★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

一列になって出て来る

2014-05-29 23:05:11 | 文学


裸体の流行は以上の如く戦争後に始めて起った事であるが、西洋ではむかしからあったものであろう。私が西洋にいたのは今から四十年前の事だが、裸体なぞはどこへ行っても見られるから別に珍しいとも思わなかった。女郎屋へ上って広い応接間に案内されると、二、三十人裸体になった女が一列になって出て来る。シャンパンを抜いてチップをやると、女たちは足を揃えて踊って見せるのだ。巴里のムーランルージュという劇場は廊下で食事もできる。酒も飲める。食事をしながら舞台の踊を見ることができるようになっていた。また廊下から地下室へ下りて行くと、狭い舞台があって、ここでは裸体の女の芸を見せる。しかしこういう場所の話は公然人前ではしないことになっている。下宿屋の食堂なんぞでもそんな話をするものはない。オペラやクラシック音楽の話はするけれども、普通のレヴューや寄席の話さえ食事のテーブルなどで、殊に婦人の前などでは口にしてはならない。これが西洋の習慣なのである。日本ではあることないこと何でも構わずに素ッ破ぬく事は悪いことでも耻ずべき事でもないとされている。私はこれも習慣の相違として軽い興味を持ってこれを見ている。舞台で裸体を見せる事も、西洋文化の模倣とも感化とも見て差閊はないであろう。八十年むかしに日本の政治や学術は突如として西洋化した。それに後れること殆ど一世紀にして裸体の見世物が戦敗後の世人の興味を引きのばしたのだ。時代と風俗の変遷を観察するほど興味の深いものはない。

――永井荷風「裸体談義」


安倍首相「無職の握手会入場、見直しを」
http://kyoko-np.net/2014052801.html


→あまり驚かなかったわたくしが嫌だ。

遠くの、稲積の方を

2014-05-28 23:15:09 | 文学


少年は老人の手にふたつの時計をわたした。うけとるとき、老人の手はふるえて、うた時計のねじにふれた。すると時計は、また美しくうたいだした。
老人と少年と、立てられた自転車が、広い枯野の上にかげを落として、しばらく美しい音楽にきき入った。老人は目になみだをうかべた。
少年は老人から目をそらして、さっき男の人がかくれていった、遠くの、稲積の方をながめていた。
野のはてに、白い雲がひとつういていた。

――新美南吉「うた時計」

アクリル板のなかの女神たち

2014-05-27 17:14:49 | 音楽
「メンバーと客の間にアクリル板を設けて手を出して握手するようにする」(http://www.asahi.com/articles/ASG5V5JVBG5VUTIL02W.html

よくわからんが、JRの切符売り場みたいな雰囲気かな?刑務所のあれじゃ握手できないしな。手を出すのは客か?アイドルか?



そもそもAKBはアイドルじゃなくて、受付のレコード店でCDで買わないと入れない風俗みたいに見えることは確かである……。女神様達に触っちゃイカンよ。といった冗談が批判とみえるのは我々の文化のなかだけであり、我々が人間を本当に人間として扱うつもりがあるのか不安になってくる。

アイドルの姿を取り戻したいんなら……、一度にCD100枚買った奴らは親衛隊結成の義務を負い、女神をガードする。彼らががっちりガードするなか、99枚以下の希望者が恐る恐る握手できるというシステムはどうであろう。無理か……。「あまちゃん」の二人みたいに、アイドルでいる限りは、信頼できる人間――親族や顔見知りのおじさんやおばさんたちだけに守られているというのは、案外これからのアイドルの理想型かもしれないのである。春子さんが心配していたように「危ない輩」は全国的な(公的な)スターと化したアイドルの周辺には昔からいた。AKBはいつのまにかそんな危険と隣り合わせの公的な事業になってしまったのではなかろうか。しかし、だから、ある種の公務員のルーチンワークとおなじで、明らかな危険を察知する能力が、スタッフになくなっているのではなかろうか。偶像は顔見知りのなかでは偶像にすぎない(「あまちゃん」の能年玲奈に求愛する周辺の男子が非常に抑制的な行動をとっていたことに注意せよ……彼らは結果的にほとんどガードマンの役割だった)が、赤の他人においては半ば恋愛の対象、あるいはただの無防備な目立っているトーテムみたいな赤の他人なのだから、片思いあるいは破壊衝動の対象になるかどちらかだ。

