★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

重大ニュース2011

2011-12-31 16:22:04 | 思想


今年の私的重大ニュース

……と書こうと思ったが、あまりにもプライベートにおいてくだらないことが多く、学校関係でも本当に笑えるほど面白いことはここに書けないので、やめておく。学問関係は深刻すぎて書けぬ。というわけで、今年読んだり観たり聴いたりしたもののなかで思い出に残っているものを列挙することにしよう。

【本】

1、M・スチュアート『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ』……おらっ、哲学者を劇画タッチで描きおって、ゆるさへんでー

2、佐藤俊樹『社会学の方法』……おらおらっ、頭の良さをわたくしに分けんかい。むしろ分けて下さい。

3、『戦国時代のハラノムシ』……こらっ、これを授業で紹介したら女の子に嫌われたじゃねえか、どうしてくれるんなら

4、『ジョジョの奇妙な冒険』……ちょっとまたんかいっ、わしの時間を返せ

5、柄谷行人『世界史の構造』……「贈与と呪術」の部分を検討中じゃ、ちょっとまっとれ

【映画・ドラマ】

1、『仁義なき戦い』……市民が字幕を要求するのも時間の問題じゃけえ……のう

2、『ロズウェル』……宇宙人だろうと地球人だろうと高校生はちゃんと授業うけろっ

3、シュヴァンクマイエル『アリス』……結婚して下さい!

4、『流れる』……秀子ちゃんをいじめた杉村春子ゆるさん

5、『プルガサリ』……将軍様……死す

【音楽】

1、フルトヴェングラー交響曲第2番……ついハマってしもうたわ

2、ブルックナー交響曲第8番(1887年第1稿)……ついハマってしもうたわ

3、谷山浩子「素晴らしき紅マグロの世界」……浩子さん、そっちは別世界です……

4、J・Widman「ファンタジー」……いい曲じゃのう。毎日聴こうとは思わんが……

5、AKB48「フライングゲット」……聴いてない

ロズウェル 星の変人たち

2011-12-29 23:50:14 | 映画
宇宙人と聞くと弱い私は「Xファイル」なども途中でもうどうでもよくなりつつ最後まで見てしまった。これはさすがに「ビバリーヒルズ高校(青春)白書」ではありえなかった。ビバヒルは過去の男女関係が源氏物語よりもこんがらがっているわりには、源氏より恋愛のバリエーションに乏しい。こうしてみると、「源氏物語」が光源氏のキャラクター小説でも恋愛小説でもなく「大菩薩峠」並の壮大なビジョンに支えられていることがわかる(笑)。最近、ほとんどポルノ化した源氏物語が上映されているようで、うぶな学生たちとかその他がつるんで見に行っているようである。けしからんことである。私も見たい。

で、どうみても、ビバヒルとXファイル──この二つをくっつけて視聴率をあげようとしたとしか思えん「ロズウェル」というドラマがあるのだが、これも3シーズンの最初まで見てしまったので、最後まで見てしまうと思う。

ロズウェル事件を扱ったドラマである。ロズウェルに墜落した宇宙人の子孫が人間の姿に化けて(というか人間の細胞と融合したのか?)地球にいるのであるが、なぜか、その一部がどうみてもモデルとしか思えん体型の美男美女の高校生(うまく化けすぎなんだよボケッ)。で、地球人の美少女達やイケメンと恋に落ちる。で、キスしたらビジョンが見えたとか過去が見えたとか、そこらの高校生が想像するような感じで、くっついたり離れたりと……。どうでもいいけど、キスシーンが長すぎるんだよ、宇宙人を出せ宇宙人を。

唯一面白いのが、前世が宇宙人の王様だったらしいマックス(イケメン←宇宙人)と付き合っている、リズ・パーカー(美少女←たぶん人間)が、「えっ、あなた星に帰るの?」と言いたげな時のポーズ。



