
忽ち罵て曰く、「你は是大慈悲の教主にして、何ぞ我をあざむき帽子を戴かせ、又唐僧に緊箍咒とやらん咒ををしへ、我頭を疼しむる事は、そもそも何の慈悲ぞや」菩薩の曰はく、「你佛門の教に順がはず。若かくのごとくせざれば、再び悪事をなして天上を閙すべし。是你に正果を得させん我が慈悲心なり」行者曰く、「然らば今此澗水に悪龍を放ち置き、我が師の馬を吃しめて西方に行く途を妨ぐるは、是も慈悲なりや」菩薩の日はく、「此所に放し置し龍は、西海龍王の子なり。向より此澗底に在て経を取る人を待ためしに、你此所に経を取ることを云はざるにより、葉知らずして馬を吃ひしならん」とて掲諦に命じてかの龍をよび出し、柳の枝をもつて龍の渾身を沸ひ給へば、忽一匹の龍馬と変ず。
思い起こしてみると、ドリフの人形劇の西遊記は、ちゃんと「馬」もキャラクターとして扱っていた。これが実写の西遊記となると、馬はただの馬である。
ヨシタケシンスケ氏の『りんごかもしれない』をよんだ。この絵本は小学生に人気らしい。林檎を食べてみるまでは、いろいろなものである可能性があるのはたしかに深淵に見える話ではあるのだが、実際には脳内の遊びである。しかし、実際は、龍が馬になったりはしないにせよ、林檎のなかから実際に虫が出現したりすることはある。
朝顔咲いた嗚呼雨だった。
そういえば、わたくしは若い頃、生意気にパーソンズなんかを読んでいて、結構影響を受けているのかも知れない。ギデンズなんかを最初に読んでしまう若者なんかは、変身の欲望が逆になくなるような気がしてならない。