★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鬚と革命

2011-11-29 23:18:46 | 思想


カストロのドキュメンタリー映画をみたのだが、やはり革命家は鬚と葉巻であるな。ゲリラ戦をやっている時に蠅や蚊を防ぐためであるらしいが、イメージというものは大切であるな。プーチンとかフルシチョフがなんとなく官僚じみているのは、鬚がないからだっ。花田×輝なども髭を生やしたら、ゲバラにみえたかもしれない。

……まず髭から書立てれば、口髭、頬髯、顋の鬚、暴に興起した拿破崙髭に、狆の口めいた比斯馬克髭、そのほか矮鶏髭、貉髭、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡くもいろいろに生分る。(浮雲)

鬚を馬鹿にする二葉亭は、銃殺決定!

介護問題の恐怖

2011-11-28 23:37:01 | 日記


これからは本格的に介護問題がいっそう深刻になっていくと思う。労働者は家でも職場でも介護だ。大学なら、学生の介護と尻ぬぐいが必要な人間(←だいたい自分で気付いていないから深刻である)の介護もある。自分が何時そうなるかわからない恐怖に怯えながら。現在の若手研究者が「自分のことしか考えない」といわれるのにはいろいろ理由があるが、たぶん自分のことを優先させとかないといつ介護にかり出されるか分からぬという恐怖があるのである。無論、自分がそれだけ人の世話になっているのかつい分からなくなるのが若さであり、いちいち自分についての状況判断の勘違いが甚だしい人間が増えていることは確かであろう。しかし、勘違いですら個人によって起こっているとは限らない。

戦時中の協同体論に理由があったように、今般の共同体論やつながり論(笑)にも理由がある。政治家や学者のもっともらしい理屈に騙されてはならない。共同体論が勃興することには哲学・思想的な理由など本当はないと考えた方がいいように思う。この議論によって得をしようとする奴が必ずいるのである。今回は、案外、人数が多い世代の、棄てられる恐怖から来ているかも知れないからやっかいである。これは戦争遂行より精神的抵抗が難しいのではなかろうか。


野のミサ 対 暗黒神話

2011-11-27 23:39:25 | 音楽


マルティヌーの「野のミサ」は、中学生の時ラジオで聴いたのが最初であった。管楽器、打楽器、ハーモニウム、ピアノ、合唱のための曲である。ナチスに抵抗したチェコの義勇軍に捧げられているらしい。全体的に静かで響きの薄い奇妙な曲であるが、妙に心に残る。

今日は、諸星大二郎の「暗黒神話」なども読んだ。

シューベルトはお好き

2011-11-27 03:30:04 | 音楽


シューベルトを聴いてると、とっても不安になってくる。昔ピアノを習っていた頃、先生はシューベルトが私に合っていると思ったのか、即興曲などをしきりに練習させたのだが……、シューベルトのピアノ曲というのは、すごく指が廻りやすいところがあったかと思うと、怖ろしく弾きにくいところがあったりするのだ。弾いていてもまさに放浪という感じでどこに向かっているのか分からぬ。そのくせ、漸進だ前進だ、と急かされている感じもする。いまでもD935の第3曲、第5変奏の難所でいつも指がこんがらがる夢を見る。そういえば、私が学校のビックバンドでピアノを弾いていたことを心配していたピアノの先生が、「第4変奏であんまりスウィングしちゃだめ」と言っていた。私はわけが分からなくなったので、リストの「愛の夢」でも弾いて気を落ち着かせていたような気がする。……私はこの程度であった。

という私が、最近彼の初期の交響曲を聴いてみた訳だが、これがどれもこれもいい曲であった。第2交響曲なんか、まだ17か18の頃の曲らしいが、すごいではないか。ベートーベンともハイドンとも違う。誰だよ、シューベルトに構築力がないとかいってるのは。芸術の世界でも学術の世界でもそうだが、「まとまっている」という批評ほど当てにならんものはないな。

