★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

王顧左右而言他

2023-04-30 21:02:22 | 思想


孟子謂齊宣王曰、王之臣有託其妻子於其友而之楚遊者、比其反也、則凍餒其妻子則如之何、王曰、棄之、曰士師不能治士、則如之何、王曰、已之、曰、四境之内不治、則如之何、王顧左右而言他。

有名な「顧みて他を言う」の挿話である。妻子を捨てて他国に行った大臣は絶交、司法長官が部下を使えなかったら罷免、で、国が治まってなかったらどうするんですか?と王に詰め寄る孟子である。王は話を左右を振り返って話を逸らした。

思うに、このように話を逸らすことと、右顧左眄みたいなものは、前者がごまかしで後者が諂いであったとしても、おなじような動作であるのがおもしろい。右顧左眄のやからはメンタリティが、自らの責任を果たさずに部下だけは責めるような王と瓜二つなのである。昨日、岡本太郎の「日本女性は世界最良か?」という1952年の文章を読んだら、威張り腐る夫とだだをこねるガキが同一物であるだけではない、それを支えて本心を押し殺している如き女性は、その裏面に過ぎず、相互の悪循環を為していると言っていた。いまでも通用する指摘である。これが男と女の悪循環だけでなく、いろいろなものが代入出来るようになっただけである。ケアや支援みたいな言葉で、岡本のいう女性に当たる存在を作り出している人間たちは、差別やハラスメントが権力の勾配によって出来上がっていると思っている素朴すぎる人々である。まだ、循環している何かを見ている岡本のほうが事態をみている。たぶん、戦争によって否応なくそのことを自覚させられたのである。

それにしても、孟子はこんな喧嘩を売って大丈夫なのだろうか?と思ってしまう我々は、たいがい孟子の訴えをストレートに受け取らずに「顧みて他を言う解釈行為」が癖になっているに過ぎない。

今、王は則ち左右を顧みて他を言ふ。吾、千歳の後に生れ、書を読み茲に至り、直に唾罵せんと欲す。但宣王の骨朽つること已に久し。論ずるとも益なし。吾が徒、事に臨む毎に、且は職分を思ふ時は、過挙なきに庶幾からんか。

――吉田松陰「講孟箚記」


松陰が王に唾をひっかけなかったのは、王がもう死んでいたからに他ならない。

音楽の効用

2023-04-29 23:25:56 | 思想


莊暴見孟子曰、暴見於王、王語暴以好樂、暴未有以對也、曰、好樂何如、孟子曰、王之好樂甚、則齊國其庶幾乎、他日見於王曰、王嘗語莊子以好樂、有語、王變乎色曰、寡人非能好先王之樂也、直好世俗之樂耳、曰、王之好樂甚、則齊其庶幾乎、今之樂猶古之樂也、曰、可得聞與、曰、獨樂樂、與人樂樂、孰樂、曰、不若與人、曰、與少樂樂、與衆樂樂、孰樂、曰、不若與衆

王は孟子に「ひとりで音楽を楽しむのと人と楽しむのとどちらが楽しいですか」と聞かれて「大人数で楽しむのがいい」と言った。このあと、王が太鼓を鳴らして人民が頭痛をおぼえているなら人民と一緒に楽しもうとされていない、逆に音楽を楽しむ王は病気ではないようだと思ったら人民と一緒に楽しんで折られるからだ、と孟子は言う。結局、問題は音楽そのものじゃないと言いたいのであろうが、音楽が有効だとも考えていなければこういうことはいえない。しかし、王が孟子に「音楽が好きなんですか」と聞かれて、「寡人非能好先王之樂也、直好世俗之樂耳」(先王の音楽を好きというわけじゃなくて、ただ世俗の音楽が好きなんだ)と言い訳をするように、音楽を楽しむと言っても、いろんな音楽があることは無視出来ない要素だと思うのである。

むかしも今も、音楽の趣味と統治との関係は難問のように感じられる。ソ連ではその問題が爆発的に展開してしまった。人民のための音楽でなければ、いけなくなったのである。スターリンは、結局、社会主義リアリズムみたいなことを実現したかったのではなく、王の統治を実現したかっただけであるようにみえる。孟子なら、頭を抱えたかも知れない。

孟子や孔子の言っていることは、それを道徳として機能させようとしなければ、薄く当たりすぎている。「深い」考察が20年ぐらい経ってみるとそんなでもなかったことはよくあることだ、――しかしこんなことが実感をもって語られるのならまだいいのだ。ほんとは書かれた当時からうすうす分かっている場合が多いことで、まさに「深さ」のないのを「薄々」感じるところが趣「深い」。結局、孟子や孔子の勇気は、自明の理に留まる勇気を得たことだ。描かれた事象をもっと調べて例外的状況に注目して「深い」印象を売りにして打って出ることも出来たはずだが、それをしなかった。

もっとも、ときどき本人についてのエピソードが、賢人としての自明の理発言が余りに自明の理であるために、くっついてきてしまう。孟母のエピソードなんかがそうである。それをそもそも良妻賢母みたいな思想に収めるのは無理があるのだが、しかしその無理をした結果良妻賢母も辛うじて道徳として時々機能した面がたぶんあるのだ。だから古典を大事にして無理をするのはよいことでもある、常に使おうとする意図とズレるからである。丸山眞男の、文化は働きじゃなくて価値の蓄積だみたいな言い方は、そういうことと関係があるんだとおもった。

――それにしても、音楽が政治に重要だと思われたのはそもそもなぜであろうか。そういえば、うちの庭のかえるは、豊富な食料にありついているせいか、なんとなく顔に締まりがない気がする。やはり自分で食料調達していない動物ってあほう顔になるのであって、人間もたぶんそうなのだ。実際は、音楽はそういうアホに緊張をもたらすものなのではないだろうか。我々は音楽を娯楽だと思っているのだが、そうではなく、戦争や死の緊張をもたらすものではなかろうか。

