であろうとすることによってなぜか、封建主義も近代主義もなかったことになっている人たちもいる。

そういえば、オリンピックや万博をむかしからのお祭りみたいなもんだみたいな見方はよくある。これは、芳賀みたいにセンチメンタルではないだけかなりましなけであるが、――ああそうですか、では展示品とかを担いで縦まくり横まくりなどなどして、ぶちこわしてもいいわけですか、展示してあるガンダムに馬乗りして山から落とすとか、やってもいいのですか、と言いたくなる。大学院のコロからわたくしは「近代などはじまっておりませぬ」論者だったわけだが、流石に最近、真似た近代すらなかったかのような論調が出てきてるのは変だ。たぶん、田舎のねちっこい実際のお祭などを実際に経験していない人間が、「祭」と「お祭り騒ぎ」をつねに錯覚してものを言い始めている。

だいたい、万博にガンダムを置いとくとかほんと日本の停滞を顕すようでいやである。ガンダムは伝統芸能だからいいのであろうか。最近のマンガ家をつかってやりゃいいのに、である。例えば「進撃の巨人」のリアル四百体とかを展示したらいかがであろうか。日本はあいかわらず狂ってるというかんじで。ロボットというのが未来らしいというのが既に古いのである。むしろ、呪術何とかとかチェンソーマンみたいな半分肉体みたいなものが流行ってるわけで。

それにしても、「近代の超克」ですらなく、近代と非近代のあいだを振り子のように触れてしまう我々の思考とはいったいなんであろうか。それは三島の言うように振り子ではなく、人間の意識的「転向」であることが重要である。昭和の転向左翼(右翼)がそうだったと思うが、罪悪感は意外なほどはやくなくなり、自分は左翼(右翼)で知的(魂が良心的)だったので、右に転回しても知的(魂が良心的)であることが出来るという、何の根拠もない自信がある場合が多いんじゃねえかなと思う。裏切り者は死んでくれみたいな思想警察が存在したことにも1㍉ぐらい理はあったきがしないでもないのである。いまも似たような人が結構いるからだ。人生は一貫して続くものかもしれないが、思考が発展し続けるとは限らない、――こんな小学生でもわかりそうなことをつい勉強すると分からなくなるのである。

右や左が掲げる様々な観念以前にやはり大事なことがある。人の気持ちを考えない奴、蔑視しているやつ、道具みたいに使う人間とは縁を切る方針である。むろん、急には無理なことが多いから、最終的にそういう状態にもってゆく知恵が重要だ。

しかし、「急に無理」の具体相にめをこらすと我々の社会は息の長い仕組みを長い間脱却できないでいることが明瞭である。明治文学を読んでいると思うのだが、家から独立する家をつくるのに家長制度が有効に働きうるというのはあるのである。家長制度が個人主義への暫定的な措置だったみたいな説をひくまでもなく、実感としてそれは感じられていた。元々養子だったりする子が、物理的にも精神的にも家から独立するための根拠になりうるのである。そうでないと、結婚しても、義理の親とか親戚とかが勝手に家に上がりこんだりするのが、日本の「家長」ならぬ「親」の支配の不遜なところで、最近、またそんなところに戻りつつある気がする。親子の縁を相対的に切る仕組みがどうしてもこの国には必要なのだ。その、家長制度を家長制度で否定するみたいなやり方はうまくはいかず、かえって馬鹿な奴の個人主義を許しただけであったが。日本の「家」主義は、見栄のための結婚制度を始め、多様なのでなんともいえないが、――とてもじゃないが、根本的な相互扶助の組織であったことはない。金と名誉がありそうなところに群がって寄生するもので、その寄生先を増やすための婚姻の強制がいまでもかなり行われている。独立してやっていけないほど貧しくなるとそういうところに簡単に戻ると思われる。

あまりに機械的な

2025-03-16 23:04:42 | 思想


クラウゼヴィッツにとって、政治的国家はすでに「徹底砲撃を防げる非伝導体性ミリュー」だった。こうした定式のうちには軍事階級の野心の性格が完璧なまでに現れており、核状況が投射されている……。 「ボナパルト(将軍/国家元首)とともに、戦争は一分も無駄にすることなく遂行され、 反撃は間断なく行われるようになっていた。こうした現象が、我々を、厳密な演繹による戦争の本源的概念に連れ戻すのは当然ではなかろうか」。力学的効率が国家機械の原理的性質であり、速度術的進歩の最終段階たる核国家は、戦略計算機によって概念の統一性を保証する。この究極の戦争機械と向かい合い、それに臨検を受けつつ、最後の軍事プロレタリアートが立っている。消滅した軍の最高指導者、共和国大統領の、意志なき身体が。 大統領の身体は二つの砲火の間の旧徴集兵たちの身体に似ている。彼の最後の動作は、今もって突撃なのだ。

――ポール・ヴィリリオ『速度と政治』(市田良彦訳)


トランプなんかはもはや上のような「意志なき身体」であり「軍事プロレタリアート」だと言ってよいかも知れない。我々は、かくも大統領が人間でなくなるとは思ってもいなかったような気がするが、気がするだけである。大リーグのチームと日本のプロたちの試合にも人間の闘いはない。もともと野球にはそういう「戦争機械」になりかねない予感をもたせるものがあった。あまりにもボールが――弾丸のように――速く飛びすぎるからだ。プロ野球が興業だから乱闘があったのではない。あれは、人間としての「最後のプロレタリアート」の「突撃」の姿だったのであろう。第一次星野ドラゴンズといまのドジャースやらせて、死球合戦、乱闘で、オキュペイドジャパンを上演すべし。しかし、もはや我々の世界は、そういう想像も不可能なほど、戦争機械の世界である。オキュペイドされる国もする国もない。それはすべて機械的プロセスである。トランプはそれをディールと言っているだけだろう。

落合博満氏のチャンネルで知ったのだが――、落合氏が使っていたバット=アオダモの木はいまはあまり使われなくなっていて、なぜかというと手に入らなくなっているからだという。しかし、理由は根本的な枯渇ではなくて、木自体はいまでも北海道には生えてるみたいなのだが、国有林化とか切り出してくる人たちの高齢化とかが関係しているらしい。で、アメリカの素材の木が多く使われるようになったと。そういう意味でも、日本のプロ野球も、人間の意図を越えた理由でもはや「日本産」ではなくなっているのであった。大谷を観ても思うのだが、バットが軽くなるとこんどはバッターの肉体のほうがより強力なマシンになる必要がでてくるのだと思う。AIでかんたんな情報の整理や図式化にたいする負担が軽くなると、われわれが益々高度な思考マシンにならなければならないのと事態は似ている。

