★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

コロナ禍式送別会

2023-02-28 22:49:12 | 文学


あるお家に かあいいお猫さんがかはれてゐました。えりまきのかはりにもも色の首輪をつけて、たいへんハイカラにみじまひしてゐました。
 或日、お庭をさんぽしてゐると、とつぜん、目のまへの土がムクムクとふくれて、その中から小さい草の芽が 頭をだしました。お猫さんはそんなものを見たのは はじめてでしたから、腰をぬかさんばかりにおどろきましたが、心をしづめて、「こんにちは、もぐらもちさん」といひました。草の芽は大さうおこつて「私、もぐらもちぢやありませんわ。チユーリツプといふ花の芽よ。」


今日はオンラインの送別会。コロナ禍お疲れ様でした。

むかしむかし浦島は

2023-02-27 23:32:38 | 文学


「女親には、堪ふるに従ひて仕うまつり侍りにき。殿に、まだ、え仕うまつらぬ。仲忠が代はりには、いぬを顧みさせ給へ。女子なれど、ただにはあらじと見給ふる者なり。いとよく仕うまつりなむ。この君いたづらになり給はば、やがて淵川にも落ち入りて死に侍りなむ。さらに後れじとす」と、声も惜しまず泣けば、尚侍のおとど、「目もこそ、二つあれ。一所を、親・君と頼み奉るわが子には、などか、かくはのたまふ。わが子の身代はりに、我こそ死なめ」と、臥しまろび給ふ。

妻(女一の宮)が出産でくるしんでいる。もう声も出せないほどである。夫も「もし死んだら私も淵川におちいります、遅れはいたしませぬ」と取り乱し、尚侍も「我が子の代わりに私が」と返す。

この時代、果たして、和歌がコミュニケーションの能力の一端を担っているくらいであるけれども、基本的に、読み手のレトリックを解する能力が著しく低下している時代である可能性もある気もする。紫式部が執拗に敬語表現をきらびやかに行っていることを以て、宮中が空気が支配するような空間であったとは言い切れない。むしろ、空気が読めなくなっているからこそ、敬語に敏感に成り、比喩表現への解釈も自分勝手なものが横行していたのではなかろうか。一見平和だが、権力の衰退がじりじりと進行しているような状態では、――最近もそうかもしれないけれども、ありうると思うのである。三木清や花田*輝がアリストテレスに帰って修辞を重視し始めたのは、修辞の無効性が現実にあったからでもあろう。だから、抵抗の武器として使用可能なのだ。分かってしまったら困る。

同じように、空気が読めない時代では、源氏のように「モテ」る人間も実際はすくなくなっているはずだ。「モテ」というのは空気の一種で、美意識が空気と化している必要がある。本当はそうではないから、光源氏はただモテるだけでなく、異常に惚れやすい男である。そういえば、かく言うわたくしもむかしから惚れるのに忙しくてモテたいとかんがえたことはないような気がする。モテる人というのは好きでもないのに遊んだり出来るんだろうか。その受け身性が素晴らしいな。たぶん勉強が出来るタイプだろう。――それはともかく、わたくしが光源氏とちがうのは、生まれだけではなく、モテないことであった。

光源氏のように惚れやすい人間はわたくしのように多く居る。しかし、たぶん虚構の上だけに「モテるやつ」は存在した。それは一種の空気であり、フィクションなのである。柄谷行人氏の『力と交換様式』は、交換様式Dがほかの様式を否定したかたちで神のようにやってくる様を雑然と描く。宗近真一郎氏も『図書新聞』でそんな風に評していた。――とすると、もうほとんど冗談の域ではあるが、安部公房の「Dの場合」(『箱男』)もその一種であろう。Dは交換を拒みつつ空気のように遍在する。

ピアノの先生の前で裸になって射精してしまうDは、我々の孤独がいかなるものであるか教えている。もはや舞台は目の前にはなく、我々は舞台そのもののなかで生きる他はない。しかし、その場合、やはりそこは舞台ではなければならず、閉鎖されている箱としての舞台でなければ自意識を保てない。しかし、これは歴史的に日本に導入されたものであって、もともとあったわけではない。

鷗外の「玉篋両浦嶼」、20年ぶりくらいに読みなおしたら、乙姫と別れる部分が結構長かった。これも「舞姫」の結末からやり直し人生へ逆行する試みの一つなのであろうか。鷗外は、この作を自分でも「何の価値も無い」作品だと言っている(「玉篋両浦嶼」の初度の興業に就いて」)。むしろ演劇改革そのものためのもので、長白の試み、西洋風の劇場の提唱、などが目的だったらしい。あとファウストの若返りの逆をいくと浦島だと。さんざ言われてることだと思うが、鷗外の作品は内容的にどうなんだということ以上に、どのように書き方を変えるかとか作品形態を変えるかみたいな改革屋の段階的な所産みたいにみないと読めないところがある。その浦島上演に関するエッセイの中で、劇場を西洋のそれのように外光をシャットアウトする構造のものにしなきゃとたしか言ってたいたが、鷗外の小説というのはそういう背景に外光の取り入れがないみたいな感じがある。自然主義者たちや漱石のほうがそうはみえないのである。

依田学海が、鷗外の浦島に反発して、浦島を偽落語家みたいな人物にして、客から金を巻き上げていたのは、暗闇の中で、五七調だかなんなのか分からない気取った長白をはき続ける人間に対する不信であったに違いない。

空隙のなかの人間について

2023-02-26 23:05:32 | 文学


「我、女子多かる中に、この子、生まれしよりらうたげなりしかば、懐よりといふばかりに生ほし立てて、いかで、これをだに、人並み並みにと思ひしに、ある時は体面に面立たしき時もあり、ある時はいとをかしき時もあり来しに、なほ、いかでと思ひて持たりしに、これによりて、人の恨みも負ひ、いたづらになるといふ人も聞こえ、しひて宮仕へに出だし立てたれば、安からずうらやまれ言はれし人のかく人笑へに恥を見むを見てやは、世にも交じらふべき」とのたまふほどに、「明日になりぬ」と言ふ。


藤壺の父である正頼はこうやって歎き出家しようとする。娘が宮中で帝に愛されると碌なことはない。それにしても、彼は「女子多」く――娘がたくさんいるのであった。多くの人々が一人に引き寄せられて行く、帝だけが引き寄せられるだけでなく、一人を選ぶ。正頼はいわば帝もどきの行動をとって娘をかわいがっていたのだが、竹取物語以来の帝の特権性が発揮されるときが近づいている。竹取物語の娘は、その発揮される瞬間に天にのぼっていったが、普通はそうはいかないのだ。というわけで、かわりに、自分が出家して世の中から離脱しようというのである。

近代とは違うが、ここでも群衆の時代は既にあった。

しかし、帝がすべてをかっさらうのと違って、近代では群衆は群衆自身によって全てをかっさらわなくてはならない。しかしこの群衆というものは決して「主体」たりえない。だから人間は結局、すべて力の行使を群衆に頼りながら、自らだけが群衆に匹敵する主体だと思い込もうとする自意識を持つことになる。天にはもういけないし、出家も禁じられている。ではどうするかというと、転向するのである。そこでそれが可能である空隙としてあらわれるのが、吉本隆明ではないが、「対幻想」の領域である。