最近実感されるのは、社交的な人というのは組織では動きが悪かったりすることである。コミュニケーション能力という言い方は、例えば教育と子育てを区別出来なくなるだけでなく、社交と組織の中での行動の違いをもわからなくしてしまった。最近は社交的な幇間が増えて組織で論理を一貫させるのが苦手な人が増えた気がするのであるが、社交というのは、音楽じゃなくて言葉と食料のやりとりである。だから、それが文化の苗床であることは確かでも、緊張感を失っていくものなのである。結局、音楽というのは組織的ななにかであり軍隊なのである。

自分の欠点を直接具体的に言われても何もせず、遠回りに示唆されたのは何もいわれてないと同じと認識し、怒られたら傷つけられたと厭がらせ開始するような現代的人間。普通こんな奴と付き合うはずがないが、あまりに数が増えてくると、対処せざるを得ない。特徴は、非常に彼らが言葉の人であることだ。言葉を解釈することで、事態から逃避もし攻撃にもでる。よく子どものとき暴力を使った経験がないと加減がわからないので危険みたいなことを言う人がいる。しかし、拳や脚を使ったそれは、使い慣れると逆に加減が本当に分からなくなって、もっと使いたくなる場合が多いんじゃないか。行使した経験が浅いと加減が分からなくなるのは言葉の暴力の方ではなかろうか。

「為さない」ことと「出来ない」こと、あるいは「である」ことと「する」こと

2023-04-28 23:31:52 | 思想


曰:「不為者與不能者之形何以異?」
曰:「挾太山以超北海、語人曰『我不能』、是誠不能也。為長者折枝、語人曰『我不能』、是不為也、非不能也。故王之不王、非挾太山以超北海之類也。王之不王、是折枝之類也。老吾老、以及人之老。幼吾幼、以及人之幼。天下可運於掌。


為さないことと出来ないことはどう違うのか?孟子は言う、「泰山を小脇に抱えて北海を飛び越えることは『出来ない』ことで、老人のために木の枝を折るのを「できない」というのは『為さない』ことです(簡単なことですがな)」と。で、王が王たり得ないのはその簡単なことを為さないからに過ぎない、と。これだけみると、ほぼ喧嘩を売っているようだが、先に王は「目の前の牛をかわいそうに思う正しい人」という前提をもらっているから別によいのであろう。しかしやはり、この場合、王が目の前の民を慈しむことができないのは、簡単なことではないからである。なにしろ目の前にいる(見えるとは限らないのだが)のは牛じゃなくて、なんだか見ていると腹が立ってくる人間だからである。

わたくしもときどき、だからこそ、牛なんかを牧場にたずねて、目の前の人間を牛のように錯覚する「癒やされ」行為をおこなっている。

何故、我々が美形の男女を映像でみて、幸せに眠りについたり出来るかというと、同じような理由である。こういうことは、孟子はもはや道徳として王に頑張って説教していることだが、我々はもともと牛や馬と人間を交互に眺めわたしながら、牛にもやさしく人間にも釣られてやさしく、みたいな感性の流れを形成する生き物であり、そういう感性の環境のなかでしか生きられないのであろう。

いうまでもなく、動物抜きで、この孟子の理念を近代人間社会で実現しようとすると、「「である」ことと「する」こと」(丸山眞男)みたいな理念となる。平和も自由も、「である」ことではない、不断の努力によって「する」ものである、――こんな話だった。丸山に沿って言えば、最近は「である」と錯覚した自由人や平和人が、その内実をいつのまにか失った状態になっているということになるであろう。

しかし、このような見方はむしろ微温的だったはずだ。そんな「する」はせいぜい努力みたいな行為に留まり、「である」に安住していることと大差ないというのが、革命を唱える人たちの主張だった。上の孟子にしても、見かけによらず王のあたまがかなりおかしい場合には成り立たない。その時は、王を除くしかないことになるではないか、と言うわけだ。

たしか丸山は、経済活動に比べて政治的なものは「である」みたいな山がたくさんできるみたいな言い方をしていた。そういえば、『狂い咲く、フーコー』という本が安かったので買ったら、何頁あるか知らないがとにかくたぶん高いので鈍器みたいな『フーコー研究』についてのシンポジウムの記録だったので、――すみやかに鈍器が五百円ぐらいになるのを全力でわたくしは朝から祈祷したのであるが、フーコーのすごい研究書であることが、かならずも500円のコンビニ弁当の価値にならないこともありえないことではない。丸山もたしか、大学教授「である」こと(終身制)が、業績主義の氾濫の防波堤になっていると述べていた。本は安くなっても、人間を安くすることは許さないことが何らかの防波堤になることがある。

『君の膵臓を食べたい』の女主人公が何考えてるのかわからん問題、学生も感じてたらしく、「意味がわからないからミステリアス」と、たしか言うてた。若いことはすばらしいな、歳を取ると、ミステリアスは、大概ミステイクに思えてくるからして、とわたくしは思ったものだが、若者は、そんな風に作品の読解からも遁れて実際の人間に対する見方を変化させて言ってしまう。まだ何者でもないことが有利に働くこともある。中川翔子さんが結婚したらしいが、オタクの彼女は二次元に対して精神的結婚をし、三次元でも結婚できるということで、もしかしたら四次元でもいけるのではないかと思わせる。オタク「である」ことが、彼女の生成変化を可能にしたようにも思われる。ふつう、オタクであることは「である」に安住することのようにも思えるが、そうでもない増殖態として有利であることもあるのかもしれない。――と思ったら、丸山眞男がちゃんと、文化には「不断」の働き・変化より「価値の蓄積」がなにより大事なんだと書いていた。

