★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

AはBというわけではないがB

2015-09-30 03:00:20 | ニュース
(=^x^=)菅官房長官「子ども産んで貢献を」 福山さんの結婚うけ
http://www.asahi.com/articles/ASH9Y621MH9YUTFK00R.html?iref=comtop_list_pol_n02
菅義偉官房長官は29日、フジテレビの情報番組で、歌手で俳優の福山雅治さんと俳優の吹石一恵さんの結婚について「この結婚を機に、ママさんたちが一緒に子供を産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれたらいいなと思っています。たくさん産んで下さい」と発言した。[…]「『産めよ増やせよ』との政策を連想する人もいる」との質問には、「全く当たらない」と反論。

……やっぱりこいつはあかん……××

(=^x^=)経団連会長、武器輸出「安保強化に資する」 必要性訴え
http://www.asahi.com/articles/ASH9X5T82H9XUTFK00P.html
経団連の榊原定征会長は28日の記者会見で、武器を含む防衛装備品の輸出や他国との共同開発について、「国家間の安全保障関係の強化に資する」と述べ、国家戦略として推進していくことの必要性を訴えた。[…]「安保法制でビジネスチャンスが増えるとか減るというのを意識しているわけではない」と理解を求めた。

……うわっ……×××

(=^x^=)SEALDsの奥田さんに殺害予告届く 大学に書面http://www.asahi.com/articles/ASH9X67FVH9XUTIL06P.html?iref=com_rnavi_srank


……(予告は殺害ではない)××××

(=^x^=)ポスターの首相にヒゲ落書き 71歳に器物損壊容疑http://www.asahi.com/articles/ASH9T42GBH9TUTIL00Y.html

……(本人に髯をかいたわけじゃない)×××××

(=^x^=)山本太郎氏 小沢代表からも怒られた 焼香パフォーマンスhttp://www.sankei.com/politics/news/150926/plt1509260011-n1.html

……(牛じゃないし自民党は死んでないし)あの深夜番組、今回の「一人牛歩お焼香」がなけりゃ番組として糞過ぎたことは確かである。


論文のネタになる体たらく……

2015-09-29 18:46:35 | 大学
Japanese University Humanities and Social Sciences Programs Under Attack
http://japanfocus.org/-Jeff-Kingston/4381/article.html


なかには幼少期より文化的な人間関係に恵まれて、日本国内は敵だらけということに今更びっくりしている人もいるようなのであるが、片田舎に育ったわたくしなど、人文系に対する潜在的な――いや、あからさまな――敵意がこの社会に充満していることを子ども時代から意識しているので別に……。文★科(=^ェ^=)省が、文系廃止は通知ミスでした、と言っているらしいが、文(=^ェ^=)科★省の通知はいままでも全て根本的にミスなので別に……。我々のような人種は、普段あまりにひどいレポートは相手にしない癖がある。自分の書き上げた論文と同様、頭が腐りそうでもう見たくないからである。それがいけないのだ。

腐っていたら、アメリカから以下のものが届いた。大学一年生の教科書との噂を聞いたので買ってみたのである。宛名が watarihen になってたが……。こういう教科書をつくるのも私の夢の一つかなあ……。このぐらいの分量は、一年間の授業のレジメで作っている様な気がしないでもないが……



時々、映画「大いなる幻影」(1937)のことを考える。敵同士でも尊敬し合う貴族たちの時代は終わり、人民が民族や国境で争う時代になったことをおずおずと描いたこの映画は、代数方程式みたいなものだ。貴族や人民の代わりにいろいろなものを入れられる。――にもかかわらず、驚くべきことに、文学や哲学や社会が生き延びてきたことは何を意味するのであろうか。たぶんヨーロッパの政治が、相当ルネッサンスの意味を意識しているからではなかろうか。この映画で、書物が燃やされる場面は印象的であるが…。