野口武彦 対 フルトヴェングラー

2011-11-24 02:20:25 | 思想


野口武彦氏の「鼻と自意識」を読みながら、フルトヴェングラーの交響曲第2番を聴く。

発売された当時買いそびれたCDであった。私はそのころ、バレンボイムとシカゴ交響楽団の相性が悪いと決めつけていて……というのは、マーラーの第5番の演奏を聴いてなんかとっちらかっている印象を受けていたからである。そこにもってきて、フルトヴェングラーの大交響曲とくれば、「こりゃまた散漫な……」と聴かないうちから脳内で何かを聴いてしまったらしい。

今回聴いてみたら、すごくスマートな優しい演奏になっていてよかった。第4楽章なんか、30分かけて緩やかなクレッシェンドをやっているような感じで、油断していたら終わっていた。フルトヴェングラーの自作自演でも、最後は、突然視界が開けたように、金管楽器が殊更虚空に向かって叫んでいるみたいな必死な調子になっているのに、シカゴ交響楽団は最後まで静かな語り口をやめなかった。

野口氏の論文は20代の頃、盛んに読んだはずである。すごい切れ味だといつも思っていたが、今日は、BGMの影響か、非常に静かな語り口に思われた。野口氏の語りは、そっちはそっちで考えてくれと言っている感じがする。こういう語りは口調とは関係ない。高圧的な文体でもそういうことがある。

最近学問面してて厭なのは、私が勝手に「スキーマ疑い系」と括っている言説である。社会学で言うところの「内部観察」にまつわる困難を考察したいところであるが、……私はもっと彼らを唯物論的に捉えることがまず必要であろうと思う。

各人のスキーマを把握しそれを疑え、とは、「常識を疑え」という旧態依然とした、それ自体良くも悪くもない、──どちらかというと人をある目標やイデオロギーに誘導しようとする時の威し文句である──を、現代風に言い換えただけのものではなかろうか。大概、このような概念を振り回す論者は、スキーマに対する疑いはあるが、プロジェクトや政策にたいする盲信がある。すなわち決して懐疑的な人間ではなく、むしろ何かを確信したいタイプなのだ。もしかしたら、そういう自分のスキーマがあまりに強固で分析しがたいという自己嫌悪があるために、他人に自己改造を強制してあるいているのではと疑われる。あるいは、一昔前のフェミニズムの一部のように、あなたは男社会の常識に縛られている、と言えば、相手がひるむので、その隙に自分の見解を押しつけようという作戦なのであろうか?いつも存在するこのような論者に共通してあるのは、ほっといたらドグマに縛れた人間は永久に変わらないだろうという蔑視である。最近は、協働や連携の名の下に、人のスキーマを勝手に理解し介入する(←出来る訳ないけど)、明らかに権力意志に支えられた行為を「支援」という言葉でカモフラージュする輩がいる。彼らが持っているのは「支援」の意志ではなくて何らかの「私怨」だろう。例えば、大学の講義を、自分が勉強するきっかけとか利用できるかもしれない知識を偶然拾ったと思わずに、教授の態度だけを問題にし「あの教授訳わからんこといいやがって、そしていばりやがって」という印象のみを勝手に受け取る。だから、授業で分からなかった「知識」と「相手の人格」が結びついて、いわゆる知を振り回すいやな人間という想像物への反発となる。だいたい、赤の他人の言葉のわかりにくさや態度をなぜそんなに気にしているのだろうか。自分で勉強し直せばすむことだ。

野口氏によれば、さすがに、芥川龍之介はそんな自意識を問題にしていたのではなかった。

他人は単なる他人だ。違う人間同士、簡単にコミュニケーションをとれると思うのは子どもである。無論、コミュニケーションは、ある程度、相手をわかった風に振る舞わなければならない。しかし本当にわかったつもりになっているのは狂気の沙汰である。

glutton よくない

2011-11-22 12:02:09 | 食べ物


授業を終えて生協に行き年賀状を買ったら、店員さんが、上のようなチラシを私にくれた。生協が高知大学の先生と協力して開発した弁当らしい。私の不健康そうな様を見てくれたに違いないっ。ありがたいことである。私の妹1は栄養学者もどきで、うちの母も家庭科の免許を持った食いもんに関しては一言ある人であるが、なぜ私のような食生活にだらしない人間ができてしまうのか分からない。たぶん、作家や研究者のなかに、食にはうるさいが文章にはうるさくないやつが居るからであろう。そういう作家の作品は、なにか仕事さえも食らってる感じがする。要するに、glutton なのだ。