三島由紀夫はたぶん、そんな事情をよく分かっていた。だから人間の意図として機械的肉体となり、機械としての集団(軍隊)を私設した。その意味では。のんさん主演の『私にふさわしいホテル』という映画が良かった。のんさん演じる若い小説家が大御所の小説家に三島由紀夫の檄文のいたずら電話をかけるところがすごい。そういえば、のん(能年玲奈)という俳優、デビュー当時からどこかしらロボットみたいなところがあり、それが逆に人間らしく見える。そして三島由紀夫の檄文もサイボーグが喋ってみるみたいだったが、そんな側面を美事に浮かび上がらせていた。

そういえば、以前、大学院生に、ドゥルーズとフーコーを引用せずにレポートを書きましょう、と指示したことがあるが、かなり効果的だった。それだけで論証が稠密になる。ただこれは、大学生の初期にやるべきことではない。――かくも我々の思考は機械的である。

「思考」に任せておくとこうなるわけである。もはや機械的に変化させてしまうべきなのは、言葉のほうである。例えば、確定申告って、ほんと響きがかたいので「ぴょこぴょこうさぎ」とか「こころのお餅」とか「いやんもうおかねとっちゃいやん」みたいな名称に変えたらいかがであろうか。変身文化を生み出した戦後は、そういう試みを行っていた。

もうみんな言っていることだろうと思うが、手塚治虫のマンガのスピードって、転向を許さないスピードという感じがする。戦争機械よりも速いヒューマニズムというか。。それも、人間が擬人化した動物になってから人間へ再復帰したキャラクターによって。それは、動物的にブラッシュアップした人間である。それは転向しない。転向とは、転向後のプロセスを含んだものであって、それによって変身を防いでいる。例えば、本当はワークとライフなんか分かれてもいないしだからバランスなんかとりようがないのだが、そこでワークを鎗ながら内面としてのライフで右往左往するのが転向である。世の中、ただライフを棄てよ機械になれと言っているだけなのだから、さっさと変身して対抗したほうがよい。これが夢物語であるだけに、戦後は夢のようなかんじであった。ほんとは、夢が覚めてからのことも考えておくべきだったと我に返ってみたら、すみやかに地獄に墜ちることだけの速さがはますますいきがよい。

鍛錬場と自意識の世界

2025-03-15 23:43:01 | 思想


最も特色をなすのは、「日本的現實室」である。常連執筆者は一週最低五時間をこの室ですごさなければならない。ここには、尖端的な映寫設備と、立體音響設備と、各種の臭氣を發散する装置などがあり、中央に座蒲團が一つ置いてある。執筆者は義務として、その座蒲團の上に坐るのである。そして目の前に並んだ幾多のボタンの一つを押す。ボタンの一つには「日本的濕潤性」といふ名稱が書いてある。それを押すと、密室はたちまち、颱風の来る前のやうなじとじとした濕氣とむしあつさでいっぱいになり、まづ、何ともいへないいやらしい流行歌がきこえて来て、どこかで人のすすり泣く聲がし、やがて泣き聲は田舎の朝の鶏鳴のやうに、あちこちで競ひ立つてきこえるやうになる。すると、その泣き聲の一つ一つが分析されて畫面になつてあらはれ、母子の別れだの、親分子分の別れの盃だの、夫婦別れだの、戀人同士のすれちがひだの、數數の、えもいはれぬ悲しい光景を展開し、つひには一家心中の實況にいたる。 執筆者はあまりの實感に、「もうやめてくれ」と叫びたくなるが、責められに責められて耐へ抜くのが修行なのであるから、音を上げてはならない。やうやくこれが終り、次に「アジャ的停滯」といふボタンを押すと、まづ耐へがたい糞尿の臭氣が部屋いつぱいに立ちこめ、どんなに鼻をつまんでも防ぐことができない。やがてしづしづと、都大路をねり歩く牛車があらはれ、新型の自動車の列に悠々と追ひかれながら、その牛車の積んでゐる桶が示されるが、立體畫面でその桶のひとつが轉倒し、黄色い液體がザアッとこぼれてくる迫真性には、思はず頭をおほわずにはゐられない。

――三島由紀夫「個性の鍛錬場」


三島の「個性の鍛錬場」の後半は、文士たちが「日本的現実室」とか「日本の貧しさ」とかいうボタンを押すとそれを映像とか音響とか臭気発生装置などによって体験する部屋に籠もらなければならないみたいな「鍛錬場」が描かれていて、当時はありえなかったであろうが、現在ならあり得る。VRといかなくとも、youtubeなどを永遠に覗き込んでいる方々は、「個性の鍛錬場」に籠もっているようなものだ。三島の想定するのは才能ある文士たちの鍛錬であったであろうが、素人がこれをするとまさにみんな違ってみんないレベルの個性が叢生する次第である。いうまでもなく、それは個性と言わなくもよい。しかし、個性なんかないんだとはいえない。あるに決まっているからである。それ以上のことを何かを乗り越えた形で言い始めるとよくない。三島が提案する鍛錬による反発の方がまだましだ。

三島由紀夫は「楽屋で書かれた演劇論」で、フルトヴェングラーのことば、――「ワーグナーは芸術家だったから理想主義者ではなかったが、ニーチェは理想主義者だったからワーグナーを嫌った」を引用して、日本でも江戸時代まではこういう考えだったと言っていた。というわけで、独逸のほうは、日本の江戸時代の状態のまま敗戦を迎えたのかも知れないのである。日本は、その独逸精神を近代(もしくはそれを超えるものだ)とだと思っていたから、結局、未来に向けられたまなざしが江戸に逆行して行くのは時間の問題であったのかもしれない。

フォークソングの時代に「翼をください」という曲があった。あれは右翼と左翼が共闘すれば悲しみのない自由な空へイケるという感じじゃないだろうか。しかし、現在もたいがいどちらかだけだし、もっとひどいのになると、中道とか言うて、道しか歩かない気満々のやつが超克しました顔ででかい顔をし始める。せめて中道ではなく中論ではなかろうか。清水高志氏の最新研究に期待である。

発達障害の「発見」も何かを超克した顔をしているが、その実、それで見えなくなった部分も多いからむしろ後退である。実際、それによって新たな差別の方便となっている。自分は発達障害でみんなで協力するみたいな場面で何をしたらいいのか分からない、みたいなことがよくネット上でも歎かれているのだが、当たり前だが、協力すべきでない場面も結構あるのだ。そういうことがあまりにも言われなさ過ぎているのは、発達障害は現実に適応できないという観点が我々に立ちふさがっているからだ。小学校とか中学校でそんな馬鹿馬鹿しいことにノらなきゃいけないのかということは昔からあったが、気のせいなのか今のほうがひどく多い。「生きる力」とか「共感力」みたいなことが言われ出すのには確かに理由もあったが、だからといってそれへの対処法が常に正しいとは限らない。先生たちがそういう懐疑をみずからに向ける頭脳の余裕をなくしている。