でんしんばしらのぐんたいの  その名せかいにとどろけり

2015-09-28 23:15:35 | 文学


「ドッテテドッテテ、ドッテテド
 でんしんばしらのぐんたいの
 その名せかいにとどろけり。」
と叫びました。
 そのとき、線路の遠くに、小さな赤い二つの火が見えました。するとじいさんはまるであわててしまいました。
「あ、いかん、汽車がきた。誰かに見附かったら大へんだ。もう進軍をやめなくちゃいかん。」
 じいさんは片手を高くあげて、でんしんばしらの列の方を向いて叫びました。
「全軍、かたまれい、おいっ。」
 でんしんばしらはみんな、ぴったりとまって、すっかりふだんのとおりになりました。軍歌はただのぐゎあんぐゎあんといううなりに変ってしまいました。
 汽車がごうとやってきました。汽缶車の石炭はまっ赤に燃えて、そのまえで火夫は足をふんばって、まっ黒に立っていました。
 ところが客車の窓がみんなまっくらでした。するとじいさんがいきなり、
「おや、電燈が消えてるな。こいつはしまった。けしからん。」と云いながらまるで兎のようにせ中をまんまるにして走っている列車の下へもぐり込みました。
「あぶない。」と恭一がとめようとしたとき、客車の窓がぱっと明るくなって、一人の小さな子が手をあげて
「あかるくなった、わあい。」と叫んで行きました。
 でんしんばしらはしずかにうなり、シグナルはがたりとあがって、月はまたうろこ雲のなかにはいりました。
 そして汽車は、もう停車場へ着いたようでした。

――宮澤賢治「月夜のでんしんばしら」


It's a Wonderful Life

2015-09-27 23:05:06 | 映画


1946年の映画。天使は、もともとがんばってる人じゃなくてもっと救わなきゃいけない人のところに現れなよ……あと、弟が戦地で死んだ場合はどうなるのだ?とか、いろいろと本質的な批判が必要な映画であるが、不幸がそのまま幸福に反転するクライマックスの盛り上げ方は交響曲のフィナーレのようである。

がんばって他人のために生きていれば、少しは世の中が違っている、客観的にどれだけ違っているかはわからないが、その人にとって全然違う輝きを持つのだという――自分か他人か、利己的か滅私奉公かみたいなところで右往左往している我が国とは、雲泥の差であり、ああやっぱり我々は大衆娯楽の哲学でも負けていたのだと思わせる映画である。

何が一億総活躍社会だよ、小学生のクラス目標かっ。うまくいかなかったらまた俺たちに懺悔させるつもりなんだろうな。ひどい。

映画「バベル」を思い出したが……、もうわれわれは、みんなつながっているから言葉が通じないのか、言葉が通じないにも関わらずつながりがあるのか、よくわからなくなっている訳であって、「一億総なんとか」、とかセンスがおかしいだけでなく、現実認識としてもレベルが低すぎるのである。

【虚実の】山本昌投手引退のお知らせ【皮膜】

2015-09-26 23:02:26 | ニュース


確か『野球狂の詩』の「なんとか18番」というエピソードで、岩田鉄五郎が五十三歳ぐらいで「今日が最後の試合や」「今シーズンは」というオチをかましており、試しにウィキペディアをみてみたら、現在九十二歳らしい。ここまでくると果たして引退しているか怪しい。というかどうでもいい。

水島新司のマンガは、リアルな野球漫画という路線(今から考えてみると、「アストロ球団」とか「巨人の星」とかとの相対的な問題であった)だったくせに、作品が長引くにつれて、ほとんどの設定が絵空事になっていく――選手の能力のインフレである――と思いきや、そうでもないのである。主人公たちの体は、普通のサイズになってゆくし、音速を超えてそうな速球が、案外135キロぐらい。ドカベン山田太郎なんて、最近は案外普通の成績だ。彼の高校時代の調子で行けば、ホームラン1000本、三冠王五回、彼のいるチームは、毎年139勝1敗。ぐらいのはずだ。中西球道は高校時代160キロを超えていたから、いまはだいたい200キロぐらいを投げているはずである。

で、中日の山本昌投手が五十歳で引退するそうなのである。若い頃からほとんど球速が変わらなかったらしい。

現実的には、こちらの方がよほど夢のような話である。フィクションが夢を与えるとは限らないということがよくわかる。

山本投手は、ラジコンでも日本有数の人らしいのであるが、投球フォームとほとんど変わらない構えでレジコンをやっていることでも伝説であった。

今年は、小笠原、和田、谷繁という伝説の人物たちも引退するそうだ。川上投手も引退かとか噂されている。今年は中日ドラゴンズは久しぶりに最下位っぽいのであるが、たぶん夢だろう。







今中投手の復帰はまだであろうか?

