吉本隆明の『マス・イメージ論』を読むと、吉本氏が作品を介して「「現在」にあ」ろうとした困難を想像させられる。吉本氏が批判した反核アピールもなにか「現在」とはかけ離れていたのかもしれないが、吉本の分析も「現在」とはかけ離れているように感じられる。それは、カフカや近代文学作品への分析がどうも一面的であることとそれ故に多くの「現在」の作品に対しても一面的にしかつながっていない点に、原因を求めることができるような気がする。吉本氏の「現在」が曖昧なのは、吉本氏の対するものが得体の知れないものであるからではなくて、まだ分析されているないものが多すぎるからである。吉本氏が原稿に追われて各論を書き飛ばさなければ、あるいは『S/Z』のようなスタイルになったのかもしれない。その代わり、「現在」という作者、とかいう観念は消滅するであろう。とはいえ、そんな場合でも、我々の場合、『S/Z』ではなく、花×清輝のエッセイみたいなスタイルになってしまうのではないか、というのが長年の私の危惧であるが…
んで、『マス・イメージ論』が書かれていたのは、昭和五十年代の終わりで、わたくしは中学生あたりであって、わたくしの頭の中は、まだロマン・ロランとかヘルマン・ヘッセとかマーラーとか…しかなかったのである。わたくしはきちんと、自分の中学の状況をヘッセの主人公の目で見たつもりになっていたわけである。それがわたくしにとっての「現在」であって、吉本氏の触れているコミックスやテレビの世界は全く知らなかった。それだけでも吉本氏の言う「現在」は間違っていると思うのであるが…
どうやら、今振り返ると、わたくしのまわりのひねた中学生たちは、下のような作品を通して「現在」を見ていたらしいのだ。…知らんけど。
当時のわたくしの脳裏は恐ろしく時代錯誤で、不良というのを、「車輪の下」のハンスとか、そうでなきゃバンカラ高校生と「ビーバップ・ハイスクール」の中間みたいな感じでイメージしていたのだ。むろん、現実は違った。「エヴァンゲリオン」のシンジ君がツッパリをやっている様な感じであった。「オレはいらない人間なのぉ?」という感じである。(
要るも要らないも、中学生なんて、人間として(というか戦力として)過渡的すぎて世の中で一番要らない状態なのは自明ではないか。)というわけで、きょうびの不良たちは体制への「反抗」を忘れたのかナサケナヤ、と思い、わたくし自身は一生、真の反抗とは何かを追求する決心を固めるに至ったのである。当時の先生たちの恐怖は、不良が決して少数の反抗的分子ではなく、日本人にある、学校に対する潜在的反感を体現していたように感じたからであると思う。たぶん今でもそうである。で、上の「ホットロード」は、暴走族漫画というより家族の破壊と再生の物語であり、――というより、思春期の問題が、家族の破壊と再生といったような、「大人への成長」とか「大人への通過儀礼」ではない問題へと、スライド(
というより退行だろ、それ)しているところが注目すべき点であろう。確かに現実にも、そういう問題を抱えた家族が増えつつあったのかもしれないが、問題は、思春期の見方が変わったことにある。志賀直哉じゃあるまいし、思春期の問題は「大人」に対する反感ですらなく家族であり、落ち着いたらそれと和解しなければならないことになったのである(笑)学校がそんな繊細かつ根本的には愚かな結末を迎える家族の問題に立ち入れるはずがない。だから学校はますます邪魔になったのである。いまや、家族の絆を邪魔する出来事が学校であっただけで、親が学校に怒鳴り込む始末だ。親だけではない。出世のためには、周りのケアを引き寄せることが必要というわけで、やたら粗暴にふるまったり不愉快であることをアピールする(つまり「ぐずり」である)やつが増え、まわりも面倒くさいから、そいつを適当に出世させてるうちに……、部下を「おもちゃ」に使う輩を戴いてしまう集団であふれかえっているのが今の日本である。
…という具合で、「ホットロード」につられて当時と現在の「現在」を想像してみたわけであるが…。
それにしても、主人公たちは「各人によってものの見方は違う」とか「国によって見方が違う」とか、ものの見方の相対性をいっときゃ相手を脅せると思っている最近の人間よりは、他人を理解するには時間がかかりその理解の内面的プロセスこそがコミュニケーションだとわかっている点で遙かにましであったと言わざるをえん。最近の首相とか都知事の発言に対して、「他国からどう見えるか考えろ」という批判は確かに当たっているけれども、どう見えるかは彼らも考えているのである。そう見せたいのである。ただ単に、物事の認識が間違っているのである。