こういう差別に組織経営の半端なコンサルティングとやらが合体すると最悪である。危機への対処のために平気で差別は仕方がないとみなし始めるのだ。ほんとなにそれ、そういう風にすべき理論でも存在してんの?というかんじである。危機に陥った組織はその構成メンバーがさぼっていたからだという論法、戦争末期とか戦後の総懺悔の時のあれである。で誰が言ったかというと、自分の失敗を隠すための何か言わなくちゃいけなかった輩だろう。いまでも確実にそうである。だいたい、広い意味で組織や社会に対して革命ではなく説教するたぐい――コンサルみたいな役割を担っている学問て、動機がだいたいルサンチマンなのである。だから自分はなにか体制への反抗者だと思っている。そのルサンチマンとは勉学に対する苦労から来ていて、ニコニコしながら実験したり思索をしているタイプが脳天気に見える。で、時代遅れ(あるいは発達障害)とかなんとかいって攻撃するわけである。以前、戦争に進んだ理由はたくさんあるけど、ひとつはそういうルサンチマンの持ち主が学生が増えることでけっこうな勢力になってしまったというのが確実にあるようなきがする。いまもそうだから。

例えば、カーツワイルのシンギュラリティが「AIが人間を超える」という、これまた「超克」思想の一種なのは、この考え方が自意識(ルサンチマン)と繋がっていることを示している。AIを人格みたいに捉えて勉強で勝とうみたいな自意識の連中がいるのだ。確かに、機械的暗記とか学習をAIが代替すべき局面はあるし、人間もその強いられた学習の機械性をいやがっているから、みたいな意見には一理あるが、学校の勉強に限らず、知識の整理整頓や問題を解くみたいな作業には、ある種の人間的な快感があるのである。当然、社会の中の事務仕事にもある、というか多くの仕事にある。それ以外に人間的なものが存在すべきという感覚は分からなくはないが、人間はそういう単純に自由な動物ではないと思う。脳が発達してしまったためにか?高度な単純労働が好きな側面があるのだ。基本、研究も教育もそうで、機械的な作業の習慣がついている奴、機械的作業を行わせる教育者だけが、その帰趨として自由みたいな地点にたどり着く。これにたえられない人間がルサンチマンを抱いて、AIを片手に脅しをかけているわけである。

こういう自意識の政治が行われている一方で、単に差別的でヤクザな世界というものはある。先頃、アフリカから来た礼儀正しいバイトのお兄さんがいたコンビニがつぶれたので、次に家に近いコンビニに行ったら70ぐらいの日本人女性がバイトやってるコンビニで、まだ「コンビニ人間」の設定は牧歌的だったのではないかと思った。官僚的な世界に限っても、社会保障とか教育の現場の一部ではあと一万円になっちゃった、あと5000円になっちゃったみたいな話題で頭を抱えているのだが、一方では元税金のすごい金が動く分野があり、そこに群がって沸いてくる人間はレベルが違う。悪い意味で。もうそういうところででてくるエピソードというのはほんと週刊誌の記事かよみたいなものがある。アカデミシャンはしばしば週刊誌の記事は盛っているとはじめから決めつけがちなのであるが、むしろ抑制されている部分だってかなりある。そもそもみんないろんなことを見聞きしながら黙っているものだ。

生と死、あるいは脳と肛門

2025-03-12 23:20:16 | 思想


 ひそかに推測してみると、人間の生存の根源的不安を課題にした『不安の概念』におけるキェルケゴールと、すべての不安神経症の根源を〈母胎〉から離れることへの不安〉 に還元したフロイトは、どちらもヘーゲルのこういった考察からたくさん負っているような気がする。だがへーゲルのこういう考察は、自己幻想の内部構造に立ち入ろうとするとき問題になるだけだ。ここでヘーゲルの考察から拾いあげるものがあるとすれば 〈生誕〉の時期での自己幻想の共同幻想にたいする関係の原質が、胎生時の〈母〉と〈子〉の関係に還元されるため、すくなくとも生誕の瞬間の共同幻想は〈母〉という存在に象徴されることである。
 人間の〈生誕〉にあずかる共同幻想が 〈死〉にあずかる共同幻想と本質的にちがっているのは、前者が村落の共同幻想と〈家〉での男女のあいだの〈性〉を基盤にした対幻想の共同性の両極のあいだで、移行する構造をもつことである。そしておそらくは、これだけが人間の〈生誕〉と〈死〉を区別している本質的な差異であり、それ以外のちがいはみんな相対的なものにすぎない。
 このことは未開人の〈死〉と〈復活〉 の概念が、ほとんど等質に見做されていることからもわかる。かれらにとっては〈受胎〉、〈生誕〉、〈成年〉、〈婚姻〉、〈死〉は繰返される〈死〉と〈復活〉の交替であった。個体が生理的にはじめに 〈生誕〉し、生理的におわりに 〈死〉をむかえることは、〈生誕〉以前の世界と〈死〉以後の世界にたいしてはっきりした境界がなかった。『古事記』には〈死〉と〈生誕〉が、それほどべつの概念でなかったことを暗示する説話が語られている。


――「祭儀論」(『共同幻想論』)


『教行信証』読んでないから急ぎ読まねばと思うが、あまり時間がない。しかし親鸞とは文学をやるものにとって、交響曲第9番の如きものであって、あつかったらもう最後みたいなところがあるからよいのかもしれない。――いや、よくおもいだしてみれば案外生きのびるやつもいるようである。野間宏なんかたしかに生きのびた。もっとも、彼なんかはもうデビュー当時の「暗い絵」とか「顔の中の赤い月」なんかでももう生きながら死んでいると言えば言えるので信用できない。デビュー前の野間宏はイザナミのようなものであって、そこから逃げてきたイザナギが戦後の小説家としての彼であるのではなかろうか。

生も死もないんだ機械があるんだ(違うか)みたいなことを言っているドゥルーズなんかは『アンチ・オイディプス』で、次のように述べている。ちなみに、大学の私は、この革命的な書物において、この辺りで挫折した。

〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。 こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。シュレーバー控訴院長は、尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太陽肛門である。

――宇野邦一訳


思うに、我々の身体とは、我々でないものまで機械として作動させることがある。そこにはスイッチなどがあり、肩書きなんかをもらうと、自分の身体を棄て組織でうんこを漏らそうとする。たしかにこれにくらべると、太陽肛門なんかはストイックさで清く正しいような気がしてくるほどだ。肩書きのスイッチが入ると、「誰にでも」命令を下せると思っているレベルの奴がなんでこんなにおおいのか、一見わけわからない。たとえば下部組織の人間だってただちにお前の部下ではないことすら忘れ、政治と官僚の関係も部署の違いも忘れる。しかし、違うのである。自分の脳で発した素晴らしいアイデアを、組織の肛門から排出しているだけなのだ。このとき、組織は死ぬが彼の脳だけは生きのびるようにみえる。しかしやはり組織は組織であって、食道と肛門だけでできているのではない。ちゃんと筋肉とか肺とかもある。