結婚とか恋愛とかなんでもいいけれども、相手の希望をかなえてあげて喜ぶというのがある。そこで自分の人生を相手と共有してしてしまう、それがおもしろさでもあろうけれども、その点、自分の過去の考えとは別のことをしてしまうことはありふれているし、大概許される。上野氏にかぎらず、いろんな事はあったにちがいない。しかし、氏の場合、対幻想に籠もることは許されず、共同幻想(フェミニズム)のなかの人格をも保つ必要が出てくる。

確かに、人間、自分の意見だけで自分の人生を生きる訳ではない。役にたつ勉強とか言うのがふざけてるのは、お前が勉強の役に立てよという感じがするからだ。しかし、その投身みたいなものが主体性としてあり続けることは出来ない。

教育への信仰とその当事者の蹉跌

2023-02-25 23:57:59 | 思想


どうせ死ぬにしてもこの布片をもって死ぬ方が、もたずに死ぬよりも心淋しさの程度にいくらかのちがいがありはしないかと思われる。戦争でなくても、これだけの心尽くしの布片を着込んで出で立って行けば、勝負事なら勝味が付くだろうし、例えば入学試験でもきっと成績が一割方よくなるであろう。務め人なら務めの仕事の能率が上がるであろう。
 一針縫うのに十五秒ないし三十秒かかるであろうし、それに針や糸を渡し受取り、布片を延べたり、○印を一つ選定したりするにもかれこれ此れと同じくらいはかかる。それであとからあとから縫い手が押しかけてくれればともかく、そうでないとすると一分に一針平均はよほど六ヶしいであろう。しかし仮りに一分に一つとしても、千針に対しては十六時と四十分を要する。八時間労働としても二日では少し足りない。なかなか大変な仕事である。閑人の道楽ならばいいが、仕事のあるお神さんやおばさん達にはあまり楽な仕事ではなさそうである。


――寺田寅彦「千人針」


千人針は寺田寅彦をもってしても「よい迷信」と言わしめたあれであったが、こういうかずかすの無害な迷信を一気に「たちの悪い迷信」に落とし込んだ戦争はやはりいけない。寺田寅彦だって、科学にだって迷信はある、とこの前にいっているわけで、本当は、科学的な迷信と千人針みたいな迷信が同様なものになってしまうことに危機感を持っていたのかも知れない。科学的な迷信の方が、「まだ考え途中でした」みたいないい訳が堂々と通用しているだけにたちが悪い。

教育の効能もある意味迷信の一つで、教育学者たちは、案外永遠に仮説を言い続ける覚悟が必要であった。そんなことはほんとうはみんなわかっているので、教育に関しては、信仰と信仰からの離脱というかたちをとって人々は行動する。いまは後者の局面だ。

石川三四郎の「虚無の霊光」に確か書いてあったが、彼の父親は息子たちのために漢学の家庭教師を雇い、夏休み中も学校の教師を連れてきて夏季学校を開かせ、村内の子どもがだらけないようにしてたらしい。初期の社会主義関係の人には明らかに「東洋的な仁愛」(柳田泉)があるような気がするけれども、それはある種、教育を片手間にやらなかった親の態度とセットであるような気がする。それはワークライフバランスとか平気で「言」える感性とは無縁の態度である。こういうのが「信仰」へと向かう局面であった。

上野千鶴子氏の件が載ってる文春の広告見ると、横に人生100年時代のなんとかとかあって、「人は七〇代越えてもまだイケる」みたいなポジティブなあれにみえる。しかも、上野氏の記事の題字の下に上野氏と若い男女(他の記事関係)の切り抜き顔みたいなものが踊ってて、なんだか婆と孫たちのたのしいかんじがでている。――もしかしたら、週刊誌を中心に、爺婆が教育者となる流れが復活しつつあるのかもしれない。そのために、国家教育の頂点の教授だった上野氏(教祖)をたたいて同時に婆として持ち上げるわけだ。

依田学海の「政党美談淑女の操」よんでなかったので、読もうと思ったが、――ちょっと長いので、学海が浦島を扱った小文でも読んでみた。依田学海は鷗外や逍遙がつくった浦島の戯曲をからかって文章を書いたのである。太郎の末裔が戦争に行く鷗外のものとか、なんかえせワーグナーみたいな盛り上がりを見せる逍遙のものとか、まるで浦島太郎が学校の先生のようであって、あまりにばかばかしい。一番現代人が共感出来るのは学海のほうかもしれない。老人になった太郎が乙姫を釣り竿で殴ったり、玉手箱に爆裂弾入れてよってきた見物人から金品を巻き上げたりするものなのである。

その冷たい手が離れずにゐて、暈のできた為めに一倍大きくなつたやうな目が、ぢつと渡邊の顔に注がれた。「キスをして上げても好くつて。」渡邊はわざとらしく顔を顰めた。「ここは日本だ。」

――鷗外「普請中」


まさに科学者擬きの鷗外である。考え中です、普請中です、ここは日本です、といってりゃ済んでいたのだ。その結果が、敗戦である。どうも「舞姫」以来、鷗外は、乙姫もエリスも振り捨てて普請中の道中を行く男であった。彼は大概にアンテナが折れている男であって女心がぴんとこなかった。しかしかくいうわたくしも、昔から女友達に「アンテナ折れてる」と言われてきた。

しかし、事態は、鷗外やわたくしのような文弱がいっているほど甘くなく、例えば、女性議員が少ないのは、政治が殴り合いか腕相撲みたいなものであるからではなかろうか。腕力で決めてるんだとしたら理解できる。冗談で言っているのではない。上野千鶴子が暴力的なのは対抗暴力だったからである。

しかし上野氏はある意味、人間の幸せ、個人の幸せ、自分の幸せ、フェミニストたちの幸せ、恋人の幸せ、などを背負いすぎたのだ。彼女が陥ったのはある意味で、プロスペクト理論そのままだと思う。あまりに負けが込むと、一発逆転を狙って賭に出て、いろんなことを抱え込んだあげくかならず失敗するというあれである。――厭な理論だけど、たしかにそういうことはある。そういえば恩田陸氏が「死者の季節」で紹介してて、その短篇の内容以上に、その紹介部分が怖かった。

観察と私心

2023-02-24 23:53:24 | 文学


藤壺は、よろづに思ほせど、ものものたまはず、帝の 御心を誤りにたればこそは、人は、かくは言ふらめ、かく言ふもしろく、御返し聞こえねど、立ち返り賜ひし御使ひも見えぬは、いかなるにかあらむ、このことは、げ、げに、さなりて、おとどものたまふやうになり給はば、我も尼なりなむ、何か、世に交じらむと思ほす。宮たちを見奉りておはす。若宮は、何心もなくて遊び歩き給ふ。

藤壺も自分の息子が皇太子にならなければ尼になるぞと発言が生々しくなってゆく。これは必ずしも醜悪ではない。人間の真の姿があらわれるのは、自分が一方的な観察者でなくなったときである。