見える牛と、見えない羊

2023-04-26 23:28:02 | 思想


無傷也、是乃仁術也、見牛未見羊也、君子之於禽獸也、見其生、不忍見其死、聞其聲、不忍食其肉、是以君子遠庖廚也

殺される牛がかわいそうなので、羊に換えなさいといった王である。孟子はそれでよいんです、王のされた行為こそ仁です、直接見ているものを憐れむのは当然で、それで厨房は遠くに建てるじゃないですか、と返した。

羊もかわいそうじゃないかと思うのは道理だが、――かんがえてみると、我々は、直接見たかわいそうな者は無視するくせに、遠くの羊を擁護することばかりしている。そのこと自体は「理念」としての弱者まで気を回そうとする点で正しいが、しかし、そればかりやっているとわれわれは欺瞞者になってゆく。まず目の前の人間が見えなくなってしまうのである。孟子は正しいね。。

この前の選挙で、ある知り合いが議員になっていたので、その人がどういう輩になっているか知らずに、まあガンバレと思ってしまったのは甚だ遺憾であって、しかも仕方がないとも言える。たいがい、与党になれる政党はそういうことを忘れていないのだ。われわれは、ジャンル自体にのめり込むことがあまりなく、作者とか俳優をおっかけるファン気質というかスートーカー気質であることを忘れてはいけない。民主主義だけでなく政治自体がジャンルである。当選者のバンザーイのまわりの人間(家族以外)がどういうひとか調べると、まあだいたい実際やれることというのは想像がつくのはそのせいである。政治ではなく、顔どうしのコミュニケーションを政治としてやる勇気がある人種が政治に乗り出すのである。

わたしは、ふつうに青春映画がだいすきだ。たいがい、お気に入りの女優さんがでているからだ。


でもそんなもんだろう。青春はジャンルで「羊」だが、女優や恋人は見える「牛」なのである。

しかし若い頃は羊にとりつかれることがある。なにしろ、20代の頃、「とっとこハム太郎」の映画で泣いたことがある私である。しかし、もはや人間の映画であればすべて泣けるというわけにはいかない。ああいう比喩だか実態なのか分からない動物の「萌え」は、牛への忌避と羊への愛着の間にある。その「間」はなんとなく引き延ばされた時間のようである。区切られていない、時間だから引き延ばされているのか?

大学時代のよいところは、その理念とも羊ともつかぬやりたいことのイメージがそのまま4年間の長さに入ったみたいなところで、大学院になると、イメージが消え五か年計画みたいないやなものになった。今の大学生が何が大変て、イメージを持つことが許されず、学校の授業の累積が4年間になっちゃって。授業そのものはわりとゆるいままで。

人口・孝悌・顔

2023-04-25 19:18:00 | 思想


梁惠王曰:「寡人之於國也、盡心焉耳矣。河內凶、則移其民於河東、移其粟於河內。河東凶亦然。察鄰國之政、無如寡人之用心者。鄰國之民不加少、寡人之民不加多、何也?」孟子對曰:「王好戰、請以戰喻。填然鼓之、兵刃既接、棄甲曳兵而走。或百步而後止、或五十步而後止。以五十步笑百步、則何如?」曰:「不可、直不百步耳、是亦走也。」曰:「王如知此、則無望民之多於鄰國也。不違農時、穀不可勝食也。數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也。斧斤以時入山林、材木不可勝用也。穀與魚鼈不可勝食、材木不可勝用、是使民養生喪死無憾也。養生喪死無憾、王道之始也。五畝之宅、樹之以桑、五十者可以衣帛矣。雞豚狗彘之畜、無失其時、七十者可以食肉矣。百畝之田、勿奪其時、數口之家可以無飢矣。謹庠序之教、申之以孝悌之義、頒白者不負戴於道路矣。七十者衣帛食肉、黎民不飢不寒、然而不王者、未之有也。 狗彘食人食而不知檢、塗有餓莩而不知發。人死、則曰:『非我也、歲也。』是何異於刺人而殺之、曰:『非我也、兵也。』王無罪歲、斯天下之民至焉。」

王様はいくさ馬鹿だった。で、隣の国と比べてなんで自分の国の人口が増えないんだろうと孟子に尋ねた。孟子は「あなたが戦好きだから戦に喩えますよ。五十歩退く兵隊が百歩退いた者を笑ったらどんなもんでしょう」と問う。王曰く、「そりゃ逃げたのは同じだろうが」。ここらまでは学校で習う。「目くそ鼻くそを笑う」と同じですよ、などと教師が言ったりする。それにしても、この孟子の「五十歩百歩」の箇所、ちゃんと話全体をおしえないと意味がない。五十歩逃げると百歩逃げるのはかわらない、みたいなところだけとると「逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ」みたいな結論だと思っちゃう。孟子は、君子がいくさ馬鹿だから分かりやすくいくさに喩えただけのことだ。

このあと、人口を増やすことを目的にせず、合理的に国を富ませ、老人を働かせるみたいな孝悌の義を失った状態を防ぐこと――王道政治をおこなっていれば、人は勝手に集まってきますよ、と言っている。どちらかというと、今風に言えば、移民による豊国政策の主張なのかもしれない。私は、孟子が、なかなかみんなが子を産まないのは、経済的不安定とともに孝悌の義の機能不全による、と言っていると記憶していたが、読みなおしたらそうでもなかった。ウメよフヤせよの人口増加ではなく、国に人が集まってくることによる人口増加の話であった。――しかしまあいずれにせよ、性善説の根拠とされる、富めば素直に人心が安定するみたいな主張があり、一方で、孝悌の義をくり返し教えろ、みたいなことを主張しているのが孟子であった。

なぜ、孝悌の義がきちんとあれば、――上のように、老人を敬うような風土があれば、人口が増えるといえるのか?