組織のなかにいると、強者と弱者の対立と言うより、肩書きで興奮した強者が、組織を支える動きが可能なある種の強者を奴隷としてつかうために、何もしない多数を奴隷でない右往左往するだけの群れとして放置しながら甘やかす場合さえあるのがわかる。外部から観ると、あたかも上の興奮した輩が勇敢な抵抗者に見えることがある。だから外から見ているだけではだめなのである。確かに、いろいろ外から見えることもあるだろうが。外からは、すべての動きがゆっくり自分勝手に総花的に見える。だから、もっと単一の食道と肛門しかないような美しい花を夢みる。この外の人とはだれかに似ている。先ほどの興奮した脳の人に似ているのである。

ぐるっと線でそれを囲めば

2025-03-08 23:36:59 | 思想


たゞスターリンの人となり、スターリンの正体は、知れるものなら知りたいと思ふ。不思議な存在に対する好奇心のせゐか。彼は千八百七十九年に生れた筈である。私と同じ年である筈だ。同じだけの人の世を見て来た筈である。

――正宗白鳥『読書雑記』


トランプが暴れているせいで、露西亜と米国が似た国になったという感慨があちこちから洩れているが、安部公房や三島由紀夫みたいな人たちがむかしそういうこと言ってたのは勿論、多くの人々が結構言っていた訳で、――冷戦というのはそういう似たもの同士が対立したさまを示すことで真の対立を隠蔽しているのというの、(新)左翼の常識だったのではないだろうか。だいたい、第二次世界大戦終わったとき、この二国はグルだった訳で、で、言ってみりゃずっとグルだったわけで、中国(むかしは生意気な大日本帝国)が台頭してくりゃそりゃ元のように組むわなとしかいいようがない。

ロシアは世界に冠たる社会主義革命をまがりなりにもでっちあげた国であり、アメリカも同じような意味で民主主義から始めた国というのをでっち上げた国である。この思想系の国はところどころ、その思想を振り回す場面でその人間性を発揮する。我が国が絵とか文学で発揮するのと対照的である。例えば、むかし「ビバリーヒルズ高校白書」に、主人公の一人である金髪美少年のブランドンが「決まりは破られるためにある。違いますか」とか主張して、飲酒し卒業が危なくなった女友達を卒業させようと、同級生みんなでデモる場面があった。これは、校長や教頭、親の世代の――かつての学生運動を想起させる形で、ノスタルジックにえがかえてもいたわけであるが、しかし、このブランドンのこういう発想て、法や習慣は破られるためにあると言わんばかりのトランプとあまりかわらない。だいたいこの白人のお金持ちの子ども達は、グループ内で相手をとっかえひっかえ交際したり、妙に卒業後に起業とかしたりしている点、やつらは青春の典型ではなく、新たな偉大なアメリカの典型だったのである。ものすごく長いドラマで、その「高校」とか「青春」的な雰囲気を長引かせることで、そのことを隠蔽していた。

彼らは自由や青春を謳歌しながら、典型を押しつけてくるので、その典型を受容することが自由を体現しているような錯覚に陥った我々は、他のものが不自由にみえてしまう。子どものおもちゃのカタログとか観るとわたくしでさえ、男の子はダンプカーとか消防車にか興味がないのかよとか、女の子はキッチンとお洋服かよと思う。これらはおそらく、アメリカの五〇年代だかに輸入された何かである(イメージ)。そういえば、男の子の恐竜趣味がオタクと理系に、女の子の恋愛趣味が文系に強く導かれすぎているのはどうみても遺憾であるからして、――小1の教科書には、ダンプカーの女子が恐竜と子どもを作ってその子どもが医者やりながら恋愛小説を書き、最後兵十にうたれる話を載せるべきだと思うのである。すなわち、我々は、定期的に兵十にうたれる如きアナイアレイションを体験して、ごんのジェンダーなど問題にならない現実を見出すべきであった。我々の現実は、どちらかというと、典型による二分法による破滅の回避ばかりを選択させられてしまう。

夜のNHKのニュースで、Xで私が退職した本当の理由というハッシュタグでさまざまなセクハラの被害者の声が可視化されたと言っていた。ずっと言われてきているが、この論法は危険であり、テレビの制作者がXの声を真実だと思って右往左往しているの単にばからしい。そもそもセクハラが深刻なのは中居の件以前からだし、Xの声というのは「声」じゃなくて出力された「文字」なのだ。言うまでもなく、Xに書かれている文字としてのお気持ち的精度じゃ物事の実態はつかめないのであって、そこをきちんと取材などで問題が何処にあるのか研究するのがメディアの役割だったはずだ。よく言われるようにSNSの何が問題かというと、書き込みが吹き出しの中にある科白になってて、人物の思ったことが書かれているように感じられる。我々の「声」と感じられる本当の姿は、吹き出しの如く括りはないし、それ自体独立もしていない。にもかかわらず、ぐるっとそれを線で囲めば、価値がないものにも価値があるように感じられる効果すらあるわけである。額縁効果である。学校でよく使用されている「ワークシート」の効果もそれで、白いノートよりも格段に何か書いてみようという気になるかわりに、修正もそれ以上の思考の発展ものぞめない。これがノートテイクに取って代わってしまったのが深刻である。学級崩壊や発達障害に対する有効な手段として開発されたことがオルタナティブとしてかんがられてゆくのは理由もあったが、そもそも教育のプロセスが、旧弊として批判される際にものすごく単純化されて理解され、もともとの困難さや難しさが忘却された面がある。

それは教育界だけに限ったことではない。執拗なリアリズムが欠けているところで、旧を乗り越えるみたいなことをすれば、じぶん以外を蔑視してしまうような、頭の悪い研究者みたいに現代社会全体がなってしまうであろう。ある種の蔑視によって論文の大量生産て実際可能なのである。よく読めばリアリズムの深度に問題があるのが明らかなのだが、それが判明するのには時間がかかるので、本人もそれが判明したときには時代が変わったとか言えばいいと思っている。

善悪の判断は二分法のかたちをとり、それでよろしいのだが、だからといって、それを現実の仕組みの説明に使用するから、排除しかやることがなくなるのだ。そういうことが大変幼稚であることを告発するところから近代文学は出発している。むろん、彼らの認識にも二分が入り込み作品も混沌とする――プロレタリア文学なんかはその表れである――わけであるが、混沌すら経験しない連中よりはかなりましである。

死・群衆・大学

2025-03-01 06:04:31 | 思想


で、わたしは本当のところ、こう思うのだ。死のまわりを取り囲んでいる、あの恐ろしい顔つきや道具立てが、死そのものよりも、われわれをこわがらせるのだと。そこでは、生の形式がまったく別のものになってしまっているのだ。母親や妻子たちは泣きさけび、びっくりして、身を固くした人々が弔問におとずれる。青ざめて、泣きはらした顔の召使いたちが、控えている。日のささない部屋には、ローソクがともされて、枕元は、医者や司祭たちに取り囲まれている。 要するに、まわりはすべて、恐怖と戦慄なのである。われわれはもう、屍衣にくるまれて、埋葬されてしまったも同然なのだ。子供というのは、それが友だちであっても、仮面をつけているとこわがるものだけれど、われわれも同じだ。だから、人からも、物からも、仮面を取り去る必要がある。仮面をはいでみれば、その下には、召使いやら女中やらが、少し前に、なんの恐れもなしに通りすぎていったのと、まったく同じ死が見いだされるだけなのだ。人や物がものものしく集うための準備をする暇もない死、これこそが幸福な死ではないか。