ドラマの最初の方で、彼女が彼に「どこから来たの?」ときいたところ、こんなポーズを彼(王様)がしたので、真似た訳だ。この場面は、ドラマの一つの山場で、王様が、妊娠している前世妻(リズからマックスを奪った悪い奴。でも美人)や他の宇宙人と、ついに宇宙へ帰ろうとしている場面だ。こんなところで、演技の起承転結をはかろうとするリズ、もっと真剣に恋愛してくれ。

暴力反対じゃけえのう

2011-12-28 16:25:46 | 映画
授業で使えないかと思って「仁義なき戦い」を続けて見直してみた。ヤクザ映画とはいえ、ほとんどサラリーマン映画みたいであった。もともと我々の社会には仁義なんてものはなく、ヤクザの社会と同じである──実際の暴力のやり取りを抜けば、構造的に同じである。柳田國男がどっかでいっていたように、親子という言葉がもともと親分子分のことであるとすれば、堅気の「家」もヤクザ組織──がいいすぎなら会社のようなもんであるといえよー。先日みた「幸福な食卓」で父親が「お父さんやめるわ」とか言えるのは、我々の家族が会社的であり、いつのまにか、その組織の維持が目的化しているからである。

ヤクザの組織には血のつながりはなく、疑似家族であることが前提だから、まだ「仁義」が「観念」として強固に守られようとするし、また逆に廃棄される時はあっさりとしたものである。主人公格の広能が「親」の山守と「親の敵の如く」反目できるのは、本当の親じゃないからである。実際の親だったらこうはいかない、というかもう少し複雑でヒステリックなものになる。また普通の堅気の組織だったら、ここまで親(雇い主)の恩義を感じる必要もないから、反目する必要もなく、勝手にわからんようにサボタージュでもすればよろしい。のみならず、この映画も基本的には勧善懲悪だから山守という男は非常にずるがしこいどうしようもない男であるように描かれているが、普通雇い主はここまで酷い奴とはかぎらない。どんなアホなボスがいても普通はそれとなくやり過ごし我慢する……というわけで、ずるずると憤懣をためながら暮らして行く他はない。しかも堅気の世界は暴力禁止だから、どうしようもない。そこに耐える覚悟を持つのが堅気の世界である。ヤクザが暴力団という名称に変わって久しいが、そりゃそうだ。市民社会とのちがいはそこに「しか」ないと市民が直観しているからだ。実際どうなのかはともかく。

というわけで、ヤクザ映画が人気がある(あった)のは、我々が憤懣が行き着く先を原理的可能性として描いているように思うからであろう。ほぼ同じだが、少しの違いで決定的にそうはならぬ夢として……。

とはいえ、第四作「頂上作戦」で、山守と広能の戦いに割って入る第三の新たな勢力があらわれる。市民と警察とメディアである。この映画は、この第三の勢力の圧倒的物量と同調圧力の前に山守も広能も簡単に負けてしまうというところで終わっている。広能と「兄弟分」の男が、刑を待つ広能に「新聞にもたくさん書かれちゃったし」とか落ち込んでいたが……、この男、「広島の極道は芋かもしれんが、旅の風下に立ったことはいっぺんもないんでぇ」と啖呵を切った男なのだ。日本社会おそるべし。

いうまでもなく、これはヤクザの敗北を意味するのではない。家や会社組織が、第三の勢力に敗北することを意味している。たぶんヤクザ映画の衰退、あるいは変容もこのことと関係がある。北野武のヤクザものでもヤクザたちは孤独でやたらキレる。つまり我々市民とまったく同じ症状なのである。「幸福な食卓」は、もう家族が最初から第三の勢力化しているなかで始まっている。もしかしたら、そうした危機感を作者は伝えたかったかも知れない。つまりテーマは、ヤクザファミリー復興である。

ところで、私は、広能をはじめとする暴れん坊たちをのらりくらりと使い切る山守という親分に興味を持った。こんな人物である↓



結論から言うと、映画をみた限りでは、ホント早く死んで頂きたい人物である。しかし、妻帯もせず仁義に拘って死んで行く男たちに較べて、女に囲まれ刑期も短いこの人物こそ、ある種のフェミニストであり、革命家であったのではなかろうか。見方を変えれば、日本で革命をしようとすれば、こういう山守みたいな男にならざるをえないところに不幸があるかも知れない。

……とはいえ、私はホントのヤクザの世界も会社組織もしらんから、なんともいえないね。私は体が強くないから結論としては……

いろんな意味で暴力反対!