とりあえず疑問に思ったら発言して発言内容に責任をもつように行動した方がよいのは、それによって考えることが多くなっても、いろいろなことがわかるからだ。ただ命令にどれだけ従ったか、どれくらい仕事をしたかみたいなものだけでは、人のいろんな側面はみえない。人間に対する対処のあり方だけがそれを炙り出す。だから褒めるとか貶す前に、質問し意見を表明することが大事である。その反応で、どういう人間たちがどのように立ち回るかが観察出来る。それが可能なのは、自分が観察される対象になっているからだ。こういうときにしか面白い現象はあらわれない。

当事者性というのは、つねに観察者がなかば受け持っているものである。

昨今の組織の「評価」のありかたはそのことを無視して成り立っていることが多い。都合よく立ち回るずるい奴がいる大きな原因は「評価」をやってるからだ。しかもいまどきの言い方として、そのような現象に対して「評価はいいけどこいつクズやぞ」ではなく、「評価はいいけどこいつクズだよ、まあ評価はいいけど」になってしまう。大きな違いである。「評価」は組織の都合で相対化されていかようにもねじ曲がってしまうものである。本当は、最初の目的は組織そのものの評価を迫られていることから始まっているのであって、個人はどうでもよいからだ。しかし、そんなやり方では個人は育たない。

ほんとは小さいグループのボスがそういう不可視になりがちなズルしがちなクズを叩いて上に上がってこないようにしなければならないが、評価が一元化され統制化されるとそういう「教育」こそがノイズになりかねず、ますますクズがのし上がる次第となる。組織の中での仕事とは個人の仕事とみなされるものであっても、「全てが」一人でやってるものではない。だから、そもそも個人の評価をするという時点でかなり無理筋なことをやってることは明らかだ。のみならず、かかる無理だけでなく、――このような場合、かならずAはだめだけどBなら、みたいな自意識の形をとった認識=ルサンチマンを持ったタイプに評価(B)をあげる契機を与えてあげているようなものだ。かくして、……むかし「釣りバカ日誌」という夢物語みたいなものがあったが、いまや、あの主人公があいかわらず社長と仲良くしつつ評価を統括する側にまわり、自分を支えていたはずの地道な人材をいじめてるというかんじである。この主人公が、現実にルサンチマンを持っていないはずがない。

適材適所とかいうのはほとんどが実現出来ない理念であって、ある程度はAもBもできないと使い物にならない――というより、誠実に見ればAもBも繋がっているのだから分割が不能なのである。とにかく評価の規則のようなザルみたいなものに頼ると、本来うまいこと働いていたAとBを一体のものとしてみながらさしあたり分割しておくような能力が封印されてしまう。

革新勢力?が重要視していた法(規則)の創出みたいなものは、悪の禁止には向いていても、人を評価する方向では働きにくいというのはあると思う。

面接で不自然にニコニコにしてたり初対面でやたら目を合わせてくる人間を基本はじいた方がよいのは、常識というより、――目的のためにコミュニケーション能力みたいなものをつかってくるタイプだと見た方がよいからである。こんなのは、事務=手続きを官僚組織の肝と考える「公務員」的な人間にとっては常識であったはずだが、「評価」みたいな――通知表システムが始まったために、最近は教員にこびる生徒みたいな人間が増え始めている。それで思い出すのは、三島由紀夫である。

ある部分の学生運動も三島由紀夫も軍事にこだわっていたが、それには理由があった。旧日本軍というのがあまりにもあれで、エセ進学校じゃねえんだから軍隊としてありゃどうなんだよ、というのがあったと思うのである。彼らがやった戦いは、丸山眞男が言うまでもなく、学校的な「抑圧の移譲」みたいなものであって、名誉の死を覚悟する軍隊でもなければ、国=伝統を守るものでもなかった。前者は社会主義者、後者は三島のような右翼が持った不満であろう。彼らだけではない。一応、それこそままごとみたいなものだとはいえ、軍人の精神と名誉とは何か軍事作戦とは一体何ぞやというテーマでずっとサブカルの一部はやってきている。怪獣とかヒーローの可愛さにあまりに注目しすぎて、それがゆるキャラに脱線しようとも、そのテーマが消滅したことはない。しかし、最近はそのテーマの出してくる結論が、ギリシャ哲学経由でニーチェが褒めたような「友情」=名誉みたいなものとは似ても似つかないものになっている。私の誕生みたいなものにまで退行しているのである。基本設定が、人間でない状態から始まることが多いからだ。子ども番組が子育てどころではない、乳児からの離脱がテーマになってしまっている。

三島由紀夫が接触した自衛官の回想はいくつかあって読んで見たこともあるんだが、三島も最初、自衛官たちがある意味もう少し「受験生・官僚的な感情的な阿諛追従の輩」だと思ってて、だからこそ感情的な回復が可能だと思ってたところがあるのではなかろうか。しかし目の前に居たのはもっと「公務員」みたいな人間だったのではないか。三島は、戦後の民主主義?がつくった大衆化されたなにか別ものをみたにちがいない。

しかし、まだ彼らは公務員的なものを大人とみなす、戦後の「理性の狡知」をおこなっていたような気がする。三島由紀夫は魂としての正しさはあるかもしれない。しかし彼の言っていることをそのまま口うつしに言いいはするが、教養もなく理性も働かない幼稚な輩がたくさん出てきたら国は滅んでしまう。そのために、魂のレベルでのシンクロは手続きを盾にして何もしないことを選ぶのが公務員である。私心を捨てよというのはそういうことで、評価が私心を復活させてしまった。それは、真の戦前回帰――ではない。目的を失った暴力の移譲である。

パンダとわれらの本流

2023-02-23 23:44:23 | 文学


「昔より、誰も、親の仰せごとは、ともあれかうもあれ、否び聞こえじと思ふ本意侍れば、否び聞こゆべきには侍らず。この国ならず、大きなる国にも、国母・大臣、一つ心にてこそ事を計りけれ。臣下ども、御足末にて、やむごとなくてものせらるめるを、あひ定めて、ともかくもせさせ給ふばかりになむ。ここに、はたかの人離れては、いと頼りなく待るに、かかること侍らば、参るべきにも待らず。されば、かの人・幼き者もろともに、生くとも、死ぬとも、もろともに山林にも入りて侍るばかりにこそは。位禄も、顧みむと思ふ人のためにこそは。何せむにか、これをいたづらになしては、世にも侍るべき」とて、涙をこぼして立ち給ひぬ。

先日、あるパンダが中国に帰っていったのであるが、そのときの見送りの人々がすごかった。パンダのぬいぐるみを抱えたおばさまなどの涙が止まらない。上の春宮なんかは、中国でも国母がいろいろ決めているというのでお母様もみんなでいろいろ決めればいいでしょうでもわたしは藤壺と一緒、彼女の子どもと一緒に、死んでも生きても、もろともに山林に入ってしまいます、もう何にもいらないですウワーンと大泣きであって、中国の山林に帰るパンダにむかって泣いている日本人と好対照であるようにみえて、きちんと中国(もどきの政治をやろうとしている母)に対峙して泣いているという意味では、地政学的に見てほとんど一緒という他はない。