カシスオレンジとわたくし

2015-09-26 03:15:19 | 食べ物


わたくしがこの10年で学生に教わったこと――カシスオレンジがうまい。もはや日本酒は飲めん。

あと関係ないけど、「地方創成」って絶対無理だよね。うまくいった国なんてあるのか?日本だって、大日本帝国の時に中央集権のためにやったことあるけど、またやってんのかという……

9・18とそれ以降のわたくし

2015-09-25 23:17:48 | 思想
9月18日のレポートを「有志の会」のHPに書きました。(以下転載します)

https://sites.google.com/site/asrbkagawa/9yue18ri-guo-hui-qianrepoto


9月18日、国会前デモ印象記

日本近代文学館で敗戦直後の雑誌の調査などを終え、宿に帰ってごろごろしてから夜八時頃国会に向かう。私自身は湾岸戦争のころ大学に入った世代だが、学部時代に政治的な運動で多少痛い目に遭っている。以降、マルクス主義運動に関わる文学を批判的に研究してきたという事情もあり、文学運動体やサンジカに関してアンヴィヴァレンツな感情を持ってきた。闘争は明らかに逃避の一手段として使用されることがあるだけでなく、闘争が挫折した場合の転向の様態たるや、戦時中の文学者や最近の改革オタクにいたるまで、悲惨である。知性の反乱どころではなく、祭と社交に脱線する傾向も解せなかった。

さて、国会議事堂前駅から国会前に向かうことに関してはやや不安もあったが、考えるのも面倒だったのでそのまま降り立つ。案の定、何人動員されているのか見当もつかない多くの警察官と機動隊車両によって国会前へ向かう経路は意地悪く限られており、デモの中心部に到達するのにかなり時間がかかった。近づくにつれてある作家の演説が聞こえてきた。「採決後の地道な民主主義のやりかた」について説いているようだ。学部生の時、「優しいサヨクのための嬉遊曲」を読んでまったくアイロニーを感じない程度には大人ぶっていた私であったが、ついに作家が左翼に自然生長したのを目撃したようで愉快であった。続くSEALDsのスピーチを聞いてみると、彼らは小児病的な闘士ではないようだった。一見、素朴なヒューマニズムやパシフィズムに立脚しているようにもみえるが、それは却って安全保障問題の困難を自覚するが故である、という印象も受ける。彼らのデモは、それが現実を知らぬ理想主義にもとづくという誤解にさらされている。しかし、彼らは我々の世代より格差やグローバル化にさらされ安全保障問題の難しさを感覚的によく理解しているのではないか。すなわち、グローバルとか言ってみても日本は現実問題いまだアメリカの属国であり、安全保障上の問題もきれい事ではすまない。一気に解決もしない。だから本当に危機があり考えなければならないことがあるなら極力正確に議論しておくべきではないか。しかし、最近の政府のやり方は、嘘といじめ――言論統制と「抑圧の移譲」(丸山眞男)で権力や官僚制の未熟さを隠蔽しながら、殊更戦争を一生懸命やっているふりをしているうちに、引っ込みがつかずに大量の死者をだした、あの歴史を反復するかに見える。その、事態をごまかそうとする人間性が法治国家の権力者としてあまりに幼稚であるに過ぎない。このことを若者たちはたぶん理解していると思う。軍国主義の亡霊などというたいそうな者を相手にするのではないから、彼らは必要以上にヒステリックになる必要もないわけだ。二〇年前の自分のことを思い出し、若者がこんな事態に際会してよく暴力的な衝動を我慢していると感心していたが、私は自らを恥じた。

野党政治家がでてきて抵抗宣言などを行って、それが終わると、長時間のシュプレヒコールにうつった。恐ろしく残念なことに高松の花火大会のときと同じく、背の高いカップルに私の視界は遮られていたし、様々な旗が林立しているのでよくわからなかったが、「学者の会」の人もあちこちにいたようである。知り合いの私大教員もいた。牛丼を食ってから来たらしい。楽隊のリズムに合わせて「奴らを通すな」「戦争法案絶対反対」「安倍はやめろ」「廃案!廃案!」などと、多くの人間がかなりヒートアップしている。しかし、時々、二拍三連などが入り込むのでつい私は踊りたくなってしまう。マラカスでも持って来りゃよかった。雨も降り出して疲れてきたのか、「安倍晋三絶対廃案」とか「あべはひゃめれ」とか「ひゃつらをとすにゃ」といったコールも聞こえてくる。が、もっと暴力的で危険な単語が飛び交っていると思っていたのでなんだか上品な気分にもなってくる。気勢を上げる学生以外の静かな若者たちもいて、案外、授業中にみられる如き孤独な表情をしており、――いや、これは真剣な表情とみるべきで、印象的だった。彼らをみて、なんだか私は「善に従うときにこそ自由である」という感覚をようやく思い出したような気がした。私も彼らも、職場や学校に帰ったときにその感覚があるかないかが、デモの成否より重要である。無法状態はもはや我々の日常にこそあるからだ。

