次に成れる神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。此の二柱の神も亦独神と成り坐して、身を隠したまひき。次に成れる神の名は、宇比地邇神、次に妹須比智邇神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能地神、次に妹大斗乃弁神。次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。
上の件の国之常立神より以下、伊邪那美神以前を、并せて神世七代と称ふ。
むかしから、この神々の役割が明確すぎることが気になっていた。土壌を整える(ウヒジニ・スヒジニ)、その土壌の生命に形を与える(ツノグイ・イクグイ)、形に性別を与える(オオトノジ・オオトノベ)、人間の姿を整えて増殖の準備を為す(オモダル・アヤカシコネ)、男女が求愛する(イザナキ・イザナミ)、――それぞれが男女の対になって人間の求愛に向かって形式的に整えて行く。これは物事を生成ではなく逆回転に見るやり方ではないかと思うのであるが、よくわからん。
しかし、我々の思考の癖みたいなものはすでにあると考えた方がよいかも知れない。思考の生成は、非常にぎくしゃくとした跛行であって、スリルとサスペンスにみちたものだが、危険である。我々はこれをいやがる。その代わり、危機に於いて死を恐れぬ行動を賞賛することで何か満足する。頭が働かないことを勇気と納得する。
宇野浩二が正宗白鳥らとの座談の中で、芥川龍之介は、晩年の私小説を書いているときにすでにどうせ死ぬんだみたいなヤケのヤンパチで書いていたところがある、と述べていたが、これは鋭い。芥川龍之介はだんだんと死に近づいていたのではなく、死ぬ前提で自らの文章を組織していった。いままで過去の「死んだ」文物を扱っていた根本的なストレスを自分を対象とすることで相殺するような理屈だったのかも知れない。上の神話が「生」の生成の説明に逆行しているように、芥川龍之介は「死」の生成に逆行する。
彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。
――芥川龍之介「或る阿呆の一生」
「涙や冷笑のこみ上げる」のはおかしい。これはアンヴィヴァレンツとしてもおかしいのである。