現在の少子化の原因の言うときに、子育てがすごく大変になっているみたいな漠然とした言い方がされるが、その大変さの心的内実が、孝悌の義の欠落にあるという見方は可能だと思う。つまり、子どもに敬われる可能性が低いんでほんと子どもを作っても甲斐がないという気分が広がっている事態がある気がする。そう思う大人たち自身がそうだったから、自分の子もそうなる気がするのである。現代では、子が親に依存し、ということは親を限界まで働かせるみたいなことが通常化しているかぎり、そんな風になりたくない大人はそんな依存モンスターをつくるのを躊躇するであろう。「頒白者不負戴於道路矣」と、白髪交じりの者が道路で荷を担ぐ、みたいな描写が印象的である。我が国でも、老人が肉体労働をそこかしこでおこなっている。そのくせ、いくさ馬鹿がリーダーになり、経済の不安定を、なにかグローバリズムの運命のようなもののせいにしている。言い方が難しいが、経済を安定させるための方策として、若い労働者が安定的に供給され合理的に動くということがあるとすると、親も子もお互いに理不尽な依存のされ方をする可能性があるような状態では、その状態をやめようとするであろう。つまり、今のように、親は子どもをなるべく産まない、子どもは親に頼ったりするくせに、自分が背負いそうな他人の親ははやく亡くならないかなと願ったりすることになる。

我々は自分の姿を何故こんなに見ないふりしてんのか、みたいな意見は昨今、さまざまな人々から出てくる。でも、日本の古典文学や漢文をよめば我々は近代化?してもほとんど何も変わってないことがわかろうというものだ。結局、古文漢文を忌避するのは、それらが時代遅れだからでなくて、自分の姿を見たくないからじゃねえかという気さえする。

しかし、確かに、上のような儒教的なものを再び国が主導して教育したとして、事態が好転するとは思えないことも確かである。我々は、ある集団によって主導され、倫理がなんとか教とかイズムみたいなものによってなされるようになると、組織も人間もリゴリスティックであるポイントを悉く間違えるようになる事態をなんとなく経験してきている。ほんとはそうならないためのイデオロギーのはずなのに。我々は社会に倫理をインストールすることに成功したことがない。やっぱり、この人口の多さでそんなことをおこなうのはちょっと無理なのではないか。

むかしはおおらかだったみたいなこと言う人いるけど、本当かどうかは分からない。真のおおらかさには神経質である必要があるが、それは屡々雑な人間でもそう見えるという現象を利用し、おおらかな社会的イメージを振りまきながら、その実、人に仕事を押しつけている人間が多くなったことに皆気付いている。だから、おおらかな態度には一様にリゴリティックであったほうがよけいな気を遣わずにすむと考えがちになる。結局、おおらかさにはある程度の常識の存在と、適度な気の遣いようと厳しさ――みたいなイメージが必要なのに、「やさしい人が好き」みたいな、「好きなタイプは何ですか」の答えの如きイメージが大手を振って歩いている。

朝日新聞に、新入社員へのアンケートで、理想の上司がオオタニさんとでました、とか書いてあった。それにしても、物理的に完全に上から目線されることをみんな気にしないんだな、と思うのは、わたくしの低身長複雑感情だとしても、面白い現象である。そもそも大谷の部下や仲間になるためには、極めて暴力的な競争を勝ち抜かなければならず、大谷のような厳格な自己コントロールを求められたら、普通の人は参ってしまう。「妙に真面目」みたいなせりふが皮肉として通用するような、根本的に不真面目な人間が多い我が国では大谷のような厳格な社交性の意味が分からなくなってしまう場合が多いのである。結局、大谷は顔も態度も「やさしそう」だからよいのであろうか。しかしたぶんそうでもない。

彼自身のようになるのは大変で、せいぜいみんな大谷の部下として、上司の活躍を褒め称えつつ、気分よくクラしたいのである。そういえば、石原さとみの顔になってみたいとか浜辺美波の顔になってみたいという女学生はいまでも多いが、たいがい「1日だけ」と付言する。人気者の大変さが分かっているのか、祭で鳥や獅子の顔になったりすることと同じなのか。。。よくわからないが、そういうところはまったくおおらかである。素顔が仮面と表裏一体であるところの文化のせいかもしれない。わたしは、マスクで我々の社交文化が大打撃を受けたことを愁うものであるが、案外、大丈夫だという気もする。コロナのせいでほんとの顔をしらない友と別れなければならなかったみたいな言説が、先月あったが、――まあそれでも、彼や彼女、わりと目のキレイな人だったねみたいな思い出が残っているひとは、結構いたんじゃないかとおもうのである。

庭を楽しむ条件について

2023-04-24 23:18:29 | 思想


孟子見梁惠王。王立於沼上,顧鴻雁麋鹿,曰:“賢者亦樂此乎?” 孟子對曰:「賢者而後樂此,不賢者雖有此,不樂也。詩云:『經始靈臺,經之營之,庶民攻之,不日成之。經始勿亟,庶民子來。王在靈囿,麀鹿攸伏,麀鹿濯濯,白鳥鶴鶴。王在靈沼,於牣魚躍。』文王以民力爲臺爲沼,而民歡樂之,謂其臺曰靈臺,謂其沼曰靈沼,樂其有麋鹿魚鱉。古之人與民偕樂,故能樂也。湯誓曰:『時日害喪,予及女皆亡。』民欲與之偕亡,雖有臺池鳥獸,豈能獨樂哉?」


孟子が王様に会ったら、王様は広い庭にいる雁や鹿たちを眺めて「賢者もこういうのを楽しむのか」と尋ねた。賢者だからこそ楽しむのです、こういうものは昔から民は喜んで王のために創るんです。反対に、「この太陽はいつなくなるんだ、一緒に死んでしまいたい」と思われたらおわりです。こんな状況になったらとても楽しんではいられないのです。

