9月18日のレポートを「有志の会」のHPに書きました。(以下転載します)
https://sites.google.com/site/asrbkagawa/9yue18ri-guo-hui-qianrepoto
9月18日、国会前デモ印象記
日本近代文学館で敗戦直後の雑誌の調査などを終え、宿に帰ってごろごろしてから夜八時頃国会に向かう。私自身は湾岸戦争のころ大学に入った世代だが、学部時代に政治的な運動で多少痛い目に遭っている。以降、マルクス主義運動に関わる文学を批判的に研究してきたという事情もあり、文学運動体やサンジカに関してアンヴィヴァレンツな感情を持ってきた。闘争は明らかに逃避の一手段として使用されることがあるだけでなく、闘争が挫折した場合の転向の様態たるや、戦時中の文学者や最近の改革オタクにいたるまで、悲惨である。知性の反乱どころではなく、祭と社交に脱線する傾向も解せなかった。
さて、国会議事堂前駅から国会前に向かうことに関してはやや不安もあったが、考えるのも面倒だったのでそのまま降り立つ。案の定、何人動員されているのか見当もつかない多くの警察官と機動隊車両によって国会前へ向かう経路は意地悪く限られており、デモの中心部に到達するのにかなり時間がかかった。近づくにつれてある作家の演説が聞こえてきた。「採決後の地道な民主主義のやりかた」について説いているようだ。学部生の時、「優しいサヨクのための嬉遊曲」を読んでまったくアイロニーを感じない程度には大人ぶっていた私であったが、ついに作家が左翼に自然生長したのを目撃したようで愉快であった。続くSEALDsのスピーチを聞いてみると、彼らは小児病的な闘士ではないようだった。一見、素朴なヒューマニズムやパシフィズムに立脚しているようにもみえるが、それは却って安全保障問題の困難を自覚するが故である、という印象も受ける。彼らのデモは、それが現実を知らぬ理想主義にもとづくという誤解にさらされている。しかし、彼らは我々の世代より格差やグローバル化にさらされ安全保障問題の難しさを感覚的によく理解しているのではないか。すなわち、グローバルとか言ってみても日本は現実問題いまだアメリカの属国であり、安全保障上の問題もきれい事ではすまない。一気に解決もしない。だから本当に危機があり考えなければならないことがあるなら極力正確に議論しておくべきではないか。しかし、最近の政府のやり方は、嘘といじめ――言論統制と「抑圧の移譲」(丸山眞男)で権力や官僚制の未熟さを隠蔽しながら、殊更戦争を一生懸命やっているふりをしているうちに、引っ込みがつかずに大量の死者をだした、あの歴史を反復するかに見える。その、事態をごまかそうとする人間性が法治国家の権力者としてあまりに幼稚であるに過ぎない。このことを若者たちはたぶん理解していると思う。軍国主義の亡霊などというたいそうな者を相手にするのではないから、彼らは必要以上にヒステリックになる必要もないわけだ。二〇年前の自分のことを思い出し、若者がこんな事態に際会してよく暴力的な衝動を我慢していると感心していたが、私は自らを恥じた。
野党政治家がでてきて抵抗宣言などを行って、それが終わると、長時間のシュプレヒコールにうつった。恐ろしく残念なことに高松の花火大会のときと同じく、背の高いカップルに私の視界は遮られていたし、様々な旗が林立しているのでよくわからなかったが、「学者の会」の人もあちこちにいたようである。知り合いの私大教員もいた。牛丼を食ってから来たらしい。楽隊のリズムに合わせて「奴らを通すな」「戦争法案絶対反対」「安倍はやめろ」「廃案!廃案!」などと、多くの人間がかなりヒートアップしている。しかし、時々、二拍三連などが入り込むのでつい私は踊りたくなってしまう。マラカスでも持って来りゃよかった。雨も降り出して疲れてきたのか、「安倍晋三絶対廃案」とか「あべはひゃめれ」とか「ひゃつらをとすにゃ」といったコールも聞こえてくる。が、もっと暴力的で危険な単語が飛び交っていると思っていたのでなんだか上品な気分にもなってくる。気勢を上げる学生以外の静かな若者たちもいて、案外、授業中にみられる如き孤独な表情をしており、――いや、これは真剣な表情とみるべきで、印象的だった。彼らをみて、なんだか私は「善に従うときにこそ自由である」という感覚をようやく思い出したような気がした。私も彼らも、職場や学校に帰ったときにその感覚があるかないかが、デモの成否より重要である。無法状態はもはや我々の日常にこそあるからだ。