――「エセー」第一章第一九章(宮下志朗訳)


「呪怨」は最初の映画の半分ぐらいしか観てないんだが、下の世話が自分で出来ない老人宅にヘルパーが訪ねるところからはじまり、その荒れ果てた家の様子を長々と描いていて、――ホラーの人的本体・白い子どもや黒い女性が出てくる前に恐怖感がすごい。これが「リング」にはない恐ろしさを出していて、観客に、誰の家でもそういう呪われた家に住んでいるかんじを与えていてリアルである。「リング」は死そのものに対する恐怖を描いているのだが、「呪怨」は未来に対する恐怖そのものの予感を描いている。もっとも、モンテーニュのいう、恐ろしさが派手な「仮面」に頼っているのは、これらの映画でも一緒である。そして、この「仮面」は、その形象それ自体がおおげさに変形し暴走することによって「死」を物象化させ、人命の軽視のみならず死への過大な恐れを生み出すのである。モンテーニュは、この長い章で、さまざまに昔から死がホラー化して人間の生を狂わせる様をしめすためにであろう、それに抵抗した良識があったことを細々と例証してゆく。モンテーニュは死のホラーから逃れるためにこれほどの努力をしなければならなかったのであり、どうみても真に死に神にとりつかれていた。

私も思春期に、祖父や祖母が亡くなって、この経験は、これは非常にわたしの進路に影響を与えたと思うのである。死に神にとり憑かれていない文士や学者はわたくしは信用しない。生をコントール出来ると思っているのが死に神にとり憑かれていない者の特徴である。

みんな言ってることだろうが、――不老不死を目指してがんばる話が無惨な結末を迎えることを忘れはてているのはまずいのではないかと思う。今の医学は、治療ではなく、滑稽な不老不死思想と安心安全思想の結合であって、きわめて人文学的な分野になっている。目の前に生死を置いているのだからむしろ文学はそこにあるようなきがしないでもないぐらいであるが、彼らはおそらく、メフィストフェレスに魂を売り渡す前の、ファウストみたいなもので、生をコントロールできると思っている節がある。

コロナでそれを逆にアピールしようとした医学界、ひいては現代社会は、コロナ以上にコントロール不能な戦争や指導者に振り回されている。よのなかうまく出来たものである。

群集は地獄である。〔略〕群集のなかに息づまらない人は、結局常に奴隷である。群集のうちに息づまる人間はやむなくもう一つのもの――孤独の方へ行く。孤独は正に煉獄である。

――佐藤春夫「芸術家の喜び、其他」


思うに、群衆の中の孤独とか言っているうちはまだ平和だったのだ。芥川龍之介が「奉教人の死」でさんざ警告していたというのに、なぜかそのあとの群衆への眼差しは、自分だけはコントロールできているという幻想に向かったような気がする。いまでも、群衆と化した、大学生の学歴への自意識の塊が差別の対象の死を願って生を謳歌しようとしている。

例えば、地方の大学をどうするかみたいな話は定期的に話題になるが、――わたくしの経験から言っても、地方の山の中の小さい大学っていいのである。静かだし、ほんと、勉強も青春もやり直すことができる感じがある。だいたい日本の大学は首都圏のやつは特にでかすぎる。あれでは学生が群衆化しておかしくなるのは当たり前だ。

「チーム**」とかいう科白が平気で吐かれるようになれば、民主主義なんて簡単に死ぬのだ。左翼の組織論に限らず、もっと一般的にも組織のあり方こそが問題だったのに、群衆と化した孤独な人間たちが言う、個人よりもチームでやった方が良いみたいなデマに社会が乗っ取られて、いろいろなものが死んだのだ。

わたくしにとって、山の中での小さい単科大学での学生時代は、音楽と文学に集中できた第二の高校時代という感じであった。マンモス校のそわそわした蒙昧な雰囲気での堕落は、むしろ大学に入る前の予備校と大学院時代に経験したと思う。そういえば、そのまえの高校時代は、荒れがなくなった中学時代というかんじだったようなきがする。幸運にも私は学生時代を引き延ばすことができたが、これはこれで結果的にはよかった気がする。日本の社会は納得できないことが多すぎるので、それを納得するためにものんびり学生時代をながながと過ごしてよかった学生は案外多いのではなかろうか。それを許さない親たちが多いのは、お金の問題もあるが、みずからの苦労からくる嫉妬と怨恨である。

もしかしたらもう研究があるかもしれないが、――わたくしが大学生だった頃、留年して大学七年生、八年生になっているひと、大学の音楽団体にも政治的なセクトにもかなりいたが、こういう人たちが将来どうなったか、そもそも大学時代、どうやって食ってたのか、研究してみる価値はありそうだ。いまもいることはいるが、存在が消されているような雰囲気だけど、むかしは堂々と闊歩してたイメージである。大学が四年間で卒業させろみたいな政策を強制されるようになってから、実質的になにが変わったのか考えてみる必要はある。しかし、これもどうせ、大学生を個人ではなく、学年ごとの群れで考えるような非人間的な発想の帰結に過ぎない。別に個々の人間が変わっているわけではない。彼らが抵抗勢力でも劣っているわけでも優れているわけでもないということである。

あまりにも水野的な――転向の瓦礫

2025-02-01 18:50:19 | 思想


 歯舞諸島のユリ島付近でB29がソ連戦闘機に撃墜される事件が起きたのは十月七日のことだが、私が札幌について二日目の十七日には、歯舞諸島は日本領土であるという米国務省の対ソ抗議覚書が発表された。根室沖が「危険地帯」の発火点になるための外交辞令はととのった形である。二十日私は旭川にいた。その前の日だったろうか、米軍ジェット機が旭川付近のどこかしらで墜落して、それを捜索するための小型機が旧練兵場から一日中飛びまわっているのを私は見た。学芸大学の裏手のアイヌ部落のまんなかに立ってその飛行機を見ているときに、旭川には水野成夫氏の国策パルプの工場があるが、ストライキなどはけっしておこらないしくみになっているときいたとたんに私はおかしさがこみあげてきた。というのも国策パルプ、苫小牧製紙、東洋高圧、帝国製麻、日本製鋼、北海道電力といった優良株を、北海道に工場があるという理由で、絶対に買わない男がいるという話をとたんに思い浮べたからである。その男の名前もむろん私は聞いているのだが、旧財閥筋のさる大会社のれっきとした重役なのである。こんな重役が一人でも日本にいるかぎり水野氏はまだまだのしあがるだろう。ところでストライキは、そのとき全道、否全国にわたって炭労、電産二労組がゼネストに入っていたのである。炭労は十三、四日にわたる四十八時間ストについで、十七日から大手筋十六社二十四万人が一せいに無期限ストに突入した。