一息ついて、隣にいた七〇代のお爺さんが私に言った、戦争をやることもそうだが、戦争をやる社会の状態がいやだ、安倍政権、今回ばかりは虎の尾を踏んだ、と。私の専門は日本近代文学である。その文学の輝かしい陰鬱さが、日清戦争から第二次世界大戦終結までの、五〇年にわたる大陸(中国)での戦争状態と関係があることは明らかだ。しかし、戦争は太平洋から来たアメリカに滅ぼされかけて突然終わり、その衝撃で中国のことを半ば閑却したまま一種の一億総戦争神経症に陥った我々である。それで、中国にもアメリカにもどう接したらいいのか本当はよく分からなくなってしまったのだ。それが今日の体たらくを生み出していることは確かだろうから、安倍が辞めてもその問題自体は残る。ただ、それ以前に、そのアメリカの犬が法治国家も教育も文化も日本語もなにもかも破壊しようとしているのは最悪だ。そこまでいきなり堕落する必要はない。というわけで、まずは「安倍は辞めろ」でいいかと思う、「お願いです安倍は辞めていいぞ~」と私もお爺さんと一緒に声を張る。

――虚脱状態のなか、終電に乗って宿に帰る。

――とっくに我慢の限界は超えているとはいえ、宿のテレビで、採決前のへらへらした議員たちの顔を見ると、さすがに背筋が震えたのは確かである。我々がどんな社会に住んでいるのか、その実態の一部を改めて目の当たりにしたことが重要だ。我々は様々なことをやりなおす必要がある。私はなにより、日本語のまともな批判的実践が無効化されつつあるのに恐怖を覚える。立憲主義云々以前に、言語活動の誠実さを失ったら法治自体が即死してしまうのは当たり前ではないのか。

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以上の文章は、19日の夜に大阪のホテルで書いた。「ハイデガーフォーラム」に参加(というより聴講)するために大阪に移動していたためである。



24日の朝日新聞に高橋源一郎が書いていた、今回の若者たちの運動は政治運動というより文化運動――内面を変える運動であった、と。私は、そこまで楽観的にはなれないが、その気分は理解できる気がする。上の私の文章もそんな気分で書かれているように思う。多くの人が、今回のことを世代論や様々な過去の運動と比較して見たくなってしまうのも、みんな内面的になっている証拠である。喧騒ではなく内面に静かに沈潜するものこそが直接行動の効果である。私は、数年前、東京のある場所で、かなりヘイトスピーチに近いデモ隊?に遭遇し、後ろの方から見物したことがあるが、そのときもやや似たような心に沈潜しゆくものを感じたことがある。運動の実体は、きわめて地味な動きであり、保守的なものと見えるもののなかで静かに進行してゆくものである。三島由紀夫も何処かで言っていた様な気がするが、自分の運動は絶対に「政治」ではない、と。議会がファシズムの温床にもなる危険性があるなかで、民主主義に絶対必要であるところの直接行動であるが、それが「政治」と化してしまう時に堕落が始まる。あくまで直接行動は、いわば文学、いや《表現》である必要があると思うのである。高橋源一郎が、「わたし」を主語にした運動に希望を見るのも、そのためであろう。私は「われわれ」が主語であってもそれは可能だと考えるが、確かにそれはハードルが高い。かつて左翼運動がそれを目指して挫折したことがある。あとは、暴力か非暴力の問題があるが、それは歴史的にいろいろあったので、今回の「非暴力性」を取り立てて評価することはできない気もする。言語と暴力はもともと対立するものではないからだ。しかし、見かけより今回の若者たちはよくよく考えている印象を持った。まあ、相手があまりに比喩的にあからさまに暴力的なので、同じ土俵に乗らないことは意識されていたのであろう。