だから、動物たちがいる庭を造りゃいいというものではない。まともな政治をしていないとそれを民が一緒に楽しむことはありえない。賢者が庭を楽しむか、みたいな質問はあまりよくなくて、賢者はそれ自身で賢者ではなく、庭もそれ自体よい庭があるわけではなく、良いか悪いかは民との関係にあるにすぎないからである。しかしこれをきいて、庭に雁や鹿を放て、民よ創りなさい、と頑張ってしまう王がたくさんいるであろうことも確かで、ほんとは大概、こういう勘違いな人たちによって指示され、知者たちが庭を造ってきたのであろうと思う。そして、王の権威を殊更示さなければいけない事態になると、知者たちを穴に入れたり、書物を焼いたりするのであった。こんなことを、中国にかぎらず繰り返しているのが我々の世界である。

しかしまあ、政治権力が、庭園をつくって鹿を楽しむみたいなものの意味をわかっていない政治家も増えてしまったような気がする。唯一分かっていそうなのは、麻★太郎で、漫画が好きで「キャラクターって知ってる?」みたいなことを談話でだしてしまうような人である。これによって勇気づけられたサブカルの方々は案外多かったような気がする。例の桜の会だって、そういうものの延長線上にある。彼らは、だからだめなんだともいえるが、こういう素朴なことを忘れると、革命勢力が王であることはありえない。ソ連だって、崩壊の足音は芸術家弾圧にあったし、しかし同時にプロコフィエフやショスタコービチの保守化のおかげでソ連は国内で求心力を一部保ち得たこともたしかなのであろう。

儒教を勉強すると、それが君主をいさめるための目的を持っていたことで、独特な下から目線みたいなものを持続させていて、生命力をもつに至ったんじゃねえかという気がしてくる。それを上からの道徳にすると危険なのだ。それは上のような事情にもよる。結局、君主を諫めるレトリックは、解釈を必要とするので、それこそが苦手であろう君主には通じない。そういう連中が桜の会とかクールジャパンとか言うて、民が太陽と一緒に死にたいと思っていることを忘れる。で、一部の上からの権力は下からの権力で消去するしかないと思ってしまう、これまた解釈を間違える輩が出現するのであった。

必要条件を求めて

2023-04-23 23:52:01 | 文学


子曰、不知命、無以爲君子也。不知禮、無以立也。不知言、無以知人也。

昔、この箇所を読んだ時、君子(教養人)の備えなければならない条件――命・礼・言を指摘したものかと思っていた。しかし果たしてそうであろうか。これは条件かも知れないが、それで教養人が出来上がるとは限らない必要条件であって、さしあたり、人としてましになるのは、天命を知り、礼を学び、言葉を理解しようとすることによってだけだ、まああとはしらん。みたいな意味ではないかと思うのである。孔子は、学生を引き連れた先生である。先生は、完璧を目指さない。そこそこひどいことにならないように気をつけるべきことだけを言う。あとは学生の生き方次第である。

これがわからずに、与えられたものを絶対条件だと思ってしまう学生、あるいは、逆に必要条件だけにこだわってコスパをはかろうとする者、両方いるが、――いうまでもどちらも壮大に間違えている。自由な生き方を失った狂気がそこにはある。

同じ事だが、職場でも評価のやりかたが狂ってると、――というよりそもそも評価が「できる」みたいな狂気が存在していると、人は点数になるもの以外をさぼることによって評価を上げようとする。評価の狂気にあわせて自分を狂わせることが、生き残る自由を発揮しているように思い込む。当たり前であるが、狂ったやり方に沿っているのだからうまく行く。いま労働現場で起こっていることの一部はそういうことで、自ら労働を減らすことが処世術と化している場合があるのだ。

やったことがないからなんともいえないが、選挙も当選するための必要条件たる技術があると思うのである。その技術に沿って動員されている人間とか、投票する人間もやや技術的な行為に陥っているとはいえないであろうか。たぶん選挙スタッフになっていろいろ活動している方々は、ポリシーの他に勝ったときの「バンザーイ」がものすごく快感なのである。彼らがおこなっている行動は自分で快感を引き出す行為としての活動である側面を捨象出来ない。――当然いうまでもなく、当選が確実視される人間に従う場合でなければそうはならない。また、自分の投票した候補が当選して「正解っ」みたいな意識の人っていると思うのだ。投票による「答え」を出すみたいな感覚である。そういうのは偏差値エリートにも結構いるからね。。。

孔子、悲しみの実践

2023-04-22 23:48:05 | 思想


齊景公問政於孔子。孔子對曰、君君、臣臣、父父、子子。公曰、善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾得而食諸。

以前、オードリー・タンのインタビュー記事を見て「おれと同じ考えだ」と思った、と述べていた企業のおじさんの記事を読んだ。こういうのを馬鹿にしてはいけない。選挙になると、えっこんなのが公約かよ中学生でも思いつくぞこれあと思われる公約を目撃するが、「俺の考えと同じだ」ということが選挙公約に書いてあることが、結構重要だという事態を保守系の政治を目指す方々はわかっているのではなかろうか。

しかし、かかる現象がよくわからない知者たちは――なぜ自分と他人が区別できないだけでなく、なぜ自分の方が先にそう思っていたのかわからない、と思うであろう。もっとも、こういうのは他自の区別をつけないということと平等化みたいなものの差異は案外つきにくいことを示しているのである。そんな馬鹿はホットケという意見もわかるが、わたしが言っているのは単なる現実である。その知者たちの思う「他者と自分」の区別、個の確立、意見に対する相対化と尊重みたいなものは、抽象的で具体的な意味合いが分からないし、根拠もよく分からない――つまり、生活上の理屈からは遠いのであった。