――服部之総「望郷」


水野成夫は、フジサンケイグループをつくった男として知られているが、そして、これも有名な話だが、れっきとしたフランス文学の実力ある飜訳者で元共産党員、赤旗初代編集長、で逮捕された後は獄中転向のありかたを方向付けた男、――というかんじで、弁証法というか塞翁が馬というか、裏切り者といおうか、ものすごい男であった。しかも、こういう男は案外一人ではない。けっこう戦後の復興期にはこのタイプのいろんな奴が活躍しているのであった。というか、戦後の人間たちは、戦前からの転向組という意味で、ほとんどが水野的である。あと、文藝春秋をつくった男・菊池寛も、言うまでもなく転向組と言ってよい。やつらがいなければ、アカハタもフジサンケイも文春もないわけで、結局諸悪の根源は文学なのではっ。そして、彼らとおおかたの日本人は似ている、ということは諸悪の根源は日本人なのではないだろうか(棒読み)

そういえば、昨日のニュースで、東京の普連土学園の校長先生がでていたが、これも由緒ある学校で、校歌は室生犀星の作である。犀星なんかは幼児的すぎて、裏切らない。

――昔書いたことなんだが、共産党の人たちに限らず、戦後の日本人が少々頑張り屋だったのは、転向者、戦前からの裏切り者だったからではなかろうか。裏切り者というのはまっすぐに頑張るのである。対して、転向や裏切りから出発しない人は、いずれ自分や周りから転向し裏切るまで堕落をやめない。そういえば、坂口安吾の堕落が何処に向かっているのか不明な「気合い」みたいにみえるのも、案外転向のモメントがないからではなかろうか。

わたくしも、音楽から転向して、音楽を裏切っている自覚のあるときだけ、活き活きしていた。転向後の道を自明としたときに堕落がはじまった。

今の日本も、過去の弁証法の煮崩れした瓦礫で出来ている。ベンヤミンならここから美的な星座でも思いつくであろうが、わたくしには少なくともまったく何も浮かんでこない。

星座でなく、造られているのは瓦礫に躓かないための教則本である。さんざ言われていることであるが、ミスをなくそうと思ってかように細かく指示を出すようなことを続けていると、常識で判断せえとかその場で何とかしろみたいなことが分からない、すべてを細かい指示で組織したがるおかしな人たちが台頭して威張るようになる。このことは職場の秩序を大いに乱す。これは、指示を文字通りに取ってしまう少数のひとの台頭と裏腹ではあるが、より厄介なことであって、――たいがいその細かさはその対象が非常に恣意的だからである。研究がよりシステマティックになってある問題の範疇のなかの差異化みたいになってゆくとそういう細かさだけがある研究者が台頭してゆくことになるのだが、――より大学の校務上の困難さが増している気がする。気恥ずかしいけど、問題が人間的でないことを批判する指導はこれから必要である。

あるひとは、繰り上がり当選みたいなことが続きゃそうなるよ、と言っていたが。。。

階級闘争の時代――貞子3Dと袴を着けたシェーンベルク

2025-01-26 01:16:03 | 思想


 在來一切の社會の歴史は、階級鬪爭の歴史である。
 自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルド(同業組合)の親方と徒弟職人、一言にすれば壓伏者と被壓伏者とが、古來常に相對立して、或ひは公然の、或ひは隱然の鬪爭を繼續してゐた。そしてその鬪爭はいつでも、社會全體の革命的改造に終るか、或ひは交戰せる兩階級の共仆れに終るのであつた。
 上古の諸時代にあつては、殆んど到る處に、社會を種々な等級に分けた複雜な排列法、社會的地位の種々雜多な區分が行はれてゐるのを見る。すなはちローマの古代には、貴族、騎士、平民、奴隷があり、中世には、領主、家來、親方、徒弟、農奴がある。そしてなほその諸階級の殆んどすべてに、またそれぞれの小區分がある。
 封建社會の滅亡から發生した近世のブルジョア社會も、階級對立を除去してはゐない。ただ新しい階級をつくり、新しい壓伏條件をつくり、新しい鬪爭形式をつくつて、昔のに代へただけである。
 けれども、我々の時代、すなはちブルジョアの時代は、この階級對立を單純化したといふ特徴をもつてゐる。全社會は次第々々に、相敵視する二大陣營、直接相互に對立する二大階級に分裂しつつある。すなはちブルジョアとプロレタリヤである。


――「共産党宣言」(堺・幸徳訳)


いまの事態を、米帝がРоссійская Имперія化して、ついに全世界的に「帝国主義戦争をせんでも社会主義革命」の段階に到達したとレーニンなら喜ぶであろうか?ともかく、日本での安倍や麻生に対する相反する運動をみてみても、そこにネットや学歴やらが絡んだ階級闘争だったのはあきらかであって、トランプ現象の場合もそうであるにちがいない。叛乱を起こすのは、感情的な意味での奴隷たちであって、正義を持つものとは限らない。マルクスがいうように、ブルジョアジー的な、ようするに、文化的空間に閉じ込められた人間が多い空間では、対立は、言葉の性質に随って、二大対立物の激突となる。

いま、医学界とか教育界は、ブルジョア的心情の元に奴隷と化しているから、従業員たちは基本的に叛乱モードである。そういえば、安部公房や手塚治虫が医学出身ということで、医学業界が正気を保っていた側面は、ユープケッチャの一歩ぐらいは存在しているに違いないし、漱石が学校の先生であったことが、先生たちを支えていたところがあるのだ。それがなくなったら、ただの闘争集団である。

マルクスの共産主義者宣言というの、われわれはずっと階級闘争ばっかしてきているんだとは言っていても、正義は勝つとは言ってねえと思うんだが、学生に読ませると、いまは情報通信がすごいから正義の階級闘争は起きないとか、情報通信の発達に拒否反応のある旧世代に階級闘争を仕掛けてくる。そういえば、「リング」の続編は様々につくられていて、このまえ、石原さとみさんがでている「貞子3D」をみたけど、貞子はざらざらのビデオテープじゃなくて、パソコンやスマホから3Dででる、むしろ鮮明にでてくると主張していて、まさに、スマホ世代の階級闘争をみたね。

そういえば、東浩紀氏の『動物化とポストモダン』がでたときに、なるほど、ポストモダンな知識人に対する動物みたいなオタクさんたちの階級闘争が始まったと言っているんだな、と思ったが、怒られそうなのでだまっていた。東氏自身が、その闘争をみずからに感じており、案の定、どちら側からも批判されることになってしまった。わたくしはずるかったから問題を超克するんだという態度だったが、それこそ、「近代の超克」みたいな逃避に他ならなかった。