そういえば、コピーをとっておいた昭和16年『ナチス詩集』は神保光太郎の編集で、リルケの富士川英郎とかシラーやマンの野島正城、カフカの近藤圭一、ゲーテの瀧田勝、キルケゴールの山田新之輔とか、戦後活躍する訳者たちが新鋭の若手として集められている。あ、フロイトの高橋氏もいましたね。。。彼らは中国を飛び越えて、ナチスに自分たちを重ねることによって、積極的に泣いていこうとしているわけで、結局、その受け身の姿勢で、なんの成果も得られなかったようにみえる。

しかし、聞いたところによると、神保光太郎の息子は、なんと「サインはV」とか「花の子ルンルン」をはじめたとした日本サブカルの原作者=神保史郎であった。作品の影響はなくても人に何らかの影響はあるかもしれず、結局、日本のサブカルは、保田が神保を評して言ったような「日本の昭和詩を本流に戻す」みたいな役割を担ったのかもしれない。なにしろ、神保の詩は、いま読んでもほとんど何の面白さも感じないのだ。不思議なほど感じないのが逆に不気味である。

ラクー・ラバルトの『政治という虚構』を再読したら、なんでこいつはわたしの30歳ぐらいみたいなこと言ってんだと思った。がっ、まさにですね、わたしが30歳ぐらいの時に読んでいたいうことはここではっきり申し上げておきたい。その後、わたくしも本流に戻ろうとしていたのかも知れない。

感情主体は死せず

2023-02-22 23:28:55 | 文学


「日ごろは、いかが。 うちはへ、ここには悩ましくなむあれば。まだ、え対面せずやと思ふに。そこには、けしうはものし給はじを、下局にやは。 後ろめたくはこそ。人、もろともによいでや、
 君を待つわがごと我を思ひせば今までここに来ざらましやは
思ふこそ、ねたく。 まかでられし時も、謀るやうにて。かく数にも思はれざめれば、しばしはものせじと思へど、あやしく、心よりほかにて」
となむあるを、御方、「あなあやしや。ただにてやは例の、憎げ言し給ふめり。あないとほし」


藤壺は、出産のあとなかなか参内しない。そして春宮から手紙をもらったりして、立太子の動静をうかがっているようである。われわれは制度のそのものよりも感情を主に浴びて生きる動物である。そのなかでは抑圧があろうとも、感情主体としては決して死なない。

物語をつくる能力を初等教育に利用してメタ認知能力を高めようみたいな考えがあるけれども、やや人間のつくり話の能力を侮っている。というか、物語の能力というのは感情そのもののことなのであって、そこではいろいろなことが起こる。誰がしおらしく反省ばかりしていよう。

いろいろな出来事に、これはまるでインパール作戦だとかいう言い方は学者からもよく聞くけど、その人が面白い学者であったことは少ない。おそらくインパール作戦についても何も知らないし、喩えているものそのものについても考察が不十分だからである。そして何よりも、人間が感情の動物であることを見くびっている。インパール作戦そのものはどうだったか知らないけれども、われわれが持つインパール作戦に対する感情は、忌避感情の外に出て居るであろうか。つまりインパール作戦という比喩は事態に対する忌避を示しているに過ぎないのではなかろうか。

われわれが学問をするのは、その感情の世界から遁れるためでもある。それは我々を我々のあずかり知らぬ地点に投げ入れることである。――演習とか卒業論文の意味は、自分が一生懸命書いたものでも、何を書いたのかは自分で決めることでも、読み手が決めることでもなく、未来の自分や他人、優れた読み手が分かることであるという世の中の真実を知ることにある。最悪、それがわからなくても自分が予想外にバカであると分かる。そこでようやく我々は自らの自らの感情から遁れられる。しかし、これは、反省、換言すれば克己の感情などがある場合である。思うに、勉強に耐え得ない肉体は、上のようなプロセスを生きることはない。

そういう肉体に対しては、法律や権威が命令を下すことになっている。近代社会というのはそういうもんで、それを外して多様性を主張するのは実際には難しいことだ。そのことは、作品の作り手や学問の担い手にとっても、もう自明の前提であって、だから彼らは信用されないのである。しかし仕方ない部分もあるわけである。

例えば、昔から「お涙ちょうだい」という分野?があるような気がするが、これが案外文化的に高度なものだったのは最近痛感されるところだ。みうらじゅんが以前いってたが、最近は「涙のカツアゲ」になっている。つまり表現が命令の形をとるようになったわけだ。

ドラマのキャスティングなんかも視聴者に対する命令じみている。例えば、今日のニュースで知ったが、朝ドラ2025の主演が伊藤沙莉氏ってもう大御所だろが。この枠は、完全素人の田舎娘(ただし顔は田舎者とは思えん:差別発言でしたすみません)みたいなのが演技が巧くなっていくと見せかけて最後まで下手で自分の孫を(顔以外)思わせるという枠ではないのか。あるいは安部公房の恋人にいつのまにかなっ

それはともかく、人々のめざす本丸は、権威と化し命令主体と化した活き活きしたかつての反抗主体である。例えば、「お一人さま」の英雄であったが実は結婚してましたというニュースで燃えあがっている上野千鶴子氏なんかがそうである。彼女の最高傑作は『発情装置』と『セクシィ・ギャルの大研究』だと思う。特に後者はカッパサイエンスであって、帯文の山口昌男と上野氏自身が「処女喪失作」だとか言ってて、当時のわたくしはヒいた。当方、中学生で「トニオ・クレーゲル」とかを崇拝していたので、あっち側の話だなと思って印象に残っているのである。木曽の雪の中で白樺派的なものに耽溺していたのに、あちら側の世といえば、「パンツをはいたサル」とか「セクシィ・ギャルの大研究」とかふざけてんのか挑発してるのかわからないかんじにみえた。予備校のあった名古屋で本をあさっているうちに、そんな恐ろしいことになっていないのは知れたが。かかる、80年頃のアカデミシャンの妙なノリはある意味、批評家のポジションを奪う流れ(上野氏自身もどこかで花田★輝みたいな文体から影響を受けていると言っていた。つまり、学校化した小林秀雄的な批評に対する闘争がそこにはある。その意味で、浅田彰も同じであった――)で、これが90年頃にまじめな感じ?に転向を開始した。それは柄谷や東といった批評家たちの逆襲に対する反応でもあり、同時にアカデミズムの研究室への撤退であった。ここらあたりの混乱で、どのようなことを一貫させようとしたかは人によって違う。

問題は簡単ではないと思うが、学生運動がどんな作家を生んだかという問題とともにどんな学者を生んだかは興味深い問題である。なにしろ、学生運動というのは、キャンパスの外にも出るのだが、主には学内でのもので、ある意味運動がアカデミックなものの一部になっていた。本人たちが思うよりそうだと思うのである。薄汚れた貧しい誠実な学者というイメージに対して、割と金儲けもできるぜいい家に住んでるぜ下手すると2号3号がいるぜみたいなのは、アカデミックな環境の中でのよくある我の張り方で、上野氏にそういうものを感じるということそのものが、我々の社会が悪い意味でアカデミックなかんじになっているからかも知れないとは思う。いまの社会の学校化は、まずは学生運動から起こっていたのではないかとわたくしは思う。