ともあれ……、誰しもかんじるように、今回の安保法制に関する運動は、結果的に、盛大なガス抜きとして機能してしまった可能性がある。政治的には、安倍政権の完全勝利と言わなくてはならない。あと、安保法制に賛成する側にも反対する側にも、議論の豊かさがかなり欠けている印象がある。これの方が政治の堕落より深刻である。確かに、レベルが低い現実が展開されているから、つい「馬鹿」「アホ」と言いたくなる気持ちは分かるし、実際、トンでもなくレベルの低い人間が祭り上げられ、孤立し、思考停止し、命令し、――命令された方はいらいらしているうちに心の平衡を失ってゆく。しかし、人間がだめになったからといって、世界は複雑で醜悪なくらい豊かであって、学び続けなければその姿は見えてこないのは自明である。私は、同調圧力を強いているだけの(なんと反論しちゃダメだというルールが堂々と教育現場で教え込まれている現実すらあるのだ)糞ディスカッションは大嫌いだが、母語による自由で豊かな議論がなければ民主主義もなにもあったもんじゃないし、法治もすぐさま崩壊してしまうと思う。私が危惧しているのは、外国との平板な社交に喜びを感じるレベルで、グローバルな連帯や法治を語る傾向である。我々はまだややナショナルな文化的蓄積に頼らなければ高度な思索を展開できない段階だと思う。法治は非常に高度な思索によってしか支えられないのだ。しかるに、今回の運動が、大学のなんちゃってグローバリズムと人文知の軽視とやや関係があろうことは、なんとなく考えられることではあるのだ。すなわち、明治以来の文学者や学者によって恐ろしい努力で蓄積されてきた、造語と「横文字」を含む日本語の世界――教養と文化に縛られないために、一種の空白としての「わたし」が出てきたのである。しかし、ここからが問題だ。高度な議論には「ある種の」ナショナリズムが不可避だという側面からあまり目を背けてはならないと私は思う。暴力が自らに対する不信と相対主義から生じるのは、当然である。自分と同じように他人を簡単に切って捨てているからだ。いわゆる「ネトウヨ」のなかにさえ、以上のような面倒なしかも本質的な問題に躓いて、却って融通無碍なインターナショナルな左翼的運動に暴力を感じ嫌悪を抱いている人間がいる、と私は推測する。本質的なところから遠ざかっている人間など誰もいないと考えるべきだ。まあ、私も、本当は、和泉式部日記と新古今集と樋口一葉と大江健三郎を読んでいない人間とは共闘したくないね……。諦めてるけど……。

ただ、そのような一回転したようなナショナルなものの評価が、ほんとびっくりするほどの外国人差別と結びつくことがあり……、というか現実に結びついたりしている。あーあーもう嫌になっちゃう……。もう外国人にいっぱい労働まかせてんじゃん……。あ、それが原因か。

たぶん、携帯やネットで「わたし」が輪郭を作りやすく、行動へのネットワークもつくりやすいということもあるであろう。かつては、デモ一つやるのでも膨大なコミュニケーションと議論が必要だったはずであり、それ故、党派性が問題になったわけであるが、今度は、党派的になりにくいかわりに、思想が感想文的な「わたし」から離れないということもあるであろう。まあビジネスマンはチャンスだよね、世界中から仲間集めて「わたし」の好きなことやれるんだからさ……もう、日本で鈍い人たちとぐだぐだ会議やってる必要ないでしょ、実際。(以上、象牙の塔からの妄想でした)

……それにしても、軍事可能研究に応募してたうちの大学は……どこに行こうとしているのであろう……地域に根ざしたなんとかじゃないのであろうか……ちょっと誰かそのプランをちゃんと聞かせてくれ

ススキ

2015-09-24 20:44:06 | 文学


「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらわなかったの。」
「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだろう。」
 ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。
「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか。」
 そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。

――宮澤賢治「銀河鉄道の夜」

電気燈が鬼火のように

2015-09-23 23:27:54 | 文学


一筆書き残しまいらせ候。よんどころなく覚悟を極め申し候。不便と御推もじ願い上げまいらせ候。平田さんに済み申さず候。西宮さんにも済み申さず候。お前さまにも済みませぬ。されど私こと誠の心は写真にて御推もじ下されたくくれぐれもねんじ上げまいらせ候。平田さんにも西宮さんにも今一度御目にかかりたく、これのみ心残りにおわし候。いずかたさまへも、お前さまよりよろしくお伝え下されたく候。取り急ぎ何も何も申し残しまいらせ候。
さとより
   おまん様
      人々