さきほど、石桁真礼生の「卒塔婆小町」(三島由紀夫)が「クラシックの迷宮」でやってたが、はたして、三島がこういうものを望んでいたのかはわからない。たぶん違ったような気がする。石桁真礼生の交響曲って、中学生だかのむかし聞いたんだが、袴をつけたシェーンベルクみたいだなとおもった。

読書コスパ論と骨

2025-01-17 23:20:46 | 思想


私はしばしば若い人々にいうのであるが、偉大な思想家の書を読むには、その人の骨というようなものを掴まねばならない。そして多少とも自分がそれを使用し得るようにならなければならない。偉大な思想家には必ず骨というようなものがある。大なる彫刻家に鑿の骨、大なる画家には筆の骨があると同様である。骨のないような思想家の書は読むに足らない。顔真卿の書を学ぶといっても、字を形を真似するのではない。極最近でも、私はライプニッツの中に含まれていた大切なものを理解していなかったように思う。何十年前に一度ライプニッツを受用し得たと思っていたにもかかわらず。

――西田幾多郎「読書」


上の阪本一郎の『読書指導』(昭25)なんかをみてみると、「読書興味の発達段階」とかいって、おとぎ話は六歳で卒業、少年文学や友情物語は十三歳で、冒険探偵ものは十五歳で卒業しあとは思想・純文学・通俗文学に、十九歳で宗教にめざめることになっている。現代人はこれを笑うだろうが、ある意味、コスパの強制であって、これが、自由にささっと読むのがコスパがよいことになっただけだ。

ひとは、西田幾多郎の言う「骨」をいつ看取して読みはじめるのか?西田はおそらく、その骨を使えるようになる感覚がはじめからなんとなくあるのではないかと考えたんじゃないだろうか。

例えば、先日亡くなったディヴィット・リンチなんか、骨のありそうな作家だとみんな気がつく。だから、ルッキズムや差別やアメリカニズムやベイガニズムに気に取られることがない。なにしろ、かれは死んでも関係がなく骨が残ると信じていた。リンチはたぶんコンセントからでてくる(死の部屋から帰ってきた「ツイン・ピークス」のFBI捜査官のように)から大丈夫だろう。死んだけど生きてるタイプである。――とみなに信じこませた。「ツイン・ピークス」でも、第一話でいきなり主役?の美女が死んでるにかかわらず、その女優使って従姉妹か何かをだしてきてもう一回殺している。でもまたなんとかロッジみたいなところで生きてるみたいなことにして、生と死をつなげて永久機関みたいにしているわけだ。すばらしいアイデアで、人は死んでも演じてた人を出せば生き返ることになり、つまり、自分を演じている人をつくっておけばよろしい。また逆に演じたら演じている人がいなくても生き返る可能性がある訳である。

ウィキペディアを信じると、彼が死んだ説明がもうフィクションじみている。八歳からたばこ吸ってたとか、例の火事の避難先の家でなくなったとか、死んだ日が2説あるとか。。

そこに我々は、フィクションの仕組みとか死生観をみるが、たぶん「骨」のせいである。しかし、あまりにそれを言いすぎると小林秀雄みたいになってしまいそうであるが。。。

見れば分かる事態

2025-01-15 23:50:34 | 思想


学問への郷愁に似たものが、いつも私の心の片隅にくすぶっているのだ。「私の好きなもの」というある雑誌のアンケートに中野重治氏が「学問」と答えているのを見て、自分の気持を代って言われたような気がしたものだ。

――山本健吉「詩の自覚の歴史」


まだ読んでないし、読むかどうかも怪しいが『★めばわかるは当たり前?』という本がある。一瞬、著者名と似た名前の鷗外研究者がいるので、その人かと思ったが違った。さすが鷗外関係者がそれをいうと攻撃性がすごいかんじがするわけである。鷗外みたいなレベルにしてみりゃ、ほとんどの日本人が文章を読めないのはあたりまえである。そういえば、以前、落合監督が「見りゃわかんじゃん」みたいな言い方をして新聞記者を恐れさせていたが、専門家にしてみりゃ、みんなそんなもので、自明な事態というのは「読めば分かる」というより「見れば分かる」にちかいものである。

しかし、「見れば分かる」のは専門的な知見であるから、というよりも、それが存在の全体性というべきものだからである。

そのような、「見れば分かる」の範疇にはいろいろなものがあり、例えば、文学は社会の役に立つ、みたいな発言も、「見ればわかる」のたぐいであって、あえて口に出してはいけないものなのである。そうすると全体性を毀損する。すくなくともそれは営為の結果としての、問題の析出というかたちでしかも膨大な記述の形で提出され、それがまた更なる問題を生む。これはわれわれが社会とか国民を造ってしまうことよりも奧にあるプロセスで、単に不回避的で説明不能の「見りゃ分かる」ものなのである。

これ以前でとりあえず事態(国家や国民の何か)を便利にしようみたいな営為を『実学』といい、――ほんとのところ、税金投入への理由として自分のやってることの意義を説明する必要があるのはいってみりゃこれだけだ。確かに、不便はあまりよくないかもしれないからだ。かえって、上の見りゃ分かるみたいなものに説明をあえて求めてくる連中は、人間の生きる意味の不透明性を、生きる意味がない奴がいるという風に変換したい、優生思想の持ち主だ。こういうのは、全体性としての人間の発言ではない、何を言っても仕方がない。

過程の時間の消失

2025-01-08 23:41:08 | 思想


 ストア派の人々も、賢者ならば、幻覚や妄想がやにわに立ち現れても、はね返せなくてはいけないと述べているわけではない。むしろ彼らは、人間はそうしたものから逃れられないのだとして、たとえば天にとどろく轟音とか、建物の崩壊には抗しきれずに、青ざめたり、わなわな震えたりすることを、受けいれている。それ以外の情念に関しても同じであって、賢者の知性がそっくり無事で、判断力の状態が、いかなる損傷も変質もこうむることがなく、自分の激しい恐怖や苦痛に対していっさい同意を与えることがなければいいのである。賢者でない場合も、第一段階は同じだけれど、第二段階がまったく異なってくる。というのも、情念の刻印が表面にとどまることなしに、理性の居場所にまでずんずん浸透していき、これを感染させて、腐らせてしまうのだ。そして情念によって判断をおこない、それに自分を合わせてしまうではないか。
 ストア派の賢者の状態を、この目でしっかりと確かめるがよろしい。

その精神は揺るがぬままで、涙がむなしく流れている。(ウェルギリウス『アエネイス』四の四四九)

 アリストテレス学派の賢者も、心の乱れをまぬがれることはできない。しかし、それを緩和しているのである。


――「エセー」(宮下志朗訳)


何かの衝撃が情念へ感染し、情念が理性に感染し、――しかし、ストア派の賢者において、その感染を涙に封じ込めるというのだ。

映画「エイリアン」なんか、そういう経路を大げさにオブジェの暴走として描いているようなものである。第一作や、今回の「エイリアンロムルス」なんかも、襲いかかるエイリアンの暴力による恐怖を、エイリアンという物体に封じ込めて、船外に吹き飛ばすところで終わる。泣く代わりに、吹き飛ばすわけだが、感情を物質に封じ込めるやりかたはおなじである。