かかる現実に於いては、案外、身の程を知れみたいな儒教道徳が役に立つ。道徳的に正しいと言うより、単に役に立つのである。上の孔子の言では、君主、臣下、父親、子どもはそれぞれ自分自身であれ、そうでなければ食べ物がたくさんあっても安心して食えないよ、という感じで、君主制家父長制の道徳にみえるが、実際は、吉本隆明ではないが「関係の絶対性」というものがあるのだ。その絶対性を頭で否認することなど簡単だが、現実に変更することはすごく大変だし、究極的には殺人的な何かを伴う。だから出来ることは、その関係性の中の立場で「しっかりする」ことだ、と孔子は言っているように見える。実際、いまの我々の世界がそうであるように、広く身分制みたいなものが存在する場合は、そこここで人間がサボタージュを起こし、狡賢く自らの地位を上昇させようと動くようになるが、まさにそのことによって身分制が強化されてゆくのである。だから、むしろ、その社会で自由を得るためには、上昇を目指すのではなく、立場に留まって道徳的にしっかり生きることが重要な気がするのである。

だから、教育者は、教育者はそれ自身でしっかりすることが必要で、まちがっても政治に教育的機能を担ってもらおうなどと考えてはならない。同時に、政治は身の程を知り教育に手を出してはならない。

孔子は表舞台に立ちたいして活躍もせずに放浪に下った。中年になるとすごく怒りっぽくなるとか、世の中に対する怒りではち切れそうになると若い頃聞いていた。しかし、実際は、なんだろ、悲しみみたいなものの方が大きい。孔子もたぶんそうで、論語はおもったよりも攻撃的にクリティカルではない。政治に対する教育者として、現実的なことを相手を怒らせないように、こうでもない、ああでもないそこがいいよ、みたいな言い方そのものが中庸的になるようになっていたにちがいない。そこにあるのは怒りではなく、悲しみではないだろうか。いまのポリコレ的批評は、いずれ現実に復讐されて悲しい結末を迎えそうだ。そうしたときにようやく孔子みたいなひとが現れるであろう。

仕事らしき日々

2023-04-21 23:48:05 | 大学


日々、仕事らしきことをやっている。

戦前の大投手、スタルヒンについて何も知らなかったが、ウィキペディアを一読してびっくりした。こんな紆余曲折、波瀾万丈の人自体が、いまだったら表舞台に現れることそのものがなくなっている。何もやらない代わりに、息を潜めて逃避している人生を送らされている若者達が能力が落ちまくるのは当然だ。いわゆる「平和ボケ」である。

デビュー当時から毀誉褒貶がはげしかった小説家がなにか失言したとかで炎上していた。しかしそもそも失言することがコアにあり、道化を自ら演じる小説家なのをしらないのか。「青二才」というのは、そういうことだ。――というか、この小説家のノリに乗じて、人を馬鹿にすることをおぼえ、自分はフィクションの才能がないもんだから、大学で反アカデミズムというか脱植民地主義的ななにかの論陣を張って調子に乗っていた数え切れないほどの連中は、いまのこのような事態をどう考えるのか。青二才のコピー青二才は、炎上小説家よりもはるかに劣っている。

何年かぶりにくずし字を集中して読んだが、自分が考えているよりは衰えていなかった。やはり二十歳ぐらいの練習は体がおぼえてる。――ということは、わたくしの実力は、いまや、大学一年生の前期ぐらいだ。読むはじから次を予想する能力というか偏見があがってるだけ、間違える可能性も高くなってるように思った。面白かったのは、くずし字読んでたら二十歳頃に弾いていた曲を思い出したことにすぎない。

のみならず――若い頃のちんたらした勉学のせいで、いまになって四書五経を読み散らかしている。いろいろと間に合わない。

おれも蝗食べてきたから仮面ライダーに変身出来るかと思っていたが、ただの原付乗りで、最近は健康のために歩いている。とりあえずちゃっとなんとかが生意気なことを言ったら、体育館の裏に呼び出して殴るのがいいと思うが、そんなことができるはずもなく。我々は打ち壊し運動が可能だった時代よりも遙かに、劣っている。いや「運動」不足なのである。

『賭ケグルイ』第一巻と清水高志氏の『空海論/仏教論』が一緒に届いてたので、あとで勉強しなければならない。『賭ケグルイ』もそうだが、学園の中で自治会みたいなのが圧政ゴッコ、革命ゴッコをするのが流行っているのであろうか?空海のように出奔する勇気のない奴だけが、こういうゴッコを昔からやってきていて、『サヨク』なんか左翼よりも、学園のなかの自意識であった。

プロレタリア文学弾圧後の文壇の話を授業でしてて、なるほどみたいな事柄がいくつか見出されたときに「なるほど」という声が聞こえたのだが私の声だった。学園のなかで、発見をしているのは、学生ではなく教員の方である。教員だけが、ゴッコをやっていないからである。しかし、大概は、ゴッコの代わりの遊戯なので、昨日は、近代の超克の亀井論文と横溝正史、koto氏のエモ本などの話をして、ほんととりとめのない感じの講義を一方的に展開した。わたくしも調子悪いときには、某小説家とおなじく、気分が「divertimento」なのであろう。中山義秀をあまり読んでなかったことだけが収穫であった。

小室直樹氏は、死ぬ間際に、宮台氏に「社会が悪くなると人が輝く」んだと言ったという。戦中から戦後の経験からもそう言えたんだろうが、確かに、戦中の文学や文化は独特な個的な輝きがあって、冬の時代なわりに豊かであり後の時代を用意している。しかし、実際、人・個の輝きというのは、あとからみて優れた人だけじゃなくて、いろんな人の暴走みたいなものがあったことと裏腹なんだと思う。非常に欲望の生々しい時代でそれは言論統制みたいなリンチが存在することと矛盾しない。