学者達も感情主体である。そうはいっても、感情の上での復讐はうけるものである。一方的に感情主体であることはできない。

価値を追う

2023-02-21 21:01:39 | 文学


藤壺、「あなうたてや。なじに、かうは。梨壺ものし給ふめれば、男にてあらば、さしも。小宮の御もとへもまうで通ひ給ふべかなれば、このほどに、さることあらば、それこそは。世の中、定めなければ、必ずとも思はず」。


誰が皇太子になるのか、何が起こるか分かりませんよと忠告するあて宮(藤壺)であった。こんなことは普通考えたら当然であり、あえて言わなくてもわかることであろうが、あんがい、簡単に我々の認知の歪みは起こって興奮してしまう。親や子どものことになると我々は我を失いがちである。もちろん、相手のことを喜んでではなく、自分のこととして喜んでしまい、自分の子どもや親のことはどうでもよくなってしまうのである。婚活や終活でもなんでもいいが、こういうものが合理性のもとに盛んになると、ますます周りの親や子どもが合理的に犠牲になるようになる。自分の葬式のために、生きている人間の都合はどうでもようなるのが人間であり、――かんがえてみりゃ、古墳やピラミッドをみればわかりそうなものだ。

ChatGPTが話題である。グーグルが頭の悪い弟子がこんなに情報がありますと指導教員の机に資料を山のようにもってくるようなものだとすれば、それは、ちょっとネジの外れた「何でも答える指導学生」という感じであろう。しかし、これは合理性に基づいているマシンである点で、少しは使い物になるばかりか、つつがなく進行する自分の葬式みたいなものであって、ますますわれわれにとって他人のことはどうでもよくなることを意味している。

わたくしはさっそくちゃっと何とかに萬葉集の解釈困難なところからさっさと答えてもらおうかと思ったが、伝聞によると、おそらくまだ伊藤博氏よりも優れているとはとても思えないのでやめた。そもそも、ちゃっとなんとかに限らず、グーグルでも何でもいいが、そもそもの問題は、なんでもかんでも答えてしまうことにある。普通に考えてみてくれよ、そんな奴が信用出来るかというね。

問題は、ちゃっと何とかに何かを奪われるのではなく、どうせちゃっと何とかに我々が知らぬ間に似てしまう方がいつも問題なのだ。あるいはもう似てるからそいつをつくることも問題だ。で、最終的にはいつも似ても似つかん怪物になってゆくのが人間だ。

今一生氏の『よのなかを変える』に書いてあったが、「当事者固有の価値」と絶望や体験を「価値」と呼ぶことが大事で、たいがい、事例とか無視された側面とか呼んでしまうのだ。われわれが人間である、つまり当事者であることは固有の視角をもつことではない。それがつまらなかったりするものの、価値を持つことが重要だ。佐藤進一氏の『日本の中世国家』を読むと、鎌倉殿の13人みたいな、親子の葛藤みたいな自然的価値しかないような世界で、法律や支配の方法を巡って知的な攻防があって、やはり彼らも価値を巡る戦いをしていたと分かる。

我慢しろみたいな教育がだめというのは、みんなの価値を発揮してみたいな、――言っていることはわからんでもないが、右翼・左翼的な「抵抗」にかぎらず、民主主義のプロセスなんかほぼ我慢だらけなんだし、幇間たちのプロセス偽造や歴史修正なんか爆弾でつぶすわけには行かないんだから、我慢して徐々に潰すしかない。しかし、その我慢しながらの行為には価値がある。我々は、そう思いたくないのか、個性の発揮みたいな瞬間にしか価値を感じなくなりがちである。日置氏の書いた、芥川龍之介の「地獄変」論をこの前読んでいて思い出したんだが、最近ジャンヌ・ダルクのイメージが、最後の火あぶりまで含まれずに、女ナポレオンみたいになってきてないかということであった。ジャンヌの一生から火あぶりに至るプロセスを抜いたらもうそれは価値がなくなる。芥川龍之介はもう少し、「地獄変」や「奉教人の死」を長く書くべきであった。

我々は、しかし、そんな価値に耐えられないことは多い。上の貴族たちも自分を自分の子孫の価値に預けるわけだ。絶対に頭を下げませんみたいな学者が本物の抵抗者や本質的な批判者であったためしはない。学会やなにやらが自分にとっての権威なのでほかに頭を下げられなくなっているだけであった。また、若手に仕事を押しつけまくったあげく、最後に自分がそれをやりました的なことをお偉方に吹き込んで去って行くのはいわゆる幇間みたいな人間に限らない。静かに学問だけをやっている風な人間でもそうなりかねない。どことなくカッコをつけているような人間は謙虚そうに見えても危険なのだ。それにしてもいまどきの肩書き付きの人たちというのは自分の責任にして頭下げるみたいなことほんとにしなくなった。頭下げるのは対外的なものであっても、内部への行為なのに。お前のためには絶対本気で仕事はしねえよとほとんどの人間に思われるのに、ほんと頭が悪くなったものだ。しかし、それも組織に浸透する自分の価値を信じられないがためだ。

価値はシンプルに輝くものなのか、複雑に輝くものなのか。

作品によって永遠を得るか、自分が遺伝子で生き延びるのか、果たしてどっちが複雑さをうるか、――といった無常なことを考えつつ『方法叙説』を読んでいたら日が暮れた。

大艦巨砲主義の男おいどんは逝く

2023-02-20 23:33:27 | 文学


「宇宙戦艦ヤマト」などの松本零士氏が亡くなっていた。

NHKニュースで、戦争の愚かさを描き云々と言っていたので、びっくりした。このひとは戦争大好きな漫画家の筆頭であるからである。しかしだからといって、戦争の愚かさ云々という見方が全く間違っているわけではない。松本氏に限らず、戦後の文化は、戦争を活き活きと描きながらそれを反省してみるという話形で成り立っている。たぶん、もう誰か書いていると思うけど、松本零士と松本清張ってなんかかぶっている。松本清張の場合、戦争(=殺人の原因)と戦後(事件の解決)という風に話形が変形している。松本の場合は、むかしの共産党やPTAが指摘するまでもなく、大艦巨砲、戦闘機、特攻、美女とキノコが同時に大好きであるというまさにあれで、ちなみに、宮崎★は美女が幼女にキノコがトト×などにかわっただけだ。それが最近、宮崎や松本の弟子筋が、戦争のシーンはぼくの妄想でしたお父さんお母さんごめんなさい大人になります(エバンゲリオン)という話に変形させ、真の平和主義に移行した(棒読み)。

そういえば、「はだしのゲン」のなかの、母親の病気のために鯉を盗んできて喰った話について、「時代背景を説明するのが大変で原爆の悲惨さを伝えられない」という声が教育現場から上がってきたので、教材から削除したみたいなニュースがあった。どこまで無能な教師なんだとあきれ果てるが、――そもそも「はだしのゲン」は、原爆の悲惨さを描いた漫画ではなく、日本人の悲惨さを描いた作品である。中沢啓治だけが、戦争を上の話形に従わず、戦争をやっている日本人、やった後の日本人を描こうとしたのであった。