しかしながら、エイリアンの男性器としての比喩にしても、現実に於いてそれほど極端なものであろうか。エイリアンという生物は生まれるとすぐでかくなる(数分としか思えない)。これは性的意味があるのでしょうがないとは言え、こんなに早く成長してくれたら世の中楽だ。この映画の物語は、企業が人間を完全生物にしようとする陰謀を遂行する話なわけだが、――子どもや思春期はいらない、生まれて二分ぐらいで即戦力とかでよい、という怖ろしい思想である。マルクスがいた頃の資本家の考えだ。これにくらべると、「ドラゴンボール」は、子どもから急に大人になるサイヤ人=エイリアンの話だが、やつらは子ども時代も結構ながいし、大人の体格になっても、永遠に小6から中1ぐらいの精神が続く。しかしこれはこれで成長は永遠にいたしませんという怖ろしい思想である。

当たり前であるが、フィクションが我々を二十四時間縛るようになると、過程の時間というものが消えるのである。上の「エイリアンロムルス」でも、あまりにエイリアンが人間の体内から誕生するまでが短いために、女性の妊娠期間の時間が消えている。

竹内好は五十代になってからスキーを始めて「老人スキー」とか称してたらしい。たぶん、中国文学者として、魯迅とロシア風をかけた洒落なのであろう。50で老人かよという反論は可能であるが、まだ竹内の場合は、五十年を長いと感じていたのだ。いまは、20代でも50代でも時間が消えているので、いつ何を始めても関係がない。これは幸福な場合もあるが、人生というものの消失でもある。

モブへの転倒

2025-01-04 05:13:30 | 思想


 だれにも、あらゆる魅力がひとしなみに与えられたことなど一度もなかった。(ラ・ボエシー『フランス語詩集』一四)

 というわけで、弁舌の才に関しても、次のようなことがよく見受けられる。 いとも容易に、ぽんぽんとことばをくり出して、闊達自在であって、いつでも平気な人がいるいっぽうで、口がおそくて、用意周到に、あらかじめよく考えてでないと、口をきかない人もいる。そういえば、ご婦人方には、自分の肉体のいちばん美しい点を生かせるような運動を選びなさいと勧めるのが常である。これと同じで、弁舌なるものの、ふたつの利点について意見を求められるならば、現代では、説教師と弁護士が、弁舌のプロということらしいが、口がおそいのは説教師にいいし、 はやいのは弁護士にいいと思う。


――モンテーニュ『エセー』(宮下志朗訳)


誰にでも優れた性質が等し並みにあたえられるなどということはない、みたいな言葉が引かれ、それが向いている職業を作り出すみたいな文を導く。しかし、現代の「みんな違ってみんないい」は、なぜか、みんなが等し並みな何かになれるみたいな幻想にむかう。

おそらく、これは、金子みすゞが想定していたより詩句が大衆に膾炙した場合に、起こったことである。詩の中での「みんな」は、三つぐらいのサブジェクトを示しているに過ぎない。これがほんとの「みんな」を読者が自分のことだと思う現実を読者が認識すると、意味が変わってしまったのである。

このまえ「悪魔」「続悪魔」を読んでいて思ったのだが、――この谷崎の作品に限らないが、症状みたいな描かれ方を伴っている人物には異常性が最後まで貫かれず、かえってモブ的なところにそれが移動する。むろん、これが移動しすぎると話が壊れちゃうはずである。しかし現実ではそのストッパーが壊れているのであって、こんどはその異常性は、平均的な属性に転倒する。

例えば、現在が多くの穴の空いた何かであるのに対し、過去と未来、特に過去が「みんな」になりがちなのも当然である。過去を乗り越えようとするとき、現在と未来はとりあえずぼかしておくことが出来るので無傷だし、現実は複雑すぎて手におえない。が過去は明瞭にならないと乗り越えるというロジックそのものが無効化してしまうので、つい過剰に明瞭に「みんな」にしてしまう。だから、かえって明瞭に生成されてしまうのは「差別される対象」である。フェミニズムからのバックラッシュなんか、原因はたぶんそこである。

ニヒリズムと感情移入

2025-01-01 23:17:33 | 思想


文化形態学の上からシュペングラーは西欧の没落を推論しました。[…]アーノルド・トインビーやエルンスト・ユンガー等はシュペングラーから多くの指示を得たことはたしかです。これらの人々は暗い歴史と現実の中にまるで世紀の開いた花の様に輝いています。

――芳賀檀「ニヒリズムとその回癒」


わたくしはニヒリズムの中に素朴さがあるとかんがえるくちである。

例えば、大谷さんちの、犬と幼児服の写真、――なんというか、シュルレアリスムのこうもり傘と何とやらを想起させ、ようやく、大谷さんを応援する気になるというものだ。

よく言われてることなんだろうが、クラシック音楽のある種の訓練を受けると、articulationのあり方が意味不明に感じられ日本の歌謡曲は身体がもやもやする。このもやもやには、音楽が直接われわれを全身耳になれ(小林秀雄)と言ってくるからであろう。歌謡曲にアーティキュレーションがないとはいわないが、なにか音の直接性に対するニヒリズムが足りない気がする。クラシック音楽は、どことなく非音楽的なところから音楽に回帰する意識が濃厚である。

ハーバード・リードは、北斎の有名な「神奈川沖浪裏」をつかってリップスの感情移入を説明していた。この感情移入を我々が好きなのには、理由がある。しかしそれは北斎的なものを我々が持っているからではないと思う。もっと直接的なものに対する素朴さがあるからである。ニヒリズムをしった我々が、それをその素朴さの擁護に用いているからだとおもう。

加藤政洋氏は、『花街』で、私娼を置いてる店は田んぼをつぶして町を造るときのパイオニアであるみたいなことを言ってた馬場孤蝶を引いていた。一葉の「にごりえ」は、確かに、何か空間的に片田舎的な妙な感じがするなとはわりとみんな思うところだ。

我が踏む土のみ一丈も上にあがり居る如く、がやがやといふ聲は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の聲は、人の聲、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも氣のまぎれる物なく、人立おびたゞしき夫婦あらそひの軒先などを過ぐるとも、唯我れのみは廣野の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、氣にかゝる景色にも覺えぬは、我れながら酷く逆上て人心のないのにと覺束なく、氣が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何處へ行くとて肩を打つ人あり。

この「廣野の原の冬枯れ」は幻想ではなく、すでにお力の現前にあったような気がする。この界隈事態が孤立的であるきがする。結末の場面――「恨は長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き處より、折ふし飛べるを見し者あり」だって、お寺の山という小高き處は黒々としている。感情移入は、黒い中に浮かんでいる街への視点の接近でありながら、我々はお力を論じるいろんな言葉で近代に対するニヒリズムを語る。