亀の甲羅干し

2023-04-20 23:49:23 | 文学


兎と亀と、どっちが早いかということは、長い間、動物仲間のうちで問題になっていました。
 あるものは、もちろん兎の方が早いさと言います。兎はあんなに長い耳を持っている。あの耳で風を切って走ったら、ずいぶん早く走れるに違いないと。
 しかしまた、あるものは言うのです。いいや、亀の方が早いさ。なぜって、亀の甲良はおそろしくしっかりしているじゃアないか。あの甲良のようにしっかりと、どこまでも走って行くことが出来るよと。
 そう言って、議論しているばかりで、この問題はいつまでたっても、けりがつきそうもありませんでした。
 そして、とうとう動物たちの間には、その議論から一戦争はじまりそうなさわぎになったので、いよいよふたりは決勝戦をすることになりました。


――ロオド・ダンセイニ「兎と亀」(菊池寛訳)


この話は最初から最後まで狂っているが、まさに我々の世界といへよう。

北辰の徳

2023-04-19 23:57:22 | 思想


子曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。

我々の社会の絆的な粘着性やずるがしこさを思うとき、孔子が何をイメージしたのかは重要である。北辰とともに周りの星が動くのは、徳の比喩ではあるが、気分としては、アニミスティックな感覚に近いと思われる。具体的に、徳とは北極星と他の星のことなのであり、花に群がる虫や動物のことではない。本当は人間のことでもなく、人間が徳を発揮するとき星なのであった。

今日は、雷が恐ろしかった。雷が落ちるというのは、比喩よりよほど恐ろしいものである。雷を落とされた側は、自意識を形成する暇はない。


鳥獸不可與同羣。吾非斯人之徒、與而誰與。

2023-04-18 23:47:03 | 思想


長沮桀溺耦而耕。孔子過之、使子路問津焉。長沮曰、夫執輿者爲誰。子路曰、爲孔丘。曰、是魯孔丘與。曰、是也。曰、是知津矣。問於桀溺。桀溺曰、子爲誰。曰、爲仲由。曰、是魯孔丘之徒與。對曰、然。曰、滔滔者天下皆是也。而誰以易之。且而與其從辟人之士也、豈若從辟世之士哉。耰而不輟。子路行以告。夫子憮然曰、鳥獸不可與同羣。吾非斯人之徒、與而誰與。天下有道、丘不與易也。


孔子も案の定、政治へのコミットメントが過ぎたのか、首になって放浪していた時期が長いようである。それでも、文三みたいに若くなかったし、弟子たちもたくさんいたからよかった。この場面でも子路の代わりに手綱を取って、子路に渡し場の位置をきかせにいかせている。ちゃんと自分で手綱を取るところがいい。孔子はすごく弟子との関係に気を遣っていたのだ。これが、畠を耕していた超然たる農民たちに馬鹿にされた理由の一つだったのかも知れない。孔子も最後に「鳥獣とともに生きるわけにはいかない。私が人間と生きないで誰が生きるというのだ。今は乱世だよ、だからこそ人と生きるのだ」と言っており、なかなか立派である。大概、世が混沌としてくると、人はガーデニングをしたり動物と戯れて隠居し始めるものだ。隠遁するのは儒者ではなくむしろ大衆なのである。その隠遁が地に留まることによる隠遁なので隠遁に見えないだけのことだ。いまだって、研究という隠遁というものもある。

かくして孔子の経験したことのほとんどは今も多く人が経験する事柄であるのだが、それがわからずに、昔なら「新型舟が出来たぞこれで戦争が変わるぞ曹操万歳」みたいな人たち、いまならちゃっとなんとかが出来たぞ政治に導入だ、といった人がいる。今日も、官庁がちゃっとなんとかをつかって見ることにしましたとわざわざ言ってた。ちゃっとなんとかが優秀かどうかより、行政とかがちゃっとなんとかをつかっていこうと宣言してしまうことのほうが、うちの鳩のうんこがわしの足に落下する必然性並みにやべえ出来事である。――御大師はその点わかっていて、死なないことによって、昔も今も変わらないことを人々に示しているのだ。

我々の生は因果の累積で構成されているのかもしれないが、そんなことを見えるようにするのは思考実験のレベルをでない。われわれの生きているのはイメージが何かを生み出すみたいな世界であり、イメージは言語の記述に還元出来ない。国語の授業を、言語能力の開発とか言っているうちはチャットなんとかで済むような言語活動しか出来ないわけである。確かに別に死にゃせん。しかし、たとえば、相手を論破するみたいなことはイメージとして爆裂弾をなげることとあまり変わらないことであるのがわからないほど、民主主義が言葉の上での真偽の戦いみたいになってしまっているのはいかがなものであろう。そんな事態は生きててあまり気持ちよいものではないし、手段の目的化、つまりテロ化が進むのである。テロは暴力だから一見表現にみえるが、本質的には言葉に即しすぎる暴力の発露なのであって、その歴史的意味はともかく、現実から遊離した証拠なのだ。

孔子はかくして、自分の姿を鳥類と遊ばない、人とともに生きるというイメージを提出することでなんとか示唆しようというのであろう。それは「長沮桀溺」――背の高いうるさい奴と小便くさいおやじ、みたいなイメージと鋭く対比的である。対比的すぎて、この農民が面白く思えてくるほどだ。

於我如浮雲

2023-04-17 23:15:26 | 思想


子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之。樂亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲。

明治時代の文三は、それほど食べ物に困っていたわけではなく、うまいこと馘首にならずにいても「不義」による「富」を得るわけでもなかった。そんなもの「浮雲」に過ぎず、と切って捨てるには、自分の方が浮雲のようになってしまったのである。自らを有利に疎外出来ない時代の始まりであった。断固決然、何かを決心しようとするのだが、彼の体はうまく動かない。徂徠が古文辞学で、哲学を文献学に解体したように、文人は乖離現象を生きなければならず、彼はなにか浮雲、いや幽霊みたいなものになってしまっている。――昨日、森和也氏の『神道・儒教・仏教』をよんでいてそう思った。