生涯一書生は馬上に棲む

2014-05-26 23:43:47 | 文学


生涯一書生――といふのが、私の生活信條である。[…]つまり、正面から掘り進んではどうにも掘り拔けなくなつた場合、一寸氣分を變へて、今度は横へ廻つてみる。すると、今までどうしても掘り拔けなかつたものが、何んでもなく易々と掘り進めるやうになる。面白いやうに向ふからボロボロ崩れて來ることにさへなる。
 この邊のコツは、獨り執筆に際してばかりでなく、人生のすべてに對して又大切なことがらではあるまいか。
 ともあれ、伊達正宗の詩にもあるやうに、「青年馬上に棲む」といつた氣持、常に戰場に馳驅し、奔走する氣持、そこには、ハチ切れるばかりの精氣と、活氣と、それから餘裕とが充ち溢れる。「疲れ」もなければ「倦み」もない。

――吉川英治「青年・馬上に棲む」

今週のニュースもいろいろ

2014-05-25 18:33:27 | 日記


今週のニュースより

・亀井節夫・京大名誉教授が死去 ナウマン象博士(http://www.asahi.com/articles/ASG5R7KC5G5RPLZB01V.html?iref=comtop_list_edu_n04

→「日本に象がいた頃」の先生か……。この先生もそんなに歳食ってたんだ……。

・AKB握手会で男が刃物 川栄李奈さんら3人けが 岩手(http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASG5T5VXFG5TUJUB009.html

→まあ、女の子達は以前から命の危険を感じていると思うよ……

・吉田調書(http://www.asahi.com/special/yoshida_report/?iref=comtop_rnavi_r1

→List der Vernunft という言葉をいつ使えばいいのであろう……この国では。

・タイのクーデター(http://www.asahi.com/topics/word/%E3%82%BF%E3%82%A4%E6%94%BF%E5%B1%80.html?iref=comtop_keyw_03

→当たり前ですが、軍隊というのは、外側よりも内側を攻撃するのがいつものパターンです。つまりおそろしく多重人格のヤンキーだと思えばよいですね……というのは冗談だが、容易に組織や国家が誰かの意志でコントロールできるというのがそもそもの勘違いではなかろうか。

・【PC遠隔操作】我々が完全に騙された片山被告の“巧妙なウソ”の手口と、事件解明のカギ(http://biz-journal.jp/2014/05/post_4943.html

→「自分が犯人だ」という嘘をついていると考えるのが、探偵小説的には普通なのですが……。それにしても政治も学問も犯罪も物語的になっているなあ。結末や結論を初めから決めてかかるから無理がでる。無理が通れば道理引っ込むと思っている人間は……そのうちに道理を忘れてしまう。あとは暴力だ。

射影に遭いたかった YES!

2014-05-24 18:51:43 | 音楽
河出智希氏といえば吹奏族にとってのトラウマ曲「射影の遺跡」によって一部で有名であるが、A×B4×の「遭いたかった」とかいう曲の作曲者でもあることも一部では有名である。

試しに

http://www.youtube.com/watch?v=DCUoy6FzqaU

の音声を消して

https://www.youtube.com/watch?v=KxU1cok5bn0

の音声と重ねてみよう

一瞬、A×B×8の舞台が「春の祭典」に見えなくもない。







……と思ったのだが、無理。


心驕って恐らくは

2014-05-24 01:21:13 | 文学


「義元は今から大高に移ろうとして桶狭間に向った」旨を報じた。間もなく更に一人が義元の田楽狭間に屯した事を告げ来った。政綱、信長に奨めるには義元今までの勝利に心驕って恐らくは油断して居ることだろうから、この機を逃さず間道から不意を突けば義元の首を得るであろうと。

――菊池寛「桶狭間合戦」

嫌いじゃという菓物

2014-05-23 00:55:19 | 文学


前年も胃痙をやって懲り懲りした事がある。梨も同し事で冬の梨は旨いけれど、ひやりと腹に染み込むのがいやだ。しかしながら自分には殆ど嫌いじゃという菓物はない。バナナも旨い。パインアップルも旨い。桑の実も旨い。槙の実も旨い。くうた事のないのは杉の実と万年青の実位である。