それにしても、鯉を盗む話はともかく、ゲンたちは蝗を食っており、――すなわち、「はだしのゲン」をこのタイミングで話題にしてその明るく描かれている昆虫食に人々を誘導しようとは、SDGs真理教の連中も手が込んできたな。

長野県における昆虫食の研究ってあるのか知らないけれども、戦時中全国で行われていた昆虫食とおなじなのか違うのか。。。わたくしの実家では70年代木曽町の都会wなので出てこなかったが、松本の母の実家ではまだいろんな蝗虫を食べていた。あれは戦時下の延長だったのか。。祖母もモンペはいてたし。

再帰的大和魂

2023-02-19 19:56:14 | 文学


若宮「わが見に出でたりしかば、宮の隠して見せ給はざりし」。小宮、「見せ給はざりしかば、いみじう泣きしかばこそ、見せ給ひしか。抱きしかば、うち落として騒がれき」。 大将、「さて、いかが御覧ぜし。憎げにや侍りし」。宮、「否、いとうつくしかりき。こなたに率て来などせさせしかば、ののしりてとどめき。ただ今、抱きておはせよ」とのたまへば、「ただ今は、汚げに、むつかしう、なめげなるわざもし侍れば、今、大きになりなむ時に、召して、らうたくして使はせ給へ」。宮、「いとうれしかりなむ。 遊ぶ人なくて、いと悪し」とのたまふ。大将、手づから賄ひして、たちに物含めつつ参り給ふ。車どもを、「雛に子の日せさせ給へとてて参りつる」とて奉り給へば、宮たちも、喜びて弄び給ふ。かくて、常に、をかしき弄び物は奉り給ひけり。


百日の祝いで、将来二人の結婚を望むひとがいた。しかし、子どもはまだ「汚げに、むつかしう、なめげなるわざもし侍」るのである。昔はおむつがないのでみんなの前でおしっこシャーということがありえたのであった。

それはともかく、あいつの子どもとおれの子どもを夫婦にみたいなことばかり考えている輩ばかりの社会は危険である。やはり勉強で縛る他はあるまい。いまも法律で我々は自分を縛っているが、平安時代はもっと縛るのは難しかったに違いない。それで、源氏のように、漢学を勉強しないと大和心をつかえませんよ、という説教が出てくる。これをどう解釈したらよいのか、わたしはいまだによく分からない。近代におけるケースを考えてみても、大和魂には洋学からの回帰性の性格しかない。主体性を付与するのは元々難しいのだ。源氏が、勉強しないと大和魂を使えないというのは思っている以上に深い意味――あるいは紫式部の悪意すらあるような気がするのだ。たんなる妄想だが、官僚が漢文を書いていたのは、大和魂というかはともかく、葬り去られてしまう心理をひそかに書き残すためだったのかもしれない。そういう二重言語みたいなやり方が、紫式部みたいな直截におんな文字で心を書く連中と争って、心はそもそもどういうものか分からなくなり、混迷の度を深めていったのではなかろうか。武士の暴発の原因にはそういう空気もあったのかもしれない。

心の世界は、混迷の度を高めると、明確なもののありそうな態度で自分を保つものである。それはしばしば物事に対する憫殺というかたちをとる。ネット社会が駄目なのは、せいぜい可能なのが嘲笑で、憫殺がないからだ。ネットでは、心はつねにテキストに解体され面目を失いつづける。平家物語の世界は、案外、こういう面目を失い続ける世界なのではなかったであろうか。

最近、文芸マンガの傑作「ホーキーベカコン」を読んだので、「春琴抄」を再読した。溫井検校が日蓮宗から浄土宗にかえて春琴の横に眠っている件を読み飛ばしてたことに気がついたが、思春期に読んだ時には、その物語の奇妙さに気をとられたが、この文章はは異様なほど語りと物語内容が、語り論のために書かれたように巧妙に相対的で相補的である。それは、漢学と大和魂の関係に似ている。これを、マンガをはじめとしたわれわれは、対立とか相対化としてうけとる癖がついている。

悪口・批評・人生

2023-02-18 23:47:21 | 文学


おとど、参り給へれば、宮入り乱し給へれば、え上り給はで、下に立ち給へれば、君たちはさながら土に立ち給へり。女これかれして、君に消息申し給へど、え聞こえ継がぬほどに、大殿の君の御方に言ふやう、「ここらの年月日燃えざりつる死人の、今宵、かく、からうして率て出でられぬべきかな。いかに腐り乱れたらむ。さかるいはくそむかしのことのはきそすめる」と言ふ。また、院の御方に、下仕へ・童など、 「今宵は、よき日なるべし。 縫殿の陣の方に、にはかに、物蒔きたる車ども、きたに立てりつ。今宵ぞ、持て出でらるべかめる。桃楚して、よく打たばや」など言ひ合へり。おとど、爪弾きをして、「女子持ちたらむ人は、よき犬・乞巧なりけり。なかに、らうたしと思ひし者をしも出だし立てて、かかる耳を聞くこと。なほ、犬・鳥にもくれて、込め据ゑたらましものを」と言ひ、立ち給ひつるを、宮は、いとよく聞こし召す。

むかしから悪口というものはリアルである。悪口は一種の批評である。わたくしは、職業柄、批評と悪口の関係について考えてきた。これは一種の虚構論を考えることでもある。藤壺(あて宮)と春宮の愛の物語が、長恨歌的に「物語」になりかけるのに対し、周りの人間がかれらを現実に引き戻そうとするようだ。うつほ物語の、あて宮と春宮への宮中の悪口の場面、これがある意味、長恨歌的な世界に対する大和魂の場面だと思う。

さんざ言われてるんだろうが、三谷幸喜氏の脚本はかなりみなもと太郎の「風雲児たち」の風味が入っている。しかしかなり別ものになっていて、、たぶん根本的には人生観のちがいか、とも思われるが、みなもと太郎には批評=現実への回帰がなく、三谷氏にはそればかりあるという違いもある。みなもと太郎は、有名なフィクションを現実紛いとみて、もっと虚構に追放しようとした作家である。これは、同時代の作家たちもおなじ動きをしていた模様だが、根本的にオタク的なものである。かれらは作家性を放棄し、楽しい虚構を世界と共存させようとしたのである。

さっき、谷川流の「涼宮ハルヒの憂鬱」で、試験問題が作れるかちょっと考えてみたんだが、――読解問題は簡単すぎるものになるかわりに、哲学青年ぽい問いをつくるしかないところがあり、ひろく中学生とかの疎外感情みたいなのをすくい取っていたのかもしれないなと思った。この語り手のいけ好かない評論家みたいな語りは、上から目線でも下から目線でもなく、だからといって、現実世界でやったら確実にいじめの対象であるような奇妙なものだ。このジャンルをほとんど知らないので、どのぐらい一般化しているのかしらないが、例えば、発想の元になっていると思われるエヴァンゲリオンなんかでは絶対にあってはならない語りの態度なのである。これは一種の絶望の語りだと思う。