仏教と儒教を平行して読んで行くと、いまだこの二つの戦いが続いているようなきがしてくる。我々はまだ三教一致みたいなことを考えながら、自らの生を消費しているだけなのかも知れない。楕円の二つの焦点どころではなく、三点ぐらいの乖離現象を我々は生きているのかも知れないのだ。

林羅山以来の、儒教による仏教批判、仏教の出世間が五倫を乱すみたいな考えは、それが立身出世にかわっても変わらなかった面がある。出世間(出家)は家を崩壊させる、立身出世も結局はそうなのであり、政府が人を集めようとして、あるいは「故郷」みたいな唱歌で合理化しようとしても、五倫を乱すそれは先在的な脅威として燻り続けていた。そして、実質的な家がなくなっても、それは脅威として残っている。「浮雲」の浮遊感はそれをもう予言している。

仁義忠孝を生きる力とかコミュニケーション能力とか言い換えれば、教学聖旨とほとんどかわらないこと言っている人だって多い。

一 仁義忠孝ノ心ハ人皆之有り然トモ其幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメテ培養スルニ非レハ他ノ物事已ニ耳ニ入り先入主トナル時ハ後奈何トモ爲ス可カラス故ニ當世小学校ニ給圖ノ設ケアルニ準シ古今ノ忠臣義士孝子節婦ノ畫像・寫眞ヲ掲ケ幼年生人校ノ始ニ先ツ此畫像ヲ示シ其行事ノ概略ヲ説諭シ忠孝ノ大義ヲ第一ニ脳髄ニ感覚セシメンコトヲ要ス然ル後ニ諸物ノ名状ヲ知ラシムレハ後來思孝ノ性ニ養成シ博物ノ挙ニ於テ本末ヲ誤ルコト無カルヘシ
一 去秋各縣ノ季校ヲ巡覧シ親シク生徒ノ藝業ヲ験スルニ或ハ農商ノ子弟ニシテ其説ク所多クハ高尚ノ空論ノミ甚キニ至テハ善ク洋語ヲ言フト雖トモ之ヲ邦語ニ譯スルコト能ハス此輩他日業卒り家ニ帰ルトモ再タヒ本業ニ就キ難ク又高尚ノ空論ニテハ官ト爲ルモ無用ナル可シ加之其博聞ニ誇り長上ヲ侮リ縣官ノ妨害トナルモノ少ナカラサルヘシ是皆教学ノ其道ヲ得サルノ弊害ナリ故ニ農商ニハ農商ノ学科ヲ設ケ高尚ニ馳セス實地ニ基ツキ他日学成ル時ハ其本業ニ帰リテ益々其業ヲ盛大ニスルノ教則アランコトヲ欲ス


思想にも学業にも家業にも疎外され、家からも疎外された場合、――我々にはいくところがあるのか。無差別殺人やテロなどに対する想像は文学作品に案外依拠することも多いが、ドスト氏はもちろん大江氏はちょっと昔だし、中上の一九歳も泣き虫でしかもちょっと昔になりかけである。というのは、彼らはまだ拠って立つ怒りと悲しみから「反社会」みたいなモチベーションが感じられるのである。もう村田沙耶香や宇佐見りんの描く人間の線でイメージする方がよいかもしれない。モチベーションなき行為がまずは拠って立つ前提を作りかける。

受け売りとウンコ鳩

2023-04-16 23:16:56 | 思想


子曰、道聽而塗說、德之棄也。

先生は言った、受け売りは徳を捨てることである、と。そりゃま、そういう場合もあるかも知れないが、この程度の批判でたじろぐ輩はそもそも大したやつではなさそうだ。徳もそもそも捨てる前に持ってなさそうである。こういうなにか、孔子の、彼の言をきいた人間の虚栄心を擽り脅しつけるところが実に『実践的倫理』である。

孔子がどのような人物だったのかはしらないが、たぶんテキストに飽き、やや喋るのにも飽きたあとに、意味ありげな逆説で、弟子たちや君子たちが自ら考え、口まねをして人々に説いて廻るのを促すという、ベテラン教師ならではのやりかたを高度に開発した人に違いない。確かに、テキストに飽きて日常生活の精密さに惹かれる人はつねにいる。出来の悪いテキストより現実の方が、より原因は見えやすいし時間の続く限り長大な問題が次々にあらわれて面白くてたまらない。

孔子はすごく長生きをしたらしい。だからその次々にやってくる問題を解き続けた点、それはそれで凄いことであった。たいがい、何のために生きてるのかはっきりしすぎている人は歳とって沸き上がる何かがなくなってくると混乱してくる。目的自体が沸き上がる何かに依存していた事態をみとめたくないからであろうか。特に、研究者なんかは他人との差異が目的化してその競争やってるところがあるからきつい。のみならず、無為の大衆を、何の目的もない奴らとバカにしている傾向もないではない。自分がそうなったときのことをあんまり考えない無能さが、逆に研究みたいな作業をドライブさせる。――こういう生き方は、未来ではなく、見かけ以上に現実(研究の現在)に縛り付けられている。かくして、多くの人が、未来や過去に遊びながら欲望を発散させているのを忘れてしまうのである。人間、健康でただ生きてりゃいいみたいな状態に耐えられるわけない。研究者と同じく、そこまで強くないのである。

戦後のSFは、そういう大衆の欲望にフィットしていた。そこに気付いていたのは、安部公房もそうだが、三島由紀夫であって、――石ノ森章太郎の『タイムハンター』でそれを指摘されている。三島の死に対して、漫画の人物が現在から逃げる奴は死ぬしかないんだ、みたいなことを吐いている。しかも、日本人がその死を死ではないかたちで保存しながら死者と共存していることを描きながら。

昨日は夜更かししてしまったため、「何でも鑑定団」の時間に起きた晴れてた。

ところで、一昨日、私の足に春の落下うんこを命中させたうんこ鳩に告ぐ。いまからでも遅くはない、クリーニング代を速やかによこせ。