 写真を見ると、平田と吉里のを表と表と合わせて、裏には心という字を大きく書き、捻紙にて十文字に絡げてあッた。
 小万は涙ながら写真と遺書とを持ったまま、同じ二階の吉里の室へ走ッて行ッて見たが、もとより吉里のおろうはずがなく、お熊を始め書記の男と他に二人ばかりで騒いでいた。
 小万は上の間へ行ッて窓から覗いたが、太郎稲荷、入谷金杉あたりの人家の燈火が散見き、遠く上野の電気燈が鬼火のように見えているばかりだ。

――廣津柳浪「今戸心中」




会堂の神聖!の議論

2015-09-23 05:01:55 | 文学


久しぶりに広津柳浪の「非国民」を読んだ。いやな結末の小説だが、が、まだここには議論があったといわざるをえない……。キリスト教徒にとって、「神様」か「天皇」どちらを尊崇すべきか?一応、どちらの説に立つ人も理屈をこねている。むろん、議論をしている人たちが全員キリスト教徒であることが重要である。まずは、共通の思想的基盤があり、矛盾が深刻に感じられていなければ議論は闘われようがない。

国会で、議論が行われないわけである……。

本のなかへの誘い――「ど根性ガエル」強行終了のお知らせ

2015-09-22 23:45:09 | 漫画など


安保とハイデガーに紛れていたが、ドラマの「ど根性ガエル」も終了していた。
もともと平面ガエルなどありえんので、ぴょん吉が見えて会話できる人びとは、つまり登場人物たちや読者たちは、もう現実ではなく別の世界に住んでいるといってよいのである。(確か、昔のアニメで、ぴょん吉がシャツにくっついた当初、かあちゃんにはそれがみえない、という場面があったと記憶する)ぴょん吉が剥がれた第九回で、みんな目がさめてもよさそうなものであるが、特にひろしは幼少の頃より絵本のなかの物語を終わらせたくないような人だったらしい。彼は孤独ではなく、かれだけではなく他の人たちもぴょん吉がいる世界に感染してきていたので、とにかく物語の最初のシュチュエーションにもどれば、また物語が再開できるはずだと確信して、実際にやってみたら、本当にまたぴょん吉がシャツに張り付いたのである。かあちゃんが言うように、自分がこの世界には必要ではないと思ったのでぴょん吉は剥がれてしまったにすぎなかった。この物語はもともとフィクションなので、世界を続ける意志によってどうとでもなるというわけである。

今回出現した、ひろしにそっくりのひろし2号は、たぶん現実のひろしである。(かあちゃんも、ぴょん吉に出会わなかったひろしだと言っている)かれが、間違ってゴリラ芋に投げられることによってぴょん吉の依り代となるのはおもしろかった。ぴょん吉の復活には、フィクション上のひろしではなく現実のひろしが必要なのである。つまり、この話は、現実と直接につながっているのであり、現実からのつながりがなければ、起動もしない物語なのである。

ただ、ひろしは未熟な三〇歳であり、これからも、他人に依存しすぎている自分の人生に懐疑をもつので、ぴょん吉から離れる可能性がある。最後に、かあちゃんにピンクのかえるが張り付く(ぴょん子ちゃんか?)のは、この物語が続くためには、ひろし以上にぴょん吉の事が好きだったらしい、かあちゃんが必要だったのである。もう人生に迷わないかあちゃんのもとでなら、絶対にぴょん子ちゃんは剥がれない。

これは明らかに、夢物語の提供ではなく、現実を夢物語で征服しようとする挑戦である。ゴリラ芋がひろし(ぴょん吉)の援護によって選挙に打って出るのはその象徴的なエピソードである。京子ちゃんも言っていたように「今の世の中に必要なのは根性」(最初、この物語世界から一番遠ざかっていたはずの出戻りの京子ちゃんがついにぴょん吉と同一化する瞬間である。つまりひろしと今後くっつく可能性は高い)であって、その根性によって夢物語は現実を征服できる、という訳であろう。現実のひろし2号は、動かない生死不明の蛇を背負った――蛇に追いかけられるカエルのような動きをする人物であった。かれは「人間」のようには見えない。我々の日常のように非人間的だ。それを仲間と根性の――カエルすらも「人間」になったところの物語にそっくり替えてしまおうというのだ。登場人物たちが協働してその物語を擁護した、それがなかなか今時のドラマであった。







結論:満島ひかり、一人で最高