なぜかといえば、エヴァンゲリオンでは、第三者的な批評は、登場人物全体が人類補完計画とやらの対象になってあるいみ対人恐怖的に病んでいなければならない、というかそれが人間が普遍性ということになっているので、ゆるされない。で、物語も終わることを許されないので永遠に物語は不可視の神によってループしているわけであった。しかしこれは、逆に人生に対する拘りより作品の永遠性に対する拘りが必要で、強烈な作家性にだけ許されるようなことである。これに対し、鑑賞者はそこに居座ることはゆるされず、批評者としてつねに疎外されることになり、ハルヒ=作者に対する常識者としての批評をしつづけることになるわけだ。これは、批評者が人生に閉じ込められるということでもある。つねづね思っていたけれども、エヴァンゲリオンはオタクへのテロ、その成功によるオタクの終焉であって、かれらの人生への追放だったと思う。

これは、オタク気質が、人生における哲学的妄想に閉じ込められることを意味している。この妄想に、テキスト(=作品)はない。エヴァンゲリオンをみたところで、哲学的ヒントは何もないからだ。ただ、作家と作品が閉じているということを示してくるだけであるからである。ところが、現実世界は、テキストと共存しなければならない世界である。

古文・漢文の卒業論文をよんでいると、壊滅的に現代語訳が出来なくなっているのが分かるけれども、これは近代文学でもまったくおなじである。だから他人の論文も理解出来ない。理解というのは飜訳能力で、解釈の自由とか恣意とか、ましてや思考力みたいなおばけみたいなものではない。やはり逐語訳を毎日ひたすらやりつづけるのは学習者にとって必要なのである。ベンヤミンが言う以上に飜訳は大事であった。コミュニケーション能力みたいなものはそういう飜訳能力を情報のノイズの除去みたいな概念にしてしまった。

今日は、「スターリン言語学」につづいて、戦時下にでたタカクラ・テルの「ニッポン語」を少し読んだ。唯物論研究会周辺でもあった、この表音文字に近づけた表記法は奇妙だが、まだこの時代は、柳田國男に限らず、生活世界に対する盤石な信頼と抵抗感があったから、言語は表意を失ってもなんとかなるみたいな安心感があったような気がする。エヴァンゲリオンは表記法を難解な戦時下風のスタイルをとっている(たしか、大塚英志氏が指摘していた)。これも案外、ネット世界での衒学趣味につながっていると同時に、生活への追放を享受者にもたらしたかもしれない。

その生活には、テキストはない。すなわち、表意性があらわな漢字の世界も、つぶやきが乱舞する悪口の世界への回帰もない。ここには、世界へも日本にも回帰しない世界がある。

相撲的暴力

2023-02-17 19:45:04 | 文学


中学時代に相撲が好きで得意であったような友人の大部分は卒業後陸軍へはいったが、それがほとんど残らず日露戦役で戦死してしまって生き残った一人だけが今では中将になっている。海軍へはいった一人は戦死しなかった代わりに酒をのんでけんかをして短剣で人を突いてから辞職して船乗りになり、シンガポールへ行って行くえがわからなくなり、結局なくなったらしい。若くて死んだこれらの仲よしの友だちは永久に記憶の中に若く溌剌として昔ながらの校庭の土俵で今も相撲をとっている。いちばん弱虫で病身でいくじなしであった自分はこの年まで恥をかきかき生き残って恥の上塗りにこんな随筆を書いているのである。

――寺田寅彦「相撲」


寺田寅彦でさえ日和ってしまう、日本の暴力的性格については、何を言ってもわからない輩がたくさんいるが、相撲が神事だからとかいって人を説得しようとしているバカにはそれが何を意味しているのか分からないのだ。こういう連中が、暴力を、抑止効果とかスクリーニング効果とか言ってうまいことやっていると思っている。他人が自分のように反応すると信じているその頭の悪さがすさまじい。

アメリカが日本に原爆落としたのは、いろんな理由があったが、――たぶん最終的には、妙に真面目でしつこい文化が妙に発達してて死んでも詩が残るみたいな発想が不気味で、やたら決断力がなく奴隷根性のくせに頑強なずるさをもってそうで人数も妙に多い輩は、これぐらいしないと手を挙げないとおもったからではなかろうか。何が言いたいかというと、日本人は戦争やるととにかくめんどうくせえ輩なので過剰にたたいとかんとという心理が相手に働くんじゃねえかということだ。我々が信用されないのは独特なもんがあると思う。――むろん、西洋人たちを中心とする誤解である。われわれは荒っぽい性格をもっているに過ぎない。ただ、自分たちが相撲をとっていると思っているだけだ。

江藤淳に「過渡期と執念」という文章があって、ジャーナリズムの川に流されて長篇をかきとばしている作家たちに、漱石のような執念はないのか、と言っている。学生がこの前、この「執念」についての注釈をつけてて面白かった。執着ではなく、執念というところに、当時デビューした若者達、大江とか石原とか、井上靖とか三島の「鏡子の家」とかにある暴力的な性格を見ないわけにはいかない。三島だけが、それを持続しようとして果ててしまった。

長恨歌回避作戦

2023-02-16 23:49:12 | 文学


上は、「後は祓へ物にもなし給ふとも、院のおはします世に、かかると聞こし召すなむ、いといとほしき。やうなることどもを思したるにやあらむ、上も宮も、御髪下ろしてむとし給ふなり。 世保ち給ふべきこと近くなりぬるを、平らかに、そしられなくて保ち給へ。人の国にも、最愛の妻持たる王ぞ、そしり取りたるめる。さ言はるる人持給へれば、戒め聞こゆるなり。 わきても、ここに、よき女の限り集へたれど、え褒められずなりぬるや」。宮、「かしこにこそ侍るめれ。ことばも惜しまずののしることは、ほかには、え侍らじ」と聞こえ給ふほどに、明け離れぬ。


藤壺(あて宮)に夢中で政治をやらなくなった春宮である。なぜ長恨歌の過ちをわが君主たちは繰り返すのか。そりゃ、できればそうしたいからに決まっておる。政治をさぼっても、あの世でまた仲良く暮らすことができればよい。世の御仁が間違えているのは、これが若い人々の特徴ではなく、あるていど人間が出来た奴の希望だということである。むしろ未熟ならば、あれこれと目移りしてしまうはずである。長恨歌の悲劇をさけるためには、光源氏や好色一代男になってしまったほうがよいのである。

言語、スターリン

2023-02-15 23:59:47 | 文学


隨分長らく御無沙汰致し候ものかな、御許し下され度候、貴兄には相變らず御清適『白虹』のため御盡力の由奉賀候、さて御申越の課題については小生別に意見と云ふ程のものも無し、有つたところで小生如きの意見は何にもなるまじくと存じ候、但し文藝の事は本來中央も地方も無之てよい筈、そんな事は眼中におかずに、東京の雜誌と拮抗する樣な立派な雜誌が、今の世にせめて一つ位は地方にあつても然るべきと存じ候


――石川啄木「予の地方雑誌に対する意見」


我が国の人民が、自分の意見を言いましょうという教育を施される(あるいは、実際に施されなくてもそういう世論擬きが形成されると――)と、エラい人をはじめとする意見を自分の意見として高圧的に言うようになった。正直、自分の意見はどうでもいい、ちゃんとしたこといえ、みたいな昔の教えの方がまだ幇間にならずに済んでいた部分があるわけである。生前、小田嶋隆氏みたいなインテリでさえ、――国語教育の心情把握みたいなテキストへの密着は、「忖度」であって、そればかりやってるから日本人はだめなんだと言っていた。しかし、そういう忖度をやめて自分の意見を造りましょう、となったら、テキストを無視して聞いた風な事を自分の意見として言い、おおよその心情把握すらできなくなったのと同じである。