一息ついて、隣にいた七〇代のお爺さんが私に言った、戦争をやることもそうだが、戦争をやる社会の状態がいやだ、安倍政権、今回ばかりは虎の尾を踏んだ、と。私の専門は日本近代文学である。その文学の輝かしい陰鬱さが、日清戦争から第二次世界大戦終結までの、五〇年にわたる大陸(中国)での戦争状態と関係があることは明らかだ。しかし、戦争は太平洋から来たアメリカに滅ぼされかけて突然終わり、その衝撃で中国のことを半ば閑却したまま一種の一億総戦争神経症に陥った我々である。それで、中国にもアメリカにもどう接したらいいのか本当はよく分からなくなってしまったのだ。それが今日の体たらくを生み出していることは確かだろうから、安倍が辞めてもその問題自体は残る。ただ、それ以前に、そのアメリカの犬が法治国家も教育も文化も日本語もなにもかも破壊しようとしているのは最悪だ。そこまでいきなり堕落する必要はない。というわけで、まずは「安倍は辞めろ」でいいかと思う、「お願いです安倍は辞めていいぞ~」と私もお爺さんと一緒に声を張る。
――虚脱状態のなか、終電に乗って宿に帰る。
――とっくに我慢の限界は超えているとはいえ、宿のテレビで、採決前のへらへらした議員たちの顔を見ると、さすがに背筋が震えたのは確かである。我々がどんな社会に住んでいるのか、その実態の一部を改めて目の当たりにしたことが重要だ。我々は様々なことをやりなおす必要がある。私はなにより、日本語のまともな批判的実践が無効化されつつあるのに恐怖を覚える。立憲主義云々以前に、言語活動の誠実さを失ったら法治自体が即死してしまうのは当たり前ではないのか。
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以上の文章は、19日の夜に大阪のホテルで書いた。「ハイデガーフォーラム」に参加(というより聴講)するために大阪に移動していたためである。
24日の朝日新聞に高橋源一郎が書いていた、今回の若者たちの運動は政治運動というより文化運動――内面を変える運動であった、と。私は、そこまで楽観的にはなれないが、その気分は理解できる気がする。上の私の文章もそんな気分で書かれているように思う。多くの人が、今回のことを世代論や様々な過去の運動と比較して見たくなってしまうのも、みんな内面的になっている証拠である。喧騒ではなく内面に静かに沈潜するものこそが直接行動の効果である。私は、数年前、東京のある場所で、かなりヘイトスピーチに近いデモ隊?に遭遇し、後ろの方から見物したことがあるが、そのときもやや似たような心に沈潜しゆくものを感じたことがある。運動の実体は、きわめて地味な動きであり、保守的なものと見えるもののなかで静かに進行してゆくものである。三島由紀夫も何処かで言っていた様な気がするが、自分の運動は絶対に「政治」ではない、と。議会がファシズムの温床にもなる危険性があるなかで、民主主義に絶対必要であるところの直接行動であるが、それが「政治」と化してしまう時に堕落が始まる。あくまで直接行動は、いわば文学、いや《表現》である必要があると思うのである。高橋源一郎が、「わたし」を主語にした運動に希望を見るのも、そのためであろう。私は「われわれ」が主語であってもそれは可能だと考えるが、確かにそれはハードルが高い。かつて左翼運動がそれを目指して挫折したことがある。あとは、暴力か非暴力の問題があるが、それは歴史的にいろいろあったので、今回の「非暴力性」を取り立てて評価することはできない気もする。言語と暴力はもともと対立するものではないからだ。しかし、見かけより今回の若者たちはよくよく考えている印象を持った。まあ、相手があまりに比喩的にあからさまに暴力的なので、同じ土俵に乗らないことは意識されていたのであろう。