――正岡子規「くだもの」


……というか、なんでASKAの薬物事件でチャゲが謝ってんの?別人じゃねえか。

ピザのヴェルゴニョザのように

2014-05-21 23:53:25 | 文学


もちろん彼が聞いたのは、ベートーヴェンやシューマンではなく、その滑稽な演奏者らであり、その鵜呑みにしたがってる聴衆であって、彼らの濃厚な馬鹿さ加減は、重々しい雲のように作品のまわりに立ちこめていた。――がそれはそれとして、作品の中にも、最もりっぱな作品の中にさえも、クリストフがまだかつて感じたことのないある不安なものがこもっていた。――いったいそれはなんであるか? 彼は愛する大家を論議することの不敬を考えて、それをあえて分析して考察することができなかった。しかしいくら見まいとしても、それが眼についた。そして心ならずも見つづけていた。ピザのヴェルゴニョザのように、指の間からのぞいていた。

――ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」(豊島與志雄)


交響的木曾

2014-05-20 23:25:26 | 音楽


戦時中に「国民詩曲」として作曲された、山田一雄の「交響的木曾」(1939)を聴いた。ドビュッシーが「イベリア」ではなく「木曾」を作曲したら、みたいな雰囲気を感じる曲であった。とりあえず正調木曾節しか木曾節に聞こえないわたくしは、ドビュッシーやバルトーク、ドボルザークだって、やっぱり所謂地元民にとっては珍妙なものではないかと空想する。以前、森昌子の木曾節を聴いたとき、なるほどこれがポピュラーソングというやつかと思った。宴会では決して歌われず、ラジオから流れてくる音楽という感じがしたのである。「国民詩曲」も確かラジオ放送で流れたようであるが……。思うのだが、いまや集団的アイドル歌謡が正調の民謡に近い雰囲気を持っているかも知れない。

憂国の士は街場のどこに

2014-05-19 20:02:46 | 思想


最近、シェーンベルクを聴きながらぼーっとしていることがあるが、この人の音楽はなんか中年になって心に響くものがあるような気がする。よく言われている気もしないではないが、ブラームスのような趣なのだ。……といった弛緩した印象批評はともかく、音楽のいいところは、感情の暴走が起きないところなのだと思う。音楽好きなら誰でも感ずることだと思うけれども、ある種の規則に乗って感情を動かすのが音楽であって、言葉の方がよっぽどアナーキーで危険だと思う。音楽家に感情的な人が多いのは、情感の芸術をやっているからではなくて、いつも規則に縛られているからではないかと思うほどだ。

現在のようなストレスフルな世の中、溜飲を下げることが自己目的化しがちなのは、政治家に限らず、みな我々はそうである。上の本で、高橋源一郎が、安部とお仲間達に対して、アンヴィヴァレンツな態度で、民主主義と相即的である「複雑」な「文学」を擁護するのは、よくわかる。しかし、安部さん達も案外複雑さから発言していると自分では思っているかも知れない。コンプレックスとはそういうもんである。だからといって高橋氏が明晰さこそそれを乗り越える道であるという一段階高いことを安部さん達に言えないのは、相手がその段階にないからだ。国語の教育課程で言えば……、知った風な口を叩く中学一年生に複雑さがあることを先ず知らしめるという教育段階では、むやみに生徒に明晰さを要求できないのと同じである。で、そのやり方であるが、案外合唱コンクールとか演劇大会とかが教育的だったかも知れないのだ。感情の複雑さが美を帯びるためにはどうするかを学ぶのは、音楽や演劇がいいなあ……。

上の本の中で、一番感情的にわかる気がしたのは、中島岳志の文章だが、同世代の彼のような文章家に対してアンヴィヴァレンツなのは二年前、ここで書いたことがある。今も同じ気分である。怒りは弾圧に対して強いようにはじめは思われるが、ぽっきり折れると打撃も大きい。我々の世代の中に相当いる、ロマン的な連中の危険性はそこにある。無論、街場によくいる、正真正銘の犬についていえば、ロマンも何もない精神の持ち主なので問題外である。