しばしば、学校教育の国語は文学研究者を育てているのではないので、正確な解釈ではなく自分の生活に活かせる言語能力の育成に資する活動でいい、みたいなことが論文に堂々と書いてあったりするんだが、その結果がこの有様だ。そもそも理論として笑うしかないわけだが、――たぶん、あまりにコミュニケーションが普通にできない子どもの存在に驚いて、従来の国語では不十分だとおもった研究者や現場の研究者がいたんだと思うし、それはわかるのである。しかし、それはたぶん国語教育のせいではなく、別の手段が必要な事案であった。

もともと、小学生にかぎらず、言語能力というのは、国語が基盤ではあるかもしれないが、――その能力の伸張は、各教科の相互作用みたいなもの、各教科の間で起こる。コミュニケーションの能力もそうだ。国語でその単純なまねごとをやろうというのが思想として間違ってるのである。今年の共通テストなんか、全教科の「国語化」が起こってたけど、日常生活のコミュニケーションが国語的な読解の領域だと思っていることによる過ちである。理科、社会、数学のコミュニケーションは、まずは教科の問題ができることによって前提ができあがるのであって、コミュニケーションによってできるのではない。

――スターリン言語学でも復習するかと思って、『スターリン全集』をながめていた。これに反発するのは実際大変なことだったとわかる。知は力なり、だよな、ある意味で。

日本でコミュニケーション能力とか言ってるひとの大部分は、似たようなことを言うてるスターリンの論文で批判されてシベリアに遠征だ。もっとも、スターリンが批判した言語を下部構造との関係で探究するものではない。日本の場合で流通しているのは、アメリカのミュニケーションの学問よりも、またスターリンよりももっと幼稚な、言語=国民のコミュニケーションの道具みたいなものである。スターリンでさえ、言語が上部構造ではないみたいなことを言いいながら文化の上部構造性との矛盾を隠蔽しようとしていない気がする。スターリンの言語学があやうい認識であることは当時から時枝誠記が言っていたことである。めんどうな問題を消して語ってはいけない分野がある。

ちょこまかしたものをくっつける

2023-02-14 23:10:28 | 文学


その恋心は啻にそこらにひろがつて行くばかりではなく、またそこらにある林や森や丘や川に満ち漲つて行くばかりではなく、うねうねと折れ曲つて行つてゐる丘添ひの道にも、深く泥濘に喰ひ込んでゐる車の轍の中にも、草の葉の上にも、篠笹の葉の末にも、何処にもすべて行きわたらないところはないやうな気がした。静夫はぢつと静かにあたりを見詰めた。小さな赤い鳥居がまたひよつくりとその前に見え出して来た。

――田山花袋「赤い鳥居」


確かに、鳥居(特に赤いあれ)は、小さいほど、神秘性が増しているようだ。くぐるのが人間ではなくなるからかもしれない。これは鳥居に限らない。鳥のつぶやきメディアでも、ちょこまかとした感想というものはなぜだか真実味をもつものだ。長い感想文になると真実味が薄れる。

かかるサイズの問題は、なにか総体として幕の内弁当みたいになっていると許されるみたいな問題とみることもできると思う。我が国民は、なんだか視野を囲ってモノを並べるみたいなちょっとおバカになることによって世の中から逃避する傾向があった。それは囲いの空間にちょこまかしたモノがぶら下がっているようなものだ。例えば、政策というのもそうである。それ自体の成果を問われないために、抱き合わせて何かをおこなうことになるのが普通である。一組織のちょこまかしたくそ改革はむろん戦争だってそういうモノである側面がある。だからそれへの抵抗は同時に多くのモノへの動きを相手にしなければならないのであった。

ちょこまかしたものをくっつけて、それが本体よりも大きく見せてているのは、政策に限らぬ。悪意や善意などの感情と言葉がくっついていると思うのは幻想であり、その無関係な様が屡々目撃されているから、言葉の背後の「思い」や「お気持ち」をいちいちくっつけたように振る舞うようになっているのかもしれず、実際でかいのはやったことや使用された言葉であるのに、そこを無理矢理架構させるところの気持ちが絶対性をおびる。

授業も同じである。細かいプランのもとに授業が行われるようになると、昔の教師なら「ああ劣等生が多くなったんだねえ」と思うにちがいない。細切れの認識を積み重ねてもいっこうに認識が面白くならないのは、文章でもそうだし授業でもそうだが、そうじゃないと認識が0になりそうな恐れがあるときに、問いを分割しまくるわけだ。特別支援的な手法である。シラバスをあまりにこまかく書くようになってるのも同じで、ワークシートに頼りすぎな授業と同じで、何かを分割して安心するというあまり出来のよろしくない状態に学生を追い込む。分割するんだったら徹底して分割すべきなんだがそれはまた大変だから行わぬ。起こっているのは、学修の実質化でも、厳密化でもなく、ワークシート化なのである。授業の評価だって、全体と部分をはじめに決めてしまうと、一行の非常に鋭い認識を書いた学生が、全体として凡庸な認識の学生に負ける可能性がでてくる。凡庸なレポート100回書くような素振り的な授業とそうでないのがあるんだから、足し算のような評価方法は一部の授業だけにしとかなきゃいけない。

足し算しかわからないような人間が拠ってたつのは、ひたすら足し算だ。最近は、弱者と悪人が正義の拠って立つ何かを群れ(足し算)の圧力をかりてリンチしているのであって、その「何か」が何なのか分からなくても、あることさえ分かっていればよいのだ。「何か」は複雑だからむしろ「一」という何かであればよい。その「何か」はフーコーも明らかにしたかもしれずネットも同じく明らかにしたことになっているが、――何一つ明らかに本当にはなっていない。むしろ内実はタブー視され触れてはいけないことになっている。権力も一つであることで権力であるように、体制や文化の抑圧機構も一つという単位さえがあればよいのだ。むろん、ふざけるにもほどがある。

マイノリティや被抑圧者の精神とプロテストは権利などを獲得した後おなじような形態――つまり「一」の形態をとることができない。このぐらい、義務教育で経験すべき事柄だ。発達障害者でもそうでなくても、人を傷つけたら報復される。で、何か理由があるので報復はやめようということになっても、その理由が明らかになった例はない。理由はいつも「一」ではなく、抑圧機構と通じているからである。ゆえに、それを無視したあまりに我慢を強いる倫理というのは成功しない。逆に、全体の複雑さを変えなければ、マイノリティへの差別はいつまでも続くのであるが、それはマイノリティの側の(長所?)に寄せて構成を変えるやり方では、ただ単に多数派が少数派のメンタリティを受け継ぐだけになる。ネットをみればそれは一目瞭然である。全体の欠点を指摘する勇気がなくなったから、マイノリティまで多数派の欠点を様々抱え込むことになっているわけだ。