ともあれ……、誰しもかんじるように、今回の安保法制に関する運動は、結果的に、盛大なガス抜きとして機能してしまった可能性がある。政治的には、安倍政権の完全勝利と言わなくてはならない。あと、安保法制に賛成する側にも反対する側にも、議論の豊かさがかなり欠けている印象がある。これの方が政治の堕落より深刻である。確かに、レベルが低い現実が展開されているから、つい「馬鹿」「アホ」と言いたくなる気持ちは分かるし、実際、トンでもなくレベルの低い人間が祭り上げられ、孤立し、思考停止し、命令し、――命令された方はいらいらしているうちに心の平衡を失ってゆく。しかし、人間がだめになったからといって、世界は複雑で醜悪なくらい豊かであって、学び続けなければその姿は見えてこないのは自明である。私は、同調圧力を強いているだけの(
なんと反論しちゃダメだというルールが堂々と教育現場で教え込まれている現実すらあるのだ)糞ディスカッションは大嫌いだが、母語による自由で豊かな議論がなければ民主主義もなにもあったもんじゃないし、法治もすぐさま崩壊してしまうと思う。私が危惧しているのは、外国との平板な社交に喜びを感じるレベルで、グローバルな連帯や法治を語る傾向である。我々はまだややナショナルな文化的蓄積に頼らなければ高度な思索を展開できない段階だと思う。法治は非常に高度な思索によってしか支えられないのだ。しかるに、今回の運動が、大学のなんちゃってグローバリズムと人文知の軽視とやや関係があろうことは、なんとなく考えられることではあるのだ。すなわち、明治以来の文学者や学者によって恐ろしい努力で蓄積されてきた、造語と「横文字」を含む日本語の世界――教養と文化に縛られないために、一種の空白としての「わたし」が出てきたのである。しかし、ここからが問題だ。高度な議論には「ある種の」ナショナリズムが不可避だという側面からあまり目を背けてはならないと私は思う。暴力が自らに対する不信と相対主義から生じるのは、当然である。自分と同じように他人を簡単に切って捨てているからだ。いわゆる「ネトウヨ」のなかにさえ、以上のような面倒なしかも本質的な問題に躓いて、却って融通無碍なインターナショナルな左翼的運動に暴力を感じ嫌悪を抱いている人間がいる、と私は推測する。本質的なところから遠ざかっている人間など誰もいないと考えるべきだ。まあ、私も、本当は、和泉式部日記と新古今集と樋口一葉と大江健三郎を読んでいない人間とは共闘したくないね……。諦めてるけど……。
ただ、そのような一回転したようなナショナルなものの評価が、ほんとびっくりするほどの外国人差別と結びつくことがあり……、というか現実に結びついたりしている。あーあーもう嫌になっちゃう……。もう外国人にいっぱい労働まかせてんじゃん……。あ、それが原因か。
たぶん、携帯やネットで「わたし」が輪郭を作りやすく、行動へのネットワークもつくりやすいということもあるであろう。かつては、デモ一つやるのでも膨大なコミュニケーションと議論が必要だったはずであり、それ故、党派性が問題になったわけであるが、今度は、党派的になりにくいかわりに、思想が感想文的な「わたし」から離れないということもあるであろう。まあビジネスマンはチャンスだよね、世界中から仲間集めて「わたし」の好きなことやれるんだからさ……もう、日本で鈍い人たちとぐだぐだ会議やってる必要ないでしょ、実際。(以上、象牙の塔からの妄想でした)
……それにしても、軍事可能研究に応募してたうちの大学は……どこに行こうとしているのであろう……地域に根ざしたなんとかじゃないのであろうか……ちょっと誰かそのプランをちゃんと聞かせてくれ