わたしたちのまちのさくぶんこんくーる

2011-12-26 07:37:52 | 思想


以前朝日新聞をとっておったのだが、飽きたので、今は讀賣新聞をとっておる私である。

私は新聞の文章というのが大嫌いである。内容云々の前に、文体がいかん。ある内容を表現できない文体というのがあり、それが新聞の文体である。三島由紀夫が以前、毛沢東の文章はいいが、その子分の文章は読めたもんじゃねえ、といっていたが、新聞の文体というのは、その子分の文体なのである。要するに、奴隷の文体である。ときどき、新聞を用いた作文指導だかなんだかをやっている教育活動がある。(しかもその宣伝を新聞でやっているw。)奴隷根性を子どもに植え付ける魂胆であろう。これをメディアリテラシーのつもりでやっているらしいから笑わせる。

とはいえ、そんなことは今にはじまったことではない。官庁が絡んでいる作文コンクールというのがあって、ときどき新聞に総理大臣賞とかなんとかで受賞作が全文掲載され、子どもの顔写真も付いていたりする。普段、総理大臣を社説でこき下ろしている癖に、なぜこのような賞を批判しないのだ?それに、子どもの作文を批判することもタブーに近い。ファシズムからマルクス主義にいたるまで、イデオロギーを子どもに復唱させて大人の批判精神を萎えさせる卑怯な手段が横行していたわけだが、いまでもそれは大して変わらない。現在はもっと悲惨で、大人が子どもっぽく振る舞って自分を正当化する癖を付けている。すぐ泣いたりキレたりするのはそれだと思う。……これに較べれば、『赤い鳥』の「ありのままの子ども」路線がいかに反社会的だったかが分かる。『赤い鳥』に載っている子どもの作文は、案外どぎついのがあるのだ──そりゃそうだ、子どもはただの遠慮がない教養のない大人なのだ。この路線がなければ豊田正子なんてのは出てこないし、太宰の「千代女」の主人公みたいな邪悪な作文少女は出てこないのである。北原白秋なども審査委員とかでかんでいたが、子どもに「将来は邪宗門を書け」という企みであったに違いない。

先日、讀賣新聞に載っていた「わたしたちのまちのおまわりさん」コンクールの受賞作も×かった。大人が書いたのなら問題外、子どもが書いたのだとしてもあまりよくなかった。まあ、最悪、子ども時代はこんなでもよいかもしれない。ただし、思春期以降、「こんな内容はレベル以下」と否定する大人や教育者がいなければ我々の言論空間はいつまで経っても自主的な言論統制を抜け出すことはあり得ない。

そういえば、私も小学校の時、道路を守る月間だかの作文コンクールで、……たしか長野県で優勝したような気が……。すみません、あれは担任の先生が芭蕉のこととか関所のこととか書けと言ったので……書いたのです。先生は作文には感想ではなく知識が必要だと教えてくれたのだからまあよしとしよう。