我が記憶──ドラゴンズ

2011-11-21 00:05:14 | 日記
ドラゴンズが負けてしまったので、わが記憶を語る。

1、小学校一年生……確か、入学式の時から父の意向かなにかで学生帽ではなくドラゴンズの帽子をかぶらされる。好きな選手は王選手。

2、小学校低学年……運動神経にかなり問題のあることが判明。野球よりも音楽やお話が好き。

3、小学校5年か6年かそこら辺……近藤監督でドラゴンズ優勝。たしか、日本シリーズでは審判にボールが当たりそこからずるずると敗退したことを覚えている。確か、スパイクスとかいうダメ助っ人がいたような気がするが、この年ではなかったかも知れない。

4、中学校~高校時代……確か、いまの落合監督がこのころ中日にやってきた。一回ぐらい優勝したような気がする。吹奏楽部の部長として、野球部の応援を「楽器が痛む」という理由で断った経験あり。

5、予備校時代……名古屋の予備校の寮で受験勉強と読書に励む。名古屋は中日のお膝元だが、この時は私の状況が状況であり、印象は最悪。ラジオを付けたら、ときどき落合選手がホームランを打っていた。ナゴヤ球場でぼや騒ぎ。

6、大学時代……たしかこのころ、巨人・中日の「10.8決戦」があったと思う。最終戦に同率で巨人と並んでしまったのである。巨人の選手となっていた落合選手に今中投手がホームランを打たれたのをテレビで見た。で、負けた。この日に人格崩壊したファンも多いと聞く。私は別に何ともなし。

7、大学院時代……とにかく記憶がない。一回優勝したみたいだけど。

8、浪人時代……全ての記憶がございません。

9、×川時代……中日ドラゴンズ黄金時代。ありがとう落合監督。

救い主ドカベン

2011-11-18 23:23:44 | 映画


70年代の大ヒット「ドカベン」であるが、映画版もある。上野修氏の『デカルト、ホッブズ、スピノザ』を読んでいたら「想像的な相互性に於いて互いが互いを「自由原因」だと名指しあい、それを引き合うわけだ」という文に出会ったので「ドカベン」を思い出したのである。この物語のなかで、野球をやる原因がはっきりしていないのが、ドカベンと岩鬼である。しかし主役がこの二人であることは言うまでもない。そのほかはだいたいドカベンに勝つためとか、ドカベンと一緒にやるため、とか言っているからちゃんと私的な欲望(理由)がある。ドカベンと岩鬼にはない。もっとも岩鬼にもはじめは弁当が自分のより大きかったという私怨から「や~まだをころしたる」という理由があったが、どう見てもその動機はすぐ消えた。

「ドカベン」がよかったのは、救い主にも隣人愛にも似た主人公達の無欲性にあったと思う。彼らは、キリストや仏陀と同じように、親の愛に縛られない、故郷を失った人であった。これに較べれば「巨人の星」や「タッチ」など、私的な目的がありすぎてこわい。前者は親父と一蓮托生、自分が「巨人の星」になれれば自分の体が壊れてもいいわけだし、後者はヒロイン南ちゃんの男への束縛っぷりがすごすぎる。こいつは、世が世なら戦争に男を送り出す魔性の女の類である。すなわち、この二作は、近親者に目的を強制される半封建的野球ドラマであるっ。

……というわけで映画版をみてみたわけだが、ドカベン役の小太り高校生(中学生?)さんも初め出てきた時は、「うわっ」という感じだったが、だんだん漫画の主人公に見えてくるから不思議である。原作恐るべし。岩鬼役の人はすごく原作に似ていておもしろかった。……が、この映画のテンポは何か見覚えがあるな、と思ったら、監督が「トラック野郎」の人だった。「トラック野郎」といえば、10作目の「トラック野郎 故郷特急便」は、高知とか×松が舞台である。×川大学生はみるべし。