授業の予習で『桃太郎 海の神兵』を観たのだが、やはり何回観ても動きがちょっと気持ち悪いアニメーションである。ディズニーの「ファンタジア」などの影響があるのだろうけれども、動き方がよりふにゃふにゃしている。これが技術の問題だけではなかったのは、添え物にしか見えない桃太郎の動きはたいして気持ち悪くなく、やや不気味なのは貌だけであるところからも分かる。いや、不気味に前髪が動いたりするか……。主人公は、猿をはじめとする動物たちである。飛行場をつくった南海の島の動物たちは「へんな奴がきた、我々の顔に似ている」とか、確か言っていて、それが桃太郎なのであるが、このひとが帝国軍人であるとして、はじめ田舎に帰ってノンびりしている猿はどこの國の人であろう。むろん、日本なのである。とすると、大日本帝国は少数の桃太郎と動物たちで構成されているような國なのであろう。植民地の人たちが動物なのは、コロニアルな意味で分かるが、結局、日本のなかも動物で溢れかえっているのである。我々は比喩的でなく動物なのだ。
で、敵国の鬼は、西洋人ということになっていて、むろん人間である。
――結局、わたくしは、このアニメーションのふなにゃふにゃした動きそのものが、我々が我々人間自身を嫌ったあげくたどり着いたロマンなのではなかったか……と疑う。確かに大塚英志が言うように、戦前モダニズムのモンタージュなどの機械主義的な帰結であることも理解できるが、わたくしはよりそれをロマン主義的なものとして把握したほうがいいと思うのである。日本のなかのばかな桃太郎も西洋人もいやだ、好きなのは、動物と風景とひこうき……ゆらゆらと動くものたち……。考えてみると、宮崎駿の『風立ちぬ』なんか、当時国策によって生産されてもいた飛行機オタクの想像力を、主人公のまともな倫理観の粉飾をまぶして「まとも」にしてしまっている。実際は、もっと妙な感じなのではないか?このアニメーションの動きみたいに。
はじめののどかな田舎のシーンで、蒲公英の綿毛の浮遊がひたすら描かれているが、それがいつの間にか、落下傘部隊をえがく音声と重なってゆく。悲しいやら情けないやら……。
忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
――空の神兵(昭17)
ここにないのは、人間の内面だ。空を飛んでも海に潜っても人を殺しても感情は死んでいる。
蒼白の高峰秀子嬢に単刀直入、きく。
「ずいぶん苦しそうですね」
「いいえ!」
断乎として否定する。
「キャプテンもエアガールも、親切。本当に愉快な空の旅です!」
航空会社と読売新聞と航空旅行そのものにあくまでエチケットをつくす志。凛々しくも涙ぐましい天晴れ、けなげな振舞い。
代って純情娘の日本代表、乙羽信子嬢に、これ又、単刀直入。これは甚しく正直だ。
「ええ、とても、苦しいのです」
――坂口安吾「新春・日本の空を飛ぶ」
とりあえず、戦後のわれわれにとって、感情をとりもどすことが必要だったのである。今回の天皇の退位や元号のバカ騒ぎで我々はまた感情を殺しつつある。ばかばかしい限りである。