私の経験からいっても、作文コンクールを総なめにするような子どもは将来的にだいたいダメである。私がいい例だ。苦労する。

幸福な食卓 対 亀は意外と速く泳ぐ

2011-12-23 17:10:01 | 映画


12月の授業が終わったので、先日は「幸福な食卓」、昨日は「亀は意外と速く泳ぐ」を観る。

結論をはじめに言ってしまえば、後者の圧倒的勝利である。

「幸福な食卓」は、自殺未遂をやったことがある父親が、「今日からお父さんをやめようと思う」というところはじまる。母親は家を出ている。長男は伝説的秀才だが、大学進学をやめて農業とナンパ?をしている。妹は、ちょっと単純でいい奴の大浦君とつきあっている。二人して難関高校にはいるが、大浦君がクリスマスプレゼントのためにバイトしていて急死し、その妹がなんとか精神的に蘇生するまでをえがいている。……で、私は思うのだが、このドラマの何が問題かといえば、誰一人として何かやりたいこととか使命を感じて生きている奴がいなさそうということである。父親にしても父さん(と学校の先生)をやめて何をやるかと思えば、医学部に入るために受験勉強をはじめ途中でちゃんと挫折して予備校の教員になってしまう。母親は何かの店員だし、こどもたちはいうまでもなし。このメンバーに、政治的な思想や宗教を本気で目指すやつがでてくれば話は崩壊する。キリストやブッタはいうまでもなく、何かをやるということは、家族や故郷を文字通り捨てることを意味するのである。隣人は家族より優先されるべきであるからだ。この話が家族の崩壊と再生の話だとして──、家族の成員がお互いのことを思いやっていなかったから家族が崩壊したのではなく、もともと家族同士で精神的に依存しすぎているから崩壊したのである。こんなことは大人の常識だと思っていたのだが、そうでもないのだな……。妹が大浦君と一緒に家を出て行けばよかったのだが、大浦君をドラマ上で殺してしまい、妹を家族に復帰させた結果、元の桎梏的状態にもどったな、この家族は……。このようなドラマは、成員の離脱を許さない、学校世界的発想にもとづいているのではあるまいか。作者は、根本的に大浦君が異質で邪魔だったから殺したのではあるまいか。……と思ったら、作者が元教員だった。

「亀は意外と速く泳ぐ」は、コメディであろう、たぶん。ここで私はこの作品を大まじめに解釈するぞっ。海外に単身赴任する夫をもつ平凡な生活に飽きた主婦が、百段階段で落ちてくるリンゴを避けようとしてへばりついた場所に「スパイ募集」の小さい広告をみつけて、スパイになる。しかし、スパイというのは、その素性がばれてはいけないので、平凡に暮らさなければならない。平凡を乗り越えようとしてますます平凡になってゆくという発想が素晴らしいなあ。スパイ仲間はたぶん全て独身者。公安に追われる彼らを救うために、変電所のケーブルを切って市全体を停電にする平凡主婦。それは、高校時代、「湯上がりの思い人を見たい」という彼女の願いを、幼なじみの友人がかなえてくれたやり方であった。まさに普段動かないような「亀」は、「意外に速く泳ぐ」ことがあるのである。家族という桎梏がなければ……。彼女は、最後に、フランスで逮捕された幼なじみを助けに旅立つ。……ここには勝手にリストカットする父親もいなければ、勝手に登場人物を殺す作者もいない。優しいのはこちらの話の方である。小田嶋隆氏がどこかで、この映画を「登場人物が主体的でない」日本的な物語として褒めていたが、十分主体的な人間をえがいていると私は思う。人間主体的でありすぎるとコメディにみえる、少なくとも日本では。普通の人の潜在的な主体性を確信している監督は頭がいい。「幸福な食卓」はそういった主体性を抑圧し家族のなかで何もするなといっている。


ところで、主演の女の子を比較してみよう。

北乃きい 対 上野樹里

私の好みでいっても後者の圧倒的勝利。

金正日氏死去

2011-12-19 23:14:36 | 日記


金正日氏が亡くなって、北朝鮮は当分歌舞音曲禁止だそうである。こういうとこがいかん。日本なんか共産党が政権とってなくても、いろいろと勝手に自粛するぞ。今年なんかクリスマス禁止だし。

私も、今日は少し仕事をゆっくり休み休み行った。

金正日氏のように、過労死させられちゃたまらんからな。

電車で移動中の過労死ということであるが、始皇帝の死んだ時みたいだ。